水槽の中を悠々と泳ぐ魚を眺める。
青色に染まった景色は、俺を海の中にいるような気持ちにした。
水槽を見ると昔はよく、安全な場所で優しく飼われることと、危険な場所でも自由に生きられることではどちらが幸せなのか考えていた。
けれど今となってはどちらも一長一短なのだろうなと思う。
安全な場所はいつまでも保証されているわけではない。誰かの都合によって簡単に終わりを迎えることだってある。
自由な場所だって、明日を生きられるかは自分次第だ。
大事なのはどこで生きるのかではなく、どう生きるかなのだろう。――なんて、親の庇護下にいる俺が言うことでもないが。
隣の唯我を見る。
彼と会うのはあれ以来久しぶりだった。
俺たちは今、水族館の端っこの方を探して二人だけの世界に浸っていた。
同じように魚をじっと見つめる彼は何を想うのだろうか。
「本当は喫茶店に行った時、この水族館の話をしようと思っていたんだ。あのぬいぐるみを買ったのがここらしくてな。結局こんな形で来ることになってしまったが」
今日ここに来たのは、朱花さんのチケットを使うためだった。そのままダメになるのは浮かばれないから、と。
「現代の法律では死の因果関係が重視されるらしい。直接的な死の原因は、姉さんが起こしたものだったから罪状の判定が難しいそうだ」
彼は魚に向けていた目を俺に移す。
あの後、唯我のお母さんは自首したらしい。
その件で色々とゴタゴタしていたらしく、最近になってやっと落ち着いたので近況報告をしにきてくれたのだ。
この間までまだまだ暑かったというのに、朝晩は一気に冷えるようになった。それに夜が来るのも早い。
蝉の声ももうほとんど聞こえない。
――夏は、終わったのだ。
「父さんも母さんが自首してからどんどん弱っていくようになった。最近は仕事に行くこともできなくて、一日中家で臥せっている」
盛者必衰、世の中は無常だ。
父親にとって妻が心の支えだったのか、それとも世間体が気になったのか。俺に胸中を測ることはできない。
「金銭的には問題ないんだが、父さんがよく荒れるようになってな。親戚の兄さんの話をしただろう? あの人が俺を心配して。俺が大学を卒業するまで面倒を見てくれるって」
あぁ、あのAVの……と内心で思ったが口には出さないでおく。懐が広い人なんだろうが、どうしても変な印象を抱いてしまっている。
「ちなみにあんたの言ってた、家にいる霊は父さんが昔捨てた女だろうって兄さんが言ってた。見た目的にそうじゃないかって。母さんとその人で悩んで、母さんを選んだらしい」
なるほど、あの霊からした嫌な匂いは悪霊特有のものなのかもな。そう何度も悪い霊に出会ったことがないから気付けなかった。
「その人が恨みを持って今もいるのかはわからないが、このまま放置するのは危険だと思ってお祓いするよう言ったんだ。けど、聞き入れてもらえなくてな。まぁ、めげずにまたお願いしてみるよ」
複雑な話だ。親の因果が原因で生まれた霊のおかげで、姉の事件を解決できたのだから。
父親が臥せり始めたことも、その霊のことを思うと心配だろう。
「母さんは今拘置所にいるんだが、少しだけ話をしてな。この水族館の話を教えてもらった。あんまり覚えてないみたいだったけど、俺が生まれてから二人で最後に出かけた場所がここだったそうだ」
なるほど、朱花さんがここを大事にしていたのは母親との思い出があったからか。
「これからは弟が中心になるから、今のうちに姉を懐柔しておかなくてはと思って連れて行ったらしい」
ひどいよな、と言って彼は寂しそうに笑う。
母親の意図を知っていたかはわからないが、彼女は本当に家族を深く愛していたらしい。そう考えると、鼻の奥がツンとする感じがした。
「俺が事故に遭った日、連れていこうとしていたのもここなんだと。こんな大事なところを今まで知らなかったなんて」
俺もみんなと同じで薄情だったのかな、なんて悲しそうに呟くものだから我慢できず声をあげる。
「そんなこと言うなよ。お前が見てくれるってわかってたから彼女は立ち向かえたんだろ。現にお前は薄情じゃないから今ここに居るんじゃないのか?」
彼は少しだけ眉根を寄せて頬を緩めた。
「なぁ、結局姉さんには謝れてなければ文句も言えてない。だからまだ穂天の力が必要だ。手を貸してくれるか?」
彼の瞳はあの時と同じ、変わらない誠実な温度を持っている。差し出された手を、俺はもちろんと答えて強く握り返した。
握り込んだ俺の手ごと、彼は額にまで持ち上げ祈るように言う。
「あんたも、あんたの力も、本当にすごいよ。手を握るだけでこんなに勇気をくれる。やっぱり穂天が好きだ」
目を瞑って話す彼の表情は穏やかだ。だけどそこには寂寥感が滲んでいる。
「実はまだ怖いんだ。恨まれてるんじゃないかって。姉さんの望んだ結末にしてやれなかったから。けどあんたがいてくれるなら姉さんときちんと話せる気がする」
彼の想いにきちんと答えなくては。
俺も、俺なりに大事なことに向き合って。
唯我の手に顔を寄せて内緒話をするように打ち明ける。
「お前と会えない間、俺も陽稀の家に行ってみたんだ。勿論、そんなすぐには会ってくれなかった。でも時間がかかってもいいからちゃんと向き合おうと思ってる」
俺が陽稀の話をすると、彼は面白くなさそうな顔をした。素直な表情の彼に思わず吹き出す。いつだって裏表がないのが彼の良い所だ。
「俺に会ってはくれなかったけど、陽稀は学校に登校してきたらしい。あいつも、あいつなりに歩いてるみたいだ」
もしかしたらいつか、昔みたいに話し合える日が来るかもしれない。
「俺が陽稀と向き合う勇気を持てたのはお前のおかげだよ。俺こそ本当にありがとう」
そして俺は長いようで短かったこの何日間かを思い出す。
最初は嫌なやつだとか思っていたけれど、知れば知る程真っ直ぐで、誠実で、一生懸命で、努力家な彼。
――俺もそんな彼のことが、
「好きだよ、俺も。唯我のことが。俺と付き合ってくれる?」
真っ直ぐに想いを乗せるだけ。
彼の目を見つめて真剣に伝える。
俺の言葉を聞いた彼は心底嬉しそうに笑ってくれた。
「もちろんだ!」
そう言って勢いよく抱きついてくる。
「っ、おい! こんなところで!」
引きはがそうとするが、力が強くて離れそうにない。
まぁいいか、誰も見ていないし、今ぐらいは。そう思って顔をあげると、愛嬌のある瞳がこちらを見ていた。
「~~~~!?!?」
彼女は嬉しそうに微笑んで、空中からこちらに降りてくる。
「っあや!?」
朱花さん。
叫びそうになって、し~っと指を立てられる。そのまま彼女は唯我の額にデコピンをひとつ。
「い、痛!? なんだ!?」
急な痛みにおでこを押さえる唯我、彼女はそんな彼の様子を見て花がほころぶように笑う。
そして俺たちを見て『頑張れ』、そう伝えて去っていった。
俺は潤む目を誤魔化して、笑う。
「頑張れって」
その一言だけで伝わったのだろう。彼もそうか、と言って笑った。
暗い部屋で、虚ろな目をする男。
娘を失い、妻は捕まり、息子も出て行こうとしている。彼に残るものは何もなかった。
家を省みてこなかった罰だろうか。けれど、その男の横にも残ったものがある。
それは彼の罪だった。
女は笑う。
唇を歪に吊り上げて、彼に絡みつくように、もう逃がさないと言わんばかりに。
閉じた世界で女だけが彼の罪を証明していた。
青色に染まった景色は、俺を海の中にいるような気持ちにした。
水槽を見ると昔はよく、安全な場所で優しく飼われることと、危険な場所でも自由に生きられることではどちらが幸せなのか考えていた。
けれど今となってはどちらも一長一短なのだろうなと思う。
安全な場所はいつまでも保証されているわけではない。誰かの都合によって簡単に終わりを迎えることだってある。
自由な場所だって、明日を生きられるかは自分次第だ。
大事なのはどこで生きるのかではなく、どう生きるかなのだろう。――なんて、親の庇護下にいる俺が言うことでもないが。
隣の唯我を見る。
彼と会うのはあれ以来久しぶりだった。
俺たちは今、水族館の端っこの方を探して二人だけの世界に浸っていた。
同じように魚をじっと見つめる彼は何を想うのだろうか。
「本当は喫茶店に行った時、この水族館の話をしようと思っていたんだ。あのぬいぐるみを買ったのがここらしくてな。結局こんな形で来ることになってしまったが」
今日ここに来たのは、朱花さんのチケットを使うためだった。そのままダメになるのは浮かばれないから、と。
「現代の法律では死の因果関係が重視されるらしい。直接的な死の原因は、姉さんが起こしたものだったから罪状の判定が難しいそうだ」
彼は魚に向けていた目を俺に移す。
あの後、唯我のお母さんは自首したらしい。
その件で色々とゴタゴタしていたらしく、最近になってやっと落ち着いたので近況報告をしにきてくれたのだ。
この間までまだまだ暑かったというのに、朝晩は一気に冷えるようになった。それに夜が来るのも早い。
蝉の声ももうほとんど聞こえない。
――夏は、終わったのだ。
「父さんも母さんが自首してからどんどん弱っていくようになった。最近は仕事に行くこともできなくて、一日中家で臥せっている」
盛者必衰、世の中は無常だ。
父親にとって妻が心の支えだったのか、それとも世間体が気になったのか。俺に胸中を測ることはできない。
「金銭的には問題ないんだが、父さんがよく荒れるようになってな。親戚の兄さんの話をしただろう? あの人が俺を心配して。俺が大学を卒業するまで面倒を見てくれるって」
あぁ、あのAVの……と内心で思ったが口には出さないでおく。懐が広い人なんだろうが、どうしても変な印象を抱いてしまっている。
「ちなみにあんたの言ってた、家にいる霊は父さんが昔捨てた女だろうって兄さんが言ってた。見た目的にそうじゃないかって。母さんとその人で悩んで、母さんを選んだらしい」
なるほど、あの霊からした嫌な匂いは悪霊特有のものなのかもな。そう何度も悪い霊に出会ったことがないから気付けなかった。
「その人が恨みを持って今もいるのかはわからないが、このまま放置するのは危険だと思ってお祓いするよう言ったんだ。けど、聞き入れてもらえなくてな。まぁ、めげずにまたお願いしてみるよ」
複雑な話だ。親の因果が原因で生まれた霊のおかげで、姉の事件を解決できたのだから。
父親が臥せり始めたことも、その霊のことを思うと心配だろう。
「母さんは今拘置所にいるんだが、少しだけ話をしてな。この水族館の話を教えてもらった。あんまり覚えてないみたいだったけど、俺が生まれてから二人で最後に出かけた場所がここだったそうだ」
なるほど、朱花さんがここを大事にしていたのは母親との思い出があったからか。
「これからは弟が中心になるから、今のうちに姉を懐柔しておかなくてはと思って連れて行ったらしい」
ひどいよな、と言って彼は寂しそうに笑う。
母親の意図を知っていたかはわからないが、彼女は本当に家族を深く愛していたらしい。そう考えると、鼻の奥がツンとする感じがした。
「俺が事故に遭った日、連れていこうとしていたのもここなんだと。こんな大事なところを今まで知らなかったなんて」
俺もみんなと同じで薄情だったのかな、なんて悲しそうに呟くものだから我慢できず声をあげる。
「そんなこと言うなよ。お前が見てくれるってわかってたから彼女は立ち向かえたんだろ。現にお前は薄情じゃないから今ここに居るんじゃないのか?」
彼は少しだけ眉根を寄せて頬を緩めた。
「なぁ、結局姉さんには謝れてなければ文句も言えてない。だからまだ穂天の力が必要だ。手を貸してくれるか?」
彼の瞳はあの時と同じ、変わらない誠実な温度を持っている。差し出された手を、俺はもちろんと答えて強く握り返した。
握り込んだ俺の手ごと、彼は額にまで持ち上げ祈るように言う。
「あんたも、あんたの力も、本当にすごいよ。手を握るだけでこんなに勇気をくれる。やっぱり穂天が好きだ」
目を瞑って話す彼の表情は穏やかだ。だけどそこには寂寥感が滲んでいる。
「実はまだ怖いんだ。恨まれてるんじゃないかって。姉さんの望んだ結末にしてやれなかったから。けどあんたがいてくれるなら姉さんときちんと話せる気がする」
彼の想いにきちんと答えなくては。
俺も、俺なりに大事なことに向き合って。
唯我の手に顔を寄せて内緒話をするように打ち明ける。
「お前と会えない間、俺も陽稀の家に行ってみたんだ。勿論、そんなすぐには会ってくれなかった。でも時間がかかってもいいからちゃんと向き合おうと思ってる」
俺が陽稀の話をすると、彼は面白くなさそうな顔をした。素直な表情の彼に思わず吹き出す。いつだって裏表がないのが彼の良い所だ。
「俺に会ってはくれなかったけど、陽稀は学校に登校してきたらしい。あいつも、あいつなりに歩いてるみたいだ」
もしかしたらいつか、昔みたいに話し合える日が来るかもしれない。
「俺が陽稀と向き合う勇気を持てたのはお前のおかげだよ。俺こそ本当にありがとう」
そして俺は長いようで短かったこの何日間かを思い出す。
最初は嫌なやつだとか思っていたけれど、知れば知る程真っ直ぐで、誠実で、一生懸命で、努力家な彼。
――俺もそんな彼のことが、
「好きだよ、俺も。唯我のことが。俺と付き合ってくれる?」
真っ直ぐに想いを乗せるだけ。
彼の目を見つめて真剣に伝える。
俺の言葉を聞いた彼は心底嬉しそうに笑ってくれた。
「もちろんだ!」
そう言って勢いよく抱きついてくる。
「っ、おい! こんなところで!」
引きはがそうとするが、力が強くて離れそうにない。
まぁいいか、誰も見ていないし、今ぐらいは。そう思って顔をあげると、愛嬌のある瞳がこちらを見ていた。
「~~~~!?!?」
彼女は嬉しそうに微笑んで、空中からこちらに降りてくる。
「っあや!?」
朱花さん。
叫びそうになって、し~っと指を立てられる。そのまま彼女は唯我の額にデコピンをひとつ。
「い、痛!? なんだ!?」
急な痛みにおでこを押さえる唯我、彼女はそんな彼の様子を見て花がほころぶように笑う。
そして俺たちを見て『頑張れ』、そう伝えて去っていった。
俺は潤む目を誤魔化して、笑う。
「頑張れって」
その一言だけで伝わったのだろう。彼もそうか、と言って笑った。
暗い部屋で、虚ろな目をする男。
娘を失い、妻は捕まり、息子も出て行こうとしている。彼に残るものは何もなかった。
家を省みてこなかった罰だろうか。けれど、その男の横にも残ったものがある。
それは彼の罪だった。
女は笑う。
唇を歪に吊り上げて、彼に絡みつくように、もう逃がさないと言わんばかりに。
閉じた世界で女だけが彼の罪を証明していた。
