家に着くと幸運なことに唯我の母親は不在にしていた。
「母さんは基本的に家にいることが多い。今はたまたまだろうから早く探そう。あんたが見た霊はどこにいた?」
「キッチンの近くの部屋だったと思う。そこから動かずに、じっとどこかを見てた」
俺の話を聞いて彼は舌打ちをする。
「やっぱりか……そのあたりは母さんの部屋だ」
彼は靴を揃える暇もなく、脱ぎ捨てて家にあがっていった。俺もそこそこに並べて後を追いかける。
家に入ってすぐにリビングがあり、キッチンにはあっという間にたどり着いた。
「まだその霊は見えるか?」
「わからない。少なくとも今はいないみたいだ」
彼は頷きだけ返し、ひとつのドアを開ける。
そこは綺麗に整頓された、こじんまりとした部屋だった。人が住んでいると言われても整いすぎていて、信じられない。
彼は探すぞと言って、引き出しや棚を乱雑に引っ張り出していく。俺もそれに倣って、手当たり次第に探し始めた。
まだ残している確証はない。もうとっくの昔に捨てられていてもおかしくなかった。けれどもし残っていたら。
緊張と不安でもたついたりしながらも部屋を漁っていくが、それらしいものは見つけられない。やっぱりもう、そう諦めかけた時、額縁に飾られた家族写真が目に入った。
それは生まれたての赤ちゃんを家族三人で取り囲んでいる、微笑ましい写真だ。
俺は恐る恐るそれを手に取り、額縁の裏側の金具を外す。
なんとなくだが、直感があった。あるなら、ここだと。ただ外すだけだというのに、緊張で手が震えてしまう。
震えをどうにか抑えこみ、ようやっとの思いで開く。
――そこには、予想通り二枚のチケットがあった。
購入日から半年間有効のそれが示す日付は、彼女が亡くなった前日。
俺は何も言えず、ただ黙ってそのチケットを唯我に手渡した。
チケットを受け取った彼は、それを強く握りしめ俯く。
どちらも話すことができず、沈黙が空間を支配した時、部屋のドアがゆっくりと開いた。
ギィっと鳴った扉の先、そこにいたのは唯我の母親だった。
「……何をしているの?」
彼女はそっと目を瞬かせる。それからなんの感慨もなく呟いた。
「そう……見つけてしまったのね」
彼女の言葉には何の温度もない。
ただ夕飯の献立を考えるときのように、明日の天気をチェックするかのように、当たり前の事実を受け止めているだけだった。
「これ、なんだよ母さん」
唯我は足元を見つめたまま、顔をあげない。
「あなたとお姉ちゃん喧嘩していたでしょう? 仲直りして欲しくて買っておいたのよ」
当たり前のように彼女は嘘を吐く。
「けれどあんなことがあって渡し損ねて……なんだか捨てられなくて置いておいたの」
顔色ひとつ、変える様子はなかった。
怒りを押し殺した声で唯我は問いかける。
「警察にもそう言ったのか? 実際に買ったのはあんただから、疑われることはなかっただろうな」
初めて会った時、泣いていた姿が嘘のようだ。彼女は平然として動じる様子がない。
別に、あの時の涙は嘘じゃないのだろう。ただ、誰のために泣いたのかが違うだけで。
「姉さんがあんたに頼んだことを知ってる人間がいるんだ。その人は嘘をつく理由なんてない。理由があるならあんたの方なんだ。何か、大事なことを隠してるんだろう?」
彼女は少し困惑した表情をする。
それは、まるで夕立が来るのを心配しているかのように、ずっと他人事だった。洗濯物を取り込み忘れてしまった、それぐらいの。
「変だと思ってたんだ。警察は俺に詳しく教えてくれなかったからその時は何も思わなかったが、姉さんの死について知っていく中で違和感がいくつかうまれてな」
確かに彼はずっと姉の死に疑問を持っていた。
ただのシスコンの行き過ぎた幻想かと思っていたが、彼なりに根拠があったのだと知る。
「姉さんは死の当日、頭をぶつけたと友人に言っていた。そしてその後どんどん体調が悪くなっていったのを周りの人間が見てる」
それは朱花さんの霊を探す途中で知った情報だ。唯我が彼女を探そうとしなければ知り得なかったこと。彼が動かなければ気付かれなかった違和感。
「俺はその話を聞いて、頭部の外傷で何か致命的な病態に陥ってたんじゃないかと思った。事故直後は平気でも、時間経過とともに内出血なんかで死に至るケースはない話じゃない」
彼は淡々と続ける。気を抜けば、溢れてしまいそうな何かを押さえつける様に。
「けれど姉さんは検死されている筈だ。その怪我が生前にできたものかどうかは生体反応でわかる。なのに警察が事件性なしと判断したということは、姉さんが自分で頭をぶつけたと警察は見たのだろう」
医学について学んだことがない俺には到底わからない話だった。
けれど彼はそんなに最初から、この状況に疑問を持っていたなんて。
「別に何も不思議な話じゃない。だけど俺だけは変だと思うんだ。姉さんを傍で見てきたから」
彼は覚悟を決めたのか、重い息を吐きだす。
「あんたらは知らなかっただろうけど、姉さんは医者になりたかったんだ。そんな姉さんが頭部の怪我を甘く見るはずがない。病院に行かなかったのには何か理由があるはずなんだ。そう、何か病院に行けなかった事情が」
チケットさえ出てこなければ、気のせいで済ませることができたのかもしれない。けれど出てきてしまったものはもう無視できない。
唯我は信じたくないとでも言うように、縋るような眼差しで母親を見つめる。
「姉さんの怪我の原因はあんたなんじゃないのか、母さん。そうじゃなければどうしてチケットを隠した?」
否定してほしい、そんな願いがこもった問いかけだった。
けれど彼の願いも空しく、彼女は簡単に引導を渡す。
「貴方ってやっぱり優秀なのね。すごいわ。そう、あなたの言う通りお姉ちゃんが怪我をしたのは私のせいなの」
娘の死について話しているのに、息子の成長を嬉しそうに喜んでいる。
罪悪感というものは感じられなかった。
「だって、お父さんに歯向かうんですもの。そんなの困るわ。お父さんの言うことは聞かなきゃダメだもの」
俺は、この人が怖い。
あまりにも感覚が違いすぎて、同じ人間と話しているのかさえわからなくなってきた。
空調が効いているはずの部屋は、急に温度が下がってしまったかのようにひどく寒い。
目の前のやり取りを見て、俺は以前読んだカフカの『変身』を思い出さずにはいられなかった。
あれは、対価を払えなくなった主人公が孤独に死んでいくという話だった。
期待に応えられなくなった存在は、どれほど尽くしていても用済みになってしまうのだろうか。
グレゴールを虫にしたのは家族かもしれないのに。
「言い合いをしてるうちに階段から落ちてしまったの。けれど、そのまま元気に学校に行ったのよ」
場にそぐわない様子であどけなく笑って見せる唯我の母親に、俺は歯噛みする。
林檎をぶつけられた大きな虫は、誰にも林檎を取り除いてもらうことができなかった。それは少しずつ、家族から透明にされていくことを意味している。
その林檎は彼女が死んでなお、触れても貰えないようだ。
「あの子が死んで、刑事さんが来て、死因を説明されたわ。頭の怪我で意識が混濁して、判断力が低下したから自殺したんじゃないかって仰るの」
全て知った日のことを彼女はなんでもないことかのように話す。自分のせいだというのに、彼女は何も思わなかったのだろうか。
「チケットのことは話したってよかったんだけれど、黙っておいた方がいいと思ったのよ。だってお姉ちゃんが隠してくれたのは私のためでしょう?」
自分は無償の愛を与えないくせに、娘からの愛は当たり前の顔をして受け止める。
グレゴールは確かに虫になったが、本当に変わったのは彼の方だったのだろうか。
「貴方への手紙を遺書にまで書きなおして……本当に親思いの優しい子よ。なのにどうしてお父さんに逆らおうとしてしまったのかしら?」
彼女の言葉にはずっと現実感がない。事の重大さを、本当にわかっているのだろうか。
「あんた、そこまでわかってたのに知らないふりをしたのか? それじゃあ、それじゃあまるで――」
唯我の表情は絶望に満ちていた。吐き出す息は細く、瞳はぐらぐらと揺れている。
けれど視線を逸らすことができず、必死に母親を見つめ続けていた。
「チケットも本当はさっさと処分したかったんだけれど、捨てようとするたびになんだか変な現象が起こって、怖くて捨てられなかったの」
あの霊の仕業だろうか。
それとも唯我の母親にも少しくらいの罪悪感はあったのだろうか。
遺書の震えた文字が脳裏をよぎる。
朱花さんは何を想ってあのメッセージを書いたのか。母親の心に、朱花さんの痛みはどれほど届いたのだろうか。
蝉だって最後は飛べるように、グレゴールだって、支えがあれば羽ばたく虫になれたかもしれないのに。
「なんでだよ!」
唯我は耐え切れなくなったのだろう、母親に駆け寄り胸ぐらを掴んだ。けれど、すぐに力なく手を離す。
「どうして……あんたは、悲しまないんだ。姉さんは、こんな家族でも愛してたのに! 姉さんは……クソッ!!」
彼は悔しそうに、苦しそうに壁を強く殴る。力を込め過ぎて、手は赤く染まっていた。
「唯我? どうして怒っているの? そんな風にしたら怪我をしてしまうわ」
この期に及んで彼女はまだ暢気なことを言っている。彼の気持ちに理解が及んでいないらしい。
まるで愛情かのように、唯我に手を伸ばす姿に不快感を覚える。
耐え切れず俺が口を挟もうとすると、彼は勢いよくその手をはねのけた。
本気の拒絶に彼女は表情を崩す。娘の死は気にも留めないが、息子の拒絶は受け入れがたいもののようだった。
胸が詰まるようなやりとりを見ていられず、唯我のもとに歩み寄る。
「……大丈夫か、唯我。気持ちの整理が必要だと思う。外の空気でも吸いに行かないか」
母親の代わりに唯我の背中をそっと支え、外へ連れ出す。彼はふらふらとした足取りだが、ゆっくりと歩き出した。
取られなかった手を、信じられないといった様子で眺める彼女に唯我は静かに声をかける。
「母さん、俺はあんたが許せない。姉さんのこと、ちゃんと考えてくれ。そして決めて欲しい。これからどうするかを。このままでいいと思うなら、あんたとはそれまでだ」
そう言ったきり、彼は振り返らず前へ進み出した。
唯我を支えながら近くの公園まで歩く。辺りはすっかり暗くなっていて、肌を撫でる風は少し冷たい。
今更ながら夏はとうに過ぎ去っていたことに気付く。長い夏に囚われていたのは俺たちだけだったようだ。
ぽつんと置かれたベンチに腰掛ける。俺は暮れ行く街を眺めながら、唯我が話すのを待つことにした。
時間にしてどれくらいだっただろうか。
東から顔を出し始めたばかりだった月が、頭上で煌々と輝きだした頃、唯我はぽつりとこぼした。
「今になって思えば、ずっと現実感がなかったのかもしれない。自殺なんて姉さんらしくない。そう思って、ずっと腑に落ちてなかったんだ」
俺は黙って言葉の続きを待つ。けれどきちんと聞いていることが伝わるように、彼につま先を向けた。
「姉さんを助けられたのも、自殺を否定できたのも、母さんだけだった」
唯我は事実を並べているだけのように話すが、きっと自分にも言い聞かせてるのだろう。
「でもあの人はそんなこと微塵も考えてなかった。考えてたら、あんな風には話せない。あの人は姉さんが死んだって――」
なんとなく、確信があるのだろう。けれど、明言したくないのか形にする途中で言葉を濁した。
「でも真実を知った時、俺はやっと納得した。姉さんならそうするだろうってわかってしまったんだ。姉さんは母さんを守る為に死んだんだって」
彼の頬を一粒の滴が流れていく。
「あんな、あんなどうしようもない人間なのに。子は親を愛さずにはいられないんだ」
溢れ出した涙は止まらないのだろう。嗚咽交じりに彼は続ける。
「姉さんの気持ちが全部わかって、ようやく気付いたんだ、俺は」
――もう会えないって。
多分、ほとんど言葉になっていなかった。それでも彼の言いたいことはこちらにまで伝わってくる。
まともに息継ぎも出来ない様子に、俺も泣いてしまいそうだった。
「姉さんにかっこ悪いって言ってしまったんだ。そんなこと言わなければ、ここにはまだ姉さんがいたかもしれないのに」
気持ちは痛いほどわかる。
俺と同じだ。
自分の言葉のせいで悪い方向に進んで、もう取り返しがつかなくなる。
次もまた同じことをしてしまったら? 今よりもっとひどいことになってしまったら? そうやって考えすぎて、俺は言いたいことも言えなくなっていったんだ。
だけど、だからこそ、言わなければなんて言わないで欲しかった。
お前のおかげで俺は陽稀と話し合うことができた。陽稀の母親の想いを伝えることができたんだ。
ぼろぼろと涙をこぼす彼を優しく抱きとめる。
「結果だけを見ればお前が後悔するのもわかる。けど、俺はお前がぶつかってきてくれて嬉しかった。お前のおかげで大事なものを思い出せたんだ」
彼の悲しみが触れ合った部分から伝わってきた。少しでも俺の中に溶けて一緒に背負えたらいい。
「だから言わなければなんて言うなよ。お前のそのまっすぐさに俺は助けられたんだから」
全部がダメだったなんてことはきっとない。
綺麗ごとかもしれないけど、俺は想いを踏みにじりたくない。
「姉さんの行動は褒められたものじゃない。罪を隠す悪いことだし、自分が助かる道もあったはずだ。美談なんかにしちゃいけない」
思い出すのが怖くて、記憶は曖昧になってしまったけれど、落ちていく彼女は笑っていた気がする。
「けど、家族を守るために一人で抱え込んだ姉さんを俺はかっこいいと思ってしまった」
変身の解釈は人によって違って、明確な答えはない。だからこそ、この作品は今なお人の心に残るのだ。
グレゴールが虫になってしまったのは、社会の生きにくさが原因であるという解釈もある。
だが本当にそうならば、虫になった彼はその枷から解放されたとも言えるのではないか。
自分の意思で選んだ朱花さんなら、なおのこと。
そしてその選択を取れたのは、彼女を想う人間の言葉があったからこそだと、俺は信じたい。
「姉さんだって最初から死ぬつもりじゃなかったと思う。どんどん体調が悪くなりだして、助からないことを悟った時、守ることを決めたんだろう」
弟へ宛てた手紙を遺書に書き換えるとき、彼女は何を想っていたのだろうか。
震えた文字は体調のせいか、死への恐怖か。
徐々に蝕まれる身体をおして、階段を登っていく時の気持ちは。
彼の涙が服に染み込んで冷たい。
冷え切った彼の体に俺の体温が移ればいいと願いを込めて、抱きしめる力を強くした。
「俺は姉さんの隠したかったものを暴いてしまった。決死の覚悟で守ったものをだ。……これで良かったのか、わからない。けど俺は、姉さんの尊厳を守りたかったんだ」
家族や本人自身も大事にしなかったものを、彼は大事にしたかったのだ。
俺は彼の落としたものをすべて拾いあげようとしてくれるところが好きだった。諦めないでいてくれることが。
朱花さんではない俺では答えを出せない。望むものを与えてあげられない。
「俺は姉さんに謝りたかったのに、逆のことをしてしまった。姉さんの意志を踏みにじってしまったのかもしれない」
だけど、俺も唯我の大事なものを取りこぼしたくない。だから俺の答えにはなってしまうけれど、俺なりに君の大事なものを拾いあげたい。
彼を傷つけないよう言葉を選んで伝える。
優しく、そっと心に溶け込むように。
「考えよう。いつ答えがでるかはわからないけど、考え続けよう。それが俺たちにできることだと思う。答えが出なくても、諦めないことに意味があるから」
今すぐに温度を移すことができなくても、隣にいればゆっくりと伝わっていくだろうから。
「一人で背負うのがしんどいなら俺に預けて。何年でも、何十年でも、俺も一緒に考えるから」
唯我は鼻を啜りながら小さくうん、と答えた。
長い手足を小さく縮めて、はみ出しながらも俺に収まる彼を見て笑みがこぼれる。
俺はこのでっかいのを、かわいいとか、守りたいとか、思ってしまっているのだから、それがもう答えなんだ。
「なぁ唯我、知ってるか? 今見えてる星の光はずっと昔のものらしい」
夜空に浮かぶ星を指さす。今は十月だから、アンドロメダなんかがあるのだろうか。
「ずっと昔の光を俺たちは見てるから、本当はもう爆発したりして、なくなっているかもしれないんだって」
けれど、なくなった今でも光は届き続ける。一度放たれたものが、残らないなんてことはないのだから。
「だからさ、朱花さんは亡くなってしまったけれど、これからもお前に届く何かはあると思うんだ」
それは日常の些細なことかもしれない。心の持ち方の話かもしれない。でも。
「きっと、お前の大事なところに朱花さんがいると思うよ」
俺と一緒に星を見つめていた彼は、また豪快に泣き出してしまった。あまりの勢いに少し笑ってしまいながら大きい背中をさする。
泣けるときに泣いておいた方が良い。涙が流してくれることもあるのだから。
俺たちはやっと、夏にさよならを告げようとしていた。
「母さんは基本的に家にいることが多い。今はたまたまだろうから早く探そう。あんたが見た霊はどこにいた?」
「キッチンの近くの部屋だったと思う。そこから動かずに、じっとどこかを見てた」
俺の話を聞いて彼は舌打ちをする。
「やっぱりか……そのあたりは母さんの部屋だ」
彼は靴を揃える暇もなく、脱ぎ捨てて家にあがっていった。俺もそこそこに並べて後を追いかける。
家に入ってすぐにリビングがあり、キッチンにはあっという間にたどり着いた。
「まだその霊は見えるか?」
「わからない。少なくとも今はいないみたいだ」
彼は頷きだけ返し、ひとつのドアを開ける。
そこは綺麗に整頓された、こじんまりとした部屋だった。人が住んでいると言われても整いすぎていて、信じられない。
彼は探すぞと言って、引き出しや棚を乱雑に引っ張り出していく。俺もそれに倣って、手当たり次第に探し始めた。
まだ残している確証はない。もうとっくの昔に捨てられていてもおかしくなかった。けれどもし残っていたら。
緊張と不安でもたついたりしながらも部屋を漁っていくが、それらしいものは見つけられない。やっぱりもう、そう諦めかけた時、額縁に飾られた家族写真が目に入った。
それは生まれたての赤ちゃんを家族三人で取り囲んでいる、微笑ましい写真だ。
俺は恐る恐るそれを手に取り、額縁の裏側の金具を外す。
なんとなくだが、直感があった。あるなら、ここだと。ただ外すだけだというのに、緊張で手が震えてしまう。
震えをどうにか抑えこみ、ようやっとの思いで開く。
――そこには、予想通り二枚のチケットがあった。
購入日から半年間有効のそれが示す日付は、彼女が亡くなった前日。
俺は何も言えず、ただ黙ってそのチケットを唯我に手渡した。
チケットを受け取った彼は、それを強く握りしめ俯く。
どちらも話すことができず、沈黙が空間を支配した時、部屋のドアがゆっくりと開いた。
ギィっと鳴った扉の先、そこにいたのは唯我の母親だった。
「……何をしているの?」
彼女はそっと目を瞬かせる。それからなんの感慨もなく呟いた。
「そう……見つけてしまったのね」
彼女の言葉には何の温度もない。
ただ夕飯の献立を考えるときのように、明日の天気をチェックするかのように、当たり前の事実を受け止めているだけだった。
「これ、なんだよ母さん」
唯我は足元を見つめたまま、顔をあげない。
「あなたとお姉ちゃん喧嘩していたでしょう? 仲直りして欲しくて買っておいたのよ」
当たり前のように彼女は嘘を吐く。
「けれどあんなことがあって渡し損ねて……なんだか捨てられなくて置いておいたの」
顔色ひとつ、変える様子はなかった。
怒りを押し殺した声で唯我は問いかける。
「警察にもそう言ったのか? 実際に買ったのはあんただから、疑われることはなかっただろうな」
初めて会った時、泣いていた姿が嘘のようだ。彼女は平然として動じる様子がない。
別に、あの時の涙は嘘じゃないのだろう。ただ、誰のために泣いたのかが違うだけで。
「姉さんがあんたに頼んだことを知ってる人間がいるんだ。その人は嘘をつく理由なんてない。理由があるならあんたの方なんだ。何か、大事なことを隠してるんだろう?」
彼女は少し困惑した表情をする。
それは、まるで夕立が来るのを心配しているかのように、ずっと他人事だった。洗濯物を取り込み忘れてしまった、それぐらいの。
「変だと思ってたんだ。警察は俺に詳しく教えてくれなかったからその時は何も思わなかったが、姉さんの死について知っていく中で違和感がいくつかうまれてな」
確かに彼はずっと姉の死に疑問を持っていた。
ただのシスコンの行き過ぎた幻想かと思っていたが、彼なりに根拠があったのだと知る。
「姉さんは死の当日、頭をぶつけたと友人に言っていた。そしてその後どんどん体調が悪くなっていったのを周りの人間が見てる」
それは朱花さんの霊を探す途中で知った情報だ。唯我が彼女を探そうとしなければ知り得なかったこと。彼が動かなければ気付かれなかった違和感。
「俺はその話を聞いて、頭部の外傷で何か致命的な病態に陥ってたんじゃないかと思った。事故直後は平気でも、時間経過とともに内出血なんかで死に至るケースはない話じゃない」
彼は淡々と続ける。気を抜けば、溢れてしまいそうな何かを押さえつける様に。
「けれど姉さんは検死されている筈だ。その怪我が生前にできたものかどうかは生体反応でわかる。なのに警察が事件性なしと判断したということは、姉さんが自分で頭をぶつけたと警察は見たのだろう」
医学について学んだことがない俺には到底わからない話だった。
けれど彼はそんなに最初から、この状況に疑問を持っていたなんて。
「別に何も不思議な話じゃない。だけど俺だけは変だと思うんだ。姉さんを傍で見てきたから」
彼は覚悟を決めたのか、重い息を吐きだす。
「あんたらは知らなかっただろうけど、姉さんは医者になりたかったんだ。そんな姉さんが頭部の怪我を甘く見るはずがない。病院に行かなかったのには何か理由があるはずなんだ。そう、何か病院に行けなかった事情が」
チケットさえ出てこなければ、気のせいで済ませることができたのかもしれない。けれど出てきてしまったものはもう無視できない。
唯我は信じたくないとでも言うように、縋るような眼差しで母親を見つめる。
「姉さんの怪我の原因はあんたなんじゃないのか、母さん。そうじゃなければどうしてチケットを隠した?」
否定してほしい、そんな願いがこもった問いかけだった。
けれど彼の願いも空しく、彼女は簡単に引導を渡す。
「貴方ってやっぱり優秀なのね。すごいわ。そう、あなたの言う通りお姉ちゃんが怪我をしたのは私のせいなの」
娘の死について話しているのに、息子の成長を嬉しそうに喜んでいる。
罪悪感というものは感じられなかった。
「だって、お父さんに歯向かうんですもの。そんなの困るわ。お父さんの言うことは聞かなきゃダメだもの」
俺は、この人が怖い。
あまりにも感覚が違いすぎて、同じ人間と話しているのかさえわからなくなってきた。
空調が効いているはずの部屋は、急に温度が下がってしまったかのようにひどく寒い。
目の前のやり取りを見て、俺は以前読んだカフカの『変身』を思い出さずにはいられなかった。
あれは、対価を払えなくなった主人公が孤独に死んでいくという話だった。
期待に応えられなくなった存在は、どれほど尽くしていても用済みになってしまうのだろうか。
グレゴールを虫にしたのは家族かもしれないのに。
「言い合いをしてるうちに階段から落ちてしまったの。けれど、そのまま元気に学校に行ったのよ」
場にそぐわない様子であどけなく笑って見せる唯我の母親に、俺は歯噛みする。
林檎をぶつけられた大きな虫は、誰にも林檎を取り除いてもらうことができなかった。それは少しずつ、家族から透明にされていくことを意味している。
その林檎は彼女が死んでなお、触れても貰えないようだ。
「あの子が死んで、刑事さんが来て、死因を説明されたわ。頭の怪我で意識が混濁して、判断力が低下したから自殺したんじゃないかって仰るの」
全て知った日のことを彼女はなんでもないことかのように話す。自分のせいだというのに、彼女は何も思わなかったのだろうか。
「チケットのことは話したってよかったんだけれど、黙っておいた方がいいと思ったのよ。だってお姉ちゃんが隠してくれたのは私のためでしょう?」
自分は無償の愛を与えないくせに、娘からの愛は当たり前の顔をして受け止める。
グレゴールは確かに虫になったが、本当に変わったのは彼の方だったのだろうか。
「貴方への手紙を遺書にまで書きなおして……本当に親思いの優しい子よ。なのにどうしてお父さんに逆らおうとしてしまったのかしら?」
彼女の言葉にはずっと現実感がない。事の重大さを、本当にわかっているのだろうか。
「あんた、そこまでわかってたのに知らないふりをしたのか? それじゃあ、それじゃあまるで――」
唯我の表情は絶望に満ちていた。吐き出す息は細く、瞳はぐらぐらと揺れている。
けれど視線を逸らすことができず、必死に母親を見つめ続けていた。
「チケットも本当はさっさと処分したかったんだけれど、捨てようとするたびになんだか変な現象が起こって、怖くて捨てられなかったの」
あの霊の仕業だろうか。
それとも唯我の母親にも少しくらいの罪悪感はあったのだろうか。
遺書の震えた文字が脳裏をよぎる。
朱花さんは何を想ってあのメッセージを書いたのか。母親の心に、朱花さんの痛みはどれほど届いたのだろうか。
蝉だって最後は飛べるように、グレゴールだって、支えがあれば羽ばたく虫になれたかもしれないのに。
「なんでだよ!」
唯我は耐え切れなくなったのだろう、母親に駆け寄り胸ぐらを掴んだ。けれど、すぐに力なく手を離す。
「どうして……あんたは、悲しまないんだ。姉さんは、こんな家族でも愛してたのに! 姉さんは……クソッ!!」
彼は悔しそうに、苦しそうに壁を強く殴る。力を込め過ぎて、手は赤く染まっていた。
「唯我? どうして怒っているの? そんな風にしたら怪我をしてしまうわ」
この期に及んで彼女はまだ暢気なことを言っている。彼の気持ちに理解が及んでいないらしい。
まるで愛情かのように、唯我に手を伸ばす姿に不快感を覚える。
耐え切れず俺が口を挟もうとすると、彼は勢いよくその手をはねのけた。
本気の拒絶に彼女は表情を崩す。娘の死は気にも留めないが、息子の拒絶は受け入れがたいもののようだった。
胸が詰まるようなやりとりを見ていられず、唯我のもとに歩み寄る。
「……大丈夫か、唯我。気持ちの整理が必要だと思う。外の空気でも吸いに行かないか」
母親の代わりに唯我の背中をそっと支え、外へ連れ出す。彼はふらふらとした足取りだが、ゆっくりと歩き出した。
取られなかった手を、信じられないといった様子で眺める彼女に唯我は静かに声をかける。
「母さん、俺はあんたが許せない。姉さんのこと、ちゃんと考えてくれ。そして決めて欲しい。これからどうするかを。このままでいいと思うなら、あんたとはそれまでだ」
そう言ったきり、彼は振り返らず前へ進み出した。
唯我を支えながら近くの公園まで歩く。辺りはすっかり暗くなっていて、肌を撫でる風は少し冷たい。
今更ながら夏はとうに過ぎ去っていたことに気付く。長い夏に囚われていたのは俺たちだけだったようだ。
ぽつんと置かれたベンチに腰掛ける。俺は暮れ行く街を眺めながら、唯我が話すのを待つことにした。
時間にしてどれくらいだっただろうか。
東から顔を出し始めたばかりだった月が、頭上で煌々と輝きだした頃、唯我はぽつりとこぼした。
「今になって思えば、ずっと現実感がなかったのかもしれない。自殺なんて姉さんらしくない。そう思って、ずっと腑に落ちてなかったんだ」
俺は黙って言葉の続きを待つ。けれどきちんと聞いていることが伝わるように、彼につま先を向けた。
「姉さんを助けられたのも、自殺を否定できたのも、母さんだけだった」
唯我は事実を並べているだけのように話すが、きっと自分にも言い聞かせてるのだろう。
「でもあの人はそんなこと微塵も考えてなかった。考えてたら、あんな風には話せない。あの人は姉さんが死んだって――」
なんとなく、確信があるのだろう。けれど、明言したくないのか形にする途中で言葉を濁した。
「でも真実を知った時、俺はやっと納得した。姉さんならそうするだろうってわかってしまったんだ。姉さんは母さんを守る為に死んだんだって」
彼の頬を一粒の滴が流れていく。
「あんな、あんなどうしようもない人間なのに。子は親を愛さずにはいられないんだ」
溢れ出した涙は止まらないのだろう。嗚咽交じりに彼は続ける。
「姉さんの気持ちが全部わかって、ようやく気付いたんだ、俺は」
――もう会えないって。
多分、ほとんど言葉になっていなかった。それでも彼の言いたいことはこちらにまで伝わってくる。
まともに息継ぎも出来ない様子に、俺も泣いてしまいそうだった。
「姉さんにかっこ悪いって言ってしまったんだ。そんなこと言わなければ、ここにはまだ姉さんがいたかもしれないのに」
気持ちは痛いほどわかる。
俺と同じだ。
自分の言葉のせいで悪い方向に進んで、もう取り返しがつかなくなる。
次もまた同じことをしてしまったら? 今よりもっとひどいことになってしまったら? そうやって考えすぎて、俺は言いたいことも言えなくなっていったんだ。
だけど、だからこそ、言わなければなんて言わないで欲しかった。
お前のおかげで俺は陽稀と話し合うことができた。陽稀の母親の想いを伝えることができたんだ。
ぼろぼろと涙をこぼす彼を優しく抱きとめる。
「結果だけを見ればお前が後悔するのもわかる。けど、俺はお前がぶつかってきてくれて嬉しかった。お前のおかげで大事なものを思い出せたんだ」
彼の悲しみが触れ合った部分から伝わってきた。少しでも俺の中に溶けて一緒に背負えたらいい。
「だから言わなければなんて言うなよ。お前のそのまっすぐさに俺は助けられたんだから」
全部がダメだったなんてことはきっとない。
綺麗ごとかもしれないけど、俺は想いを踏みにじりたくない。
「姉さんの行動は褒められたものじゃない。罪を隠す悪いことだし、自分が助かる道もあったはずだ。美談なんかにしちゃいけない」
思い出すのが怖くて、記憶は曖昧になってしまったけれど、落ちていく彼女は笑っていた気がする。
「けど、家族を守るために一人で抱え込んだ姉さんを俺はかっこいいと思ってしまった」
変身の解釈は人によって違って、明確な答えはない。だからこそ、この作品は今なお人の心に残るのだ。
グレゴールが虫になってしまったのは、社会の生きにくさが原因であるという解釈もある。
だが本当にそうならば、虫になった彼はその枷から解放されたとも言えるのではないか。
自分の意思で選んだ朱花さんなら、なおのこと。
そしてその選択を取れたのは、彼女を想う人間の言葉があったからこそだと、俺は信じたい。
「姉さんだって最初から死ぬつもりじゃなかったと思う。どんどん体調が悪くなりだして、助からないことを悟った時、守ることを決めたんだろう」
弟へ宛てた手紙を遺書に書き換えるとき、彼女は何を想っていたのだろうか。
震えた文字は体調のせいか、死への恐怖か。
徐々に蝕まれる身体をおして、階段を登っていく時の気持ちは。
彼の涙が服に染み込んで冷たい。
冷え切った彼の体に俺の体温が移ればいいと願いを込めて、抱きしめる力を強くした。
「俺は姉さんの隠したかったものを暴いてしまった。決死の覚悟で守ったものをだ。……これで良かったのか、わからない。けど俺は、姉さんの尊厳を守りたかったんだ」
家族や本人自身も大事にしなかったものを、彼は大事にしたかったのだ。
俺は彼の落としたものをすべて拾いあげようとしてくれるところが好きだった。諦めないでいてくれることが。
朱花さんではない俺では答えを出せない。望むものを与えてあげられない。
「俺は姉さんに謝りたかったのに、逆のことをしてしまった。姉さんの意志を踏みにじってしまったのかもしれない」
だけど、俺も唯我の大事なものを取りこぼしたくない。だから俺の答えにはなってしまうけれど、俺なりに君の大事なものを拾いあげたい。
彼を傷つけないよう言葉を選んで伝える。
優しく、そっと心に溶け込むように。
「考えよう。いつ答えがでるかはわからないけど、考え続けよう。それが俺たちにできることだと思う。答えが出なくても、諦めないことに意味があるから」
今すぐに温度を移すことができなくても、隣にいればゆっくりと伝わっていくだろうから。
「一人で背負うのがしんどいなら俺に預けて。何年でも、何十年でも、俺も一緒に考えるから」
唯我は鼻を啜りながら小さくうん、と答えた。
長い手足を小さく縮めて、はみ出しながらも俺に収まる彼を見て笑みがこぼれる。
俺はこのでっかいのを、かわいいとか、守りたいとか、思ってしまっているのだから、それがもう答えなんだ。
「なぁ唯我、知ってるか? 今見えてる星の光はずっと昔のものらしい」
夜空に浮かぶ星を指さす。今は十月だから、アンドロメダなんかがあるのだろうか。
「ずっと昔の光を俺たちは見てるから、本当はもう爆発したりして、なくなっているかもしれないんだって」
けれど、なくなった今でも光は届き続ける。一度放たれたものが、残らないなんてことはないのだから。
「だからさ、朱花さんは亡くなってしまったけれど、これからもお前に届く何かはあると思うんだ」
それは日常の些細なことかもしれない。心の持ち方の話かもしれない。でも。
「きっと、お前の大事なところに朱花さんがいると思うよ」
俺と一緒に星を見つめていた彼は、また豪快に泣き出してしまった。あまりの勢いに少し笑ってしまいながら大きい背中をさする。
泣けるときに泣いておいた方が良い。涙が流してくれることもあるのだから。
俺たちはやっと、夏にさよならを告げようとしていた。
