体育祭のその後、俺は目をパンパンに腫らしてしまって後片付けには参加できなかった。
担任に伝えると、凄く驚いた様子だったが深くは追及せず、すぐに家に帰らせてくれた。同級生たちも同様で、その件について特には触れてこない。
彼らの優しさに甘えて、俺は何もなかったふりをして日々を過ごしていた。
あれから数日、陽稀は学校に来なくなってしまったし、唯我の告白にも返事が出来ていない。
というか、聞きそびれてしまったがlikeじゃなくてloveだよな? なんて悶々と日々を過ごしていると、唯我からメッセージが届く。
『受験勉強の調子はどうだ? 余裕があるなら以前話していた姉さんの情報を見直したいんだがいいだろうか?』
勉強に集中など到底出来ていなくて、雑に返事をする。
『大丈夫。日曜日なら予定入ってないよ』
『わかった、ならそれでよろしく頼む』
そんな返事の後、OKと書いたゆるい犬のスタンプが送られてきた。
なんか、こいつあざといんだよな……。俺は白い目でメッセージを見下ろす。
平均より大きいくせに、こんなスタンプが似合うから困りものだ。
スマホを閉じて、身が入りもしない勉強に戻る。
気付けば少し、鼻歌を歌っていた。
「実はここ、姉さんがたまに行ってたところらしいんだ」
日曜日、渋いマスターが経営する喫茶店に案内される。
洗練された雰囲気の室内は、マスターのこだわりが随所に感じられ、店内には穏やかなクラシックが流れていた。
シックだが居心地の悪さを感じさせない作りで、朱花さんが通っていたのもよくわかる。
「もしかして先生が言ってたとこ? 知ってたならなんでもっと早く来なかったの」
そういうことなら何か情報が拾えたかもしれないのに。どうして今更? と言外に伝える。
「すまない、忘れてたんだ。姉さんが好きな人でもできたら行っておいでと教えてくれていてな。今まではいなかったものだから、気にも留めていなかった」
何気ない疑問が、特大のパンチで返ってきて狼狽する。
自分で墓穴を掘ってしまった。なんで聞いてしまったんだろう。
会った時から彼はずっとこの調子で、俺はペースを乱されまくりだ。
「ていうか前座れよ。なんで横なんだよ」
照れを誤魔化すように、少しつっけんどんに苦言を呈す。
そう、何故か唯我が横に座ってきたのだ。俺は対面で座るつもりだったというのに。
バカップルみたいですごく恥ずかしい。
ぐいぐいと押しやるのだが、唯我の体は岩のように固く、重い。
「同じパソコンを見るんだ。隣の方が見やすいだろう?」
彼はぬけぬけと言い放ち、画面をズイと押し出してきた。確かにそこにはパソコンがあり、朱花さんの写真や友人の証言などが丁寧にまとめられている。
今から話すのはその件についてなので、彼の主張も間違ってはいないのだが。
目の前にはマスターがサービスで淹れてくれたアイスコーヒーが二つ。朱花さんの件を知っていたようで、哀悼の意を示しご厚意で淹れてくださったのだ。
だというのに、場違いなやり取りを目の前で繰り広げてしまっていたたまれない。
汗をかいたグラスでさえ、俺たちをたしなめているような気がした。
幸いここはマスターの死角だ。ご本人に気付かれていないならばまだいいと、物言わぬ抗議を無視する。
「そういう問題じゃないって、恥ずかしいから対面行ってくんない?」
俺は壁側なので、唯我に座席を移動するようお願いするしかない。だというのに。
「そんなに嫌か?」
上目遣いでしょげてますと言わんばかりの態度。俺はついぐっと唸る。
「嫌、とか、そういうわけじゃないけど……」
叱られた犬みたいな態度に、それ以上強く出られなくて言葉は宙に消えていく。
俺が否定し損ねると、ここぞとばかりに彼はまた距離を詰めてくる。俺はどんどん壁際に追い詰められて、選択を間違えたことに今更ながら気付いた。
「なら問題ないよな。実は気になるところがひとつ増えてだな」
当たり前みたいにその距離で話を始めようとする彼を俺は遮る。
「ちょっと待ってよ。なんかおかしくない? 返事はまだいいって聞いた気がするんだけど!」
言ってることとやってることが伴ってない。
彼の行動にパンクし始めた俺は、白旗を振りたいぐらいの気持ちで助けを求める。
「待つとは言ったが、アピールしないとは言ってないだろう?」
俺があげかけた白旗は、彼に簡単にへし折られてしまった。いけしゃあしゃあと答える彼を少し恨めしく思う。
「俺、結構いっぱいいっぱいなんだけど! もうちょっと手加減してくれない!?」
必死の抵抗も虚しく、彼は嬉しそうに笑った。
「そうかそれはいい。もっと俺のこと考えてくれ」
押せばいいってもんじゃないというのに、彼はグイグイと距離を詰めてくる。
落ち着いて考える時間をくれよ!
混乱した俺は、勢いだけで反撃に出た。
「ガキ!」
彼は子ども扱いされるのを嫌っているので、これで空気を壊せればいい。
混乱した俺に出せる渾身の一撃だったのだが、
「年下だからな、仕方がない」
彼はフフンと鼻でも鳴らしそうな様子で得意げに飲み込んできた。
反撃すら失敗してあまりの甘さに俺は耐え切れない。半狂乱になって重い体を押しのけようとしていると、後ろから歩いて来た少年に冷ややかな視線を送られる。
「ウザ。あんたらうるさいんだけど。他所でやってくんない?」
そこにいたのは小学校中学年か高学年ぐらいの少年だった。手にはドーナツとブラックであろうコーヒーが乗ったプレートを持っている。
小学生にまで注意されてしまって、穴があったら入りたい。
謝罪して誤魔化そうとした時、少年があっ! と大きな声をあげた。
「あんたらなんでその姉ちゃんの写真持ってんの? まさかストーカー!?」
彼は警戒していますと言わんばかりの態度でこちらを睨みつける。少年が見ていたのは朱花さんの写真だった。
「お前、姉さんと知り合いなのか?」
先に唯我が動き出す。少年は姉さんという言葉に片眉をピクリと動かした。
俺もなんだか彼を逃してはいけないような気がする。
「もし知り合いならさ、ちょっとだけお話しできないかな?」
俺達の必死の説得と、お会計を持つという提案で、彼はなんとか同じ席に着いて話をしてくれることになった。
「オレの名前は南野虎牙。姉ちゃんとはここで知り合ったんだ。ていうか、話って何?」
少年は少し俯きながら手元のグラスをいじる。
唯我が朱花さんの弟であることに彼は一応納得してくれたが、まだ警戒は解けていなかった。
「俺たちは、姉さんのことを知ってる人に話を聞いていてな。記録として動画を撮りたいんだ。構わないか?」
唯我の申し出に、少年は眉をひそめる。
「なんのためにそんなことするんだよ。やっぱあんたらストーカーじゃないの? 最近姉ちゃんに会えないの、あんたらのせい?」
疑惑を深める少年に、俺はなんと答えていいか分からない。まだ幼い彼に、知り合いが死んだ話は酷だろう。どう伝えたものか。
俺が考えあぐねていると、唯我が答える。
「姉さんのこと、忘れたくないんだ。少しでも残せるものは残しておきたくて。だから、お前の話を聞かせてほしい」
唯我にふざけた様子はない。真摯な態度で、彼をひとりの人間として扱っているようだった。
「なに、それ……? そんな言い方……」
少年の瞳は揺れる。
最初こそ笑い飛ばそうとしていたが、冗談なんかじゃないと理解してしまったようだ。
「――もう、会えないの?」
落ちた言葉は思わず、といったものだった。
店内に流れるメロディだけが、優しく切なくこの空間をそっと撫でていく。
何という題名かまではわからない。けれど厳かでありながら、繊細な空気を纏ったそれは、少女のアンバランスさを彷彿とさせる。
唯我は何も言わなかった。ただ黙って少年を見つめるだけ。
「そっか……わかった。いいよ。オレの知ってる話なら」
少年は喉の奥に言葉を詰まらせながら、そう返す。
そしてそっと、宝箱の蓋を開けるように彼は話し出してくれた。
「俺がここで勉強してた時、姉ちゃんは隣の席にいたんだ。集中してるのに、姉ちゃんの腹の音がうるさくて。文句を言いにいったのが最初だよ」
彼は手でゴシゴシと強く目をこする。そうしないと、何かがこぼれてしまいそうだったのだろう。
「俺の文句に、姉ちゃんは恥ずかしそうに言ったんだ。家に帰りたくないけどお金もなくて、マスターの優しさで長居させてもらってるって」
それは、ごくありふれた、けれど悲しいお話。
ここにいた朱花さんは何を想ったのだろうか。窓から見える景色は、彼女の目にどんな風に映ったのか。
「姉ちゃんはバイトもさせてもらえないって言うから、俺の宿題を見てくれる約束で、たまに注文したものをわけてた。俺もガキだからそんなにしょっちゅうじゃなかったけど」
たまたま会えたときにだけ、そんな関係。
けれど、彼女にとってそれは心温まるものだったのではないだろうか。
少年の持ち物には、メッシュ状のネットに入ったサッカーボールがあった。朱花さんの部屋にあったキーホルダーと同じボールが。おそらく、そういうことなのであろう。
「姉ちゃんと水族館には行った?」
震える声で少年は問いかけてくる。彼はじっと、机の上のグラスを見ていた。
「水族館? 何の話か教えてくれるか?」
少年の話が気になるだろうに、唯我は言葉を選んでゆっくりと話しかける。それは唯我なりの気遣いだった。
「最後に会った時、姉ちゃんは水族館のチケットをママに買って貰ったって言ってた。弟と喧嘩したから仲直りするんだって」
――チケット。
その単語を聞いたとき、俺は何かを思い出す。
それはあの女性の霊。部屋の端に立って、虚ろな目をしていた。小綺麗だけれど、少し異様な。
あの日は唯我と喧嘩になってそれどころではなくなってしまったけれど。
「手紙も書いたって、恥ずかしそうだったけど、嬉しそうだった。弟が私をちゃんと見ていてくれたから、かっこいい姉になるんだって言って」
少年の話は信じがたい。けれど彼に嘘をつく理由なんてなかった。
「姉ちゃんが珍しく、弟のためならママは何でもしてくれるんだ、って寂しそうにぼやいてたからよく覚えてる」
足元がガラガラと音を立てて崩れて行くような感覚がした。
今までに一度も聞いたことのない話。
けれど、唯我の母親なら知っていた話。
なぜ教えてくれなかったのだろうか。俺と唯我は目を見合わせる。
――これではまるで意図的に。
少年に聞こえないように唯我の袖を引っ張り、耳打ちする。
「悪い、俺も伝えそびれたまま忘れてたんだけど……お前の家にお邪魔した時、チケットって呟く幽霊を見かけたんだ」
どうしてもっと早く思い出せなかったのだろうか。今になって気付くなんて。
彼は驚きに肩を震わせる。けれどすぐに目を瞑り、何かを噛み殺すみたいに息を吐いた。
「……そうか」
そして静かに瞼を開け、少年に向き直る。
「ありがとう、知らなかった話だ。家でチケットを探してみるよ」
ひどく、嫌な予感がする。
それは唯我も同じようだった。
「また会えるだろうか。姉さんの部屋にラッピングされたキーホルダーがあった。お前に渡したかったんだと思う。もらってくれるか?」
唯我は優しく少年の頭を撫でる。その手は少し震えていた。
それでも彼は気丈に振る舞う。幼い少年を傷つけないように。彼が泣いてしまわないように。
少年は何かを飲み込むように顔をあげると、小さくうん、と答えた。
「オレ、よくここに来るから。待ってる」
唯我は少年にまたな、と笑いかけると会計をして店を出た。その後に俺も続く。
外に出ると、唯我は曇り始めた空を見上げて覚悟を決めた表情をしていた。
「母さんは何か隠してる。ついてきてくれるか? 穂天」
険しくなる彼の瞳を見つめて、俺も力強く応える。
「うん。お前がいいなら、一緒に行かせてくれ」
彼の不安を少しでも一緒に背負えればいい、そう思って。
俺たちはそのまま、重たい空気を振り切るように駆け出した。
担任に伝えると、凄く驚いた様子だったが深くは追及せず、すぐに家に帰らせてくれた。同級生たちも同様で、その件について特には触れてこない。
彼らの優しさに甘えて、俺は何もなかったふりをして日々を過ごしていた。
あれから数日、陽稀は学校に来なくなってしまったし、唯我の告白にも返事が出来ていない。
というか、聞きそびれてしまったがlikeじゃなくてloveだよな? なんて悶々と日々を過ごしていると、唯我からメッセージが届く。
『受験勉強の調子はどうだ? 余裕があるなら以前話していた姉さんの情報を見直したいんだがいいだろうか?』
勉強に集中など到底出来ていなくて、雑に返事をする。
『大丈夫。日曜日なら予定入ってないよ』
『わかった、ならそれでよろしく頼む』
そんな返事の後、OKと書いたゆるい犬のスタンプが送られてきた。
なんか、こいつあざといんだよな……。俺は白い目でメッセージを見下ろす。
平均より大きいくせに、こんなスタンプが似合うから困りものだ。
スマホを閉じて、身が入りもしない勉強に戻る。
気付けば少し、鼻歌を歌っていた。
「実はここ、姉さんがたまに行ってたところらしいんだ」
日曜日、渋いマスターが経営する喫茶店に案内される。
洗練された雰囲気の室内は、マスターのこだわりが随所に感じられ、店内には穏やかなクラシックが流れていた。
シックだが居心地の悪さを感じさせない作りで、朱花さんが通っていたのもよくわかる。
「もしかして先生が言ってたとこ? 知ってたならなんでもっと早く来なかったの」
そういうことなら何か情報が拾えたかもしれないのに。どうして今更? と言外に伝える。
「すまない、忘れてたんだ。姉さんが好きな人でもできたら行っておいでと教えてくれていてな。今まではいなかったものだから、気にも留めていなかった」
何気ない疑問が、特大のパンチで返ってきて狼狽する。
自分で墓穴を掘ってしまった。なんで聞いてしまったんだろう。
会った時から彼はずっとこの調子で、俺はペースを乱されまくりだ。
「ていうか前座れよ。なんで横なんだよ」
照れを誤魔化すように、少しつっけんどんに苦言を呈す。
そう、何故か唯我が横に座ってきたのだ。俺は対面で座るつもりだったというのに。
バカップルみたいですごく恥ずかしい。
ぐいぐいと押しやるのだが、唯我の体は岩のように固く、重い。
「同じパソコンを見るんだ。隣の方が見やすいだろう?」
彼はぬけぬけと言い放ち、画面をズイと押し出してきた。確かにそこにはパソコンがあり、朱花さんの写真や友人の証言などが丁寧にまとめられている。
今から話すのはその件についてなので、彼の主張も間違ってはいないのだが。
目の前にはマスターがサービスで淹れてくれたアイスコーヒーが二つ。朱花さんの件を知っていたようで、哀悼の意を示しご厚意で淹れてくださったのだ。
だというのに、場違いなやり取りを目の前で繰り広げてしまっていたたまれない。
汗をかいたグラスでさえ、俺たちをたしなめているような気がした。
幸いここはマスターの死角だ。ご本人に気付かれていないならばまだいいと、物言わぬ抗議を無視する。
「そういう問題じゃないって、恥ずかしいから対面行ってくんない?」
俺は壁側なので、唯我に座席を移動するようお願いするしかない。だというのに。
「そんなに嫌か?」
上目遣いでしょげてますと言わんばかりの態度。俺はついぐっと唸る。
「嫌、とか、そういうわけじゃないけど……」
叱られた犬みたいな態度に、それ以上強く出られなくて言葉は宙に消えていく。
俺が否定し損ねると、ここぞとばかりに彼はまた距離を詰めてくる。俺はどんどん壁際に追い詰められて、選択を間違えたことに今更ながら気付いた。
「なら問題ないよな。実は気になるところがひとつ増えてだな」
当たり前みたいにその距離で話を始めようとする彼を俺は遮る。
「ちょっと待ってよ。なんかおかしくない? 返事はまだいいって聞いた気がするんだけど!」
言ってることとやってることが伴ってない。
彼の行動にパンクし始めた俺は、白旗を振りたいぐらいの気持ちで助けを求める。
「待つとは言ったが、アピールしないとは言ってないだろう?」
俺があげかけた白旗は、彼に簡単にへし折られてしまった。いけしゃあしゃあと答える彼を少し恨めしく思う。
「俺、結構いっぱいいっぱいなんだけど! もうちょっと手加減してくれない!?」
必死の抵抗も虚しく、彼は嬉しそうに笑った。
「そうかそれはいい。もっと俺のこと考えてくれ」
押せばいいってもんじゃないというのに、彼はグイグイと距離を詰めてくる。
落ち着いて考える時間をくれよ!
混乱した俺は、勢いだけで反撃に出た。
「ガキ!」
彼は子ども扱いされるのを嫌っているので、これで空気を壊せればいい。
混乱した俺に出せる渾身の一撃だったのだが、
「年下だからな、仕方がない」
彼はフフンと鼻でも鳴らしそうな様子で得意げに飲み込んできた。
反撃すら失敗してあまりの甘さに俺は耐え切れない。半狂乱になって重い体を押しのけようとしていると、後ろから歩いて来た少年に冷ややかな視線を送られる。
「ウザ。あんたらうるさいんだけど。他所でやってくんない?」
そこにいたのは小学校中学年か高学年ぐらいの少年だった。手にはドーナツとブラックであろうコーヒーが乗ったプレートを持っている。
小学生にまで注意されてしまって、穴があったら入りたい。
謝罪して誤魔化そうとした時、少年があっ! と大きな声をあげた。
「あんたらなんでその姉ちゃんの写真持ってんの? まさかストーカー!?」
彼は警戒していますと言わんばかりの態度でこちらを睨みつける。少年が見ていたのは朱花さんの写真だった。
「お前、姉さんと知り合いなのか?」
先に唯我が動き出す。少年は姉さんという言葉に片眉をピクリと動かした。
俺もなんだか彼を逃してはいけないような気がする。
「もし知り合いならさ、ちょっとだけお話しできないかな?」
俺達の必死の説得と、お会計を持つという提案で、彼はなんとか同じ席に着いて話をしてくれることになった。
「オレの名前は南野虎牙。姉ちゃんとはここで知り合ったんだ。ていうか、話って何?」
少年は少し俯きながら手元のグラスをいじる。
唯我が朱花さんの弟であることに彼は一応納得してくれたが、まだ警戒は解けていなかった。
「俺たちは、姉さんのことを知ってる人に話を聞いていてな。記録として動画を撮りたいんだ。構わないか?」
唯我の申し出に、少年は眉をひそめる。
「なんのためにそんなことするんだよ。やっぱあんたらストーカーじゃないの? 最近姉ちゃんに会えないの、あんたらのせい?」
疑惑を深める少年に、俺はなんと答えていいか分からない。まだ幼い彼に、知り合いが死んだ話は酷だろう。どう伝えたものか。
俺が考えあぐねていると、唯我が答える。
「姉さんのこと、忘れたくないんだ。少しでも残せるものは残しておきたくて。だから、お前の話を聞かせてほしい」
唯我にふざけた様子はない。真摯な態度で、彼をひとりの人間として扱っているようだった。
「なに、それ……? そんな言い方……」
少年の瞳は揺れる。
最初こそ笑い飛ばそうとしていたが、冗談なんかじゃないと理解してしまったようだ。
「――もう、会えないの?」
落ちた言葉は思わず、といったものだった。
店内に流れるメロディだけが、優しく切なくこの空間をそっと撫でていく。
何という題名かまではわからない。けれど厳かでありながら、繊細な空気を纏ったそれは、少女のアンバランスさを彷彿とさせる。
唯我は何も言わなかった。ただ黙って少年を見つめるだけ。
「そっか……わかった。いいよ。オレの知ってる話なら」
少年は喉の奥に言葉を詰まらせながら、そう返す。
そしてそっと、宝箱の蓋を開けるように彼は話し出してくれた。
「俺がここで勉強してた時、姉ちゃんは隣の席にいたんだ。集中してるのに、姉ちゃんの腹の音がうるさくて。文句を言いにいったのが最初だよ」
彼は手でゴシゴシと強く目をこする。そうしないと、何かがこぼれてしまいそうだったのだろう。
「俺の文句に、姉ちゃんは恥ずかしそうに言ったんだ。家に帰りたくないけどお金もなくて、マスターの優しさで長居させてもらってるって」
それは、ごくありふれた、けれど悲しいお話。
ここにいた朱花さんは何を想ったのだろうか。窓から見える景色は、彼女の目にどんな風に映ったのか。
「姉ちゃんはバイトもさせてもらえないって言うから、俺の宿題を見てくれる約束で、たまに注文したものをわけてた。俺もガキだからそんなにしょっちゅうじゃなかったけど」
たまたま会えたときにだけ、そんな関係。
けれど、彼女にとってそれは心温まるものだったのではないだろうか。
少年の持ち物には、メッシュ状のネットに入ったサッカーボールがあった。朱花さんの部屋にあったキーホルダーと同じボールが。おそらく、そういうことなのであろう。
「姉ちゃんと水族館には行った?」
震える声で少年は問いかけてくる。彼はじっと、机の上のグラスを見ていた。
「水族館? 何の話か教えてくれるか?」
少年の話が気になるだろうに、唯我は言葉を選んでゆっくりと話しかける。それは唯我なりの気遣いだった。
「最後に会った時、姉ちゃんは水族館のチケットをママに買って貰ったって言ってた。弟と喧嘩したから仲直りするんだって」
――チケット。
その単語を聞いたとき、俺は何かを思い出す。
それはあの女性の霊。部屋の端に立って、虚ろな目をしていた。小綺麗だけれど、少し異様な。
あの日は唯我と喧嘩になってそれどころではなくなってしまったけれど。
「手紙も書いたって、恥ずかしそうだったけど、嬉しそうだった。弟が私をちゃんと見ていてくれたから、かっこいい姉になるんだって言って」
少年の話は信じがたい。けれど彼に嘘をつく理由なんてなかった。
「姉ちゃんが珍しく、弟のためならママは何でもしてくれるんだ、って寂しそうにぼやいてたからよく覚えてる」
足元がガラガラと音を立てて崩れて行くような感覚がした。
今までに一度も聞いたことのない話。
けれど、唯我の母親なら知っていた話。
なぜ教えてくれなかったのだろうか。俺と唯我は目を見合わせる。
――これではまるで意図的に。
少年に聞こえないように唯我の袖を引っ張り、耳打ちする。
「悪い、俺も伝えそびれたまま忘れてたんだけど……お前の家にお邪魔した時、チケットって呟く幽霊を見かけたんだ」
どうしてもっと早く思い出せなかったのだろうか。今になって気付くなんて。
彼は驚きに肩を震わせる。けれどすぐに目を瞑り、何かを噛み殺すみたいに息を吐いた。
「……そうか」
そして静かに瞼を開け、少年に向き直る。
「ありがとう、知らなかった話だ。家でチケットを探してみるよ」
ひどく、嫌な予感がする。
それは唯我も同じようだった。
「また会えるだろうか。姉さんの部屋にラッピングされたキーホルダーがあった。お前に渡したかったんだと思う。もらってくれるか?」
唯我は優しく少年の頭を撫でる。その手は少し震えていた。
それでも彼は気丈に振る舞う。幼い少年を傷つけないように。彼が泣いてしまわないように。
少年は何かを飲み込むように顔をあげると、小さくうん、と答えた。
「オレ、よくここに来るから。待ってる」
唯我は少年にまたな、と笑いかけると会計をして店を出た。その後に俺も続く。
外に出ると、唯我は曇り始めた空を見上げて覚悟を決めた表情をしていた。
「母さんは何か隠してる。ついてきてくれるか? 穂天」
険しくなる彼の瞳を見つめて、俺も力強く応える。
「うん。お前がいいなら、一緒に行かせてくれ」
彼の不安を少しでも一緒に背負えればいい、そう思って。
俺たちはそのまま、重たい空気を振り切るように駆け出した。
