五
閑静な住宅街に、ひときわ目立つ真っ黒の家。キューブみたいな外観に、シンボルツリーが一つだけ植えられている。
「飲み物持ってくるから、ちょっとだけそこに座ってて」
言われるがまま、俺は今隼人の部屋のベッドにいる。
――え、いや、なにこれ。
意味が分からなさすぎる。夢か?
俺は古典的にほっぺを摘まんでみる。
――普通に痛い。
隼人の部屋は意外にもごちゃごちゃしていた。ベッドにはゆるキャラのぬいぐるみが鎮座してるし、机の上も参考書と漫画がごっちゃになっている。そして……なんかいい匂いがする。
ベッドのスプリングが軋むたびに変な緊張をする。
「おまたせ。ごめんな、急に呼んで」
平然と横に並んで座ってくる。ベッドだぞ、ここ。
「いや、全然大丈夫」
本当は大丈夫じゃない。うん。それはもう全然。
「っていうか、俺が来ちゃってよかったの?決起集会?なんじゃないの?」
とっさに出たのは決起集会の話だった。さっきまで忘れていたくせに。
「あぁ、いいんだよ。なにかにつけ集まりたいだけだから。先輩たち、引退前だから名残惜しいんだと思うよ。だから、俺いなくても平気」
――そうかもだけど、マネージャーは絶対来てほしそうだったのに……
と、口から出そうになったのをなんとか耐えた。
「それに、なんか……勘違いだったら悪いんだけど」
「……けど?」
彼が言葉に詰まる。
「うん……さっき雪丸、泣きそうな顔してた気がして。だから、ちょっと気になって……思わず追いかけちゃった」
今度は自分が言葉に詰まる。そんなことないよって言いたいのに、喉の奥につっかえて音にならない。
「それに、最近俺、雪丸に変な態度とっちゃってたから……自覚はあったんだけど、理由が自分でもわからなくて。ってか今もちゃんとはわかってないんだけど。でも、雪丸が山瀬といると、なんかモヤモヤする。それで、雪丸ともうまく話せなくなってた」
少し間を置いて、隼人が苦く笑う。
「壮行会の日も、本当は話しかけようと思ったんだ」
「え……」
「でも、目が合った瞬間、なんか急に怖くなって。もし今までみたいに話せなかったらどうしようって思ったら、そのまま逃げちゃった。ごめん」
隼人の顔が俺の知らない表情になっている。観察対象だった時も含め、今まで見たことのない顔だった。
耳まで真っ赤で、視線は落ち着かなくて、それでも何かを伝えようとしている。
人間観察をしていると、たまにこんな顔を見ることがある。それは好きな相手を前にした、恋する人の顔だ。
「んー、なんかうまく言葉にできないんだよな……あぁー、何言ってんだろ俺。なんかしか言ってないや。でも、とにかく雪丸は何にも悪くないってことを言いたかった」
俺は今、猛烈に勘違いをしそうになってる。そんなはずない。そんなはずないのに……
喉の奥まで言葉がせり上がってくる。なのに最後の一歩が出ない。
「……そっか」
それしか言えなかった。肩の力が抜けた。
「なんか、ほんとごめんね。俺小学生みたいだよな。恥ずいわ」
照れて眉毛が少し下がっている。その表情が幼く見えて、なんだか可愛い。
「…………あー、あのさ。ちょっと聞きだいんだけど……」
「え、うん。なんでも聞いて」
「隼人は今、彼女いるの?」
――よくぞ聞いたぞ、俺。いないのは知っているけど、念のための確認。他校の線も潰しておきたい。
「えぇ?いきなりどうしたの?いないの知ってるじゃん雪丸」
「あ、まぁそうなんだけど。一応……」
心の中で小さくガッツポーズをした。
「なんだよ一応って。なんの一応だよ」
くしゃっとした屈託のない笑顔。好きだ……
「ははは、内緒だよ。俺、ハードル跳んでる隼人、めっちゃ好きだよ」
――それ以外も全部好き……
「な、なになに?いきなりなんなん?」
「いや、急に言いたくなっただけ」
「えぇー?もう照れるじゃん」
……やっぱり。
「でさ、あの……無理なら全然いいんだけど……俺、陸上の試合、見に行っていい、かな?えっと、あの……楽器はさすがに持っていけないけど、でも隼人の応援に行きたいなって」
――言えた。
全身から汗が噴き出している。こぶしを握りすぎて、手のひらが熱い。
隼人は両手で顔を隠したまま黙って俯いている。
どういう反応?
「もう……なんなん……さっきから。そんなの、いいに決まってんじゃん。むしろ俺から誘おうと思ってたのに。先越さないでよ」
指の隙間からちらっとこちらをのぞき込んで、彼は小さなため息をついた。そして、いきなり立ち上がり、ベッドの上で正座して俺の方を向いた。
「雪丸さん、土曜日試合の応援に来てくれませんか?」
キラキラ、黒曜石みたいな目が真っ直ぐこっちを見ている。
「俺、絶対明日の予選勝つから。土曜日は、勝てばハードルの準決。それとリレーの準決決勝があるんだ」
「うん。わかった」
隼人は一瞬だけ目を見開いた。信じられないものを見るみたいに。そして……
「ゆきまるぅー!」
「おわっ!」
突然ベッドが軋んでバランスを崩した。後頭部が、ふわっと布団に包まれたかと思うと、いきなり隼人に抱きしめられた。
――は?
「めっちゃうれしい。ほんとめっちゃうれしいよ。雪丸ありがと」
いやいや、それどころじゃない。自分より一回り大きい身体に抱きしめられ、いつも見るだけだった黒髪が頬にかかった。ほんの少し制汗剤の匂いがして、それより近いところに隼人の匂いがある。
自分の心臓の音がどんどん大きくなるのがわかる。止めようとしても、勝手に暴走する。
「あ、あの、は、は、はやっと……」
逃げ出したいような、このまま包まれていたいような、もう自分がわからない。なんとか出た声は、震えて裏返りそうだった。
「ちょっ、くるし……」
俺がうめいた瞬間、体に乗っかっていた重みがなくなる。代わりに冷房の空気が体を覆った。
「はっ、あ、ごごめん。俺何やってんだろ。いきなりごめん」
「いや、全然、全然だよ全然」
「そ、そう?」
「そう、そうそう!」
二人の間に沈黙が落ちる。焼けた肌で分かりにくいけれど、隼人の顔は赤く染まっている。そして、きっと俺も同じだ。
「隼人」
俺は小指を差し出した。
「明日、報告待ってるからな。ちゃんと速報しろよ。予選通過しても、だめだったとしても。リレーだけでも、ちゃんと応援行くから。最近ハードル、調子悪いんだろ?」
「……なんで、それ……」
隼人は目を見開いて、言葉を失っている。
「見てたからね」
俺は頭が追い付いていない隼人を、にやにやとのぞき込む。
「来年があるなんて言わないからな。俺は土曜日に隼人が競技場でハードル跳んでるのをみたい。来年じゃなくて、土曜日。だから……応援してる」
隼人の目にうっすら涙が浮かんでいる。
「俺、最近マジでタイムが伸びなくて……結構腐りかけてたんだけど、なんか、マジでやる気出た」
「そっか」
「やっぱ雪丸すげーや」
そう言って、やっと小指を絡めてくれた。
「うん。約束。絶対予選勝ちぬく。待ってろよ!」
絡まった小指が熱い。
――がんばれ。
いつもはトランペットに乗せていた想いを、今だけは直接届ける。
たぶん。
初めて隼人を見たあの日から俺は、彼の走る理由のひとつになりたかった。
金曜日。
前の席が空いている。たったそれだけなのに、教室の景色が少し違って見えた。
いつもなら一限が始まる前から隼人が後ろを向いて、「雪丸ー、英語の課題見せて」とか、「今日の弁当なに?」とか騒がしいのに、それがない。
窓の外では雨上がりの青空が広がっている。数学の先生が黒板に数式を書き、みんながノートを取る。なのに俺の視線は何度もスマホへ向かってしまう。
――まだかな。
――予選、何時からだったっけ。
そんなことばかり考えている。完全に重症だった。
「まる、スマホ見すぎ」
休み時間になるなり、もっちーが笑った。
「見てない」
「嘘つけ。朝から二十回くらい見てる」
「見てない」
「見てる」
そんなやり取りをしていると、机の中のスマホが震えた。
俺ともっちーが同時に反応する。
「あ」
慌てて取り出して画面を見ると、送り主は隼人だった。
心臓が一気に跳ねる。
『ハードルもリレーも予選通過!』
短いメッセージの下に写真が二枚添付されていた。
一枚目は競技場の電光掲示板。
予選通過者の名前が並ぶ中に、
――牧村隼人
その名前がしっかり映っている。
「隼人通った!」
思わず声が出た。
「マジ?」
もっちーも覗き込む。
「マジ!」
二枚目を開く。
そこには陸上部の先輩たちと肩を組んだ隼人がいた。
黒を基調にしたユニフォーム。汗で少し乱れた黒髪。いつもの笑顔。
――よかった。本当によかった。
胸の奥で張り詰めていた何かがふっとほどける。
『やったな!お疲れ』
すぐに返信を打つ。
すると隣でもっちーが身を乗り出した。
「二年で準決進出なんてすげーよな」
「ほんとそれ!」
俺たちはスマホを挟んで顔を見合わせて笑った。
前の席は空っぽなのに。不思議と、そこに隼人がいる気がした。
土曜日。お昼を早めに済ませ、陸上競技場に向かった。
俺は競技場の階段を駆け上がり、目の前に広がった景色に足が止まる。
レンガ色のタータン。真っ直ぐ伸びる白いレーン。そして、その中を動く色とりどりのユニフォーム。
全部がやけにはっきり見える。レンズ越しではない、生身の目で見るフィルターのない景色。
「四ケイ?四百メートルリレー?だっけ?」
前にリレーが二種類あると教えてもらったのに、どっちが何なのか全然思い出せない。
プログラムなんて持ってないし、隼人のメッセージ、『十三時ハードル準決、十三時半リレー準決』を頼りに隼人を探すしかなかった。
高跳びに砲丸投げ、バックストレートでは棒高跳び。フィールドではさまざまな競技が行われている。俺はトラックを隅から見回した。すると、ひときわ目立つ黄色いスパイクを見つけた。最終コーナー付近で軽く身体を動かしている。
そしてアナウンスがかかった。
『次の競技は男子百十メートルハードル、準決勝です』
スピーカーから流れたアナウンスに、観客席が少しだけざわつく。
隼人が位置に着いた。
その瞬間、俺は無意識に拳を握りしめていた。
――がんばれ。
今まで何度も心の中で繰り返した言葉を、今日もまた呟く。
七レーンの隼人がスターティングブロックを調整して静かにスタートラインへ立った。
『男子百十メートルハードル準決勝第一組』
場内アナウンスが流れる。
『オン・ユア・マークス』
一斉に選手たちがしゃがみ込んだ。
『セット』
腰が持ち上がる。一瞬、競技場の音が消え、パンッ!と、ピストルの乾いた音と同時に、八人が飛び出した。スタートはほぼ横並びだった。七レーンの隼人も遅れていない。勢いそのままに一台目のハードルへ向かい、選手たちが一斉に踏み切る。けれど、二台目、三台目と進むにつれて少しずつ差が開き始める。
俺はいつのまにか叫んでいた。
「いけー!隼人!頑張れー!」
五台目。
六台目。
追いつけ。あと少しだろ。
「隼人ファイトー!」
気づけば立ち上がっていた。俺は応援席の最前列で、腹の底から声を張り上げた。楽器なんて吹いてないのに、ましてや走っているわけでもないのに、息が苦しくなる。声が掠れる。
けれど、勝手に胸の奥底から何かがこみ上げてくる。俺はそれを吐き出さずにはいられなかった。
そして最後のハードルに差し掛かったその瞬間。
「あっ――」
思わず声が漏れる。
隼人の後ろ足がハードルに引っかかった。ガタン、と白いバーが揺れる。大きく体勢を崩した隼人だったが、転倒だけは免れる。
それでも失った勢いは大きく、結果は六位。
決勝には上位二着とタイムで拾われるらしいが、それは厳しそうだ。
やがて顔を上げると、隼人はトラックへ向かって深く頭を下げた。勝ったからでも負けたからでもない。
きっと隼人は、どんな結果でもそうする。自分が競技した場所へ、大会関係者へ、選手たちみんなへ感謝を伝えるみたいに。
その姿が、どうしようもなく隼人らしくて。
俺は目を逸らせなかった。
気がつけば、俺はぼんやりとトラックを見つめていた。周りの歓声もアナウンスも、何も耳に入ってこない。
時間にしてたった十五秒。たったそれだけのために、毎日、息が切れるほど積み重ねてきたことを俺は知っている。
結局リレーも目立ったバトンミスはなかったものの、強豪にはついていけず準決勝敗退となった。ここで、ほとんどの先輩たちの引退が決まった。
――あっけない。あんなに努力しても、競技時間はこんなにも短いんだ……
競技場ではそんな俺の感傷もお構いなしに、次々と競技が行われていく。
ふと、スマホが震えた。
『線路側の駐輪場来れる?』
まだスタンドで姿を見てない隼人からメッセージが届いた。俺は返事もせずに、すぐに駐輪場に向かった。
「隼人!」
「雪丸、お疲れ。来てくれてサンキュ!って……なんで泣いてんの?」
――え、泣いてる?嘘だろ?俺が?
確かめようと頬をなぞると、しっかり湿っているし、何なら次から次に溢れてくる。
「え、いや、ごめっ……」
――なにか話そう。慰めないと。そんな気持ちとは裏腹に頬を伝う涙は止まることを知らない。
「はは、もう、泣きそうだったのに、驚いて涙引っ込んだったじゃん」
笑いながら話す隼人の目は赤いし、声だって震えている。
――あぁ、痛い。なんで自分のことじゃないのになんでこんなに痛いんだろう。別に来年だってあるし、なんなら新人戦だってある。まだまだ彼の陸上人生は続いていくのに。なのに。
「雪丸、応援きてくれてありがとう。俺、どうしてもお礼と、あと、話がしたくて」
隼人が一歩距離を詰めて俺の左手を握った。
「このタイミングじゃないかもしんない。っていうか絶対違うと思う。でも、なんか、今言いたくて」
握られた手が熱い。そして右手も握られる。
「俺、雪丸が好きだよ。友達の好きを超えたすき。意味わかる?」
俺はまた言葉を失った。ついでに涙も引っ込んだ。
「さっき、スタンドから雪丸の声、聞こえたよ。あんなにがやがやしてるのに、なんでか雪丸の声だけはっきり聞こえたんだ。それに今日だけじゃない」
――え……今日だけじゃない?
「俺、二グラからよく雪丸のこと見てた」
「……は?」
「なんか、雪丸が視聴覚準備室から観察してるって聞いてから俺も気になっちゃって、吹部の練習が始まるたび、そこ見る癖ついちゃった」
「え……」
「もしかしたら、その時からもう気になってたのかも。……俺だけじゃないと、うれしいんだけど」
「え、え?」
「だーかーら、彼氏になってって言ってるの。俺の恋人ポジションの雪丸も欲しい、だめ?」
俺は足元がふらついた。頭が追いついていかない。
「雪丸、だめ?」
俺は口を開く。でも声にならない。だって、ずっと隠してきたから。
視聴覚準備室から見ているだけでよかった。応援するだけでよかった。友達として傍にいるだけでいい、そう思っていた。
なのに……
「……俺」
喉が震える。
「俺も隼人が好き」
やっと出た言葉は、自分でも驚くくらい小さかった。
「ずっと好きだった」
隼人が息を呑む。
「だから、その……彼氏とかよくわかんないけど」
顔が熱い。もう逃げたい。
「隼人の彼氏なら、なりたい」
一瞬、時間が止まった。隼人は目を見開いたまま固まっている。
「え……」
呆けたような声が漏れる。
俺は恥ずかしさに耐えきれなくなって視線を逸らした。
「だから、その……聞こえただろ」
言った。言ってしまった。もう無理だ。今すぐ消えたい。
すると次の瞬間。
「ゆきまる」
ぐいっと腕を引かれた。
「おわっ」
気付けば、抱きしめられていた。ジャージ越しに伝わる体温が熱い。
「やばい」
隼人が俺の肩に額を押し付ける。
「俺、今めちゃくちゃうれしい」
耳元で掠れた声が響く。心臓が跳ねた。
「ちょっ、隼人……」
「無理。今離せない」
そう言いながらも、抱きしめる腕は少し震えていた。
あぁ。
うれしいのは俺だけじゃなかったんだ。
その事実に胸の奥がじんわり熱くなる。
「やばい。離れたくないー。まだ応援戻らなきゃなのに……」
抱きしめる腕が強くなる。
「はぁ……仕方ない。戻るか」
――チュッ
「え?」
「あとで連絡する」
黒い燕は爆弾を落として振り返らずに駆けていく。
俺の右の頬が少しだけ湿っていた。一瞬ふにっとした感触が、今でも鮮明に残っている。
俺は叫びだしたい衝動を必死に抑えた。
ずっと遠くから見ていた黒い燕が目の前にいる。
もう窓越しじゃない。観察対象でもない。手を伸ばせば届く場所にいる。
俺はきっと、これからもっと隼人を好きになる。そんな予感がした。



