窓際の特等席、秘密のエール






体育館のざわめきが静まる。
 部活動壮行会で集まった全校生徒が一斉に正面へ顔を向けた。
 体育館の二階は狭く、前のめりにならないと指揮が見えない。俺はトランペットを構え、息を吸った。
 次の瞬間、金管の音が体育館いっぱいに広がる。
 吹奏楽部の演奏を合図に、正面の扉がゆっくりと開き、ユニフォーム姿の選手たちが一人ずつ入場してくる。
 演奏を続けながら、その列を目で追う。そして案の定、一番最初に見つけてしまった見慣れた大きな背中。
でも、その背中は最近少しだけしぼんでいる気がした。この数日、隼人がハードルを跳ぶ姿を見ていない。グラウンドではいつも、一台だけ置かれたハードルの前で足運びを確認していた。
教室ではいつも通りだ。ただ、部活へ向かう時間が近づくと、肩のあたりの空気だけが少し鋭くなる。
――どうしたん?
――悩みがあるなら話聞くよ。
何度もそう思った。けれど、気のせいかもしれない。知られたくないことかもしれない。そう考えると、結局声は出なかった。
トランペットを構える。体育館の二階は吹部で埋め尽くされている。
俺の音が届くはずなんてない。
それでも息を吹き込んだ。
黒い燕が、もう一度まっすぐ飛べるように。
そんなことを願いながら、俺は最後の音を吹いた。


壮行会が終わり、体育館の二階から楽器を運び出す。トランペットをケースにしまったところで山瀬とばったり会った。
「明日よろしく」
「うん、がんばれよ」
そう言ったのに、山瀬は帰してくれなかった。続けて試合開始時間と集合場所と、先輩たちから言われたらしい長い注意事項を渡り廊下で伝えられる。
(うわぁ……本格的だな)
吹奏楽部は明日、朝から球場だ。野球部の応援は毎年恒例だし、断る理由もない。ないんだけど――。
ケースを肩にかけ直し、階段を下りようとしたその時。
「隼人」
思わず名前を呼んだ。ジャージ姿の隼人が階段を上がってくる。
いつもなら、「雪丸!」とか、「お疲れ!」とか、向こうから声をかけてくる。なのに……一瞬だけ目が合った隼人は、何か言いたそうに口を開いて、すぐ閉じた。振り返らず、ジャージの背中だけが遠ざかっていく。
(なんだ……今の)
胸の奥がツキンと痛む。
最近ずっと様子は変だった。でも今のは違う。たぶん、俺に向けられたものだ。
(嫌われるようなこと、したっけ……?)
これからしばらく、週末は野球部の応援で潰れるかもしれない。放課後だって、曲合わせが増えるはずだ。
これからしばらく、放課後にグラウンドを覗くこともなくなる。それなのに。
(ちゃんと話したかったな)
階段の上を見上げても、そこにはもう隼人の姿はなかった。曇り空だけが窓いっぱいに広がっている。


強めの雨がアスファルトを叩いていた。どんよりした灰色の空を見上げながら、俺は傘を差して学校へ向かう。
土曜日、野球部は県ベスト四で春季大会を終えた。学校史上最高成績らしい。
吹奏楽部の応援も区切りがついたのに、俺の気持ちは全然スッキリしない。 むしろ、雨雲みたいなどんよりしたものが胸のあたりにずっと居座ってる。
原因は分かってる。
壮行会のあとの隼人が何度も頭をぐるぐるする。別に喧嘩したわけじゃないし、変なこと言われたわけでもない。
なのに、あの時のいつもと微妙に違う顔とか態度とかが、頭から離れない。
――今日普通に話せるかな……
雨粒が傘を叩く音を聞きながら、俺は小さく息を吐いた。
心配をよそに、教室に入ると窓際の席にいた隼人がぱっと顔を上げる。
「雪丸、おはよう」
いつも通りの笑顔だった。俺は少しだけ力の抜けた返事をする。
「……おはよぉ」
あの日のぎこちなさなんて最初からなかったみたいだ。胸の奥に引っ掛かっていたものが少しだけ軽くなる。
席に荷物を置いたところで、後ろからもっちーが声を掛けてきた。
「野球、惜しかったなー」
「ん?」
「県ベスト四だろ?あと一勝で決勝じゃん」
「なんでもう知ってるんだよ」
思わず苦笑する。
もっちーは机に肘をつきながら続けた。
「ま、次は俺たちサッカー部の番だけどな。今週末から予選始まるし」
「へえ、陸上は?」
 俺が尋ねると、隼人が肩をすくめた。
「俺らも今週金曜からインハイ予選。金曜は公休で学校休むよ。勝ったら土日の決勝に進む感じ。この試合で先輩たちの引退がきまるからな……プレッシャーえぐいわ」
「そうなんだ。勝てそう?」
思ったよりすぐじゃん。
「どうだろ。まぁ陸部も今年は結構強いと思う」
隼人はそう言って笑った。けれど、その視線はずっともっちーの方を向いている。俺が何か言っても返事は返ってくる。でも目が合いそうになるたびに逸らされる。
(……やっぱり、変だ)
 コンタクトなんかして色気づいたと思われたんだろうか。それとも――。
気付けば、話しているのはもっちーと隼人ばかりだった。
(寂しい……)
さっきまで話せるかどうかを心配していたくせに、今度は普通に話せるだけじゃ物足りない。恋って、思ったより面倒だ。
俺は置物に徹したまま、窓を叩く雨音に耳を傾けた。
金曜日、隼人はここには来ない。 授業の始まりを告げるチャイムを聞きながら、俺は隼人のいない静まり返った前の席を想像して、早くも胸の奥をチリチリと焦がしていた。


視聴覚準備室の窓から見える空は、厚い雲に覆われていた。トランペットを膝の上に置いたまま、窓の向こうで陸上部が練習をしているのを眺めていた。
明日から始まる地区予選を前に、リレーのバトン練習が始まっていた。トラックのあちこちで選手たちが声を掛け合いながら走っている。
長い脚でトラックを駆け抜ける隼人の姿は、遠くから見てもすぐに分かる。
いつもなら隼人を見ると勝手に体がトランペットを吹く体制になるのに、今日はなぜか指が動かない。ロングトーンだって全然音程が定まらない。息がぶれて、音の芯が揺れる。
「カッコいい……」
 揺れる黒髪にひときわ目立つ黄色いスパイク。バトンをもらって加速していくその姿に、胸がぎゅっと締め付けられる。
 ――試合、見に行きたいな……
そんなこと、できるはずないのに願わずにはいられない。
俺は無理やり視線を譜面へ落とした。けれど心だけは最後までグラウンドから戻ってこれず、今日の合奏は散々だった。本来なら外さないはずのフレーズまで外して、「集中できてないぞ」と指摘された。俺は小さく頭を下げるしかなく、もういっそがっつり怒鳴ってくれたらいいのに、なぜか哀れみを顔を向けられるから余計にいたたまれない。
 部員たちの話し声を背中に聞きながら、俺は一人、とぼとぼと駐輪場へ向かう。グラウンドではまだ運動部が練習をしていたり、帰り支度をする生徒たちの笑い声も混ざっていた。
その時、駐輪場の方から何やら騒がしい声が聞こえてくる。
「いや、今年は四継マジでいけんじゃね?」
「まぁマイルよりはマシだろうな」
「俺ら中長距離は壊滅的だかんなぁ。隼人、県大会はお前にかかっている!」
「うわ、プレッシャーえぐいっすわ」
 駐輪場へ続く階段には、黒いジャージ姿の集団がたむろしていた。背中の『Track and Field』の文字を見て、陸上部だと気づく。男女合わせて八人くらいだろうか。
 同じ色の服を着た人間が集まると、どうしてあんなに圧が出るんだろう。
――治安が悪いな……
普通にそう思ってしまった。視聴覚準備室から眺めるのとはわけが違う。走っている姿はあんなに爽やかなのに……
俺は黒い集団を見ないように、端の方をそそくさと歩いていく。
「あ、吹部じゃん。おっつー」
「ねね、壮行会の曲マジカッコよかったぜ」
 ――くそっ。どうして一軍ってやつは知りもしない他人に気安く話しかけれるんだ……
「ねー。なんで陸部にはきてくんねーの?コイツさ、陸上競技場にも吹部の応援欲しいってずっと言ってんの。ウケんだろ?」
「ちょっ、先輩!言うなって!」
 え、何。どういうこと?
「俺らマジで今年のリレー決勝狙ってんの。で、二年で生意気にもエースのコイツに頑張ってもらわないとなんだよ」
「コイツ最近ずっとピリピリしてるしな」
「先輩!」
「あと雪丸君?も呼んできてよ。この隼人がマジ毎秒雪丸に癒されたいとか言ってんだよ。君、一年か二年っしょ?部長さんに交渉してよ」
「……は?」
「ちょっ。まじで!まじで黙って!」
「先輩にため口―」
「ほんと、今そういうのいいからっ」
 え、いや、いやいや。マジで意味が分からない。避けてたじゃん。目も合わせなかったじゃん。なのに、応援?
「てかさ、今からどうすんの。決起集会するんでしょ?誰かんち?それともファミレス?」
 隼人は話題を逸らすように声を上げる。
 横でマネージャーが、「隼人んち近いんでしょ? 私、行ってみたい」と笑った。その声の甘さに、鈍い俺でも意味くらいはわかった。
「えー、俺んちですか?今日母さん仕事だっけ」
「いいじゃん」
「みんなで行けば大丈夫だって」
先輩たちが好き勝手に話を進める。マネージャーは当然みたいに隼人の腕にしがみついた。隼人は何か話していて、腕のことなんて気にもしていないように見えた。
 ズキズキ、ズキズキ……
 今までにないくらい、胸の奥が痛む。
 ――一軍は腕くらい普通に組むよな。
 そう言い聞かせても、痛みが遠のくことはない。
「あ、俺失礼します……」
「雪丸君によろしくー」
「先輩っ!」
 悪気のない先輩の声が駐輪場に響く。
 俺は急いで自転車にまたがり学校を出た。行きと違って帰りは下り坂なので、必死に漕がなくても勝手に進んで行く。けれど俺は思いきりペダルを漕いだ。
――早く、ここから離れたい。
 その一心でペダルを漕ぐ。頬を撫でる風も、横を通り過ぎる景色も、何一つ目に入らない。
なのに最近のよそよそしい横顔と、さっき腕を組まれていた姿だけが、何度も浮かぶ。
「雪丸、待って!」
 ――は?なんで……
「雪丸!雪丸―!」
 もう間違いなく聞こえる距離なのに、隼人が大声で叫んでいる。
「ちょっと待って!そこで持ってて」
 学校出てすぐの交差点。少し先に踏切が見える。隼人の声と踏切の警報音が混ざり合っているのに、隼人の声だけがやけに鮮明に響く。
――あぁ、きれいだな。
 自転車を立ち漕ぎして、息を切らしながら近づいてくる隼人は、夕日の中で黒い髪が少しだけ茶色に透けている。反則だろ、と思った。そこに、可愛い女の子がいれば絵面は完璧なのに。
 でも今、隼人のそばにいるのは、この俺で。
 俺は、なんだかわからないけど泣きたくなった。
「雪丸、ごめん。引き留めて。今日用事とかある?ちょっとだけ時間いい?」
彼のこめかみには汗がにじんでいる。そんなに必死にならなくても、と思いながら嬉しい気持ちがあふれて口元が緩む。
「ど、どうしたの……」
「いや、その……さっきの」
「さっき?」
「先輩たちが変なこと言っただろ」
心臓が嫌なほど騒ぎ始める。手のひらに汗がにじんで、思わずハンドルを握りしめる。
「なんか、勝手に噂してるみたいになっちゃって。その、雪丸の話はしてたんだけど……でも、変な感じじゃないっていうか、褒めてるっていうか……」
「う、うん」
「その、だから、雪ま……」
交差点でトラックが通り過ぎる。轟音にかき消されて、隼人の声が聞き取れなかった。
隼人が小さく息を吐く。
「俺んち、行く?」
「え?」
「ちゃんと話したい」