三
恋――特定の相手に深い愛情をいだき、その存在が身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感、充足感に酔って心が高揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥感に駆られる心的状態。
俺は電子辞書の画面を見ながら、よくこんな浮ついたことをここまでクソ真面目にかけるなと感心していた。と同時に……
戸惑っている。それはもう、眼鏡を落として踏んづけてしまうくらいには。
この辞書に書かれていることに、心当たりしかなかった。問題は、その相手が隼人だということだ。
(…………やばい)
自覚したばかりの気持ちに折り合いがつかないまま、今は洗面所でコンタクトと格闘している。
「まる!お前いつまでそこ使ってんだよ!どけっ!」
兄貴が洗面所に入ってくる。
「ったくどんくさいよな。眼鏡ないと何もできねぇくせに」
「うるさい」
「で?数年ぶりのコンタクトチャレンジはどうだ?」
「入らん」
「もはや不器用も才能だな」
「褒めんな」
今日も毒舌全開の兄貴は、器用にコテで髪を整えていく。
「貸せ。俺が入れてやる」
「えっ、無理無理無理!怖い!」
俺は後ずさって、兄貴から距離をとる。けれど、「逃げんなボケ」と言われて強制的に鏡の前に縛り付けられる。
「怖いと思うから怖いんだよ。お前はここだけ引っ張っとけ!」
「む、無理!」
「目ぇ閉じんな!」
涙で視界が滲む。
数秒後。
「入ったぞ」
「え?」
右目だけで見た世界は、今までとは別物だった。鏡の中の自分も、輪郭までくっきり見える。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
「感動してる場合じゃねぇ。次、左」
「えぇぇ……」
再び兄貴の指が迫ってくる。
「目ぇ閉じんな!」
「無理無理無理!」
「動くなって!」
羽交い絞めにされ数秒格闘したあと。
「……よし。入った」
「え?」
何度か瞬きをして鏡を見る。今度は両目とも驚くほど鮮明だった。丸眼鏡のない自分が真正面から映っている。
「これでいけるだろ。お前、そのまま眼鏡捨てろ。前より幾分かマシに見えるぞ」
お礼を言う間もなく、引き戸がガラッとあいて、そのままの勢いで閉まった。
初めて両目にコンタクト。
想像以上に視界が開けて、いつもと変わらない部屋が少し明るく見える。丸眼鏡のフレームに遮られない俺の顔は、やっぱり自分で見ても冴えない。
(……隼人、気づくかな)
ふっとそんな贅沢な期待が頭をよぎり、俺はまた自ら自分の心臓のリズムを狂わせることになった。
――キーンコーンカーンコーン
廊下にチャイムが鳴り響く中、階段を一気に駆け上がる。
(やばいやばいやばい、遅刻とかありえん!)
最後の音が鳴り終わると同時に、俺は教室の扉をくぐった。
「……セーフ、か?」
「おはよ、まる。セーフセーフ!ってか、眼鏡!眼鏡どうした?」
息を切らしながら自席に座ると、もっちーが興奮気味に声をかけてきた。
「あ、あー。そう、今朝、寝起きに、眼鏡、踏んじゃって……」
急いでリュックから教科書を取り出しつつ、なんとか息を整える。
「仕方なく、慣れない、コンタクトに、苦戦してたら……こんな時間になっちゃった」
「ええー、ちょっとイメチェンがすぎん?なぁ、隼人もそう思うだろ?」
「え、あぁ……うん……」
(やっぱ、変だったかな?)
隼人はなぜか視線を逸らした。その意味を考え始めた途端、ろくでもない想像ばかり浮かんでくる。
「はやとっ……」
「席付けー、静かにしろー」
かけようとした言葉は担任の声にかき消された。隼人はそのまま前を向いてしまい、結局何も聞けなかった。
誰もが教科書を開き始めた、ざわざわとした空間の中。 不意に、前の大きな背中がピクリと動いた。隼人が首だけをグイッとこちらへ振り返り、何か言いたそうな顔で俺を覗き込んでくる。丸眼鏡のフレーム越しではない、生身の視線が真っ直ぐにぶつかった。
「……全然普通じゃねーじゃんか、このイチゴ大福」
掠れた声でそう呟くと、逃げるように前を向いた。
(は……はぁぁぁ? イチゴ大福って何?まじでわけわからん)
意味を聞こうにも今はHR中。担任の声は、もうほとんど耳に入らなかった。
頭の中がイチゴ大福に占領されたまま、俺は目の前のきれいな黒髪を見つめることしかできなかった。
休み時間になるなり、もっちーが興奮したまま身を乗り出してきた。
「なぁどうしたんだよ、まる。何で急にイメチェンしたの?」
「だからイメチェンじゃないって。眼鏡が壊れただけ」
「コンタクト持ってんなら最初からそうしとけよ。絶対そっちのがいい」
俺は窓に背を向けたまま、右を向けずにいた。
イチゴ大福の意味を聞きたい。なのに、いざ休み時間になると妙に緊張する。それに今日はなんだか周りの視線まで落ち着かない。
「なぁ、隼人もそう思うだろ?」
おい、やめろ。心の中で制止したのもむなしく、もっちーは隼人に話を振った。
「……うん」
「だよなぁ」
やっぱり適当な返事だった。地味にへこむ。
「……ってか反則だよな。やばい」
「えっ」
俺ともっちーの声が重なる。
「いやマジで可愛すぎない?俺ビックリして思わずフリーズしちゃったし。さっきなんて走って顔真っ赤にしてて、もうなんかイチゴ大福みたいだったもんね」
「え、ちょっ、何言って」
「な、もっちーもそう思わん?」
もっちーの視線が俺と隼人の間を往復した。
「……いや、イメチェンしてあか抜けたとは思うけど……俺、べつにまるのこと可愛いとか一ミリも思わん。普通に女子のが可愛い」
((……………………))
「そ、それはそうでしょ!」
「そ、そうだよ!俺だって普通は女子の方が可愛いって思うよ?でも、なんか雪丸は、そういうの超えてくるっていうか。俺もよくわかんないけど!」
もっちーが何とも言えない顔で俺を見る。
お願いだからやめてくれ……
お願いだからこれ以上かき乱さないでほしい。切実に……
「ちょっと、トイレ……」
「おう、ゆっくりな。でも次、化学で堀センだから遅刻は気をつけろよ」
「うん」
いたたまれなくなった俺は、隼人から物理的に距離を置いた。薄暗いトイレの個室に逃げ込み、俺は思いきり息を吐いた。何度深呼吸しても、隼人の声と赤い耳が頭から離れない。
あぁもう、と頭を振って教室に戻る。
目の前には、変わらない広い背中。今まで何も感じなかったのに、かすかに香る制汗剤の匂いにドキッとする。
(ダメだ……ちょっと、席替えしたい……)
このままだと、今度の中間テストは平均すらも届かないかもしれない。それは割りと笑えなかった。
テスト期間前ということもあって部活は短縮だった。空き教室には俺ともっちー、それから隼人の三人だけ。昼休みに「じゃあ今日やろうぜ」と、もっちーの一言から数分後には、なぜか放課後の勉強会が決定していた。
「ここ、これ違う」
隼人が俺のノートを指差す。その長い指が近い。近すぎる。
「え?」
「だからここ。途中の式飛ばしてる」
「あ、ほんとだ」
慌ててシャーペンを動かすけど、ダメだ。全然集中できない。問題を読んでも頭に入らない。隣で鳴るシャーペンの音ばかり耳に入ってくる。
「雪丸」
「ひゃい!」
思わず変な声が出た。もっちーが前で吹き出す。
「何、っふふ。その、返事……ウケる。次英語やんのに大丈夫か?」
「……うるさい。多分、大丈夫」
顔が熱い。隼人は一瞬目を丸くしたあと、小さく笑った。
「そんな驚く?」
「うん……ビックリした」
「呼んだだけなのに」
呼んだだけ。その呼んだだけで寿命が削れているとは、知らないだろう。
俺はノートに視線を落とす。その時だった。隼人の指がノートの上で止まった。
「……」
急に黙ったまま、目だけがこっちを見ている。
「隼人?」
「……」
隼人は俺を見たまま何か言いかけて、小さく息を飲んだ。
「いや、なんでもない」
言う割に、どこか落ち着かない様子だった。
「ってか雪丸さ、これからずっとコンタクトにするの?」
「あ、うん。そのつもり。慣れたらやっぱ楽だしね。付けるのはまだ苦戦するけどね」
「そっか……」
「え、何?」
「いや、なんでもない」
隼人が視線を逸らす。今日だけで何度目だろう。そのたびに、朝鏡で見た自分の顔が浮かぶ。
(イチゴ大福……)
思い出しただけで顔が熱くなる。もしかして今も赤いんじゃないか?そう考えた瞬間、ますます問題集の文字が頭に入らなくなった。
気付けば中間テストも最終日。午前で終わりということもあって、教室の空気はどこか浮かれている。
今日から部活も再開だ。テスト明けの練習を楽しみにしているやつもいれば、憂鬱そうな顔をしているやつもいる。
俺は最後の卵サンドをかじりながら帰る準備をしていた。
「水野―? 水野いる?」
いきなり大きな声で呼ばれ、俺は卵サンドをふきだしそうになった。
「……まる、大丈夫か?」
「う、うん」
隼人は「知り合い?」と言いながら、背中をさすってくれた。
「あ、うん。野球部の人。ちょっと、行ってくる……」
残りの卵サンドを机に置き、立ち上がろうとしたその時、声の主がやってきた。
「ごめんごめん、食べてんならそのまま聞いて欲しいんだけど、ここ座っていい?」
彼は返事を待たずに俺の隣の席にドカッと座った。
(相変わらずデカい……)
「あ、俺知ってる。君、野球部でしょ?めっちゃデカいよね?身長何センチ?」
もっちーが突然話しかけた。
「百八十八。山瀬って呼んでくれ」
「「でかっ」」
もっちーと隼人の声が重なる。
「先輩にパシられて来た」
「え、何それ……」
「試合の応援曲の相談」
「え、あー、そうなん?別にいいけど……でもそれって普通三年がするんじゃないの?」
「いやそうなんだけどさ。なんか今の三年、仲悪いらしくて行って来いって言われた。悪いな」
なんと勝手な理由……
「じゃあ、しょうがない……のか?他の二年は?」
「みんなお前に頼めって言ってた」
えぇ……みんなぐるじゃん……。
「わかったよ……」
「先輩から結構リクエスト貰ったからさ。また時間見つけて話そ。連絡先交換していい?」
「わかった……」
俺はカバンからスマホをとると、自分のQRコードを見せた。その瞬間、ふと隼人の顔が曇る。
「え、隼人どうしたの?」
「………いや、なんか……いいなぁ って」
「え?」
「野球部ずるい」
隼人の視線は俺と山瀬のスマホを射抜いたまま、眉間のシワがどんどん深くなる。
「なんで?まる取られたから?」
もっちーが空気も読まず的外れなことを突っ込む。
「いや」
隼人は否定しかけて、「……少しは」と言った。
……なんで?隼人が?
「だってさ、陸上は楽器の応援なんてないんだぜ?演奏あったら、俺もっと速く走れる気がする。野球ってだけで吹奏楽の応援あるのずるい!」
「確かに。サッカーもないしね。バレーとかバスケはどうなんだろ?」
「「「…………」」」
その場の全員が黙る。
「俺ら体育館勢とは無縁すぎてわからんな」
「うん」
隼人は諦めたようにコロッケパンを頬張った。
「悪いな。急に頼んで。先輩が無茶言うかもしれんけど、俺も何とか言っとく」
「わかった」
山瀬は立ち上がると、その大きな体に似合わず、小さくお辞儀をしてきちんと椅子をしまって行った。
そして、俺はふと、事の重大さに気づいた。これ多分、っていうか絶対狙って野球部は山瀬を選んだに違いない。
あんな巨体に、俺みたいなやつが逆らえるわけないってわかってて……で、話し合いの場では無茶苦茶な曲編成を頼まれて、それを先輩に話したら、そんなの無理って俺が怒られて、また山瀬に突き返されて、板挟みになって――。
そう気づいたときには、もう手遅れだった。
「あ、あ、あ――。だめだ……」
周囲からはひそひそと哀れみの声が聞こえる。
「あれやべーな、まる」
「大型犬三匹に囲まれたチワワ」
「あー、わかる」
むしろチワワの方がまだ存在感があるかもしれない。
周りのやつらはケラケラと笑っている。俺が「聞こえてんだけど」とじろりと睨むと、チワワは可愛いぞとか、訳の分からない返事が来た。
チワワだのイチゴ大福だの、他人から見た自分はいったいどう映ってるんだ?そんなこと、一度も気にしたことなかったのに。今は違う。
平均身長、成績真ん中、顔も平凡。
そんな俺じゃ、隼人に「すげえ」とか「かっこいい」とか、思われる日は来ないんだろうな。
俺は食べかけのたまごサンドをもう一度口に入れた。
――なのに、今日はあまり味がしなかった。
晴れとまではいかないけれど、なんとか雨が上がった放課後。視聴覚準備室から見る第二グラウンドはいつもより薄暗い。隅のほうではハードルを一台だけ出して、ひたすらフォームを確認する隼人が見えた。
「……なんか元気ないな」
表情までは見えない。それでも、何度も同じハードルに向かう背中が、いつもより小さく見えた。
俺は野球でよく使う応援歌の楽譜を譜面台に立てた。壮行会でも、直近の演奏会でも吹かない曲。でも、前に隼人があの曲好きなんだよねと話していた曲だ。
――パパパパパッパパパパパーッ
曇った空に突き抜けるようなトランペットの音色が響く。
――がんばれ。カッコいいぞ!
――ちゃんと応援してんからな!
――でもマネと距離近すぎないか?
――こっちを見ろ!
――好きだ、隼人!
――届け、届け!
隼人に対する感情は、もう頑張れだけじゃ収まらない。俺の心の中は毎日が工事中のように騒がしく、壊れたり建て直したりで大忙しだ。
「水野!関係ない曲吹いてんじゃねーよ」
「え、あ、はい。すいません」
先輩の怒鳴り声で俺は我に返った。練習の時にふざけるなんて、以前の俺じゃ考えられない。いや、ふざけてたわけじゃないんだけど……
「壮行会の曲合わせるから音楽室集合」
「はい」
もう一度だけ窓の外を見た。隼人は変わらず一台のハードルと向き合っていて、何を考えているのかはわからない。
でも、ひとつだけわかることがある。
明後日の壮行会でも、俺はきっと隼人を目で追ってしまう。
たぶん、その次の日も。そのまた次の日も。――重傷だな、俺。
そう思いながら、俺は音楽室へ向かった。
次の日の昼休み、山瀬は教室の扉に頭をぶつけそうになりながら、くしゃくしゃの紙きれを持って入ってきた。
昨日と同じ席に座り、ああ、今日もそこなんだなと思った瞬間、周りがざわつき始めた。
「今日もチワワ」
「壁の中のまる」
後ろの席からそんな声が聞こえてくる。
山瀬が来ると、胸のあたりがぎゅっと詰まる感じがする。身体の大きさに圧倒されているのか、それとも別の理由なのかはよくわからない。
「お疲れ水野。飯時に悪いんだけど、例の曲のことで……」
山瀬から紙を渡され、俺はおにぎりを食べる手を止めた。
「あ、場所変えたほうがいいか?」
両脇の二人には関係ない話だし、俺は「そうだな、そうしよ」と言った。
もっちーが蒸しパンを頬ばりながらOKサインをする。ふと隼人を見ると、眉間にしわが寄って、ちょっとだけほっぺが膨らんでいる。百八十三センチの男がする顔じゃない。なのに、ちょっと可愛いと思ってしまった。
「いいよな」
「な、なにが?」
「野球部ってだけで雪丸に応援してもらえる」
隼人は俺のスラックスのポケットを摘まんだ。
「俺だって応援してほしい。雪丸に弾いてほしい曲いっぱいある」
「俺トランペットだから何も弾けないよ。吹くことはできるけど……」
「もぉ!揚げ足取んなよー」
「そ、そんなつもりじゃないんだけど……」
掴まれたポケットのあたりばかり気になる。
「水野―?」
後方の扉から山瀬が呼んでいる。
「待って。今行く」と叫んで、もう一度隼人を見た。まだほっぺは膨らんだままだ。
――もしかして、本当に聴きたいんだろうか。
そうだとしたら……ちょっと嬉しい。
「隼人。また今度リクエスト聞くよ。陸上競技場は難しくても、河川敷とか海で良かったらいつでも」
「まじ?雪丸、めっちゃありがとう!愛してるぜ!」
――今なんて言った?
思わず立ち止まってしまう。
「おま、な、な、何言ってんの?」
「だって、嬉しすぎて。雪丸の言質、ちゃんととったからな。絶対だぞ」
「隼人、大げさすぎ」
もっちーが呆れながら最後の蒸しパンを頬ばっていた。
食堂で話を聞いていたら五時間目ギリギリになり、俺はチャイムと同時に教室に滑り込んだ。
案の定、野球部からもらった曲のリクエストは吹部の先輩たちがキレ散らかなしそうラインナップだった。それを今から伝えないといけないと思うと、なかなか気が滅入る。
ため息をつきながら、机の中からごそごそと歴史の教科書を探す。なかなか見つからず、先生が先に教壇についた。
「おーい、チャイムの前に準備しとけよー。小学生でもできるぞ」
こっちをちらりと見ながら嫌味が飛んできた。
俺は隼人の背中に身を隠すように縮こまりながら、やっと見つかった教科書を出した。
最近こんなことばかりだ。心も体も、ずっと余裕がない。また大きなため息が出る。
すると隼人がちらりと振り返り、変顔をしてみせた。そのまま「気にすんな」とでも言いたげに両手を軽く上げて肩をすくめる。爽やかさと仕草が全然噛み合っていない。悔しいけど、気分は少しだけ軽くなった。
恋――特定の相手に深い愛情をいだき、その存在が身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感、充足感に酔って心が高揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥感に駆られる心的状態。
俺は電子辞書の画面を見ながら、よくこんな浮ついたことをここまでクソ真面目にかけるなと感心していた。と同時に……
戸惑っている。それはもう、眼鏡を落として踏んづけてしまうくらいには。
この辞書に書かれていることに、心当たりしかなかった。問題は、その相手が隼人だということだ。
(…………やばい)
自覚したばかりの気持ちに折り合いがつかないまま、今は洗面所でコンタクトと格闘している。
「まる!お前いつまでそこ使ってんだよ!どけっ!」
兄貴が洗面所に入ってくる。
「ったくどんくさいよな。眼鏡ないと何もできねぇくせに」
「うるさい」
「で?数年ぶりのコンタクトチャレンジはどうだ?」
「入らん」
「もはや不器用も才能だな」
「褒めんな」
今日も毒舌全開の兄貴は、器用にコテで髪を整えていく。
「貸せ。俺が入れてやる」
「えっ、無理無理無理!怖い!」
俺は後ずさって、兄貴から距離をとる。けれど、「逃げんなボケ」と言われて強制的に鏡の前に縛り付けられる。
「怖いと思うから怖いんだよ。お前はここだけ引っ張っとけ!」
「む、無理!」
「目ぇ閉じんな!」
涙で視界が滲む。
数秒後。
「入ったぞ」
「え?」
右目だけで見た世界は、今までとは別物だった。鏡の中の自分も、輪郭までくっきり見える。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
「感動してる場合じゃねぇ。次、左」
「えぇぇ……」
再び兄貴の指が迫ってくる。
「目ぇ閉じんな!」
「無理無理無理!」
「動くなって!」
羽交い絞めにされ数秒格闘したあと。
「……よし。入った」
「え?」
何度か瞬きをして鏡を見る。今度は両目とも驚くほど鮮明だった。丸眼鏡のない自分が真正面から映っている。
「これでいけるだろ。お前、そのまま眼鏡捨てろ。前より幾分かマシに見えるぞ」
お礼を言う間もなく、引き戸がガラッとあいて、そのままの勢いで閉まった。
初めて両目にコンタクト。
想像以上に視界が開けて、いつもと変わらない部屋が少し明るく見える。丸眼鏡のフレームに遮られない俺の顔は、やっぱり自分で見ても冴えない。
(……隼人、気づくかな)
ふっとそんな贅沢な期待が頭をよぎり、俺はまた自ら自分の心臓のリズムを狂わせることになった。
――キーンコーンカーンコーン
廊下にチャイムが鳴り響く中、階段を一気に駆け上がる。
(やばいやばいやばい、遅刻とかありえん!)
最後の音が鳴り終わると同時に、俺は教室の扉をくぐった。
「……セーフ、か?」
「おはよ、まる。セーフセーフ!ってか、眼鏡!眼鏡どうした?」
息を切らしながら自席に座ると、もっちーが興奮気味に声をかけてきた。
「あ、あー。そう、今朝、寝起きに、眼鏡、踏んじゃって……」
急いでリュックから教科書を取り出しつつ、なんとか息を整える。
「仕方なく、慣れない、コンタクトに、苦戦してたら……こんな時間になっちゃった」
「ええー、ちょっとイメチェンがすぎん?なぁ、隼人もそう思うだろ?」
「え、あぁ……うん……」
(やっぱ、変だったかな?)
隼人はなぜか視線を逸らした。その意味を考え始めた途端、ろくでもない想像ばかり浮かんでくる。
「はやとっ……」
「席付けー、静かにしろー」
かけようとした言葉は担任の声にかき消された。隼人はそのまま前を向いてしまい、結局何も聞けなかった。
誰もが教科書を開き始めた、ざわざわとした空間の中。 不意に、前の大きな背中がピクリと動いた。隼人が首だけをグイッとこちらへ振り返り、何か言いたそうな顔で俺を覗き込んでくる。丸眼鏡のフレーム越しではない、生身の視線が真っ直ぐにぶつかった。
「……全然普通じゃねーじゃんか、このイチゴ大福」
掠れた声でそう呟くと、逃げるように前を向いた。
(は……はぁぁぁ? イチゴ大福って何?まじでわけわからん)
意味を聞こうにも今はHR中。担任の声は、もうほとんど耳に入らなかった。
頭の中がイチゴ大福に占領されたまま、俺は目の前のきれいな黒髪を見つめることしかできなかった。
休み時間になるなり、もっちーが興奮したまま身を乗り出してきた。
「なぁどうしたんだよ、まる。何で急にイメチェンしたの?」
「だからイメチェンじゃないって。眼鏡が壊れただけ」
「コンタクト持ってんなら最初からそうしとけよ。絶対そっちのがいい」
俺は窓に背を向けたまま、右を向けずにいた。
イチゴ大福の意味を聞きたい。なのに、いざ休み時間になると妙に緊張する。それに今日はなんだか周りの視線まで落ち着かない。
「なぁ、隼人もそう思うだろ?」
おい、やめろ。心の中で制止したのもむなしく、もっちーは隼人に話を振った。
「……うん」
「だよなぁ」
やっぱり適当な返事だった。地味にへこむ。
「……ってか反則だよな。やばい」
「えっ」
俺ともっちーの声が重なる。
「いやマジで可愛すぎない?俺ビックリして思わずフリーズしちゃったし。さっきなんて走って顔真っ赤にしてて、もうなんかイチゴ大福みたいだったもんね」
「え、ちょっ、何言って」
「な、もっちーもそう思わん?」
もっちーの視線が俺と隼人の間を往復した。
「……いや、イメチェンしてあか抜けたとは思うけど……俺、べつにまるのこと可愛いとか一ミリも思わん。普通に女子のが可愛い」
((……………………))
「そ、それはそうでしょ!」
「そ、そうだよ!俺だって普通は女子の方が可愛いって思うよ?でも、なんか雪丸は、そういうの超えてくるっていうか。俺もよくわかんないけど!」
もっちーが何とも言えない顔で俺を見る。
お願いだからやめてくれ……
お願いだからこれ以上かき乱さないでほしい。切実に……
「ちょっと、トイレ……」
「おう、ゆっくりな。でも次、化学で堀センだから遅刻は気をつけろよ」
「うん」
いたたまれなくなった俺は、隼人から物理的に距離を置いた。薄暗いトイレの個室に逃げ込み、俺は思いきり息を吐いた。何度深呼吸しても、隼人の声と赤い耳が頭から離れない。
あぁもう、と頭を振って教室に戻る。
目の前には、変わらない広い背中。今まで何も感じなかったのに、かすかに香る制汗剤の匂いにドキッとする。
(ダメだ……ちょっと、席替えしたい……)
このままだと、今度の中間テストは平均すらも届かないかもしれない。それは割りと笑えなかった。
テスト期間前ということもあって部活は短縮だった。空き教室には俺ともっちー、それから隼人の三人だけ。昼休みに「じゃあ今日やろうぜ」と、もっちーの一言から数分後には、なぜか放課後の勉強会が決定していた。
「ここ、これ違う」
隼人が俺のノートを指差す。その長い指が近い。近すぎる。
「え?」
「だからここ。途中の式飛ばしてる」
「あ、ほんとだ」
慌ててシャーペンを動かすけど、ダメだ。全然集中できない。問題を読んでも頭に入らない。隣で鳴るシャーペンの音ばかり耳に入ってくる。
「雪丸」
「ひゃい!」
思わず変な声が出た。もっちーが前で吹き出す。
「何、っふふ。その、返事……ウケる。次英語やんのに大丈夫か?」
「……うるさい。多分、大丈夫」
顔が熱い。隼人は一瞬目を丸くしたあと、小さく笑った。
「そんな驚く?」
「うん……ビックリした」
「呼んだだけなのに」
呼んだだけ。その呼んだだけで寿命が削れているとは、知らないだろう。
俺はノートに視線を落とす。その時だった。隼人の指がノートの上で止まった。
「……」
急に黙ったまま、目だけがこっちを見ている。
「隼人?」
「……」
隼人は俺を見たまま何か言いかけて、小さく息を飲んだ。
「いや、なんでもない」
言う割に、どこか落ち着かない様子だった。
「ってか雪丸さ、これからずっとコンタクトにするの?」
「あ、うん。そのつもり。慣れたらやっぱ楽だしね。付けるのはまだ苦戦するけどね」
「そっか……」
「え、何?」
「いや、なんでもない」
隼人が視線を逸らす。今日だけで何度目だろう。そのたびに、朝鏡で見た自分の顔が浮かぶ。
(イチゴ大福……)
思い出しただけで顔が熱くなる。もしかして今も赤いんじゃないか?そう考えた瞬間、ますます問題集の文字が頭に入らなくなった。
気付けば中間テストも最終日。午前で終わりということもあって、教室の空気はどこか浮かれている。
今日から部活も再開だ。テスト明けの練習を楽しみにしているやつもいれば、憂鬱そうな顔をしているやつもいる。
俺は最後の卵サンドをかじりながら帰る準備をしていた。
「水野―? 水野いる?」
いきなり大きな声で呼ばれ、俺は卵サンドをふきだしそうになった。
「……まる、大丈夫か?」
「う、うん」
隼人は「知り合い?」と言いながら、背中をさすってくれた。
「あ、うん。野球部の人。ちょっと、行ってくる……」
残りの卵サンドを机に置き、立ち上がろうとしたその時、声の主がやってきた。
「ごめんごめん、食べてんならそのまま聞いて欲しいんだけど、ここ座っていい?」
彼は返事を待たずに俺の隣の席にドカッと座った。
(相変わらずデカい……)
「あ、俺知ってる。君、野球部でしょ?めっちゃデカいよね?身長何センチ?」
もっちーが突然話しかけた。
「百八十八。山瀬って呼んでくれ」
「「でかっ」」
もっちーと隼人の声が重なる。
「先輩にパシられて来た」
「え、何それ……」
「試合の応援曲の相談」
「え、あー、そうなん?別にいいけど……でもそれって普通三年がするんじゃないの?」
「いやそうなんだけどさ。なんか今の三年、仲悪いらしくて行って来いって言われた。悪いな」
なんと勝手な理由……
「じゃあ、しょうがない……のか?他の二年は?」
「みんなお前に頼めって言ってた」
えぇ……みんなぐるじゃん……。
「わかったよ……」
「先輩から結構リクエスト貰ったからさ。また時間見つけて話そ。連絡先交換していい?」
「わかった……」
俺はカバンからスマホをとると、自分のQRコードを見せた。その瞬間、ふと隼人の顔が曇る。
「え、隼人どうしたの?」
「………いや、なんか……いいなぁ って」
「え?」
「野球部ずるい」
隼人の視線は俺と山瀬のスマホを射抜いたまま、眉間のシワがどんどん深くなる。
「なんで?まる取られたから?」
もっちーが空気も読まず的外れなことを突っ込む。
「いや」
隼人は否定しかけて、「……少しは」と言った。
……なんで?隼人が?
「だってさ、陸上は楽器の応援なんてないんだぜ?演奏あったら、俺もっと速く走れる気がする。野球ってだけで吹奏楽の応援あるのずるい!」
「確かに。サッカーもないしね。バレーとかバスケはどうなんだろ?」
「「「…………」」」
その場の全員が黙る。
「俺ら体育館勢とは無縁すぎてわからんな」
「うん」
隼人は諦めたようにコロッケパンを頬張った。
「悪いな。急に頼んで。先輩が無茶言うかもしれんけど、俺も何とか言っとく」
「わかった」
山瀬は立ち上がると、その大きな体に似合わず、小さくお辞儀をしてきちんと椅子をしまって行った。
そして、俺はふと、事の重大さに気づいた。これ多分、っていうか絶対狙って野球部は山瀬を選んだに違いない。
あんな巨体に、俺みたいなやつが逆らえるわけないってわかってて……で、話し合いの場では無茶苦茶な曲編成を頼まれて、それを先輩に話したら、そんなの無理って俺が怒られて、また山瀬に突き返されて、板挟みになって――。
そう気づいたときには、もう手遅れだった。
「あ、あ、あ――。だめだ……」
周囲からはひそひそと哀れみの声が聞こえる。
「あれやべーな、まる」
「大型犬三匹に囲まれたチワワ」
「あー、わかる」
むしろチワワの方がまだ存在感があるかもしれない。
周りのやつらはケラケラと笑っている。俺が「聞こえてんだけど」とじろりと睨むと、チワワは可愛いぞとか、訳の分からない返事が来た。
チワワだのイチゴ大福だの、他人から見た自分はいったいどう映ってるんだ?そんなこと、一度も気にしたことなかったのに。今は違う。
平均身長、成績真ん中、顔も平凡。
そんな俺じゃ、隼人に「すげえ」とか「かっこいい」とか、思われる日は来ないんだろうな。
俺は食べかけのたまごサンドをもう一度口に入れた。
――なのに、今日はあまり味がしなかった。
晴れとまではいかないけれど、なんとか雨が上がった放課後。視聴覚準備室から見る第二グラウンドはいつもより薄暗い。隅のほうではハードルを一台だけ出して、ひたすらフォームを確認する隼人が見えた。
「……なんか元気ないな」
表情までは見えない。それでも、何度も同じハードルに向かう背中が、いつもより小さく見えた。
俺は野球でよく使う応援歌の楽譜を譜面台に立てた。壮行会でも、直近の演奏会でも吹かない曲。でも、前に隼人があの曲好きなんだよねと話していた曲だ。
――パパパパパッパパパパパーッ
曇った空に突き抜けるようなトランペットの音色が響く。
――がんばれ。カッコいいぞ!
――ちゃんと応援してんからな!
――でもマネと距離近すぎないか?
――こっちを見ろ!
――好きだ、隼人!
――届け、届け!
隼人に対する感情は、もう頑張れだけじゃ収まらない。俺の心の中は毎日が工事中のように騒がしく、壊れたり建て直したりで大忙しだ。
「水野!関係ない曲吹いてんじゃねーよ」
「え、あ、はい。すいません」
先輩の怒鳴り声で俺は我に返った。練習の時にふざけるなんて、以前の俺じゃ考えられない。いや、ふざけてたわけじゃないんだけど……
「壮行会の曲合わせるから音楽室集合」
「はい」
もう一度だけ窓の外を見た。隼人は変わらず一台のハードルと向き合っていて、何を考えているのかはわからない。
でも、ひとつだけわかることがある。
明後日の壮行会でも、俺はきっと隼人を目で追ってしまう。
たぶん、その次の日も。そのまた次の日も。――重傷だな、俺。
そう思いながら、俺は音楽室へ向かった。
次の日の昼休み、山瀬は教室の扉に頭をぶつけそうになりながら、くしゃくしゃの紙きれを持って入ってきた。
昨日と同じ席に座り、ああ、今日もそこなんだなと思った瞬間、周りがざわつき始めた。
「今日もチワワ」
「壁の中のまる」
後ろの席からそんな声が聞こえてくる。
山瀬が来ると、胸のあたりがぎゅっと詰まる感じがする。身体の大きさに圧倒されているのか、それとも別の理由なのかはよくわからない。
「お疲れ水野。飯時に悪いんだけど、例の曲のことで……」
山瀬から紙を渡され、俺はおにぎりを食べる手を止めた。
「あ、場所変えたほうがいいか?」
両脇の二人には関係ない話だし、俺は「そうだな、そうしよ」と言った。
もっちーが蒸しパンを頬ばりながらOKサインをする。ふと隼人を見ると、眉間にしわが寄って、ちょっとだけほっぺが膨らんでいる。百八十三センチの男がする顔じゃない。なのに、ちょっと可愛いと思ってしまった。
「いいよな」
「な、なにが?」
「野球部ってだけで雪丸に応援してもらえる」
隼人は俺のスラックスのポケットを摘まんだ。
「俺だって応援してほしい。雪丸に弾いてほしい曲いっぱいある」
「俺トランペットだから何も弾けないよ。吹くことはできるけど……」
「もぉ!揚げ足取んなよー」
「そ、そんなつもりじゃないんだけど……」
掴まれたポケットのあたりばかり気になる。
「水野―?」
後方の扉から山瀬が呼んでいる。
「待って。今行く」と叫んで、もう一度隼人を見た。まだほっぺは膨らんだままだ。
――もしかして、本当に聴きたいんだろうか。
そうだとしたら……ちょっと嬉しい。
「隼人。また今度リクエスト聞くよ。陸上競技場は難しくても、河川敷とか海で良かったらいつでも」
「まじ?雪丸、めっちゃありがとう!愛してるぜ!」
――今なんて言った?
思わず立ち止まってしまう。
「おま、な、な、何言ってんの?」
「だって、嬉しすぎて。雪丸の言質、ちゃんととったからな。絶対だぞ」
「隼人、大げさすぎ」
もっちーが呆れながら最後の蒸しパンを頬ばっていた。
食堂で話を聞いていたら五時間目ギリギリになり、俺はチャイムと同時に教室に滑り込んだ。
案の定、野球部からもらった曲のリクエストは吹部の先輩たちがキレ散らかなしそうラインナップだった。それを今から伝えないといけないと思うと、なかなか気が滅入る。
ため息をつきながら、机の中からごそごそと歴史の教科書を探す。なかなか見つからず、先生が先に教壇についた。
「おーい、チャイムの前に準備しとけよー。小学生でもできるぞ」
こっちをちらりと見ながら嫌味が飛んできた。
俺は隼人の背中に身を隠すように縮こまりながら、やっと見つかった教科書を出した。
最近こんなことばかりだ。心も体も、ずっと余裕がない。また大きなため息が出る。
すると隼人がちらりと振り返り、変顔をしてみせた。そのまま「気にすんな」とでも言いたげに両手を軽く上げて肩をすくめる。爽やかさと仕草が全然噛み合っていない。悔しいけど、気分は少しだけ軽くなった。



