ゴールデンウイーク。
日南を好きかもしれない、と思った瞬間から、オレは日南のことしか考えられなくなっていた。
メモを褒められたから?
変人だと思っていたのに、意外とちゃんとしていたから?
それとも、たまに見せるあの笑顔のせい?
いくら考えてもわからないのに、頭に浮かぶ日南はいちいちカッコいい。
あと二日で学校が始まる。教室でも部活でも毎日会うのに、どうするんだ。
そんなことをぐるぐると考えていたら、オレはなぜか市立図書館の前に立っていた。
「え……なんで?」
意味がわからない。
まだ開館前で、自動ドアの前には順番待ちの列ができている。
受験生らしき人が多い。あとは、おじいさんとか、おじさんとか。たぶん席を取るための列だ。
オレは参考書も宿題も持っていない。貸出カードも、たぶん家だ。
本当になんでここにいるんだろう。図書館なんて、いかにも日南がいそうな場所なのに。
もしかして、日南のことばかり考えていたから、足が勝手にここへ来たとか。
なんだそれ。
それに、いくら日南でも、ゴールデンウイークの朝から図書館の列に並んでいたりは――。
いた。前のほうに、日南がいた。
立ったまま本を読んでいる姿が、列から浮いていてちょっと変なのに、やっぱりカッコいい。
淡い水色のシャツに、ゆるっとしたパンツが爽やかすぎる。
朝からその感じは、ずるい。
それに比べて、オレはただの地味なTシャツだ。しかも、足元は庭用のサンダルだった。
帰ろう。
忘れ物をしたみたいな顔で自然に列から抜ければ、きっと気づかれない。
そう思って一歩踏みだした瞬間、日南が顔を上げた。
気づか……れたわけじゃなかった。
開館時間になったらしい。日南は慣れた様子で、薄暗い館内へ入っていく。
ここで帰ればいいのに、なぜかオレは列に並んで図書館に入っていた。
なにやってんだ!
入ってしまった以上、帰るに帰れない。
いや、帰れる。普通に帰ればいい。
それなのにオレは、気づいたら本棚のあいだから、閲覧席のほうをのぞいていた。
「あれ?」
日南が、見当たらない。
どこだ? あっちに行ったはずなのに……。
そう思って一歩下がった瞬間、トンと背中になにかが当たった。
「喜世?」
頭の上に日南の声が降ってくる。
「うわあっ!」
振り返ると、さっき見た淡い水色が目の前に広がっていた。
日南だってわかるのに、近すぎて顔を見られない。
「やっぱり喜世じゃん。どうしたの」
思わず二歩下がる。
「あ……日南」
ものすごく気まずい声が出てしまった。
日南は本を片手に持ったまま、不思議そうにこっちを見ている。
「なにしてんの?」
「いや、あの……貸出カード忘れちゃってさ!」
ははは、と笑ってみたけど、日南はなんとも言えない顔でオレをじっと見ている。
なにか言いかけて、やめた。
こっちの様子をうかがうみたいな顔をしている。
「……帰ろうかな」
オレの言葉に、日南は「そっか」と残念そうに言った。
その顔を見た瞬間、胸のあたりが詰まった。
用事もないのに図書館に来て、勝手に気まずい声なんか出して。なんで日南に、こんな顔をさせてるんだろう。
「で、また来ようかな」
口が勝手に言っていた。
「来る?」
日南の表情が、ぱっと明るくなった。
それを見て、ほっとする。
「家、近いんだよね。だから、カード取って……また来るかも」
「わかった。じゃあ、あそこで待ってる」
日南が、閲覧席のほうを指さす。
「うん」
って、なんで図書館に戻ることになってるんだよ。オレって、日南の「待ってる」に弱いのかもしれない。
素早く家に帰ると、貸出カードを持って、サンダルから靴に履き替えた。
図書館に戻ると、日南は難しい顔で本を眺めていた。いつもと雰囲気が違う。
いつもなら、つるつるの氷の上を滑るみたいに文字を読んでいるのに、今は少し眉間にしわが寄っている。
どうしたんだろう。
そう思いながら近づくと、日南がオレに気づいて言った。
「おかえり」
「た、ただいま」
変なやりとりだなと思いつつ、なにを読んでいるんだろうと机の上に積み重ねられた本をのぞく。
題名を見て、思わず「あっ」と声が出そうになった。
『自己紹介の基本』
『短い文章で自分を伝える』
『はじめての自己PR』
そっか。文芸部通信の入部コメント。あれを、考えているのか。
日南は意外とまじめだ。入部コメントひとつに、本を何冊も積んでしまうくらい。
そういうところを、たぶん、オレは少しいいなと思っている。
日南は困ったように顔を上げて言った。
「短所を長所に言い換えろって書いてある」
「それ、すごいな」
オレは思わず笑った。
「だよな。そんなこと、やっていいの?」
「さあ。それに、日南の短所って……」
なんだろう。
変なところなら、いっぱいある。でも短所と言われると、正直思い浮かばない。
日南は少し考えてから、真顔で言った。
「文字ならいくらでも読めます! とか」
「面接?」
思わず笑ってしまった。
日南は、まだ首をかしげている。そのちょっと間の抜けた表情を見ていると、なんだか少し力が抜けた。
好きかもしれない、と思ってからずっと変に意識していたけど、日南は日南だ。
「無理にちゃんと書こうとしなくていいんじゃない?」
オレは日南の正面に座ると、パラパラと自己PRの本をめくった。
「日南は、日南っぽいこと書けばいいと思う」
「俺っぽい?」
「前に、本は好きじゃないって言ってたけど、好きな文章はあるの?」
「……ないことはない。好きな作家も、いるし」
「そうなんだ」
ちょっと意外だ。日南には、好きとか嫌いとか、そういうのはあまりないのかと思っていた。
「好きな文章を読んでるときって、どんな感じ?」
日南は、うーんと考えた。
「文字が踊ってる」
「え、踊るんだ」
斜め上すぎる。
「楽しそうに踊ってる」
楽しそうに踊る文字……かわいいかも。
「じゃあ、苦手な文章は?」
「寝てる。起こしても起きない」
「すごいな」
日南の見ている世界は、やっぱり少し変だ。でも、その変さがうらやましい。
「じゃあ、これは?」
おもしろくなってきて、自己紹介の本を指さす。
日南はページをぺらぺらとめくって言った。
「ほとんど寝てるけど、たまに起きてこっち見てる文字もある」
「日南って、たまにかわいいこと言うよな」
「かわ……」
「あ」
横を見ると、日南の顔がほんのり赤くなっていた。
え。照れてる?
意外すぎて、つられて赤くなりそうになる。
オレは慌てて自己PRの本で顔を隠した。
まずい。せっかく普通に話せていたのに、また日南の顔が見られなくなった。
しかも、いつもみたいにオレが勝手に赤くなっているだけじゃない。
日南もだ。
それが、なんかやたら恥ずかしい。
どうしよう。
「ん?」
顔を隠すために開いたページに、ちょうどこんな一文があった。
『自分が感じたことを、具体的な言葉にしてみましょう。』
「文字が踊ってる。寝てる……ねえ、日南」
「ん?」
「それ、そのまま書けばいいんじゃない? 文字がどう見えるかって話。おもしろいと思う」
「そうかな」
「かなりおもしろいよ」
オレが強めに言うと、日南はまだ赤い顔のまま「やってみる」と言って、スマホを手に取った。そのまま、すぐに文字を打ちはじめる。
その指の動きを見て、さすが日南だなと思う。迷いがない。
オレはノートを開いて、文芸部通信のことを考えた。
まず、高森の短編。
それから、日南と高森の自己紹介。
顧問の先生のコラム。
文芸部の活動内容と、部員募集のお知らせ。
そこまで考えたところで、ふと手が止まった。
……オレのは?
自分が書くことを、まったく考えていなかった。
ページ割りを考えて、印刷して、ホチキスで留める。
それを、いつのまにか自分の仕事みたいに思っていた。
誰かの文章を並べるのは、嫌いじゃない。むしろ、好きだ。
でも、文芸部員なら、小説でもエッセイでも、なにかひとつくらい書いたほうがいい。
なのに、なんでいつまでたっても書けないんだろう。
オレは、動き続けている日南の指を眺めた。さっきの会話を、そのまま書いているのかもしれない。
それでいいと思う。
変に背伸びしなくても、そのまま文字にすればおもしろくなる。
オレが、自分でそう言ったはずなのに。
自分もそうすればいいだけなのに。
ノートをめくる。
ページの端には、いろんな言葉がある。
でも、どれも小説じゃない。
オレはまだ一行も書いていない。
小説を書く手前で、ずっとうろうろしていたらしい。
そのとき、向かいから日南の指が伸びてきた。
閉じかけたノートの端を、そっと押さえる。
「どうかした?」
「な、なんでもない」
そう言ったけど、日南は信じていない顔だった。
「小説……」
なにを書いたらいいんだろう。
言葉が止まったオレを、日南のまっすぐな目が捕まえる。
「小説。書けたらさ、俺が一番に読むから」
「……うん」
オレの初めての小説の、最初の読者。
それは、日南になるらしい。
そう思ったら、少しだけ書けそうな気がした。
日南を好きかもしれない、と思った瞬間から、オレは日南のことしか考えられなくなっていた。
メモを褒められたから?
変人だと思っていたのに、意外とちゃんとしていたから?
それとも、たまに見せるあの笑顔のせい?
いくら考えてもわからないのに、頭に浮かぶ日南はいちいちカッコいい。
あと二日で学校が始まる。教室でも部活でも毎日会うのに、どうするんだ。
そんなことをぐるぐると考えていたら、オレはなぜか市立図書館の前に立っていた。
「え……なんで?」
意味がわからない。
まだ開館前で、自動ドアの前には順番待ちの列ができている。
受験生らしき人が多い。あとは、おじいさんとか、おじさんとか。たぶん席を取るための列だ。
オレは参考書も宿題も持っていない。貸出カードも、たぶん家だ。
本当になんでここにいるんだろう。図書館なんて、いかにも日南がいそうな場所なのに。
もしかして、日南のことばかり考えていたから、足が勝手にここへ来たとか。
なんだそれ。
それに、いくら日南でも、ゴールデンウイークの朝から図書館の列に並んでいたりは――。
いた。前のほうに、日南がいた。
立ったまま本を読んでいる姿が、列から浮いていてちょっと変なのに、やっぱりカッコいい。
淡い水色のシャツに、ゆるっとしたパンツが爽やかすぎる。
朝からその感じは、ずるい。
それに比べて、オレはただの地味なTシャツだ。しかも、足元は庭用のサンダルだった。
帰ろう。
忘れ物をしたみたいな顔で自然に列から抜ければ、きっと気づかれない。
そう思って一歩踏みだした瞬間、日南が顔を上げた。
気づか……れたわけじゃなかった。
開館時間になったらしい。日南は慣れた様子で、薄暗い館内へ入っていく。
ここで帰ればいいのに、なぜかオレは列に並んで図書館に入っていた。
なにやってんだ!
入ってしまった以上、帰るに帰れない。
いや、帰れる。普通に帰ればいい。
それなのにオレは、気づいたら本棚のあいだから、閲覧席のほうをのぞいていた。
「あれ?」
日南が、見当たらない。
どこだ? あっちに行ったはずなのに……。
そう思って一歩下がった瞬間、トンと背中になにかが当たった。
「喜世?」
頭の上に日南の声が降ってくる。
「うわあっ!」
振り返ると、さっき見た淡い水色が目の前に広がっていた。
日南だってわかるのに、近すぎて顔を見られない。
「やっぱり喜世じゃん。どうしたの」
思わず二歩下がる。
「あ……日南」
ものすごく気まずい声が出てしまった。
日南は本を片手に持ったまま、不思議そうにこっちを見ている。
「なにしてんの?」
「いや、あの……貸出カード忘れちゃってさ!」
ははは、と笑ってみたけど、日南はなんとも言えない顔でオレをじっと見ている。
なにか言いかけて、やめた。
こっちの様子をうかがうみたいな顔をしている。
「……帰ろうかな」
オレの言葉に、日南は「そっか」と残念そうに言った。
その顔を見た瞬間、胸のあたりが詰まった。
用事もないのに図書館に来て、勝手に気まずい声なんか出して。なんで日南に、こんな顔をさせてるんだろう。
「で、また来ようかな」
口が勝手に言っていた。
「来る?」
日南の表情が、ぱっと明るくなった。
それを見て、ほっとする。
「家、近いんだよね。だから、カード取って……また来るかも」
「わかった。じゃあ、あそこで待ってる」
日南が、閲覧席のほうを指さす。
「うん」
って、なんで図書館に戻ることになってるんだよ。オレって、日南の「待ってる」に弱いのかもしれない。
素早く家に帰ると、貸出カードを持って、サンダルから靴に履き替えた。
図書館に戻ると、日南は難しい顔で本を眺めていた。いつもと雰囲気が違う。
いつもなら、つるつるの氷の上を滑るみたいに文字を読んでいるのに、今は少し眉間にしわが寄っている。
どうしたんだろう。
そう思いながら近づくと、日南がオレに気づいて言った。
「おかえり」
「た、ただいま」
変なやりとりだなと思いつつ、なにを読んでいるんだろうと机の上に積み重ねられた本をのぞく。
題名を見て、思わず「あっ」と声が出そうになった。
『自己紹介の基本』
『短い文章で自分を伝える』
『はじめての自己PR』
そっか。文芸部通信の入部コメント。あれを、考えているのか。
日南は意外とまじめだ。入部コメントひとつに、本を何冊も積んでしまうくらい。
そういうところを、たぶん、オレは少しいいなと思っている。
日南は困ったように顔を上げて言った。
「短所を長所に言い換えろって書いてある」
「それ、すごいな」
オレは思わず笑った。
「だよな。そんなこと、やっていいの?」
「さあ。それに、日南の短所って……」
なんだろう。
変なところなら、いっぱいある。でも短所と言われると、正直思い浮かばない。
日南は少し考えてから、真顔で言った。
「文字ならいくらでも読めます! とか」
「面接?」
思わず笑ってしまった。
日南は、まだ首をかしげている。そのちょっと間の抜けた表情を見ていると、なんだか少し力が抜けた。
好きかもしれない、と思ってからずっと変に意識していたけど、日南は日南だ。
「無理にちゃんと書こうとしなくていいんじゃない?」
オレは日南の正面に座ると、パラパラと自己PRの本をめくった。
「日南は、日南っぽいこと書けばいいと思う」
「俺っぽい?」
「前に、本は好きじゃないって言ってたけど、好きな文章はあるの?」
「……ないことはない。好きな作家も、いるし」
「そうなんだ」
ちょっと意外だ。日南には、好きとか嫌いとか、そういうのはあまりないのかと思っていた。
「好きな文章を読んでるときって、どんな感じ?」
日南は、うーんと考えた。
「文字が踊ってる」
「え、踊るんだ」
斜め上すぎる。
「楽しそうに踊ってる」
楽しそうに踊る文字……かわいいかも。
「じゃあ、苦手な文章は?」
「寝てる。起こしても起きない」
「すごいな」
日南の見ている世界は、やっぱり少し変だ。でも、その変さがうらやましい。
「じゃあ、これは?」
おもしろくなってきて、自己紹介の本を指さす。
日南はページをぺらぺらとめくって言った。
「ほとんど寝てるけど、たまに起きてこっち見てる文字もある」
「日南って、たまにかわいいこと言うよな」
「かわ……」
「あ」
横を見ると、日南の顔がほんのり赤くなっていた。
え。照れてる?
意外すぎて、つられて赤くなりそうになる。
オレは慌てて自己PRの本で顔を隠した。
まずい。せっかく普通に話せていたのに、また日南の顔が見られなくなった。
しかも、いつもみたいにオレが勝手に赤くなっているだけじゃない。
日南もだ。
それが、なんかやたら恥ずかしい。
どうしよう。
「ん?」
顔を隠すために開いたページに、ちょうどこんな一文があった。
『自分が感じたことを、具体的な言葉にしてみましょう。』
「文字が踊ってる。寝てる……ねえ、日南」
「ん?」
「それ、そのまま書けばいいんじゃない? 文字がどう見えるかって話。おもしろいと思う」
「そうかな」
「かなりおもしろいよ」
オレが強めに言うと、日南はまだ赤い顔のまま「やってみる」と言って、スマホを手に取った。そのまま、すぐに文字を打ちはじめる。
その指の動きを見て、さすが日南だなと思う。迷いがない。
オレはノートを開いて、文芸部通信のことを考えた。
まず、高森の短編。
それから、日南と高森の自己紹介。
顧問の先生のコラム。
文芸部の活動内容と、部員募集のお知らせ。
そこまで考えたところで、ふと手が止まった。
……オレのは?
自分が書くことを、まったく考えていなかった。
ページ割りを考えて、印刷して、ホチキスで留める。
それを、いつのまにか自分の仕事みたいに思っていた。
誰かの文章を並べるのは、嫌いじゃない。むしろ、好きだ。
でも、文芸部員なら、小説でもエッセイでも、なにかひとつくらい書いたほうがいい。
なのに、なんでいつまでたっても書けないんだろう。
オレは、動き続けている日南の指を眺めた。さっきの会話を、そのまま書いているのかもしれない。
それでいいと思う。
変に背伸びしなくても、そのまま文字にすればおもしろくなる。
オレが、自分でそう言ったはずなのに。
自分もそうすればいいだけなのに。
ノートをめくる。
ページの端には、いろんな言葉がある。
でも、どれも小説じゃない。
オレはまだ一行も書いていない。
小説を書く手前で、ずっとうろうろしていたらしい。
そのとき、向かいから日南の指が伸びてきた。
閉じかけたノートの端を、そっと押さえる。
「どうかした?」
「な、なんでもない」
そう言ったけど、日南は信じていない顔だった。
「小説……」
なにを書いたらいいんだろう。
言葉が止まったオレを、日南のまっすぐな目が捕まえる。
「小説。書けたらさ、俺が一番に読むから」
「……うん」
オレの初めての小説の、最初の読者。
それは、日南になるらしい。
そう思ったら、少しだけ書けそうな気がした。


