あ、ノートがない。
それに気づいたのは、ミニマラソン大会のピストルが鳴った後だった。
パン、という乾いた音がして、一斉に生徒たちが走り出す。
予想通り、運動部がすごい勢いで前に出ていく。そして、それ以外のやつらが、なんとなく後ろのほうに溜まりはじめた。
オレはほとんど歩くのと変わらない速さで走りながら、まわりをさりげなく見渡した。
うん。いる。文化部、もしくは帰宅部っぽい男子が。
昨日の夜、思いついた作戦だ。
ミニマラソン大会で、オレの近くを走っているやつは、たぶん運動部じゃない。つまり、文化部か帰宅部の可能性が高い。
そこに声をかける。我ながら、偏見がすごい。
でも、同じクラスの候補には、もう断られている。
とにかく、気まずくてもやるしかない。文芸部存続のためだ。
……そう思っていたのに、肝心のノートがない。
そりゃそうだ。ノートを持って走るつもりだった時点で、もうだいぶおかしい。
「喜世、それ走ってるの? 歩いてるの?」
突然真後ろから声をかけられて、ビクッとなる。
日南が、オレと同じくらいのなんとも言えない速さで、隣に並んだ。
「一応、走ってる」
「俺も」
しれっと言う日南は、長袖ジャージにハーフパンツ姿だった。それだけで、ちゃんと運動ができる人に見える。
一方のオレは、上下とも長袖ジャージだ。本気で走る気がないのが、服装に出ている。
「日南、去年の体育祭でリレーのアンカーやってたよね」
ぶっちぎりの一位ではなかったけど、走り方は完全に速いやつのそれだった。
近くにいた女子が、悲鳴みたいな声を上げていたから、妙に覚えている。
「そうだっけ」
日南は首を傾げた。本当に覚えてなさそうだ。
「そうだよ。ギャップ萌えとか、せこいなって思った」
「せこいってなんだよ」
日南がくすっと笑った。その顔がやっぱり整っていて、思わず目をそらす。
朝のひかりのなかではまぶしすぎた。
「早く行きなよ。オレ、やることあるし」
「やること?」
「部活の勧誘」
「え、今ここで? なんて言うの?」
日南の目が、きらっと光った気がした。
オレのノートにおもしろいものを見つけたときと同じ顔をしている。
言わないと離れてくれなそうだ。
「突然すみません。もし文芸部に興味があったら、図書準備室で活動しているので、いつでも見学に――」
そこで息が切れた。
予想外だ。
日南が吹き出す。
「走りながら勧誘するのはさすがにムリだって。息継ぎできてないし」
「息継ぎ」
それは考えてなかった。
そのとき、オレは気がついた。
日南が近くにいると、なんかいつもより楽しい。
それは、ノートが手元になくても同じらしい。
でも――勧誘はしづらい。
共通点のなさそうな二人が並んでのろのろ走っているだけで、たぶん目立つ。
しかも日南は、やたらと楽しそうに笑っている。
そのせいか、後方にいるおとなしそうな男子たちから、さりげなく距離を取られている気がした。
「日南さ。先行ってよ」
言ってから、ちょっと慌てた。
これだと、邪魔だと言ってるみたいだ。
「迷惑とかじゃなくて……ほら、あの」
オレがしどろもどろになって説明しようとすると、日南は後ろのほうに目をやった。
それから、納得したようにうなずく。
「あー。じゃ、先行く。ちゃんと前見て走りなよ」
そう言って、あっという間に前の集団に混ざっていく。
あんな速度で走れるなら、さっきまでのろのろ走ってたのはなんだったんだ。
もしかして、オレに合わせてくれていたとか?
オレはしばらく、その背中を見ていた。
変なやつなのに、こういうところはちゃんとしている。そういうところが、やっぱりずるいと思った。
ミニマラソン大会は、ゴールした人からお弁当をもらって解散する仕組みだ。
お弁当を受け取って、このまま帰るか部室に行くか考えていたら、日南がやってきた。
もうとっくにゴールしていたらしい。
オレはまだ肩で息をしているのに、日南は平気な顔でこっちを見ている。
「待ってた」
「ええ……っと」
そんな甘い感じで言われても、どう返していいのかわからない。
「誰か誘えた?」
「うん。いちおう……声はかけた」
返事はもらえなかったけど。
女子は、おとなしい子でもわりとはっきり答えるのに、男子はみんな曖昧だった。
おかげで、入ってくれるのか、断られたのかもよくわからない。
日南は、弁当を片手に校庭のほうを見ている。日陰はどこも埋まっていて、別の場所に行くしかなさそうだった。
部室で食べようかと思っていたら、日南が「あ」と思いついたように言った。
「部室、行っていい?」
「……日南、文芸部じゃないじゃん」
「まあ」
まあ、ってなんだ。さっき声をかけた男子たちと同じくらい、返事が曖昧だ。
「でも、いいでしょ」
そのくせ、押しだけは強い。
結局、日南と二人で部室に向かった。
部室には誰もいなかった。
日南は長椅子に座ると、弁当をテーブルに置いた。
それから、当然みたいな顔で言った。
「ノートは?」
オレはリュックからノートを取り出すと、日南に渡した。
いつのまにか、条件反射みたいになっている。
個人的なメモを見せるのが普通になってるなんて、大丈夫なのだろうか。慣れって怖い。
日南が、オレの勧誘文を読み上げる。
「突然すみません。もし文芸部に興味があったら、図書準備室で活動しているので、いつでも気兼ねなく見学に来てもらって大丈夫なので――」
日南はそこで顔を上げた。
「長くない?」
「そうかな」
「走ってなくても息続かない」
「普通に息継ぎすればいいと思うけど」
「どこで?」
「突然すみません……この後」
「だいぶ最初だな」
「……本当だ」
なんだか、少し楽しいような気がした。
日南と普通に話せている。
そう思ったら、つい口が滑った。
「日南が入部してくれれば全部解決するんだけどな」
なんでそんなことを言ってしまったのだろう。
早く部員をそろえなければと焦っていたのは確かだけど、こんなついでみたいに誘うつもりはなかった。
日南は、なにも答えなかった。
考えるみたいに、箸を宙に浮かせたまま、空中を見ている。ほこりでも見えているのだろうか。
それから、残りの弁当を食べ出した。
オレの言葉は、なかったことになったみたいだった。
さっきまでの楽しい気持ちが、すうっとしぼんでいく。
今すぐノートにこう書きたい。
『言わなきゃよかった』
微妙な空気のまま弁当を食べ終わったとき、スッと日南が立った。
このまま出て行って、もう来ないんじゃないかと思った。
さっきの気にしないで、とか。あれ、冗談だから、とか言ったほうがいいのだろうか。
でも、それは嘘だ。
オレはなにも言えずに、ただ日南の背中を見ていた。
ドアノブに手をかけた日南が、小さく言った。
「俺、普通じゃないんだよ」
「え?」
「変なんだ。高森さんが宇宙人って言ってたけど、自分でも、人間っぽくないなって思うときがある」
オレは、なぜかオレよりへこんでいる日南を励まそうと、慌てて言葉を探した。
「えっと……それって、何でも読む癖のことだったりする?」
「なんで知ってるの?」
「……」
それは、みんな知ってる。
だって、普通はポスターの前で固まってたりしないし、朝から辞書を読んだりしないし、図書委員に研究会なんて作られたりしない。
それに、オレみたいなやつのノートを見たがって部室までついて来たりもしない。
それが日南永久だから、だれもいまさら驚いたりしない。
でも、本人にとっては、簡単に流せる話ではなかったらしい。
日南がそれを気にしているなんて、考えたこともなかった。
「よく誤解されるんだけど。俺、本が好きなわけじゃなくて」
日南は、言いにくそうに続けた。
「あれ、目が勝手に文字を読んでるだけで。だから……その、部誌を面白いと思えなくて……ごめん」
「はは」
目が勝手に、のところが日南らしくて、つい笑ってしまった。
「あ、ごめん。悩んでるのに。でも、なんか……」
さっきまで少し遠かった日南が、急に近く思えた。
そして、少しかわいいと思ってしまった。
「いいよ。笑ってもらったほうが助かるし」
日南は、少し気が抜けたみたいに言った。
そこで、オレは気がついた。
「え、じゃあ文芸部に入らない理由って……部誌をおもしろいと思えなかったから?」
「まあ……概ねそう」
概ねってなんだよ。
心の中で突っ込みながら、オレは言った。
「それは気にしなくていいよ」
「え、なんで?」
「オレは部誌が好きだし、おもしろいと思ってるけど。でも、それはオレの楽しみ方っていうか。別に、みんなが同じようにおもしろがる必要はないと思う」
「いいの?」
「いいんじゃないかな」
日南は少し黙った。
「なんか、喜世って思ったより百倍大人なんだな」
「百倍って、さすがに言い過ぎじゃ」
「喜世」
「え」
日南の顔が真剣で、まだなにも言われていないのに、顔が熱くなる。
「あのさ。たぶん、あのノートがこんなに好きなの、俺だけだから」
そう言って、日南は手早く弁当箱を片付けると、部室を出ていった。
オレは数秒固まったあと、つぶやいた。
「ん? 今のなに?」
前は、おもしろいだったのに。
好き、になっている。
別に、オレを好きって言ったわけじゃないけど。
どうしよう。
オレは動揺をごまかすように、弁当箱のすみに残していたミニトマトをつまんだ。
それに気づいたのは、ミニマラソン大会のピストルが鳴った後だった。
パン、という乾いた音がして、一斉に生徒たちが走り出す。
予想通り、運動部がすごい勢いで前に出ていく。そして、それ以外のやつらが、なんとなく後ろのほうに溜まりはじめた。
オレはほとんど歩くのと変わらない速さで走りながら、まわりをさりげなく見渡した。
うん。いる。文化部、もしくは帰宅部っぽい男子が。
昨日の夜、思いついた作戦だ。
ミニマラソン大会で、オレの近くを走っているやつは、たぶん運動部じゃない。つまり、文化部か帰宅部の可能性が高い。
そこに声をかける。我ながら、偏見がすごい。
でも、同じクラスの候補には、もう断られている。
とにかく、気まずくてもやるしかない。文芸部存続のためだ。
……そう思っていたのに、肝心のノートがない。
そりゃそうだ。ノートを持って走るつもりだった時点で、もうだいぶおかしい。
「喜世、それ走ってるの? 歩いてるの?」
突然真後ろから声をかけられて、ビクッとなる。
日南が、オレと同じくらいのなんとも言えない速さで、隣に並んだ。
「一応、走ってる」
「俺も」
しれっと言う日南は、長袖ジャージにハーフパンツ姿だった。それだけで、ちゃんと運動ができる人に見える。
一方のオレは、上下とも長袖ジャージだ。本気で走る気がないのが、服装に出ている。
「日南、去年の体育祭でリレーのアンカーやってたよね」
ぶっちぎりの一位ではなかったけど、走り方は完全に速いやつのそれだった。
近くにいた女子が、悲鳴みたいな声を上げていたから、妙に覚えている。
「そうだっけ」
日南は首を傾げた。本当に覚えてなさそうだ。
「そうだよ。ギャップ萌えとか、せこいなって思った」
「せこいってなんだよ」
日南がくすっと笑った。その顔がやっぱり整っていて、思わず目をそらす。
朝のひかりのなかではまぶしすぎた。
「早く行きなよ。オレ、やることあるし」
「やること?」
「部活の勧誘」
「え、今ここで? なんて言うの?」
日南の目が、きらっと光った気がした。
オレのノートにおもしろいものを見つけたときと同じ顔をしている。
言わないと離れてくれなそうだ。
「突然すみません。もし文芸部に興味があったら、図書準備室で活動しているので、いつでも見学に――」
そこで息が切れた。
予想外だ。
日南が吹き出す。
「走りながら勧誘するのはさすがにムリだって。息継ぎできてないし」
「息継ぎ」
それは考えてなかった。
そのとき、オレは気がついた。
日南が近くにいると、なんかいつもより楽しい。
それは、ノートが手元になくても同じらしい。
でも――勧誘はしづらい。
共通点のなさそうな二人が並んでのろのろ走っているだけで、たぶん目立つ。
しかも日南は、やたらと楽しそうに笑っている。
そのせいか、後方にいるおとなしそうな男子たちから、さりげなく距離を取られている気がした。
「日南さ。先行ってよ」
言ってから、ちょっと慌てた。
これだと、邪魔だと言ってるみたいだ。
「迷惑とかじゃなくて……ほら、あの」
オレがしどろもどろになって説明しようとすると、日南は後ろのほうに目をやった。
それから、納得したようにうなずく。
「あー。じゃ、先行く。ちゃんと前見て走りなよ」
そう言って、あっという間に前の集団に混ざっていく。
あんな速度で走れるなら、さっきまでのろのろ走ってたのはなんだったんだ。
もしかして、オレに合わせてくれていたとか?
オレはしばらく、その背中を見ていた。
変なやつなのに、こういうところはちゃんとしている。そういうところが、やっぱりずるいと思った。
ミニマラソン大会は、ゴールした人からお弁当をもらって解散する仕組みだ。
お弁当を受け取って、このまま帰るか部室に行くか考えていたら、日南がやってきた。
もうとっくにゴールしていたらしい。
オレはまだ肩で息をしているのに、日南は平気な顔でこっちを見ている。
「待ってた」
「ええ……っと」
そんな甘い感じで言われても、どう返していいのかわからない。
「誰か誘えた?」
「うん。いちおう……声はかけた」
返事はもらえなかったけど。
女子は、おとなしい子でもわりとはっきり答えるのに、男子はみんな曖昧だった。
おかげで、入ってくれるのか、断られたのかもよくわからない。
日南は、弁当を片手に校庭のほうを見ている。日陰はどこも埋まっていて、別の場所に行くしかなさそうだった。
部室で食べようかと思っていたら、日南が「あ」と思いついたように言った。
「部室、行っていい?」
「……日南、文芸部じゃないじゃん」
「まあ」
まあ、ってなんだ。さっき声をかけた男子たちと同じくらい、返事が曖昧だ。
「でも、いいでしょ」
そのくせ、押しだけは強い。
結局、日南と二人で部室に向かった。
部室には誰もいなかった。
日南は長椅子に座ると、弁当をテーブルに置いた。
それから、当然みたいな顔で言った。
「ノートは?」
オレはリュックからノートを取り出すと、日南に渡した。
いつのまにか、条件反射みたいになっている。
個人的なメモを見せるのが普通になってるなんて、大丈夫なのだろうか。慣れって怖い。
日南が、オレの勧誘文を読み上げる。
「突然すみません。もし文芸部に興味があったら、図書準備室で活動しているので、いつでも気兼ねなく見学に来てもらって大丈夫なので――」
日南はそこで顔を上げた。
「長くない?」
「そうかな」
「走ってなくても息続かない」
「普通に息継ぎすればいいと思うけど」
「どこで?」
「突然すみません……この後」
「だいぶ最初だな」
「……本当だ」
なんだか、少し楽しいような気がした。
日南と普通に話せている。
そう思ったら、つい口が滑った。
「日南が入部してくれれば全部解決するんだけどな」
なんでそんなことを言ってしまったのだろう。
早く部員をそろえなければと焦っていたのは確かだけど、こんなついでみたいに誘うつもりはなかった。
日南は、なにも答えなかった。
考えるみたいに、箸を宙に浮かせたまま、空中を見ている。ほこりでも見えているのだろうか。
それから、残りの弁当を食べ出した。
オレの言葉は、なかったことになったみたいだった。
さっきまでの楽しい気持ちが、すうっとしぼんでいく。
今すぐノートにこう書きたい。
『言わなきゃよかった』
微妙な空気のまま弁当を食べ終わったとき、スッと日南が立った。
このまま出て行って、もう来ないんじゃないかと思った。
さっきの気にしないで、とか。あれ、冗談だから、とか言ったほうがいいのだろうか。
でも、それは嘘だ。
オレはなにも言えずに、ただ日南の背中を見ていた。
ドアノブに手をかけた日南が、小さく言った。
「俺、普通じゃないんだよ」
「え?」
「変なんだ。高森さんが宇宙人って言ってたけど、自分でも、人間っぽくないなって思うときがある」
オレは、なぜかオレよりへこんでいる日南を励まそうと、慌てて言葉を探した。
「えっと……それって、何でも読む癖のことだったりする?」
「なんで知ってるの?」
「……」
それは、みんな知ってる。
だって、普通はポスターの前で固まってたりしないし、朝から辞書を読んだりしないし、図書委員に研究会なんて作られたりしない。
それに、オレみたいなやつのノートを見たがって部室までついて来たりもしない。
それが日南永久だから、だれもいまさら驚いたりしない。
でも、本人にとっては、簡単に流せる話ではなかったらしい。
日南がそれを気にしているなんて、考えたこともなかった。
「よく誤解されるんだけど。俺、本が好きなわけじゃなくて」
日南は、言いにくそうに続けた。
「あれ、目が勝手に文字を読んでるだけで。だから……その、部誌を面白いと思えなくて……ごめん」
「はは」
目が勝手に、のところが日南らしくて、つい笑ってしまった。
「あ、ごめん。悩んでるのに。でも、なんか……」
さっきまで少し遠かった日南が、急に近く思えた。
そして、少しかわいいと思ってしまった。
「いいよ。笑ってもらったほうが助かるし」
日南は、少し気が抜けたみたいに言った。
そこで、オレは気がついた。
「え、じゃあ文芸部に入らない理由って……部誌をおもしろいと思えなかったから?」
「まあ……概ねそう」
概ねってなんだよ。
心の中で突っ込みながら、オレは言った。
「それは気にしなくていいよ」
「え、なんで?」
「オレは部誌が好きだし、おもしろいと思ってるけど。でも、それはオレの楽しみ方っていうか。別に、みんなが同じようにおもしろがる必要はないと思う」
「いいの?」
「いいんじゃないかな」
日南は少し黙った。
「なんか、喜世って思ったより百倍大人なんだな」
「百倍って、さすがに言い過ぎじゃ」
「喜世」
「え」
日南の顔が真剣で、まだなにも言われていないのに、顔が熱くなる。
「あのさ。たぶん、あのノートがこんなに好きなの、俺だけだから」
そう言って、日南は手早く弁当箱を片付けると、部室を出ていった。
オレは数秒固まったあと、つぶやいた。
「ん? 今のなに?」
前は、おもしろいだったのに。
好き、になっている。
別に、オレを好きって言ったわけじゃないけど。
どうしよう。
オレは動揺をごまかすように、弁当箱のすみに残していたミニトマトをつまんだ。


