ノートに(好き)って書いたら顔のいい変人に執着されました

ノートを開くと、音が消える。
その瞬間が好きだった。
小説を書くつもりで買ったノートに、小説は一行も書かれていない。
代わりに、読みたい本のリストとか、気になった一文とか、そういうものが溜まっていく。
見返すたびに思う。
でかいメモ帳かよ、って。
だけどオレは、このでかいメモ帳が好きだった。
教室のうるささも、居心地がいい文芸部がなくなりそうなことも、ノートを開けば少し遠くなる。
ここは、オレだけの秘密基地で、安全な場所のはずだった。
あいつの指が現れるまでは。

喜世(きせ)って、俺のこと好きなの?」

「え?」

長い指がノートの一点を押さえている。
そこには、オレの角ばった字でこう書いてあった。

日南永久(ひなみ とわ)(好き)』

顔を上げると、そこに立っていたのは日南永久だった。
クラスで一番目立つ、顔のいい変人。
その日南が、オレのノートを見下ろして、もう一度、確認するように言った。

「ねえ。好きなの?」

この時はまだ知らなかった。
『本が』の二文字を省略しただけで、あんなことになるなんて。



日南永久(ひなみ とわ)
オレが、ノートに『好き』と書いていた相手。
整いすぎた顔立ちに、流行りのヘアスタイル。少しだけ着崩した制服。
そして、いつもより大きく見開いた目。
ノートと日南の顔を二往復して、ようやく自分がやらかしたことに気付いた。

「ちょ、待っ――違う!」

あわててノートを閉じようとしたら、日南の大きな手が軽くオレの右手を押さえた。
たいした力じゃないのに、なぜか振りほどけない。
日南はオレの手を押さえたまま、何事もなかったように続きを読もうとしている。
遠慮のない視線に、思わず叫んだ。

「本当に、違うから!」

完全に誤解だ。
てか、なんでこんな書き方したんだ、オレ!
これはただ、文芸部に入ってくれそうな人を並べただけのメモだ。
好きとか嫌いとか、そういうのじゃない。

「違うってなにが? 俺の名前のところに『好き』って書いてあるから、好きなんじゃないの」

「本が! 本が好きって書いたんだよ」

「そんなの、どこにも書いてない」

「私的なメモだから省略したんだ」

強めに言うと、日南はやっとオレの手を離して、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
そして、少し眉を寄せてなぜか不満そうに言った。

「本は好きじゃない」

「……はい?」

一瞬思考が止まる。
いや、好きじゃないわけないだろ。
日南永久は、変人で有名だった。
廊下のポスターの前で五分くらい固まっていたり、消火設備の説明書きを真顔で読んでいたりする。
いつもなにかを読んでいる。
文庫本のときもあれば、保健だよりだったり。女子が机に置き忘れたハンドクリームの成分表示を読んでいたこともあった。
見た目はちょっとだけ不良っぽい。
それなのにいつも真剣になにかを読んでいるから、妙に目立つ。
先生も怒るに怒れない。絶妙なキャラだ。
その日南が、オレのノートを勝手に読んで、「本は好きじゃない」とか文句を言っている。
いったいなんなんだ。

「平井由宇に紺野茉莉? へえ。優しそうな子がタイプなんだ」

日南は、ひとりで納得したようにうなずいた。

「え、なに?」

見ると、ノートにはこう続いていた。

日南永久(好き)
平井由宇(最有力)明日誘う。
紺野茉莉(交渉次第)ぜったい明日誘う。

なんだこれ。日南じゃなくても誤解する。

「勝手に、見るなよ」

気づいたら、両手でページをグシャッと握りつぶしていた。
……終わった。明日には陰キャのろくでもない噂が飛び交っているだろう。
最悪すぎる。うつむいて、日南が立ち去るのを待つ。
でも、いつまでたっても目の前の気配はなくならなかった。
顔を上げてみると、日南は少しだけ悲しそうな顔で、つぶれたページを見ていた。
なんで、そんな顔してんだよ。悪いの、そっちじゃん。

「本は別に好きじゃないけど、そのメモはちょっといいなって思ったのに」

日南は、小さい声ですねたみたいに言った。

「え……」

「ぐしゃぐしゃにしなくてもよかったじゃん」

「あ、ごめん」

思わず謝っていた。
いやいや、顔のいいやつがちょっとしゅんとしたからって、すぐ謝ることないだろ。
なにやってんだ。



翌日、「本は好きじゃない」と言っていた日南永久は、朝から本を読んでいた。
正確には、辞書を読んでいた。
本は好きじゃないんじゃなかったのかよ! と、突っ込みたいけど突っ込めない。辞書だから。
朝の教室は騒々しいのに、日南のまわりだけ妙に時間の流れがゆっくりしている。

「日南くん、おはよう!」

「おはよう」

辞書から顔を上げて、少しだけ笑う日南。
それだけで、女子の表情が一段明るくなる。
変わり者なのにクラスになじんでるなんて、しかもモテるなんて、ずるい。
きっと、見た目がよければなんでも許されるんだ。
そんなことを卑屈に考えながらノートを開いたオレは、『日南永久(好き)』の文字に思わず手を止めた。
消し忘れてた。
ちらっと日南を見る。
日南はまったくこっちを見ない。
昨日のことなんて忘れたみたいに、辞書を読んでいる。
そのおかげで、オレの人生は終わらなかった……はずなのに、モヤモヤする。
曲がりなりにも、好きって書いてあったのに、忘れるか?
いや、忘れてくれたほうがいいに決まってるけど。
オレはため息をついて、『日南永久』のところにそっと二重線を引いた。
そして、その下に続く二人の名前を見る。

平井由宇。
紺野茉莉。

文芸部存続のために、オレが勝手に目をつけた候補の名前だ。
女子の名前をノートに書いているなんて、我ながらキモいと思う。
でも、ちゃんと理由はある。
あと一人入らないと、文芸部は同好会になるかもしれない。
突然顧問がそう言ったのは、先週のことだった。
「帰宅部っぽい子に声かけてみたら?」なんて軽く言われたけど、帰宅部っぽいとはいったいなんだろう。
オレにできることといえば、せいぜい放課後、のんびり帰り支度をしている人を勝手に帰宅部扱いして、名前をノートに書くことくらいだった。
我ながら、だいぶ情けない。
小さくため息をついた、そのとき――

「なんで、俺を消したの」

「え!?」

辞書を読んでいたはずの日南が、目の前に立っていた。
反射的に、ノートを両手で隠す。
さすがに、二重線は感じが悪い。

「ほ、本が好きじゃないって言ってたから」

「本が好きじゃないと、消されるのか。ひどいな」

「ひどいとか、そういうことじゃなくて」

言葉がうまく出てこない。
本は好きじゃないって言ってたから、勧誘の候補から外しただけなのに。
そう言えばいいだけなのに。

「じゃあ、どういうこと?」

日南は真顔で言った。
まっすぐ見られて、言葉に詰まる。
日南と言い合っても、ぜったい勝てない。だって相手は朝から辞書を読むような人間だ。
オレは観念して、事情を説明することにした。

「文芸部に入ってくれそうな人を探してるんだ。三人はその候補」

「俺も?」

驚いたような顔でオレを見る。
オレはその顔を不思議な気分で見返した。
そんなに意外かな。
こっちからしたら、日南のほうがよっぽど文芸部っぽいのに。

「まあ。昨日までは、そうだった」

「そっか」

日南は、少しだけ嬉しそうに口元をゆるめた。
笑ったようにも見えたけど、相手は日南永久だ。何を考えているのかは、やっぱりよくわからない。

「喜世」

見上げると、日南はさらっと言った。

「二重線、消しといて。俺、まだ候補だから」

そう言って、廊下に出て行った。
オレはしばらくノートを見下ろしていた。
それから、消しゴムを手に取る。
軽く二重線だけ消そうとしたら、日南永久の名前まで薄くなってしまった。
仕方なく、上から名前を書き直す。

日南永久。

そこでやめればよかったのに、無意識にその横の(好き)までなぞっていた。

日南永久(好き)

最初よりも、濃くてはっきりした字になってしまった。



放課後。
運動部は一斉に教室を出ていき、残った生徒たちがのろのろと帰りの支度をしていた。
日南は珍しくスマホを見ている。ついに読むものがなくなったのだろうか。
オレはノートを広げて、候補の名前を見た。
平井さんには、昼休みにさりげなく声をかけてみた。
「ごめんね、もう茶道部に誘われてるんだ」
笑顔で言われたら、「こちらこそ、ごめんね」と返すしかない。
残る候補の紺野さんは、今まさに帰ろうとしているところだった。
オレはノートを閉じ、さりげなく紺野さんの横に立った。

「あの。紺野さん、よく本読んでるよね。もしよかったら文芸部に……」

言いながら、自分の声がだんだん小さくなっていくのがわかる。
紺野さんは少し考えてくれたけど、結局、申し訳なさそうに首を横に振った。

「ごめんね」

二連続で断られると、さすがにへこむ。
オレはそそくさと席に戻って、ノートを開いた。
そして、書いた。

『人生で一番振られまくってる』

文芸部の勧誘なのに、なんだか悲しくなってきた。
無意識に日南を見ると、スマホを見ていたはずの日南と目が合った。
どうやら、オレが振られるところを見ていたらしい。
日南はスマホをポケットに入れながら、ゆっくり立ち上がった。
そして、オレの机の前まで来ると、当たり前みたいにノートに視線を落とした。
そこには、さっきの勧誘の下書きがあった。

『平井さん。突然ごめんね。もしよかったら文芸部に入ってもらえたら嬉しいんだけど』
『紺野さん、よく本読んでるよね。もしよかったら文芸部に入ってくれないかな』

日南が笑った。
本人は隠そうとしているみたいだけど、隠れてない。
失敗直後のへこんでいるタイミングで笑われて、情けないし、腹も立つ。
なのに、その笑った顔が少しだけかわいく思えて、こまった。

「勝手に見たらいけないんだっけ……ごめん、喜世のこと笑ってるわけじゃないから」

じゃ、なにを笑ってるんだよ。

「別に、もういいよ。たいしたこと書いてないし、どうせキモいし……」

ムッとして答えると、日南は少しだけ首を傾げた。

「別にキモくはないけど」

そんなふうに返ってくるとは思ってなくて、うまくスルーできなかった。
絶妙にカッコ悪い。
日南はノートを手に取って、オレが書いた文章を読んでいる。
何回も。
涼しげな目元とか、髪の分け目とか、ときどき上がる口角とか。
そんなところを、意味もなく見てしまう。
日南は、やっぱり顔がいい。
ちょっと変わってるけど、こういうやつが物語の主人公になるんだろうな、なんて考える。
しばらくして、日南は顔を上げて言った。

「俺はなんて誘うつもりだったの?」

オレはうーん……と頭の中を探った。
たぶん、考えてなかった。
入ってくれると思ってなかったから。

「……文芸部、人数足りないんだけど、とか?」

「なんか、雑だな」

「実はなにも考えてなかった」

「……」


オレと高森しかいない、あの静かな場所に日南がいたら……面白そうではあるけど、やっぱり想像できない。
日南は少しだけ口角を上げて言った。

「おもしろいよ、喜世のメモ」

「え」

「もっと読みたい。喜世が俺のことをどう書くのか、気になる」

まっすぐにこっちを見て言う。

「そ、そっか」

思わず目をそらして、ノートをぺらぺらとめくる。
ていうか、なんで書く前提なんだ。これ以上書く予定なんかない。

「書いたら、また読むから」

「また?」

「うん」

オレはよくわからない圧に負けて、「わかった」と答えていた。

日南はノートをオレに手渡すと、機嫌よく席に戻っていった。
受け取ったノートを開いて、書き足す。

『おもしろいよ、喜世のメモ』

教室の雑音も、へこんでいた気持ちも、どこかへ消えていく。
オレだけのノートの世界。
そこに、日南の言葉が増えた。