ノートを開くと、音が消える。
その瞬間が好きだった。
小説を書くつもりで買ったノートに、小説は一行も書かれていない。
代わりに、読みたい本のリストとか、気になった一文とか、そういうものが溜まっていく。
見返すたびに思う。
でかいメモ帳かよ、って。
だけどオレは、このでかいメモ帳が好きだった。
教室のうるささも、居心地がいい文芸部がなくなりそうなことも、ノートを開けば少し遠くなる。
ここは、オレだけの秘密基地で、安全な場所のはずだった。
あいつの指が現れるまでは。
「喜世って、俺のこと好きなの?」
「え?」
長い指がノートの一点を押さえている。
そこには、オレの角ばった字でこう書いてあった。
『日南永久(好き)』
顔を上げると、そこに立っていたのは日南永久だった。
クラスで一番目立つ、顔のいい変人。
その日南が、オレのノートを見下ろして、もう一度、確認するように言った。
「ねえ。好きなの?」
この時はまだ知らなかった。
『本が』の二文字を省略しただけで、あんなことになるなんて。
◇
日南永久。
オレが、ノートに『好き』と書いていた相手。
整いすぎた顔立ちに、流行りのヘアスタイル。少しだけ着崩した制服。
そして、いつもより大きく見開いた目。
ノートと日南の顔を二往復して、ようやく自分がやらかしたことに気付いた。
「ちょ、待っ――違う!」
あわててノートを閉じようとしたら、日南の大きな手が軽くオレの右手を押さえた。
たいした力じゃないのに、なぜか振りほどけない。
日南はオレの手を押さえたまま、何事もなかったように続きを読もうとしている。
遠慮のない視線に、思わず叫んだ。
「本当に、違うから!」
完全に誤解だ。
てか、なんでこんな書き方したんだ、オレ!
これはただ、文芸部に入ってくれそうな人を並べただけのメモだ。
好きとか嫌いとか、そういうのじゃない。
「違うってなにが? 俺の名前のところに『好き』って書いてあるから、好きなんじゃないの」
「本が! 本が好きって書いたんだよ」
「そんなの、どこにも書いてない」
「私的なメモだから省略したんだ」
強めに言うと、日南はやっとオレの手を離して、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
そして、少し眉を寄せてなぜか不満そうに言った。
「本は好きじゃない」
「……はい?」
一瞬思考が止まる。
いや、好きじゃないわけないだろ。
日南永久は、変人で有名だった。
廊下のポスターの前で五分くらい固まっていたり、消火設備の説明書きを真顔で読んでいたりする。
いつもなにかを読んでいる。
文庫本のときもあれば、保健だよりだったり。女子が机に置き忘れたハンドクリームの成分表示を読んでいたこともあった。
見た目はちょっとだけ不良っぽい。
それなのにいつも真剣になにかを読んでいるから、妙に目立つ。
先生も怒るに怒れない。絶妙なキャラだ。
その日南が、オレのノートを勝手に読んで、「本は好きじゃない」とか文句を言っている。
いったいなんなんだ。
「平井由宇に紺野茉莉? へえ。優しそうな子がタイプなんだ」
日南は、ひとりで納得したようにうなずいた。
「え、なに?」
見ると、ノートにはこう続いていた。
日南永久(好き)
平井由宇(最有力)明日誘う。
紺野茉莉(交渉次第)ぜったい明日誘う。
なんだこれ。日南じゃなくても誤解する。
「勝手に、見るなよ」
気づいたら、両手でページをグシャッと握りつぶしていた。
……終わった。明日には陰キャのろくでもない噂が飛び交っているだろう。
最悪すぎる。うつむいて、日南が立ち去るのを待つ。
でも、いつまでたっても目の前の気配はなくならなかった。
顔を上げてみると、日南は少しだけ悲しそうな顔で、つぶれたページを見ていた。
なんで、そんな顔してんだよ。悪いの、そっちじゃん。
「本は別に好きじゃないけど、そのメモはちょっといいなって思ったのに」
日南は、小さい声ですねたみたいに言った。
「え……」
「ぐしゃぐしゃにしなくてもよかったじゃん」
「あ、ごめん」
思わず謝っていた。
いやいや、顔のいいやつがちょっとしゅんとしたからって、すぐ謝ることないだろ。
なにやってんだ。
◇
翌日、「本は好きじゃない」と言っていた日南永久は、朝から本を読んでいた。
正確には、辞書を読んでいた。
本は好きじゃないんじゃなかったのかよ! と、突っ込みたいけど突っ込めない。辞書だから。
朝の教室は騒々しいのに、日南のまわりだけ妙に時間の流れがゆっくりしている。
「日南くん、おはよう!」
「おはよう」
辞書から顔を上げて、少しだけ笑う日南。
それだけで、女子の表情が一段明るくなる。
変わり者なのにクラスになじんでるなんて、しかもモテるなんて、ずるい。
きっと、見た目がよければなんでも許されるんだ。
そんなことを卑屈に考えながらノートを開いたオレは、『日南永久(好き)』の文字に思わず手を止めた。
消し忘れてた。
ちらっと日南を見る。
日南はまったくこっちを見ない。
昨日のことなんて忘れたみたいに、辞書を読んでいる。
そのおかげで、オレの人生は終わらなかった……はずなのに、モヤモヤする。
曲がりなりにも、好きって書いてあったのに、忘れるか?
いや、忘れてくれたほうがいいに決まってるけど。
オレはため息をついて、『日南永久』のところにそっと二重線を引いた。
そして、その下に続く二人の名前を見る。
平井由宇。
紺野茉莉。
文芸部存続のために、オレが勝手に目をつけた候補の名前だ。
女子の名前をノートに書いているなんて、我ながらキモいと思う。
でも、ちゃんと理由はある。
あと一人入らないと、文芸部は同好会になるかもしれない。
突然顧問がそう言ったのは、先週のことだった。
「帰宅部っぽい子に声かけてみたら?」なんて軽く言われたけど、帰宅部っぽいとはいったいなんだろう。
オレにできることといえば、せいぜい放課後、のんびり帰り支度をしている人を勝手に帰宅部扱いして、名前をノートに書くことくらいだった。
我ながら、だいぶ情けない。
小さくため息をついた、そのとき――
「なんで、俺を消したの」
「え!?」
辞書を読んでいたはずの日南が、目の前に立っていた。
反射的に、ノートを両手で隠す。
さすがに、二重線は感じが悪い。
「ほ、本が好きじゃないって言ってたから」
「本が好きじゃないと、消されるのか。ひどいな」
「ひどいとか、そういうことじゃなくて」
言葉がうまく出てこない。
本は好きじゃないって言ってたから、勧誘の候補から外しただけなのに。
そう言えばいいだけなのに。
「じゃあ、どういうこと?」
日南は真顔で言った。
まっすぐ見られて、言葉に詰まる。
日南と言い合っても、ぜったい勝てない。だって相手は朝から辞書を読むような人間だ。
オレは観念して、事情を説明することにした。
「文芸部に入ってくれそうな人を探してるんだ。三人はその候補」
「俺も?」
驚いたような顔でオレを見る。
オレはその顔を不思議な気分で見返した。
そんなに意外かな。
こっちからしたら、日南のほうがよっぽど文芸部っぽいのに。
「まあ。昨日までは、そうだった」
「そっか」
日南は、少しだけ嬉しそうに口元をゆるめた。
笑ったようにも見えたけど、相手は日南永久だ。何を考えているのかは、やっぱりよくわからない。
「喜世」
見上げると、日南はさらっと言った。
「二重線、消しといて。俺、まだ候補だから」
そう言って、廊下に出て行った。
オレはしばらくノートを見下ろしていた。
それから、消しゴムを手に取る。
軽く二重線だけ消そうとしたら、日南永久の名前まで薄くなってしまった。
仕方なく、上から名前を書き直す。
日南永久。
そこでやめればよかったのに、無意識にその横の(好き)までなぞっていた。
日南永久(好き)
最初よりも、濃くてはっきりした字になってしまった。
◇
放課後。
運動部は一斉に教室を出ていき、残った生徒たちがのろのろと帰りの支度をしていた。
日南は珍しくスマホを見ている。ついに読むものがなくなったのだろうか。
オレはノートを広げて、候補の名前を見た。
平井さんには、昼休みにさりげなく声をかけてみた。
「ごめんね、もう茶道部に誘われてるんだ」
笑顔で言われたら、「こちらこそ、ごめんね」と返すしかない。
残る候補の紺野さんは、今まさに帰ろうとしているところだった。
オレはノートを閉じ、さりげなく紺野さんの横に立った。
「あの。紺野さん、よく本読んでるよね。もしよかったら文芸部に……」
言いながら、自分の声がだんだん小さくなっていくのがわかる。
紺野さんは少し考えてくれたけど、結局、申し訳なさそうに首を横に振った。
「ごめんね」
二連続で断られると、さすがにへこむ。
オレはそそくさと席に戻って、ノートを開いた。
そして、書いた。
『人生で一番振られまくってる』
文芸部の勧誘なのに、なんだか悲しくなってきた。
無意識に日南を見ると、スマホを見ていたはずの日南と目が合った。
どうやら、オレが振られるところを見ていたらしい。
日南はスマホをポケットに入れながら、ゆっくり立ち上がった。
そして、オレの机の前まで来ると、当たり前みたいにノートに視線を落とした。
そこには、さっきの勧誘の下書きがあった。
『平井さん。突然ごめんね。もしよかったら文芸部に入ってもらえたら嬉しいんだけど』
『紺野さん、よく本読んでるよね。もしよかったら文芸部に入ってくれないかな』
日南が笑った。
本人は隠そうとしているみたいだけど、隠れてない。
失敗直後のへこんでいるタイミングで笑われて、情けないし、腹も立つ。
なのに、その笑った顔が少しだけかわいく思えて、こまった。
「勝手に見たらいけないんだっけ……ごめん、喜世のこと笑ってるわけじゃないから」
じゃ、なにを笑ってるんだよ。
「別に、もういいよ。たいしたこと書いてないし、どうせキモいし……」
ムッとして答えると、日南は少しだけ首を傾げた。
「別にキモくはないけど」
そんなふうに返ってくるとは思ってなくて、うまくスルーできなかった。
絶妙にカッコ悪い。
日南はノートを手に取って、オレが書いた文章を読んでいる。
何回も。
涼しげな目元とか、髪の分け目とか、ときどき上がる口角とか。
そんなところを、意味もなく見てしまう。
日南は、やっぱり顔がいい。
ちょっと変わってるけど、こういうやつが物語の主人公になるんだろうな、なんて考える。
しばらくして、日南は顔を上げて言った。
「俺はなんて誘うつもりだったの?」
オレはうーん……と頭の中を探った。
たぶん、考えてなかった。
入ってくれると思ってなかったから。
「……文芸部、人数足りないんだけど、とか?」
「なんか、雑だな」
「実はなにも考えてなかった」
「……」
オレと高森しかいない、あの静かな場所に日南がいたら……面白そうではあるけど、やっぱり想像できない。
日南は少しだけ口角を上げて言った。
「おもしろいよ、喜世のメモ」
「え」
「もっと読みたい。喜世が俺のことをどう書くのか、気になる」
まっすぐにこっちを見て言う。
「そ、そっか」
思わず目をそらして、ノートをぺらぺらとめくる。
ていうか、なんで書く前提なんだ。これ以上書く予定なんかない。
「書いたら、また読むから」
「また?」
「うん」
オレはよくわからない圧に負けて、「わかった」と答えていた。
日南はノートをオレに手渡すと、機嫌よく席に戻っていった。
受け取ったノートを開いて、書き足す。
『おもしろいよ、喜世のメモ』
教室の雑音も、へこんでいた気持ちも、どこかへ消えていく。
オレだけのノートの世界。
そこに、日南の言葉が増えた。
その瞬間が好きだった。
小説を書くつもりで買ったノートに、小説は一行も書かれていない。
代わりに、読みたい本のリストとか、気になった一文とか、そういうものが溜まっていく。
見返すたびに思う。
でかいメモ帳かよ、って。
だけどオレは、このでかいメモ帳が好きだった。
教室のうるささも、居心地がいい文芸部がなくなりそうなことも、ノートを開けば少し遠くなる。
ここは、オレだけの秘密基地で、安全な場所のはずだった。
あいつの指が現れるまでは。
「喜世って、俺のこと好きなの?」
「え?」
長い指がノートの一点を押さえている。
そこには、オレの角ばった字でこう書いてあった。
『日南永久(好き)』
顔を上げると、そこに立っていたのは日南永久だった。
クラスで一番目立つ、顔のいい変人。
その日南が、オレのノートを見下ろして、もう一度、確認するように言った。
「ねえ。好きなの?」
この時はまだ知らなかった。
『本が』の二文字を省略しただけで、あんなことになるなんて。
◇
日南永久。
オレが、ノートに『好き』と書いていた相手。
整いすぎた顔立ちに、流行りのヘアスタイル。少しだけ着崩した制服。
そして、いつもより大きく見開いた目。
ノートと日南の顔を二往復して、ようやく自分がやらかしたことに気付いた。
「ちょ、待っ――違う!」
あわててノートを閉じようとしたら、日南の大きな手が軽くオレの右手を押さえた。
たいした力じゃないのに、なぜか振りほどけない。
日南はオレの手を押さえたまま、何事もなかったように続きを読もうとしている。
遠慮のない視線に、思わず叫んだ。
「本当に、違うから!」
完全に誤解だ。
てか、なんでこんな書き方したんだ、オレ!
これはただ、文芸部に入ってくれそうな人を並べただけのメモだ。
好きとか嫌いとか、そういうのじゃない。
「違うってなにが? 俺の名前のところに『好き』って書いてあるから、好きなんじゃないの」
「本が! 本が好きって書いたんだよ」
「そんなの、どこにも書いてない」
「私的なメモだから省略したんだ」
強めに言うと、日南はやっとオレの手を離して、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
そして、少し眉を寄せてなぜか不満そうに言った。
「本は好きじゃない」
「……はい?」
一瞬思考が止まる。
いや、好きじゃないわけないだろ。
日南永久は、変人で有名だった。
廊下のポスターの前で五分くらい固まっていたり、消火設備の説明書きを真顔で読んでいたりする。
いつもなにかを読んでいる。
文庫本のときもあれば、保健だよりだったり。女子が机に置き忘れたハンドクリームの成分表示を読んでいたこともあった。
見た目はちょっとだけ不良っぽい。
それなのにいつも真剣になにかを読んでいるから、妙に目立つ。
先生も怒るに怒れない。絶妙なキャラだ。
その日南が、オレのノートを勝手に読んで、「本は好きじゃない」とか文句を言っている。
いったいなんなんだ。
「平井由宇に紺野茉莉? へえ。優しそうな子がタイプなんだ」
日南は、ひとりで納得したようにうなずいた。
「え、なに?」
見ると、ノートにはこう続いていた。
日南永久(好き)
平井由宇(最有力)明日誘う。
紺野茉莉(交渉次第)ぜったい明日誘う。
なんだこれ。日南じゃなくても誤解する。
「勝手に、見るなよ」
気づいたら、両手でページをグシャッと握りつぶしていた。
……終わった。明日には陰キャのろくでもない噂が飛び交っているだろう。
最悪すぎる。うつむいて、日南が立ち去るのを待つ。
でも、いつまでたっても目の前の気配はなくならなかった。
顔を上げてみると、日南は少しだけ悲しそうな顔で、つぶれたページを見ていた。
なんで、そんな顔してんだよ。悪いの、そっちじゃん。
「本は別に好きじゃないけど、そのメモはちょっといいなって思ったのに」
日南は、小さい声ですねたみたいに言った。
「え……」
「ぐしゃぐしゃにしなくてもよかったじゃん」
「あ、ごめん」
思わず謝っていた。
いやいや、顔のいいやつがちょっとしゅんとしたからって、すぐ謝ることないだろ。
なにやってんだ。
◇
翌日、「本は好きじゃない」と言っていた日南永久は、朝から本を読んでいた。
正確には、辞書を読んでいた。
本は好きじゃないんじゃなかったのかよ! と、突っ込みたいけど突っ込めない。辞書だから。
朝の教室は騒々しいのに、日南のまわりだけ妙に時間の流れがゆっくりしている。
「日南くん、おはよう!」
「おはよう」
辞書から顔を上げて、少しだけ笑う日南。
それだけで、女子の表情が一段明るくなる。
変わり者なのにクラスになじんでるなんて、しかもモテるなんて、ずるい。
きっと、見た目がよければなんでも許されるんだ。
そんなことを卑屈に考えながらノートを開いたオレは、『日南永久(好き)』の文字に思わず手を止めた。
消し忘れてた。
ちらっと日南を見る。
日南はまったくこっちを見ない。
昨日のことなんて忘れたみたいに、辞書を読んでいる。
そのおかげで、オレの人生は終わらなかった……はずなのに、モヤモヤする。
曲がりなりにも、好きって書いてあったのに、忘れるか?
いや、忘れてくれたほうがいいに決まってるけど。
オレはため息をついて、『日南永久』のところにそっと二重線を引いた。
そして、その下に続く二人の名前を見る。
平井由宇。
紺野茉莉。
文芸部存続のために、オレが勝手に目をつけた候補の名前だ。
女子の名前をノートに書いているなんて、我ながらキモいと思う。
でも、ちゃんと理由はある。
あと一人入らないと、文芸部は同好会になるかもしれない。
突然顧問がそう言ったのは、先週のことだった。
「帰宅部っぽい子に声かけてみたら?」なんて軽く言われたけど、帰宅部っぽいとはいったいなんだろう。
オレにできることといえば、せいぜい放課後、のんびり帰り支度をしている人を勝手に帰宅部扱いして、名前をノートに書くことくらいだった。
我ながら、だいぶ情けない。
小さくため息をついた、そのとき――
「なんで、俺を消したの」
「え!?」
辞書を読んでいたはずの日南が、目の前に立っていた。
反射的に、ノートを両手で隠す。
さすがに、二重線は感じが悪い。
「ほ、本が好きじゃないって言ってたから」
「本が好きじゃないと、消されるのか。ひどいな」
「ひどいとか、そういうことじゃなくて」
言葉がうまく出てこない。
本は好きじゃないって言ってたから、勧誘の候補から外しただけなのに。
そう言えばいいだけなのに。
「じゃあ、どういうこと?」
日南は真顔で言った。
まっすぐ見られて、言葉に詰まる。
日南と言い合っても、ぜったい勝てない。だって相手は朝から辞書を読むような人間だ。
オレは観念して、事情を説明することにした。
「文芸部に入ってくれそうな人を探してるんだ。三人はその候補」
「俺も?」
驚いたような顔でオレを見る。
オレはその顔を不思議な気分で見返した。
そんなに意外かな。
こっちからしたら、日南のほうがよっぽど文芸部っぽいのに。
「まあ。昨日までは、そうだった」
「そっか」
日南は、少しだけ嬉しそうに口元をゆるめた。
笑ったようにも見えたけど、相手は日南永久だ。何を考えているのかは、やっぱりよくわからない。
「喜世」
見上げると、日南はさらっと言った。
「二重線、消しといて。俺、まだ候補だから」
そう言って、廊下に出て行った。
オレはしばらくノートを見下ろしていた。
それから、消しゴムを手に取る。
軽く二重線だけ消そうとしたら、日南永久の名前まで薄くなってしまった。
仕方なく、上から名前を書き直す。
日南永久。
そこでやめればよかったのに、無意識にその横の(好き)までなぞっていた。
日南永久(好き)
最初よりも、濃くてはっきりした字になってしまった。
◇
放課後。
運動部は一斉に教室を出ていき、残った生徒たちがのろのろと帰りの支度をしていた。
日南は珍しくスマホを見ている。ついに読むものがなくなったのだろうか。
オレはノートを広げて、候補の名前を見た。
平井さんには、昼休みにさりげなく声をかけてみた。
「ごめんね、もう茶道部に誘われてるんだ」
笑顔で言われたら、「こちらこそ、ごめんね」と返すしかない。
残る候補の紺野さんは、今まさに帰ろうとしているところだった。
オレはノートを閉じ、さりげなく紺野さんの横に立った。
「あの。紺野さん、よく本読んでるよね。もしよかったら文芸部に……」
言いながら、自分の声がだんだん小さくなっていくのがわかる。
紺野さんは少し考えてくれたけど、結局、申し訳なさそうに首を横に振った。
「ごめんね」
二連続で断られると、さすがにへこむ。
オレはそそくさと席に戻って、ノートを開いた。
そして、書いた。
『人生で一番振られまくってる』
文芸部の勧誘なのに、なんだか悲しくなってきた。
無意識に日南を見ると、スマホを見ていたはずの日南と目が合った。
どうやら、オレが振られるところを見ていたらしい。
日南はスマホをポケットに入れながら、ゆっくり立ち上がった。
そして、オレの机の前まで来ると、当たり前みたいにノートに視線を落とした。
そこには、さっきの勧誘の下書きがあった。
『平井さん。突然ごめんね。もしよかったら文芸部に入ってもらえたら嬉しいんだけど』
『紺野さん、よく本読んでるよね。もしよかったら文芸部に入ってくれないかな』
日南が笑った。
本人は隠そうとしているみたいだけど、隠れてない。
失敗直後のへこんでいるタイミングで笑われて、情けないし、腹も立つ。
なのに、その笑った顔が少しだけかわいく思えて、こまった。
「勝手に見たらいけないんだっけ……ごめん、喜世のこと笑ってるわけじゃないから」
じゃ、なにを笑ってるんだよ。
「別に、もういいよ。たいしたこと書いてないし、どうせキモいし……」
ムッとして答えると、日南は少しだけ首を傾げた。
「別にキモくはないけど」
そんなふうに返ってくるとは思ってなくて、うまくスルーできなかった。
絶妙にカッコ悪い。
日南はノートを手に取って、オレが書いた文章を読んでいる。
何回も。
涼しげな目元とか、髪の分け目とか、ときどき上がる口角とか。
そんなところを、意味もなく見てしまう。
日南は、やっぱり顔がいい。
ちょっと変わってるけど、こういうやつが物語の主人公になるんだろうな、なんて考える。
しばらくして、日南は顔を上げて言った。
「俺はなんて誘うつもりだったの?」
オレはうーん……と頭の中を探った。
たぶん、考えてなかった。
入ってくれると思ってなかったから。
「……文芸部、人数足りないんだけど、とか?」
「なんか、雑だな」
「実はなにも考えてなかった」
「……」
オレと高森しかいない、あの静かな場所に日南がいたら……面白そうではあるけど、やっぱり想像できない。
日南は少しだけ口角を上げて言った。
「おもしろいよ、喜世のメモ」
「え」
「もっと読みたい。喜世が俺のことをどう書くのか、気になる」
まっすぐにこっちを見て言う。
「そ、そっか」
思わず目をそらして、ノートをぺらぺらとめくる。
ていうか、なんで書く前提なんだ。これ以上書く予定なんかない。
「書いたら、また読むから」
「また?」
「うん」
オレはよくわからない圧に負けて、「わかった」と答えていた。
日南はノートをオレに手渡すと、機嫌よく席に戻っていった。
受け取ったノートを開いて、書き足す。
『おもしろいよ、喜世のメモ』
教室の雑音も、へこんでいた気持ちも、どこかへ消えていく。
オレだけのノートの世界。
そこに、日南の言葉が増えた。


