猪瀬が出向してから一か月後、佐藤は黒森川で行われている、職場の親睦バーベキューに来ている。
噂通り、針葉樹に囲まれたこの川は神秘的で、ここでピクニックするのは、なかなか趣があった。木製の大きなテーブルとベンチが自然と溶け込み、東欧っぽさを確かに感じるし、太陽光が木々の隙間から降り注いで、テーブルに涼しげな影を作ってくれた。
今日は二軍のリネンのブラウスを選んだ。リトアニア産のではなく、洗いやすい国産量販店の生成り色。煙と油がリトアニアリネンに染みつくのは、計算が合わないから。
ベンチに腰掛け、深呼吸してフレッシュな酸素を吸い込む。瞼を閉じて、風の音を聞く――あーなかなかいいかも。
ここに来たのは、会費分を肉で回収するためで、それ以上の意味はないけど。
パチッと目を開けて、クーラーバッグに手をかける。持参したルーマニア産の低価格帯の白ワインのボトルと強炭酸水を取り出し、会場にあったプラスチックのゴブレットに一対一の割合で注ぎ入れ、スプリッツァーを作る。
喉を潤すと、ドライな味わいとシュワシュワと弾むリズムが心まで躍らせた。
一杯を飲み終えたころ、社員を乗せたバスが続々と到着し、目が合った人には軽く会釈するが、初めて見る顔が多くて佐藤は少し緊張する。
そこに、営業部の顔見知りの面々がバーベキューの準備を始めた。係長が張り切って網を設置しようとしているが、張り方が甘くて、佐藤は黙って手を貸す。炭の配置を整え、生肉用と焼き肉用のトングを厳格に分けた。
「佐藤さん、来られてたんですね」
後ろから声がしたと思ったら、瀬戸が駆け寄ってくる。
「肉、いっぱい焼きますね」
「まかせた」
「佐藤さん、結構、楽しんでるみたいですね」
「違うけど」
バーベキューが始まると、瀬戸が肉や野菜を網に並べ、佐藤はスプリッツァーを片手にそれを眺める。
「あ、そうだ。猪瀬部長、インドの子会社、もう辞めたらしいですよ」
瀬戸が思い出したように口を開く。
「へぇー」
「総務の人が言ってました。なんか、着任してすぐに水にあたって入院して、すぐ帰国したいってことになって、会社に断られて自主退職したらしいです」
「そう」
佐藤は網の焦げが気になり、肉を少しずらして確認し、問題なかったのでまた肉を戻す。
「佐藤さん、もっと感想とかないんですか? ほんと興味ないですよね」
「何を言えばいい?」
「フフッ、もう、あっさりしすぎじゃないですか?」
佐藤はスプリッツァーをグイッと飲み干した。
「もう処理済みだから」
瀬戸が噴き出して、「姐さんって……怖いですよね。笑っちゃいます」と言いながら、焼きあがった肉と野菜を紙皿に盛って、佐藤に差し出した。
「褒め言葉として受け取っておく」
佐藤が受け取って、食べ始めると、向かいのベンチに瀬戸も座り、肉を大口で頬張った。
「姐さん! このスペアリブ、めちゃくちゃ上手く焼けてます!」
瀬戸の輝く笑顔を見ていると、あの非常階段での闇落ちしたみたいな顔は、どこにも見当たらない。すっかり復活を遂げたみたいだ。
肉が焼けたとわかると、周囲も賑やかになってきて、社員たちでワイワイし始める。
係長が音頭を取り、みんな各自持参したドリンクで乾杯する。
瀬戸に代わり、新人社員が肉を焼き始めたが、焦がして先輩に怒られている。すかさず佐藤は無言で焦げた部分をトングで取り除き、網を交換する。
「佐藤さん、網の交換、もう三回目ですよ」と係長は苦笑い。
「焦げは不純物です。味覚のノイズになりますから」
佐藤の強めの言動に係長が引き下がり、瀬戸はクスクス笑いだす。
佐藤は空になったゴブレットに白ワインを注ぎ、次いで炭酸水も加える。木漏れ日に照らされた、淡い黄金色のパチパチと弾ける泡が、キラリと光る。
外で飲む自作のスプリッツァーは悪くない。喉が幸せだ――。
ふと、瀬戸の方を見ると、佐藤の手元をじっと見つめている。
「それ、何ですか?」
「スプリッツァー。白ワインの炭酸割り」
「美味しそう……飲んでみたいです」
缶ビールをゴクゴクと飲み干す瀬戸を見て、仕方ないな、と佐藤は思い、「ご自由に」と告げた。
瀬戸が「ありがとうございます」と元気に答えて、ゴブレットに白ワインと炭酸水を注ぐ。割合が適当だったので、佐藤は黙って炭酸水を少し足してやった。
食事を済ませると、二人並んで座り、黒森川の景色を楽しむ。
夕日が沈む少し前、水面が茜色に染められ始めている。
「不純物フォルダ、もう空になったんですか?」
「まさか。今週は……あと二件ある」
瀬戸が一瞬固まる。
「もしかして……まだ、誰かセクハラされてるんですか?」
「違う。総務の係長が、経費で私物の観葉植物を買ってる」
「え」
「あと、給湯室の珈琲豆を勝手に変えた犯人が、まだ見つかっていない」
「……え?」
「酸味が強すぎる。あれは職場の空気を悪くする」
瀬戸がしばらく黙って、思いついたように口を開く。
「……確か、総務部の方々が公式に購入されてるはずですよね? 全員、月五百円徴収されて」
「そう。定期便の履歴は全てチェックしたけど、前の業者の発注はストップしてる」
「じゃあ、誰が……?」
「今週の経理伝票にも、珈琲豆の項目は一切ない。つまり、会社のシステムを迂回した『不純な現金(お茶代)』が動いてる。でも、総務に聞いても誰も知らないって言われるし」
「……それは、ミステリーですね……その犯人も、処理するんですか?」
「まあ、順番が来たら、そうなるかも」
「ヘヘッ、姐さんお手柔らかに」と瀬戸は目を細めた。
夕暮れの川風がリネンの袖を揺らしている。
二人でスプリッツァーを味わっていると、真っ赤な太陽が針葉樹林に沈んでいく。
耳を澄ませると、遠くの誰かの笑い声と川のせせらぎ、炭酸のシュワシュワと弾ける音と針葉樹の涼やかな騒めきが饗宴している。
「佐藤さん、マトリョーシカって、一番内側に何が入ってるんですか」
唐突な問いに、佐藤は川面から視線を動かさず「何も」と答えると、「え?」と瀬戸は瞳を丸くする。
「一番内側は、ただの、小さい人形が入ってるから」
瀬戸が黙ってしまう。野暮なことを聞く瀬戸を余所に、佐藤はあらためて、自然の中で、舌の上で炭酸を弾かせる心地よさに浸る。
しばらく考えこんでいた瀬戸が、ぼぞっと呟く。
「……佐藤さんって、マトリョーシカみたいですよね。多層になって中に色々入っている感じが」
佐藤の脳裏には、「?」が浮かび、その意味を考えようとして、止める。この子が言ってることがたまに理解不能だ。ジェネレーションギャップだろうか。
「あの……もしかして、俺のフォルダもあったりします?」
佐藤は川面から視線を動かさず、「ある」と答えると、瀬戸は少し言葉に詰まる。
「……里中さんのも?」
「あった。入社の時から退職するまでの」
「……それなら、どうして、その時動かなかったんですか?」
「証拠が足りなかったから」
瀬戸は「なるほど」とボソッと呟き、沈黙が流れるが、その気まずさを断ち切るように、佐藤は少し大きな声で話し出す。
「網の片付けが残ってる」
「わぁっ、俺が片付けるんですか?」
「うん。手伝うから」
瀬戸は「やった」とちょっと嬉しそうに立ち上がる。しっぽがあるのなら、ぱたぱたと振りながら歩いているだろう。
佐藤は最後に黒森川に目を落とす。水面はさっきよりも深い赤に変わっていき、ビーツみたいなマゼンタに染められていく。
その時、「里中くん、元気かな」と、ふいに口から溢れた。
やっとカタを付けられたこと、伝わればいいな。
誰にも聞こえない声だったけど、きっと――。
遠くで瀬戸が「佐藤さん、はやく来てください!」と手を振っている。
答えるように片手で合図して立ち上がり、佐藤はリネンの袖を整えて――。
そして、誰にも見えない角度で口角を一ミリだけ上げた。
―Fin―
噂通り、針葉樹に囲まれたこの川は神秘的で、ここでピクニックするのは、なかなか趣があった。木製の大きなテーブルとベンチが自然と溶け込み、東欧っぽさを確かに感じるし、太陽光が木々の隙間から降り注いで、テーブルに涼しげな影を作ってくれた。
今日は二軍のリネンのブラウスを選んだ。リトアニア産のではなく、洗いやすい国産量販店の生成り色。煙と油がリトアニアリネンに染みつくのは、計算が合わないから。
ベンチに腰掛け、深呼吸してフレッシュな酸素を吸い込む。瞼を閉じて、風の音を聞く――あーなかなかいいかも。
ここに来たのは、会費分を肉で回収するためで、それ以上の意味はないけど。
パチッと目を開けて、クーラーバッグに手をかける。持参したルーマニア産の低価格帯の白ワインのボトルと強炭酸水を取り出し、会場にあったプラスチックのゴブレットに一対一の割合で注ぎ入れ、スプリッツァーを作る。
喉を潤すと、ドライな味わいとシュワシュワと弾むリズムが心まで躍らせた。
一杯を飲み終えたころ、社員を乗せたバスが続々と到着し、目が合った人には軽く会釈するが、初めて見る顔が多くて佐藤は少し緊張する。
そこに、営業部の顔見知りの面々がバーベキューの準備を始めた。係長が張り切って網を設置しようとしているが、張り方が甘くて、佐藤は黙って手を貸す。炭の配置を整え、生肉用と焼き肉用のトングを厳格に分けた。
「佐藤さん、来られてたんですね」
後ろから声がしたと思ったら、瀬戸が駆け寄ってくる。
「肉、いっぱい焼きますね」
「まかせた」
「佐藤さん、結構、楽しんでるみたいですね」
「違うけど」
バーベキューが始まると、瀬戸が肉や野菜を網に並べ、佐藤はスプリッツァーを片手にそれを眺める。
「あ、そうだ。猪瀬部長、インドの子会社、もう辞めたらしいですよ」
瀬戸が思い出したように口を開く。
「へぇー」
「総務の人が言ってました。なんか、着任してすぐに水にあたって入院して、すぐ帰国したいってことになって、会社に断られて自主退職したらしいです」
「そう」
佐藤は網の焦げが気になり、肉を少しずらして確認し、問題なかったのでまた肉を戻す。
「佐藤さん、もっと感想とかないんですか? ほんと興味ないですよね」
「何を言えばいい?」
「フフッ、もう、あっさりしすぎじゃないですか?」
佐藤はスプリッツァーをグイッと飲み干した。
「もう処理済みだから」
瀬戸が噴き出して、「姐さんって……怖いですよね。笑っちゃいます」と言いながら、焼きあがった肉と野菜を紙皿に盛って、佐藤に差し出した。
「褒め言葉として受け取っておく」
佐藤が受け取って、食べ始めると、向かいのベンチに瀬戸も座り、肉を大口で頬張った。
「姐さん! このスペアリブ、めちゃくちゃ上手く焼けてます!」
瀬戸の輝く笑顔を見ていると、あの非常階段での闇落ちしたみたいな顔は、どこにも見当たらない。すっかり復活を遂げたみたいだ。
肉が焼けたとわかると、周囲も賑やかになってきて、社員たちでワイワイし始める。
係長が音頭を取り、みんな各自持参したドリンクで乾杯する。
瀬戸に代わり、新人社員が肉を焼き始めたが、焦がして先輩に怒られている。すかさず佐藤は無言で焦げた部分をトングで取り除き、網を交換する。
「佐藤さん、網の交換、もう三回目ですよ」と係長は苦笑い。
「焦げは不純物です。味覚のノイズになりますから」
佐藤の強めの言動に係長が引き下がり、瀬戸はクスクス笑いだす。
佐藤は空になったゴブレットに白ワインを注ぎ、次いで炭酸水も加える。木漏れ日に照らされた、淡い黄金色のパチパチと弾ける泡が、キラリと光る。
外で飲む自作のスプリッツァーは悪くない。喉が幸せだ――。
ふと、瀬戸の方を見ると、佐藤の手元をじっと見つめている。
「それ、何ですか?」
「スプリッツァー。白ワインの炭酸割り」
「美味しそう……飲んでみたいです」
缶ビールをゴクゴクと飲み干す瀬戸を見て、仕方ないな、と佐藤は思い、「ご自由に」と告げた。
瀬戸が「ありがとうございます」と元気に答えて、ゴブレットに白ワインと炭酸水を注ぐ。割合が適当だったので、佐藤は黙って炭酸水を少し足してやった。
食事を済ませると、二人並んで座り、黒森川の景色を楽しむ。
夕日が沈む少し前、水面が茜色に染められ始めている。
「不純物フォルダ、もう空になったんですか?」
「まさか。今週は……あと二件ある」
瀬戸が一瞬固まる。
「もしかして……まだ、誰かセクハラされてるんですか?」
「違う。総務の係長が、経費で私物の観葉植物を買ってる」
「え」
「あと、給湯室の珈琲豆を勝手に変えた犯人が、まだ見つかっていない」
「……え?」
「酸味が強すぎる。あれは職場の空気を悪くする」
瀬戸がしばらく黙って、思いついたように口を開く。
「……確か、総務部の方々が公式に購入されてるはずですよね? 全員、月五百円徴収されて」
「そう。定期便の履歴は全てチェックしたけど、前の業者の発注はストップしてる」
「じゃあ、誰が……?」
「今週の経理伝票にも、珈琲豆の項目は一切ない。つまり、会社のシステムを迂回した『不純な現金(お茶代)』が動いてる。でも、総務に聞いても誰も知らないって言われるし」
「……それは、ミステリーですね……その犯人も、処理するんですか?」
「まあ、順番が来たら、そうなるかも」
「ヘヘッ、姐さんお手柔らかに」と瀬戸は目を細めた。
夕暮れの川風がリネンの袖を揺らしている。
二人でスプリッツァーを味わっていると、真っ赤な太陽が針葉樹林に沈んでいく。
耳を澄ませると、遠くの誰かの笑い声と川のせせらぎ、炭酸のシュワシュワと弾ける音と針葉樹の涼やかな騒めきが饗宴している。
「佐藤さん、マトリョーシカって、一番内側に何が入ってるんですか」
唐突な問いに、佐藤は川面から視線を動かさず「何も」と答えると、「え?」と瀬戸は瞳を丸くする。
「一番内側は、ただの、小さい人形が入ってるから」
瀬戸が黙ってしまう。野暮なことを聞く瀬戸を余所に、佐藤はあらためて、自然の中で、舌の上で炭酸を弾かせる心地よさに浸る。
しばらく考えこんでいた瀬戸が、ぼぞっと呟く。
「……佐藤さんって、マトリョーシカみたいですよね。多層になって中に色々入っている感じが」
佐藤の脳裏には、「?」が浮かび、その意味を考えようとして、止める。この子が言ってることがたまに理解不能だ。ジェネレーションギャップだろうか。
「あの……もしかして、俺のフォルダもあったりします?」
佐藤は川面から視線を動かさず、「ある」と答えると、瀬戸は少し言葉に詰まる。
「……里中さんのも?」
「あった。入社の時から退職するまでの」
「……それなら、どうして、その時動かなかったんですか?」
「証拠が足りなかったから」
瀬戸は「なるほど」とボソッと呟き、沈黙が流れるが、その気まずさを断ち切るように、佐藤は少し大きな声で話し出す。
「網の片付けが残ってる」
「わぁっ、俺が片付けるんですか?」
「うん。手伝うから」
瀬戸は「やった」とちょっと嬉しそうに立ち上がる。しっぽがあるのなら、ぱたぱたと振りながら歩いているだろう。
佐藤は最後に黒森川に目を落とす。水面はさっきよりも深い赤に変わっていき、ビーツみたいなマゼンタに染められていく。
その時、「里中くん、元気かな」と、ふいに口から溢れた。
やっとカタを付けられたこと、伝わればいいな。
誰にも聞こえない声だったけど、きっと――。
遠くで瀬戸が「佐藤さん、はやく来てください!」と手を振っている。
答えるように片手で合図して立ち上がり、佐藤はリネンの袖を整えて――。
そして、誰にも見えない角度で口角を一ミリだけ上げた。
―Fin―



