マトリョーシカを開けるように、佐藤さんは悪を暴く

 翌朝、早めに起きた佐藤はイルガチェフをドリップし、お気に入りのマグに注ぐ。ピーチやライチのような香りは、佐藤の朝を至福の時間にする。

 六時のアラームが鳴り、スマートフォンを手に取る。予約メールの送信完了を確認して、画面を伏せた。

 珈琲とライ麦パンのトーストで軽く朝食を済ませて、早めに出社することにした。今日は目まぐるしい一日になりそうだから。


 オフィスに着いた時には、すでに昨日までとは空気が違っていた。
 いつもの、猪瀬を囲む社員たちが談笑している風景がない。それぞれが自分のデスクに座り、静寂を保ち、猪瀬のデスクは妙に整頓されている。

 佐藤も静かに自席に座り、デスクのキーボードをアルコールシートで拭き、経費精算書のファイルを開いた。

 午前中、係長が忙しそうに席を外したり、戻ってきたりを繰り返していた。それは、猪瀬がオフィスに顔を出さないことに関係しているのだろう。
 普段は見かけないコンプライアンス部の担当者が廊下を行き来し、係長が困った顔で電話をしていた。

 佐藤は自分の仕事を淡々とこなす。書類を処理し、シュレッダーにかける。シュシュシュと規則正しい音が――凄く気持ちいい。


 昼過ぎになり、外回りに出ていた瀬戸が帰社し、佐藤のデスクに立ち寄って耳打ちする。

「……呼ばれました。コンプライアンス部に」

「行きなさい。全て送信済みだから」

「はい。でも……ちょっと怖いです」

「正直に話せばいい。君は何も悪いことをしていないから」

 瀬戸がコクンと頷き、それから少し躊躇しながら、続ける。

「佐藤さんは、呼ばれてないんですか?」

「うん。呼ばれたら行く」

 瀬戸は覚悟を決めたのか、「よしっ」と気合を入れた。

「いってきます。それと……ありがとうございました」

 佐藤はモニターから視線を外さずに、「早く行きなさい、時間が勿体ない」と瀬戸を送り出す。

 瀬戸が歩きかけて、また戻ってきた。

「あの……佐藤さんって、友達いますか?」  

 佐藤が「いない」とぶっきらぼうに答えると、「そう、ですか」と瀬戸はニヤつく。佐藤は、「早く行きなさい」と強めに追い払う。
 こんな会話をするのは里中以来だ、と佐藤は心の中で笑みをこぼした。

 ◇

 猪瀬の処遇が決まったのは、メール送信から二週間後だった。そして、その間、猪瀬がオフィスに姿を見せることはなかった。社員達もただの休職ではないことに、気づいてはいるけど、話題にする者はいない。

 総務からの通達は、社内メールで一行だけだった。
『猪瀬部長は海外事業部への異動となりました』

 インドの子会社だという話はすぐに広まり、海外経験豊富な人材として抜擢、という建前だったが、誰もそうは思っていなかった。そこがこの組織の墓場であることは、誰もが知る事実だから。

 会社というのは、自浄作用があるように見せかけるのが得意だ。正面から裁くより、遠くに飛ばす方を選ぶ。

 佐藤は今日も淡々と仕事をこなす。シュレッダーのゲージを確認し、コピー用紙の補充も完璧だ。

 手帳を開き、今週の不純物リストを確認する。
「一件目、営業部の接待費の水増し請求」と
「三件目の猪瀬部長(52)のあれ」に横線を入れて、脳内フォルダの「不純物/猪瀬」にも、処理済みのラベルを貼った。

 やっと二件が綺麗に片付き、清潔になった、と佐藤は心の中で喜びをかみしめた。

 ◇

 数日後、バインダーを持った瀬戸が佐藤のデスクに立ち寄った。

「毎月恒例の部署のバーベキューなんですけど、佐藤さんも来ませんか? 来月は黒森川でピクニックなんです」  

 佐藤は差し出されたバインダーを、チラリと見た。
『参加費三千円。飲み物持ち込み可。バス送迎あり。』
 佐藤は数秒考えて口を開いた。

「……行かない。やることあるから」

「えー、いつも来ないじゃないですか。俺、お世話になったし、肉とか焼きます!」 

 佐藤は再び考え始めた。黒森川は、東欧好きにはたまらない、神秘的な針葉樹林から流れる川なのだ。飲み物持ち込み可、という文字をもう一度確認する。

「……会費分、肉で回収できる?」

「え、たぶん、できますよ」

「行く」  

 瀬戸が「え、基準そこなんですか」とおどけながら、参加者名簿に佐藤の名前を記入した。そのぱぁーっと明るい笑顔は、しっぽがあるのならば、振っているだろう。