夜七時のオフィスは、ほとんどの社員は残っておらず、照明の調光も落とされていた。猪瀬に呼ばれて、瀬戸は営業部の一番奥にある会議室に連れて行かれる。
佐藤はその背中を見送り、二人が会議室に入ったと同時に席を立ち、後を追う。ドアの前で暫く様子を伺うと、中から猪瀬の声が聞こえる。それは、なだめるような声で、思ったより感情的ではないのかもしれない。
「いいか瀬戸、俺はお前のことを本気で心配してる。こんな付き合いの仕方じゃ、この会社で生き残れない。俺が引っ張ってやるから」
「お言葉ですが、こんなの業務外です」
瀬戸の声は怯えているようだけど、しっかりと拒絶できたみたいで佐藤は安心した。しかし、猪瀬の声は大きくなり、威圧感が増していく。
「はぁ……口答えするようになって。あいつに似てるなお前は。里中も最初は頑固で手こずったけど、最終的には俺に感謝してたからな。俺の指導のおかげで成長できたんだ。だから、言う事を聞きなさい」
「やめてください」という切羽詰まった瀬戸の声が聞こえて、佐藤は大きく息を吸い込んでから、ドアに手をかける。
「ガチャ」とレバーを下げ、普段と変わらないポーカーフェイスで足を踏み入れた。
薄暗い会議室の中で、猪瀬部長が瀬戸の肩を壁に押しつけ、もみ合っている姿がスポットライトのように照らされていた。
瀬戸は必死に顔を背けて、唇をきつく結んでいる。身体は震えていて、胸ポケットをぎゅっと押さえていた。
佐藤の手には、しっかりとマトリョーシカが握られている。
「佐藤! こんな時間に何の用だ? 派遣は七時までの勤務のはずだ」
猪瀬の顔は怒りで歪んでいる。それはそうか。こんな所を見られたのだから。
佐藤は無言でトートバッグから取り出した書類を置き、手に持っていたそれをパカッと開けて、一層目を閉じて会議室のテーブルに「こつん」と音を立てて置いた。
「接待費の偽造データを去年から纏めたものです。全件揃ってます」
猪瀬は真顔になり、動きを止めた。
「な、何の話だ。俺は正規の手続きで――」
「正規の手続きで、タクシー代が若手と二人きりの夜だけ三倍になるんですか」
「そっ、それは……というか、そのダルマみたいなの、何?」
猪瀬が怪訝そうに眉をひそめると、横から瀬戸が口を開いた。
「部長、これはマトリョーシカです」
「知るかよそんなもん!」
その怒声を佐藤は完全に無視し、淡々と二層目を手に取って開き、二つ目も閉じて、次の記録表と一緒に隣へ並べる。
「架空発注の証跡です。経理部長も知らない案件で、よくここまで丁寧に隠したな、と思いました」
感心はしていなかったが、事実だ。猪瀬の顔色が変わり、焦りが見え始めてきた。
「それは、状況証拠で、俺が直接命令した証拠ではない!」
「この架空発注で動いた裏金が、営業部の接待費の水増し請求に化けています。先月十四日の夜九時、社内パソコンから発行された請求書データがありますが、その時間、あなたは瀬戸くんを連れて歓楽街にいた。このオフィスにいないはずの人間が送ったデータが、書類の数字と繋がりました」
猪瀬は顔を引きつらせ、拳をぎゅっと握りしめている。
佐藤は、次の資料と三層目の人形を一緒に並べる。
「里中くんが辞める前後、三ヶ月分の記録です。さっき、里中くんが感謝していた、とおっしゃいましたね」
「あ、ああ。あいつは俺の指導で成長したからな……」
佐藤は猪瀬をキリッと睨み、強い口調になる。
「彼が辞める日に残した最後の言葉をご存知ですか? 『男がそんなこと言ったら、笑われるだけですよ』とだけで、感謝の言葉は一つもありません」
猪瀬の顔が、ビーツみたいなマゼンタ色になったが、佐藤の冷静さは変わらない。
四層目パカッと開け、USBメモリを取り出し、テーブルに置き、隣にそれも閉じて並べた。
「今の状況を録音したものになります。しかし、こちらはサブでもう一つも録音中です」
猪瀬がバンっと机を叩いた。
「舐めたことしやがって!」
その手は赤くなり、怒りで強張っていた。包容力のある上司という仮面が剥がれていく。
「ふざけるな! こんな証拠を集めてどうする気だ。お前みたいな派遣の透明人間ごときが――」
佐藤は、五層目の小さな人形もテーブルに置く。
「透明だから、よく見えるんです」と言いながら、スマートフォンの画面を猪瀬に向けた。
「役員全員とコンプライアンス部への送信、明朝六時に予約済みです。止める方法は、もうありません」
「お、お前、それがどういうことか分かってるのか。俺は長年この会社に身を捧げてきたんだぞ」
猪瀬の声はどんどん大きくなる。もう終わりに近づいていると、佐藤は思った。
「貢献されてきたのは事実ですが、不正は別の話です。これらは、コンプライアンス部が評価します。私の仕事は、データを揃えることだったので」
佐藤は淡々としていた。説教でも怒りでもなく、業務報告のように。
猪瀬の目が泳いでいる。自分が積み上げてきた不純物の重さで、足が床から離れないのかもしれない。
「派遣の分際で……俺の人生を終わらせるのか」
絞り出すような、懇願するような声だったが、佐藤は譲歩しない。
「あなたの人生なんて私には関係ない。視界に不純物があったから、処理しただけなので」
荒い鼻息を吹かせ、佐藤に向かってズカズカと歩いてきて、その両手が胸ぐらに伸びてきた。
――あっ、殴られる。
佐藤は思わず瞼を閉じた、その瞬間。
「触るな」
瀬戸のハッキリとした制止が響いた。驚いて瞼を開けると、瀬戸が佐藤の前に立ちはだかっていた。いつもの優男の瀬戸とは違う、初めて見る顔で、怯えた表情は消えていた。
「暴力を振るうなら、今すぐ警察に通報します」
「戯言が! お前ら二人でグルになって、俺を嵌めたのか」
「猪瀬部長。あなたが『男同士の信頼』って言うたびに、ずっと気持ち悪かった。それを言えなかった自分も、全部含めてもう終わりにします」
大きな背中が頼もしいな、と佐藤は思った。
「……よく言えたね」とボソッと呟くと、瀬戸が、「お疲れ様でした」と振り向きざまに言った。
猪瀬は言葉を失い、その場で立ちすくんだ。そして、頭を項垂れたまま、会議室から出ていった。
テーブルに残された文書と几帳面に並べられた五体のマトリョーシカが、いつもより笑っている気がした。
「……佐藤さん。これって、毎回こうやって使うんですか? めちゃくちゃシュールですね」
「今回が初めて」
「じゃあ、なんで……いつも持ち歩いてるんですか?」
「可愛いから」
瀬戸は一瞬目を丸くしたが、「佐藤さんらしいです」と柔らかく目を細める。
佐藤はマトリョーシカを小さい順に丁寧に重ね、一つの丸い人形に戻し、トートバッグにしまった。そしてパソコンを取り出し、瀬戸の録音データを取り込み、スマートフォンの送信予約にファイルを添付した。明朝六時の予約は変更なしだ。
「佐藤さんって、マトリョーシカみたいに暴くんですね」
「なにそれ」
佐藤は、瀬戸の言動に少し困惑する。
「一つずつ丁寧に、外側から問題を炙り出していくんです」
佐藤は、ぽかんとしながらも時計を確認する。
「帰りなさい。明日も仕事だから」
「はい。佐藤さんは?」
「私も帰る」
佐藤は会議室の電気を消した。
佐藤はその背中を見送り、二人が会議室に入ったと同時に席を立ち、後を追う。ドアの前で暫く様子を伺うと、中から猪瀬の声が聞こえる。それは、なだめるような声で、思ったより感情的ではないのかもしれない。
「いいか瀬戸、俺はお前のことを本気で心配してる。こんな付き合いの仕方じゃ、この会社で生き残れない。俺が引っ張ってやるから」
「お言葉ですが、こんなの業務外です」
瀬戸の声は怯えているようだけど、しっかりと拒絶できたみたいで佐藤は安心した。しかし、猪瀬の声は大きくなり、威圧感が増していく。
「はぁ……口答えするようになって。あいつに似てるなお前は。里中も最初は頑固で手こずったけど、最終的には俺に感謝してたからな。俺の指導のおかげで成長できたんだ。だから、言う事を聞きなさい」
「やめてください」という切羽詰まった瀬戸の声が聞こえて、佐藤は大きく息を吸い込んでから、ドアに手をかける。
「ガチャ」とレバーを下げ、普段と変わらないポーカーフェイスで足を踏み入れた。
薄暗い会議室の中で、猪瀬部長が瀬戸の肩を壁に押しつけ、もみ合っている姿がスポットライトのように照らされていた。
瀬戸は必死に顔を背けて、唇をきつく結んでいる。身体は震えていて、胸ポケットをぎゅっと押さえていた。
佐藤の手には、しっかりとマトリョーシカが握られている。
「佐藤! こんな時間に何の用だ? 派遣は七時までの勤務のはずだ」
猪瀬の顔は怒りで歪んでいる。それはそうか。こんな所を見られたのだから。
佐藤は無言でトートバッグから取り出した書類を置き、手に持っていたそれをパカッと開けて、一層目を閉じて会議室のテーブルに「こつん」と音を立てて置いた。
「接待費の偽造データを去年から纏めたものです。全件揃ってます」
猪瀬は真顔になり、動きを止めた。
「な、何の話だ。俺は正規の手続きで――」
「正規の手続きで、タクシー代が若手と二人きりの夜だけ三倍になるんですか」
「そっ、それは……というか、そのダルマみたいなの、何?」
猪瀬が怪訝そうに眉をひそめると、横から瀬戸が口を開いた。
「部長、これはマトリョーシカです」
「知るかよそんなもん!」
その怒声を佐藤は完全に無視し、淡々と二層目を手に取って開き、二つ目も閉じて、次の記録表と一緒に隣へ並べる。
「架空発注の証跡です。経理部長も知らない案件で、よくここまで丁寧に隠したな、と思いました」
感心はしていなかったが、事実だ。猪瀬の顔色が変わり、焦りが見え始めてきた。
「それは、状況証拠で、俺が直接命令した証拠ではない!」
「この架空発注で動いた裏金が、営業部の接待費の水増し請求に化けています。先月十四日の夜九時、社内パソコンから発行された請求書データがありますが、その時間、あなたは瀬戸くんを連れて歓楽街にいた。このオフィスにいないはずの人間が送ったデータが、書類の数字と繋がりました」
猪瀬は顔を引きつらせ、拳をぎゅっと握りしめている。
佐藤は、次の資料と三層目の人形を一緒に並べる。
「里中くんが辞める前後、三ヶ月分の記録です。さっき、里中くんが感謝していた、とおっしゃいましたね」
「あ、ああ。あいつは俺の指導で成長したからな……」
佐藤は猪瀬をキリッと睨み、強い口調になる。
「彼が辞める日に残した最後の言葉をご存知ですか? 『男がそんなこと言ったら、笑われるだけですよ』とだけで、感謝の言葉は一つもありません」
猪瀬の顔が、ビーツみたいなマゼンタ色になったが、佐藤の冷静さは変わらない。
四層目パカッと開け、USBメモリを取り出し、テーブルに置き、隣にそれも閉じて並べた。
「今の状況を録音したものになります。しかし、こちらはサブでもう一つも録音中です」
猪瀬がバンっと机を叩いた。
「舐めたことしやがって!」
その手は赤くなり、怒りで強張っていた。包容力のある上司という仮面が剥がれていく。
「ふざけるな! こんな証拠を集めてどうする気だ。お前みたいな派遣の透明人間ごときが――」
佐藤は、五層目の小さな人形もテーブルに置く。
「透明だから、よく見えるんです」と言いながら、スマートフォンの画面を猪瀬に向けた。
「役員全員とコンプライアンス部への送信、明朝六時に予約済みです。止める方法は、もうありません」
「お、お前、それがどういうことか分かってるのか。俺は長年この会社に身を捧げてきたんだぞ」
猪瀬の声はどんどん大きくなる。もう終わりに近づいていると、佐藤は思った。
「貢献されてきたのは事実ですが、不正は別の話です。これらは、コンプライアンス部が評価します。私の仕事は、データを揃えることだったので」
佐藤は淡々としていた。説教でも怒りでもなく、業務報告のように。
猪瀬の目が泳いでいる。自分が積み上げてきた不純物の重さで、足が床から離れないのかもしれない。
「派遣の分際で……俺の人生を終わらせるのか」
絞り出すような、懇願するような声だったが、佐藤は譲歩しない。
「あなたの人生なんて私には関係ない。視界に不純物があったから、処理しただけなので」
荒い鼻息を吹かせ、佐藤に向かってズカズカと歩いてきて、その両手が胸ぐらに伸びてきた。
――あっ、殴られる。
佐藤は思わず瞼を閉じた、その瞬間。
「触るな」
瀬戸のハッキリとした制止が響いた。驚いて瞼を開けると、瀬戸が佐藤の前に立ちはだかっていた。いつもの優男の瀬戸とは違う、初めて見る顔で、怯えた表情は消えていた。
「暴力を振るうなら、今すぐ警察に通報します」
「戯言が! お前ら二人でグルになって、俺を嵌めたのか」
「猪瀬部長。あなたが『男同士の信頼』って言うたびに、ずっと気持ち悪かった。それを言えなかった自分も、全部含めてもう終わりにします」
大きな背中が頼もしいな、と佐藤は思った。
「……よく言えたね」とボソッと呟くと、瀬戸が、「お疲れ様でした」と振り向きざまに言った。
猪瀬は言葉を失い、その場で立ちすくんだ。そして、頭を項垂れたまま、会議室から出ていった。
テーブルに残された文書と几帳面に並べられた五体のマトリョーシカが、いつもより笑っている気がした。
「……佐藤さん。これって、毎回こうやって使うんですか? めちゃくちゃシュールですね」
「今回が初めて」
「じゃあ、なんで……いつも持ち歩いてるんですか?」
「可愛いから」
瀬戸は一瞬目を丸くしたが、「佐藤さんらしいです」と柔らかく目を細める。
佐藤はマトリョーシカを小さい順に丁寧に重ね、一つの丸い人形に戻し、トートバッグにしまった。そしてパソコンを取り出し、瀬戸の録音データを取り込み、スマートフォンの送信予約にファイルを添付した。明朝六時の予約は変更なしだ。
「佐藤さんって、マトリョーシカみたいに暴くんですね」
「なにそれ」
佐藤は、瀬戸の言動に少し困惑する。
「一つずつ丁寧に、外側から問題を炙り出していくんです」
佐藤は、ぽかんとしながらも時計を確認する。
「帰りなさい。明日も仕事だから」
「はい。佐藤さんは?」
「私も帰る」
佐藤は会議室の電気を消した。



