マトリョーシカを開けるように、佐藤さんは悪を暴く

 終業時間が迫る五時前に、佐藤は非常階段を歩いていた。総務部へ資料を届けるため、足早に下りていく。

 何故エレベーターを使わないのか、と思われるかもしれないが、そのフロアにある喫煙所を避けるためだ。非常階段から行けば前を通らないで済む。

 煙草の煙がリトアニアリネンのブラウスに染みつくのが嫌で、体を気遣っているとかではない。非常階段の空気は淀んでいるけど、煙草の匂いよりはましだ。

 少し進むと丸まった背中が見えた。階段に座って膝を抱えている人がいる。体調でも悪いのかな、と恐る恐る近づくと――それは瀬戸だった。

「こんな所で何してる……」

「すっ、すみません!」

 瀬戸が慌てて立ち上がると、うさぎみたいに真っ赤な目が見えてしまった。多分、泣いていたのだろう。ここは綺麗とは言えないし、直に座ってしまうなんて、思考のリソースが落ちている証拠だ。

 佐藤は一瞥して、手すりに軽く背を預けた。

「里中くん、覚えてる?」

 脈絡のない問いに、瀬戸が固まった。

「……去年辞められた、里中さんですか?」

「そう。君、今、同じ顔してた」

 しばらく沈黙が流れて、かすかに聞こえる、非常窓に軽く打ち付けられる雨音だけが響いている。

「男なのに、こんなの……おかしいですよね。笑ってください」
 
 おかしくない。それに、おかしいのは君ではない。
 佐藤はグレーの麻のハンカチを取り出し、瀬戸に向かって放った。

「男だからとか、笑われるとか、そういうのはマトリョーシカの国別デザイン差異くらいどうでもいい」

 瀬戸はポカンとした顔でハンカチをキャッチし、「すいません」と言いながら涙を拭う。
 佐藤はトートバッグからマトリョーシカを取り出して、二つパカパカと手慣れた様子で開ける。

「……それって、なんなんですか?」

「マトリョーシカ。多層のお人形」

「あ、中からいっぱい出てくるやつですね」

「そう」

 三層目も開け、中からUSBメモリを取り出し、瀬戸のシャツの胸ポケットに入れた。

「これは、いったい……」

 瀬戸は胸ポケットを押さえながら、佐藤を見上げる。

「次、二人きりになる時、それを持ってなさい」

「えっ……」

「小型の録音機能つきで、ボタンを押すだけでいい。それと、三日間、断り続けなさい。四日目に、猪瀬は痺れを切らして呼び出しをかけるはずだから」

「……なんで分かるんですか?」

「パターンがあるから。あのタイプは、三回断られると強硬手段に出る」

「なるほど……」と感心したように、瀬戸は瞳を丸くする。

「腐る前に、掃除する。ただ、それだけ」

「……佐藤さん、部長を告発するんですか? それって、怖くないですか?」

 怖い、というのは佐藤には分からない感情だ。
 あるとすれば――不純物に視界を汚染される不快感。それは怖さではないだろう。

「目をつけられる前に片付けるから、怖くない」

 唖然としている瀬戸を残して、佐藤は階段を下りて総務部へ向かった。

 ◇

 その夜、佐藤は自宅で夕食の準備を始めた。
 格子柄のリネンエプロンをつけ、琺瑯鍋にお湯を沸かしてビーツを茹で始める。

 ビーツは下処理が面倒だ。冷ましてから皮を剥かないと、指先が深紅に染められて取れなくなる。順番を守らなければ、余計な手間が増える。全ての工程には意味がある。人生も料理も――。

 下ごしらえを終えたビーツを、ヨーグルトと合わせてブレンダーにかける。みるみる色がポップになり、完成した鮮やかなピンクのスープをポーリッシュポタリーのボウルに注ぐ。

 軽くトーストしたサワーブレッドには、クリームチーズを塗りディルを散らす。
 ささやかなディナーの始まりだ。

 スープを啜りながら、スマートフォンの猪瀬のフォルダを開く。実は、佐藤は一年前から記録している。里中が辞めるまでのことを。

 接待費の偽造、「若手育成費」という名目の私的流用。
 猪瀬の深夜タクシー急増の時期や時間帯は、里中の残業記録と重なっていた。
 里中はあの時、何も話してくれなかったけど、経費精算書は佐藤が毎週チェックして保存しておいたのだ。

 ふいに、棚のマグカップに視線を移す。里中がくれた、紺地に黄色い花のボレスワヴィエツの陶器に。

 受け取った時、佐藤は「趣味は……悪くない」とだけ返した。それが、里中への最大級の賛辞だった。

 彼は職場で唯一、佐藤と趣味の話ができる人間だった。
 東欧の食器の話をすると瞳を輝かせたり、マトリョーシカの層構造の話をすると「人間関係みたいですね」なんて、言ってたっけ。

 男のくせに可愛いものが好きなんて、と笑う周囲の声を、「好きなものは好きですから」とはにかんで受け流していたり……その強さが、佐藤は少しだけ好きだった。

 けれど、その「可愛いもの好き」が猪瀬の目に留まり、最悪な不幸が始まったのだ。

「里中、お前は感性が女みたいだな。もっと男らしく鍛えてやるよ」とニヤニヤしながら里中の髪にふれる、いやらしい顔を思い出す……。

 猪瀬の「指導」という名の侵食が始まると、里中のデスクから少しずつ、彼が大切にしていた東欧の文房具が消えていった。
 代わりに増えていったのは、猪瀬に連れ回された翌朝のひどく浮腫んだ顔と、影を落とした覇気のない目だ。

 他人のプライベートに興味のない佐藤だが、一度だけ、給湯室で聞いたことがある。

「……何か、されてるの?」

 彼は、マグカップを洗う手を止めて、無理して微笑んだ。

「……いえ。部長は、僕を期待してくれてるだけですから」

 震える声でそう言った時、彼の指が滑り、マグカップがシンクに落ちた。カツン、と小さな音がして、縁が欠けたのだ。取り返しのつかない音だ、と思った。

 彼は最後まで、詳しいことは話してくれなかった。

「男がそんなこと言ったら、笑われるだけですよ」。それが、会社を去る日に残した最後の言葉だった。

 あの時、もっと早く動いていれば――思考がそこへ向かいかけて、佐藤は静かにその思考を遮断した。

 食事を済ませてPCを開く。マトリョーシカを開けていき、五体をテーブルに並べる。

 一層目、接待費および、経費の水増し。
 二層目、架空発注。
 三層目、里中件の前歴。
 四層目、瀬戸の録音データ(取得中)。
 五層目、役員へのメール予約。

 五日後の朝六時、自動送信される設定にした。
 四日目の夜に取得予定の録音データを添付すれば、準備は完了する。
 あとは、その時を待つだけだ。

 キーボードを叩く音だけが、静かな部屋に響き、脳内フォルダに「猪瀬/送信待ち」とラベルを貼った。

 ◇

 計画は順調で、三日間、瀬戸は猪瀬の誘いを断り続けた。佐藤は斜め前のデスクからその姿を傍観する。

 一日目、「すみません、今日は先約があって」と言うと、猪瀬は「そうか、次な」と笑っていた。
 二日目、「体調が少し……」には「俺が若い頃は多少しんどくても飲みに行ったぞ」と苦笑い。
 三日目の「用事がありまして」には、猪瀬の表情から笑みは消えていた。

 瀬戸にこんなにも断られたことがないから、きっと混乱しているだろう。
 佐藤はその変化を視界の端で観測し、計画通りだと心のなかで口元を綻ばせる。

 四日目の夕方、猪瀬が瀬戸のデスクに来て、「今夜、会議室で少し話がある」と真顔で言い捨てると、彼の顔はみるみる青ざめていく。

 佐藤はキーボードから手を離し、トートバッグの中のマトリョーシカにそっと触れた。
 ――今夜、全てを片付ける。