午後二時の会議室。今日もコーヒーの味がイマイチだ。豆が完全に切り替えられてしまったようだ。佐藤は以前の珈琲豆が気に入っていた。酸味が少なく中煎りで甘みがあるモカ、エチオピアのイルガチェフ。あの味が恋しい。
月例ミーティングが終わりに差し掛かった頃、猪瀬が瀬戸に声をかける。
「瀬戸、お前のプレゼン、熱量は伝わったぞ。若いのに意外と根性があるな。俺が若い頃はもっと下手くそだったからな。ガッハハハ」
下品な笑い方だけど、正規社員達はみんな笑顔で対応している。冷めた目で見ているのは佐藤や派遣社員のみである。
「部長、相変わらず面倒見がいいですね」という太鼓持ち社員の声や、「猪瀬部長って、ああ見えて優しいんですよね」と隣の席の上司と談笑する新人の女子社員。
「猪瀬部長、ああ見えて今期の数字、営業部でトップなんだよね」
「昔、本当に助けてもらった」というベテラン社員の声も聞こえてきた。
仕事ができる人間が、別の場所で腐っている。よくある話だ、と佐藤は思った。よくある話だからこそ、誰も気づかないのだろう。
「瀬戸、お前ほんとイケメンだし、愛され顔だよな」
猪瀬が笑いながら、瀬戸の頭を軽く撫でた。また彼が絡まれていることに、佐藤は嫌悪感を抱く。
「取引先のおっさんまで、お前には甘いもんな」
撫でられ続けているからか、瀬戸の肩がぴくっと揺れた。
「部長、やめてください」
「なんで? 可愛がってるだけじゃん」
猪瀬は悪びれずニヤニヤしていて、気持ち悪さは増していく。
「お前、そういうとこだぞ。無防備っていうか。変なやつに引っかかるタイプだろ?」
佐藤は嫌悪感に耐えられず、書類に視線を落とし、「今、まさに、引っかかっています」とボソッと呟くが、空調の音にかき消される。
猪瀬の下品な笑い声と、瀬戸の引きつった笑顔で会議は終わった。しかし、その手が瀬戸の肩に移り、三秒程撫で続けていた。触り方が生理的に受け付けない。
佐藤は議事録を取りながらその三秒を記録した。感情ではなく観測値として。
会議室を出る時、瀬戸と目が合ってしまった。少し気まずそうで、助けを求めているようにも見えるが、まだ――証拠が揃っていない。
佐藤は一瞬だけ迷ったが、視線を手元に戻した。
三件目は、早急に詰める必要がある。
午後三時半。休憩時間が終わり、皆席に戻り始めた時、猪瀬が瀬戸のデスクにドカッと腰を下ろした。
佐藤はドン引きしていた。あのように他人のデスクに乗るのは、支配の表明だからだ。椅子ではなく机に座ることで、相手の領域を物理的に侵食している。
猪瀬本人はそれを意識していないかもしれないが、本心では瀬戸を支配したいのだろう。
「昨日の資料さ、ちょっと甘いよなぁ。今夜、飲みながらじっくり『指導』してやるから。瀬戸、お前みたいなタイプって、放っとけないよな~」
猪瀬が紙コップのコーヒーを飲みながら言う。
「昔から、俺って後輩に懐かれるタイプで、距離近いってよく言われるんだよ。犬っぽい後輩に好かれるみたいでさ~」
瀬戸が固まっている。いつものようにヘラヘラ笑ってやり過ごすことはないし、怖がっているのかも。
佐藤は経費精算書から顔を上げずに話に割り込む。
「確かに。犬って上下関係に敏感ですからね」
「だろ?」と猪瀬が佐藤に普通に答える。邪魔者扱いはしないようだ。しかし、瀬戸の表情が緩むことはなかった。
「男同士、腹を割って話せばもっと仕事がしやすくなると思うぞ。俺は昭和の人間だから、昔からのやり方で、お前みたいな若い子には、しっかり教えてやらないとな」
猪瀬の手が、瀬戸の肩をポンと叩いた。というより掴むに近い。瀬戸は頬を引き攣らせて「はい、ご指導よろしくお願いします」と、か細い声で返す。
周囲の社員は各自のモニターから視線を動かさない。関わりたくないというのが見て取れる。瀬戸が次の猪瀬のターゲットだということが周知の事実だからだ。しかし、ここでは腐ったミカンを取り除くことはタブーである。
佐藤もモニターに視線を戻した。シュレッダーのゲージを確認し、今日やるべき作業のリストを更新する。
猪瀬の件は三件目だ。先の二件を片付けてから、と思っていたけど、早急に着手することにした。
月例ミーティングが終わりに差し掛かった頃、猪瀬が瀬戸に声をかける。
「瀬戸、お前のプレゼン、熱量は伝わったぞ。若いのに意外と根性があるな。俺が若い頃はもっと下手くそだったからな。ガッハハハ」
下品な笑い方だけど、正規社員達はみんな笑顔で対応している。冷めた目で見ているのは佐藤や派遣社員のみである。
「部長、相変わらず面倒見がいいですね」という太鼓持ち社員の声や、「猪瀬部長って、ああ見えて優しいんですよね」と隣の席の上司と談笑する新人の女子社員。
「猪瀬部長、ああ見えて今期の数字、営業部でトップなんだよね」
「昔、本当に助けてもらった」というベテラン社員の声も聞こえてきた。
仕事ができる人間が、別の場所で腐っている。よくある話だ、と佐藤は思った。よくある話だからこそ、誰も気づかないのだろう。
「瀬戸、お前ほんとイケメンだし、愛され顔だよな」
猪瀬が笑いながら、瀬戸の頭を軽く撫でた。また彼が絡まれていることに、佐藤は嫌悪感を抱く。
「取引先のおっさんまで、お前には甘いもんな」
撫でられ続けているからか、瀬戸の肩がぴくっと揺れた。
「部長、やめてください」
「なんで? 可愛がってるだけじゃん」
猪瀬は悪びれずニヤニヤしていて、気持ち悪さは増していく。
「お前、そういうとこだぞ。無防備っていうか。変なやつに引っかかるタイプだろ?」
佐藤は嫌悪感に耐えられず、書類に視線を落とし、「今、まさに、引っかかっています」とボソッと呟くが、空調の音にかき消される。
猪瀬の下品な笑い声と、瀬戸の引きつった笑顔で会議は終わった。しかし、その手が瀬戸の肩に移り、三秒程撫で続けていた。触り方が生理的に受け付けない。
佐藤は議事録を取りながらその三秒を記録した。感情ではなく観測値として。
会議室を出る時、瀬戸と目が合ってしまった。少し気まずそうで、助けを求めているようにも見えるが、まだ――証拠が揃っていない。
佐藤は一瞬だけ迷ったが、視線を手元に戻した。
三件目は、早急に詰める必要がある。
午後三時半。休憩時間が終わり、皆席に戻り始めた時、猪瀬が瀬戸のデスクにドカッと腰を下ろした。
佐藤はドン引きしていた。あのように他人のデスクに乗るのは、支配の表明だからだ。椅子ではなく机に座ることで、相手の領域を物理的に侵食している。
猪瀬本人はそれを意識していないかもしれないが、本心では瀬戸を支配したいのだろう。
「昨日の資料さ、ちょっと甘いよなぁ。今夜、飲みながらじっくり『指導』してやるから。瀬戸、お前みたいなタイプって、放っとけないよな~」
猪瀬が紙コップのコーヒーを飲みながら言う。
「昔から、俺って後輩に懐かれるタイプで、距離近いってよく言われるんだよ。犬っぽい後輩に好かれるみたいでさ~」
瀬戸が固まっている。いつものようにヘラヘラ笑ってやり過ごすことはないし、怖がっているのかも。
佐藤は経費精算書から顔を上げずに話に割り込む。
「確かに。犬って上下関係に敏感ですからね」
「だろ?」と猪瀬が佐藤に普通に答える。邪魔者扱いはしないようだ。しかし、瀬戸の表情が緩むことはなかった。
「男同士、腹を割って話せばもっと仕事がしやすくなると思うぞ。俺は昭和の人間だから、昔からのやり方で、お前みたいな若い子には、しっかり教えてやらないとな」
猪瀬の手が、瀬戸の肩をポンと叩いた。というより掴むに近い。瀬戸は頬を引き攣らせて「はい、ご指導よろしくお願いします」と、か細い声で返す。
周囲の社員は各自のモニターから視線を動かさない。関わりたくないというのが見て取れる。瀬戸が次の猪瀬のターゲットだということが周知の事実だからだ。しかし、ここでは腐ったミカンを取り除くことはタブーである。
佐藤もモニターに視線を戻した。シュレッダーのゲージを確認し、今日やるべき作業のリストを更新する。
猪瀬の件は三件目だ。先の二件を片付けてから、と思っていたけど、早急に着手することにした。



