今週の不純物リストが――まだ処理できていない。
佐藤は毎週、手帳に繰り越し事項を整理している。
先週から持ち越されたのは、この三つの案件。
一件目、営業部の接待費の水増し請求。
二件目、給湯室の珈琲豆の勝手な業者変更。
三件目、猪瀬部長(52)の……あれ。
どれも放置すると、増殖する。月末までにはなんとかけりをつけたい。
佐藤は手帳を閉じた。今日も定時までに片付けるべきことがあるからだ。
佐藤の日常は、中堅商社の派遣OLとして毎日雑務や書類の処理が主だ。シュレッダーのゴミが溢れないようにし、コピー用紙が切れないように補充する。詰まらないよう、角は丁寧に揃えてから差し込む。経費精算書のチェックも欠かせない。
まあ、悪くない仕事だ。そして、この会社の不純物を発見した時の、あの静かな充実感も含めて。
佐藤には密かな楽しみがある。生きるためには必要なことだ。
例えば、先週の日曜日。佐藤は始発の電車に乗り、白樺の丘公園で開催されている東欧フェスティバルの会場に、開門と同時に入った。目的は一つ。リトアニアのリネン専門業者のブースで、今年の新作を直接検品することだ。
学生の頃から好きな物が変わらない佐藤は、初めての給料で購入した七年物のファーストリネンを今も大事にしている。社会人になって初めての連休にはリトアニアに飛び、現地でも知見を膨らませ、現在に至る。
都内の催事場は、人の吐息で湿度が上がる。開場間もない時間でも、東欧好きが集まり混雑が避けられない。しかし、室内のショップでは照明が明るすぎて、布本来の色を歪ませる。正しく検品を行うには、朝の空気と適切な湿度、均一な自然光が必要だ。
目当てのブースの前に立ち、指先で生地の端に触れる。
亜麻の繊維が、適度にざらつき、指の腹にかすかな抵抗を返してくれる。今年は去年より少し硬いようだ。天候や雨量に左右されるせいだろう。それでも縦糸と横糸の密度も充分で、織りの端まで乱れがない。これなら、洗うたびに柔らかくなる。
「……合格」と誰にも聞こえない声で呟き、セージ色のブラウスとコースターなどの小物も購入した。
ついでに隣のポーランド雑貨のブースを覗いてみると、お姉様方が「可愛い」と声を上げながら食器を手に取っている。佐藤も同じ気持ちだったが、声には出さなかった。当たり前すぎて出す必要がない。
木製のディスプレイ棚には、たくさんのマトリョーシカたちが並んでいた。
ロシア土産の定番としてよく見るものとは少し違い、ポーランドの職人が作ったらしく、中央に描かれた薔薇の配置に迷いがない。煌びやかな装飾はないが、その素朴さに心を打たれた。
手に取ると、開閉部の合わせ目が精密で、パカッ、パカッと開けていく。中から、一回り小さな人形が出現していき、七個目を開けてもまだ小さな人形が。親指の爪ほどの大きさなのに、しっかりと表情があった。
佐藤はそれと、食器を数点購入した。
自宅に帰り、リネンたちを水通しして、陰干ししてから、マトリョーシカをテーブルに並べてみる。
既に三つ並んでいる場所に、四つ目として加える。色も国籍も大きさも作風も違うけれど、佐藤のマトリョーシカコレクションには必要なピースだった。それは佐藤にしか分からない拘りである。
入手したばかりのポーランド食器を洗浄し、食器棚にしまう。その時、目についたのは、紺地に黄色い花のマグカップ。これは、今日の物の仲間である、ボレスワヴィエツの陶器だ。
一年前に辞めた里中が、「佐藤さんっぽいと思って」と照れながら誕生日にくれたものだ。縁にある小さな欠けを指でなぞる。これは、給湯室で彼が落とした時の傷だ。
でも、捨てていない――それは、たぶん、捨てる理由がない、ということにしておこう。
彼は今、別の会社にいる。もう辞めて一年も経つのか。元気にしていると風の噂で聞いた。それならいい。
佐藤の休日は、このような感じで一人で好きな物に囲まれて終える。誰からも連絡が来ないことを、快適だと思い、恋愛ドラマを見ても、誰が誰を好きなのかよく分からない。東欧雑貨の新作情報の数社のメルマガが、佐藤の受信箱を埋めつくしている。
これも、ひとつの人生だ。
◇
月曜の朝。
佐藤はリトアニアリネンのブラウスに袖を通す。昨日検品して合格を出した新しい一枚ではなく、三年選手の柔らかくなった方を選ぶ。新しいものは、まだオフィスに持ち込む気分ではなかった。
電車の中で、脳内のフォルダを整理する。
二件目までの「不純物」は、来週には証拠が揃う予定だ。
そして、三件目の猪瀬部長(52)のあれ。このフォルダの中身はまだ育ち途中だ。今週中には仕留めたい。放置すると増殖するけど、焦って処理しようとすれば、せっかく積み上げた証拠を逃がすことになりかねない。
まずは順番とタイミングを見極めるべきだ。慎重にことを進めよう。
オフィスに着き、デスクのキーボードをアルコールシートで拭いてから、経費精算書のファイルを開く。
猪瀬部長は今日も元気に出社している。三件目の処理は、まだ先になりそうだ。
佐藤は毎週、手帳に繰り越し事項を整理している。
先週から持ち越されたのは、この三つの案件。
一件目、営業部の接待費の水増し請求。
二件目、給湯室の珈琲豆の勝手な業者変更。
三件目、猪瀬部長(52)の……あれ。
どれも放置すると、増殖する。月末までにはなんとかけりをつけたい。
佐藤は手帳を閉じた。今日も定時までに片付けるべきことがあるからだ。
佐藤の日常は、中堅商社の派遣OLとして毎日雑務や書類の処理が主だ。シュレッダーのゴミが溢れないようにし、コピー用紙が切れないように補充する。詰まらないよう、角は丁寧に揃えてから差し込む。経費精算書のチェックも欠かせない。
まあ、悪くない仕事だ。そして、この会社の不純物を発見した時の、あの静かな充実感も含めて。
佐藤には密かな楽しみがある。生きるためには必要なことだ。
例えば、先週の日曜日。佐藤は始発の電車に乗り、白樺の丘公園で開催されている東欧フェスティバルの会場に、開門と同時に入った。目的は一つ。リトアニアのリネン専門業者のブースで、今年の新作を直接検品することだ。
学生の頃から好きな物が変わらない佐藤は、初めての給料で購入した七年物のファーストリネンを今も大事にしている。社会人になって初めての連休にはリトアニアに飛び、現地でも知見を膨らませ、現在に至る。
都内の催事場は、人の吐息で湿度が上がる。開場間もない時間でも、東欧好きが集まり混雑が避けられない。しかし、室内のショップでは照明が明るすぎて、布本来の色を歪ませる。正しく検品を行うには、朝の空気と適切な湿度、均一な自然光が必要だ。
目当てのブースの前に立ち、指先で生地の端に触れる。
亜麻の繊維が、適度にざらつき、指の腹にかすかな抵抗を返してくれる。今年は去年より少し硬いようだ。天候や雨量に左右されるせいだろう。それでも縦糸と横糸の密度も充分で、織りの端まで乱れがない。これなら、洗うたびに柔らかくなる。
「……合格」と誰にも聞こえない声で呟き、セージ色のブラウスとコースターなどの小物も購入した。
ついでに隣のポーランド雑貨のブースを覗いてみると、お姉様方が「可愛い」と声を上げながら食器を手に取っている。佐藤も同じ気持ちだったが、声には出さなかった。当たり前すぎて出す必要がない。
木製のディスプレイ棚には、たくさんのマトリョーシカたちが並んでいた。
ロシア土産の定番としてよく見るものとは少し違い、ポーランドの職人が作ったらしく、中央に描かれた薔薇の配置に迷いがない。煌びやかな装飾はないが、その素朴さに心を打たれた。
手に取ると、開閉部の合わせ目が精密で、パカッ、パカッと開けていく。中から、一回り小さな人形が出現していき、七個目を開けてもまだ小さな人形が。親指の爪ほどの大きさなのに、しっかりと表情があった。
佐藤はそれと、食器を数点購入した。
自宅に帰り、リネンたちを水通しして、陰干ししてから、マトリョーシカをテーブルに並べてみる。
既に三つ並んでいる場所に、四つ目として加える。色も国籍も大きさも作風も違うけれど、佐藤のマトリョーシカコレクションには必要なピースだった。それは佐藤にしか分からない拘りである。
入手したばかりのポーランド食器を洗浄し、食器棚にしまう。その時、目についたのは、紺地に黄色い花のマグカップ。これは、今日の物の仲間である、ボレスワヴィエツの陶器だ。
一年前に辞めた里中が、「佐藤さんっぽいと思って」と照れながら誕生日にくれたものだ。縁にある小さな欠けを指でなぞる。これは、給湯室で彼が落とした時の傷だ。
でも、捨てていない――それは、たぶん、捨てる理由がない、ということにしておこう。
彼は今、別の会社にいる。もう辞めて一年も経つのか。元気にしていると風の噂で聞いた。それならいい。
佐藤の休日は、このような感じで一人で好きな物に囲まれて終える。誰からも連絡が来ないことを、快適だと思い、恋愛ドラマを見ても、誰が誰を好きなのかよく分からない。東欧雑貨の新作情報の数社のメルマガが、佐藤の受信箱を埋めつくしている。
これも、ひとつの人生だ。
◇
月曜の朝。
佐藤はリトアニアリネンのブラウスに袖を通す。昨日検品して合格を出した新しい一枚ではなく、三年選手の柔らかくなった方を選ぶ。新しいものは、まだオフィスに持ち込む気分ではなかった。
電車の中で、脳内のフォルダを整理する。
二件目までの「不純物」は、来週には証拠が揃う予定だ。
そして、三件目の猪瀬部長(52)のあれ。このフォルダの中身はまだ育ち途中だ。今週中には仕留めたい。放置すると増殖するけど、焦って処理しようとすれば、せっかく積み上げた証拠を逃がすことになりかねない。
まずは順番とタイミングを見極めるべきだ。慎重にことを進めよう。
オフィスに着き、デスクのキーボードをアルコールシートで拭いてから、経費精算書のファイルを開く。
猪瀬部長は今日も元気に出社している。三件目の処理は、まだ先になりそうだ。



