二つ目の任務は降りしきる雨の中での狙撃だった
廃ビルの屋上、冷たいコンクリートの上に伏せた零(れい)はスコープ越しに標的を捉えていた
ターゲットは表向きは慈善家を装いながら裏では少年少女の人身売買を繰り返している汚職政治家だ
「……風速三メートル、右へ修正 呼吸を止める、三、二、一」
引き金を引くと乾いた音が雨音に掻き消された
スコープの先で男の頭部が弾ける
周囲がパニックに陥るのを確認する前に零は素早く銃を解体し、アタッシュケースに収めた
指先が雨のせいか、あるいは高揚のせいか微かに震えている
任務を終えるたびに進藤との「約束」に一歩近づける
そう思うだけで死神の仕事でさえ、聖職に就いているような錯覚すら覚える
(あと五つ……)
零は濡れた前髪をかき上げ、ふと自分が初めて人を殺した日のことを思い出していた
――八年前 零がまだ十四歳の頃だ
スラム街の路地裏でゴミを漁って命を繋いでいた零は酔ったごろつきに刺されそうになっていた
ナイフが喉元に迫り、死を覚悟したその瞬間
銃声が響き、目の前の男の頭が吹き飛んだ
返り血を浴びて固まる少年の前に現れたのが進藤だった
進藤は死体には目もくれずただじっと零を見下ろした
その瞳は氷のように冷たくけれど同時にこの世のすべてを見通しているような深さがあった
『生きたいか それともここで腐るか』
差し出されたのは温かな救いの手ではなく血に汚れた黒い手袋だった
零はその手を迷わず掴んだ
それ以来、進藤は零にとっての神であり王であり世界のすべてになった
進藤から教わったのは銃の扱い方、急所の突き方、そして「感情を殺すこと」
だが教えに反して零の胸の奥では進藤に対する熱い感情が育っていった
それは神への崇拝から次第に一人の男への執着へと変わっていったのだ
回想から引き戻されたのはイヤホンから流れる低い声だった
『零、状況は』
「……完了しました、進藤さん 今ビルを出ます」
『深追いするな 裏口に車を回してある 三分で離脱しろ』
「了解」
裏口に向かうと黒塗りのセダンがアイドリング状態で待機していた
運転席には相変わらず無表情な進藤がいる
零が助手席に乗り込むと車は滑るように走り出した
「……進藤さん」
「なんだ」
「今日の任務が終わったら帰り道にスーパーに寄ってもいいですか?」
「スーパー?」
進藤が怪訝そうに眉をひそめる
殺し屋の生活に生活感のある場所は似合わない
「昨日の約束忘れてませんよね 七つの任務を終えたら結婚してくれるって だから少しずつ『普通』の練習をしたいんです 今日は僕が夕飯を作ります」
進藤は呆れたように鼻で笑ったがハンドルを切る手は心なしか穏やかだった
「……好きにしろ だが包丁で指を切るような真似はするなよ お前の指は引き金を引くためにあるんだからな」
「いいえ、これからは『あなたのために料理を作る』ための指にもなります」
冗談めかして言うと進藤は黙り込んで窓の外に視線を逸らした
耳の付け根が街灯の光でほんのりと赤く見えたのは気のせいだろうか
車内には硝煙の匂いと微かな雨の匂い、そして二人の間にだけ流れる奇妙に甘い空気が満ちていた
殺しの世界しか知らなかった少年にとってスーパーの明るい照明や野菜の並ぶ光景は眩しすぎるほどに「普通」だった
カートを押しながら進藤の好物をカゴに入れていく
横を歩く進藤は場違いな威圧感を放ちながらも零の選ぶ食材を黙って眺めている
「進藤さん、カレーと肉じゃがどっちがいいですか?」
「どっちでもいい ……肉じゃがにしろ」
「ふふ、わかりました」
こんな時間が永遠に続けばいいのに
血に塗れた手で掴もうとしているのはあまりにも儚い、ガラス細工のような幸福だ
その夜、進藤のマンションで零は初めて「仕事」以外の理由でナイフを握った
不器用に切られたジャガイモが鍋の中で踊っている
進藤はリビングのソファで組織からの資料に目を通していた
ふと進藤が口を開く
「零 お前はなぜ俺なんだ」
「え?」
「お前ほどの腕があれば組織を抜けて本当の『普通』をどこかで見つけることもできただろう わざわざ俺のような男を巻き込む必要はないはずだ」
零は手を止め、ゆっくりと振り返った
湯気の中で零の瞳は潤んで見えた
「進藤さんがいない『普通』なんて僕には意味がないんです あの日、地獄から引き上げてくれたのがあなただったから僕は今ここにいる、僕の幸せはあなたが隣にいること、それだけなんです」
進藤はそれ以上何も言わなかった
ただ、差し出された皿を受け取ると一口食べて「……少し、味が濃いな」と呟いた
その声はこれまで聞いたどの賞賛の言葉よりも零の胸に深く響いた
残りの任務、あと五つ
死の影が忍び寄る中、零はただ愛する人の隣で眠る未来だけを夢見ていた
廃ビルの屋上、冷たいコンクリートの上に伏せた零(れい)はスコープ越しに標的を捉えていた
ターゲットは表向きは慈善家を装いながら裏では少年少女の人身売買を繰り返している汚職政治家だ
「……風速三メートル、右へ修正 呼吸を止める、三、二、一」
引き金を引くと乾いた音が雨音に掻き消された
スコープの先で男の頭部が弾ける
周囲がパニックに陥るのを確認する前に零は素早く銃を解体し、アタッシュケースに収めた
指先が雨のせいか、あるいは高揚のせいか微かに震えている
任務を終えるたびに進藤との「約束」に一歩近づける
そう思うだけで死神の仕事でさえ、聖職に就いているような錯覚すら覚える
(あと五つ……)
零は濡れた前髪をかき上げ、ふと自分が初めて人を殺した日のことを思い出していた
――八年前 零がまだ十四歳の頃だ
スラム街の路地裏でゴミを漁って命を繋いでいた零は酔ったごろつきに刺されそうになっていた
ナイフが喉元に迫り、死を覚悟したその瞬間
銃声が響き、目の前の男の頭が吹き飛んだ
返り血を浴びて固まる少年の前に現れたのが進藤だった
進藤は死体には目もくれずただじっと零を見下ろした
その瞳は氷のように冷たくけれど同時にこの世のすべてを見通しているような深さがあった
『生きたいか それともここで腐るか』
差し出されたのは温かな救いの手ではなく血に汚れた黒い手袋だった
零はその手を迷わず掴んだ
それ以来、進藤は零にとっての神であり王であり世界のすべてになった
進藤から教わったのは銃の扱い方、急所の突き方、そして「感情を殺すこと」
だが教えに反して零の胸の奥では進藤に対する熱い感情が育っていった
それは神への崇拝から次第に一人の男への執着へと変わっていったのだ
回想から引き戻されたのはイヤホンから流れる低い声だった
『零、状況は』
「……完了しました、進藤さん 今ビルを出ます」
『深追いするな 裏口に車を回してある 三分で離脱しろ』
「了解」
裏口に向かうと黒塗りのセダンがアイドリング状態で待機していた
運転席には相変わらず無表情な進藤がいる
零が助手席に乗り込むと車は滑るように走り出した
「……進藤さん」
「なんだ」
「今日の任務が終わったら帰り道にスーパーに寄ってもいいですか?」
「スーパー?」
進藤が怪訝そうに眉をひそめる
殺し屋の生活に生活感のある場所は似合わない
「昨日の約束忘れてませんよね 七つの任務を終えたら結婚してくれるって だから少しずつ『普通』の練習をしたいんです 今日は僕が夕飯を作ります」
進藤は呆れたように鼻で笑ったがハンドルを切る手は心なしか穏やかだった
「……好きにしろ だが包丁で指を切るような真似はするなよ お前の指は引き金を引くためにあるんだからな」
「いいえ、これからは『あなたのために料理を作る』ための指にもなります」
冗談めかして言うと進藤は黙り込んで窓の外に視線を逸らした
耳の付け根が街灯の光でほんのりと赤く見えたのは気のせいだろうか
車内には硝煙の匂いと微かな雨の匂い、そして二人の間にだけ流れる奇妙に甘い空気が満ちていた
殺しの世界しか知らなかった少年にとってスーパーの明るい照明や野菜の並ぶ光景は眩しすぎるほどに「普通」だった
カートを押しながら進藤の好物をカゴに入れていく
横を歩く進藤は場違いな威圧感を放ちながらも零の選ぶ食材を黙って眺めている
「進藤さん、カレーと肉じゃがどっちがいいですか?」
「どっちでもいい ……肉じゃがにしろ」
「ふふ、わかりました」
こんな時間が永遠に続けばいいのに
血に塗れた手で掴もうとしているのはあまりにも儚い、ガラス細工のような幸福だ
その夜、進藤のマンションで零は初めて「仕事」以外の理由でナイフを握った
不器用に切られたジャガイモが鍋の中で踊っている
進藤はリビングのソファで組織からの資料に目を通していた
ふと進藤が口を開く
「零 お前はなぜ俺なんだ」
「え?」
「お前ほどの腕があれば組織を抜けて本当の『普通』をどこかで見つけることもできただろう わざわざ俺のような男を巻き込む必要はないはずだ」
零は手を止め、ゆっくりと振り返った
湯気の中で零の瞳は潤んで見えた
「進藤さんがいない『普通』なんて僕には意味がないんです あの日、地獄から引き上げてくれたのがあなただったから僕は今ここにいる、僕の幸せはあなたが隣にいること、それだけなんです」
進藤はそれ以上何も言わなかった
ただ、差し出された皿を受け取ると一口食べて「……少し、味が濃いな」と呟いた
その声はこれまで聞いたどの賞賛の言葉よりも零の胸に深く響いた
残りの任務、あと五つ
死の影が忍び寄る中、零はただ愛する人の隣で眠る未来だけを夢見ていた

