翌日、朝六時、これから仕込みという時だった。実家を継ごうと考えていると母さんに言うと、彼女は目に涙を浮かべて喜んだ。
「そう……。それはよかった。これでこの家も安心ね」
彼女はゆっくりと口角を上げる。
「せっかくだから、それは父さんに直接伝えましょう」
そう言って彼女は卵を何個も業務用ミキサーに割り入れていった。考えてみればこれも受け継げるのだから、いっそ数年後に自分が自動的に独立できるのだと己を鼓舞する。
しかし、それでも俺の心はなかなか晴れてくれない。大地と一緒に過ごした東京での時間が楽しかった分、彼との交流を含め諦めなければいけないのかと思うと気が重かった。
「本当に嬉しいわ。颯太が継いでくれるなんて……。それもこれも、教祖様にご寄付したおかげね」
母さんの歌うような言葉に俺は聞き捨てならなくて彼女の方を向く。
「……ご寄付?」
「そうよ。颯太が東京なんて行かずに、この店を継いでくれますようにって。三十万も寄付したんだから。やっぱり、教祖様は偉大ね。お願い事がこんなに簡単に叶うなんて……」
彼女の浮かれた声に、俺は吐き気を覚えた。
「……なんだよ。それ」
俺の声が低くなっているのに、母さんは気が付いていないのか、さらに続けた。
「この家を継ぐんなら、颯太も次の集会に来なさい。ここのお得意様は主に同じ信者さんたちなんだから、挨拶しておいたほうがいいでしょ?」
体中に虫が這い上がったような心地がして、一歩下がる。これから作業に入ろうとしていた手が止まった。
寄付とは関係ないとわかっていながらも、東京にいた間に就活がうまくいかなかった時の苦さが蘇る。きっとこれは父さんも了承済みだろう。
「颯太?」
返事をなくした俺に不思議そうに母が振り返る。
改めて実感した。
これが俺の両親で、俺はこういうのが嫌で飛び出してきて、人はそう簡単に変わらないということを。
そして、家を継ぐとはこういうことなのだ、と。
「……俺」
声が震える。本音を言えば嫌だった。
しかし、今更ここでやっぱり辞めると言ってしまえば、内定も取れていない、行き場のない俺が残ってしまう。
はくはくと浅い息を吐き出した。
その時だった。
ドンドンと店の扉が叩かれるような音がして、俺の意識が浮上する。
すぐに店に出てそちらを見ると、大地が開店前の自動扉を叩いているところだった。
「大地!?」
驚いて俺はそちらへ向かう。
何故ここにいるのだろう。
母さんも後ろからついてきて、大地の姿を見ると目を丸くしていた。
「あら、どうしたの? 大地君、帰ってきてるの?」
「あ……、うん、えっと……、俺ちょっと話してくる!」
言って俺はエプロンを脱ぐとカウンターに置き、裏口から外へ出ていった。
「どうしたんだよ、大地! こんな時間に」
きょろきょろと周囲を見渡す。まだ朝早い今の時間、人通りはなかった。とはいえ、店の中から母さんが見ているかもしれないと俺は彼を促して少し離れたところにある公園へと向かう。
彼はデイパックを担いだだけだった。最初、直接俺のスーツケースを持ってきてくれたのかと思ったが、大地の状態がこれなので余計に何故ここにいるのかわからなかった。
「夜行で戻ってきたから、こんな時間になった」
なるほど、と小さく頷く。大地は続けた。
「颯太の気持ちを確認しに来たんだ」
歩きながらそう言われ、隣にいる彼の顔を横目で見る。大地はいたって真面目な顔をしていた。
「本当に、心から実家を継ぎたいのかどうか。電話じゃわからないから、直接顔を見に来た」
喉の奥が詰まったようになり、奥歯を噛みしめる。先ほど親に対して感じた違和感を思い出し、視界が滲んだ。
その俺の反応をどう見たのか、大地は立ち止まり、俺の腕を掴む。
「颯太が本当に家を継いで……、この土地に残りたいというのであれば、俺は応援するつもりでいた。……でも、そうじゃないなら……、スーツケースは返せない」
ぐっと下唇を噛む。そうしないと、嗚咽が漏れてしまいそうだった。
何度か口を開けしめする。先程の母さんの言葉を思い出し、拳を握った。
大地を頼ってもいいのだろうか。見つめると、大地は誠実な瞳を返してくれていた。
胸が震える。
俺は、持てる限りの勇気を振り絞って尋ねてみた。
「……もし、俺がやっぱり東京に出ていきたいって言ったら、大地の家に泊めてくれる? あの布団一枚分のスペースを、しばらく貸してくれないか? そうしたら、俺、バイト見つけて、なんとか頑張るから」
腕にかかる大地の力が強くなった。
「もちろんだ。颯太の気が済むまで住んでくれていい」
「……っ」
涙がこぼれ落ちないように必死に奥歯を噛み締める。
「ごめん、大地……」
「……こういう時は、ありがとうだろ?」
うん、と頷き、すぐに首を横に振った。
「それもだけど……、前、嫌な態度取った」
東京に帰った日のことだと、大地も思い当ったようだ。彼は真剣な顔で俺を見つめた。
「俺は……、ずっと颯太のことを羨ましいと思っていた」
「へ?」
唐突な言葉に、目を丸くして彼を見る。彼は俺から手を放し、再び公園へ向けて歩き出した。子供のころから何度も一緒に遊んだから、言わなくてもあそこがゴールだと彼も何となくわかっているのだろう。
「自分のやりたいことで生きていける人間なんて、世の中にどれだけいると思う? ……少なくとも、俺には無理だろう」
俺は彼の少し後ろを歩いてついていく。
「それは……、ぬいぐるみ作家として生きていくってこと?」
彼はコクリと首を縦に振った。
「でも、大地はファンもいるし、たくさん作品も作って、売れているじゃないか」
「それでも、食っていくには足りない。イベントに出たらある程度回収できるが、白井が動画をバズらせてくれるまで、通販での注文は月に一、二度あるかどうかだった」
そうなのか、と彼の背中を見つめる。
「今はたくさん注文が入っているが、それも長くはもたないだろう。……つまり、俺の将来は会社員になって、趣味でぬいぐるみを作る人生を歩むんだと思う。……それもそれで楽しいだろうけどな」
公園に到着する。朝早いからか、たまに犬の散歩に通りかかる人がいるくらいで、閑散としていた。俺と大地は隅の方にあるベンチに腰掛ける。目の前には広場が広がっていた。
「だから、就活がうまくいってなくても、子供のころから好きな菓子作りの道に行ける颯太を羨ましいと思っていたし、顔を輝かせてマドレーヌやクッキーを作ってくれるのを見て、まぶしかった」
そう思われていたのか。
俺は横目で大地を見つめる。彼は自分の中から一つ一つ、適切と思われる言葉を用心深く掬い出すように、ゆっくりと話を続けた。
「実家を継ぐと、あんなに苦しそうに言う颯太を放っておけなかった。今の颯太は、悲しそうで、俺の方がしんどくなる」
「……うん」
大地の言葉に、胸の奥がむずむずした。彼がこんなに自分のことを思ってくれているだなんて知らなかった。
「たぶん、俺は颯太にはいつも笑っていてほしいんだと思う。そして、楽しく菓子を作っていてほしい。そのためにここまで来た。颯太を家に泊めたのも颯太が就活に成功して、もっと輝く姿を見たかったんだ」
彼の表情は真剣そのもので、そんな横顔に、俺の心音がどく、どくと早くなっていく。
だから俺が東京に来る時に自分の家に泊まるようにと誘ってくれたのか。
「つまり……、ほとんど俺のエゴなんだ。……だから、颯太はそんなに気にしなくていい」
さきほどの、ごめんに対する彼の返答なのだろう。
「……なんで、俺にそこまでしてくれるんだ?」
少しの期待を込めて尋ねる。ようやく大地は口角を上げて俺を見た。
「子供のころ、初めて颯太の作ったクッキーを食べた時に、颯太の菓子のファンになったんだ」
彼の、どこか照れているような表情に、ぎゅう、と心臓が掴まれたような心地がして俺は何度も目を瞬かせた。
遠足の時に、クマのクッキーを食べていた子供時代の大地が瞼の裏に蘇る。
彼への恋心は諦めるんだろうとほんの数十分前までは思っていた。なのに、本人がその諦観を完膚なきまでにぶち壊すなんて。
視界が滲み、少し鼻をすする。
「……ありがとう」
俺の目尻に涙が溜まっていたからか、ハっとして大地はデイパックからハンドタオルを取り出す。俺は受け取り、目を瞑ってタオルを顔に当てた。ふわりと大地の家の洗剤の香りがして、余計に泣きたくなってしまう。
「俺……、頑張ってバイトするから」
「うん……」
「……でも、父さんたちは困るだろうな。宗教に三十万円寄付して、俺が戻るように祈ったんだって」
途端に大地は目を丸くして俺を凝視する。
「さ……、三十万?」
学生からしても、町のお菓子屋からしても大金だ。
大地は頭を抱え、首を振った。
「あまり他人の親御さんにこんなことは言いたくないんだが……。何を考えているんだ?」
真剣な言葉に、つい笑いが漏れる。
「うん。俺もそう思った。……バカバカしいよな、ほんと。俺も入信して、集会に参加しろって言われたし。いくら稼いでも、これじゃどんどんお金がなくなっていくよ」
はは……、と笑いながらも、まったく笑える状況ではない。
肩を落としたその時だった。ベンチに置いた手に何かが触れる。
なんだろうと見るとそこにコツメカワウソのぬいぐるみがあった。
「……え?」
何度も目を瞬かせる。さらに視線を移すと、他の四体のぬいぐるみも俺を取り囲むように立って俺を見上げていた。
「は? な、なんで……!?」
口をぽかんと開けて大地の方を見ると、彼も目を丸くしてその様子を見つめている。
「大地、知らなかったのか?」
彼は頷きを返した。
「ああ……、やたら俺のバックに入ろうとしていたんだが……、荷物になるし……」
きっと彼らは内緒で彼のカバンに入り、ここまで来たのだろう。
もぞもぞとコツメカワウソが動き、地面を手で示す。何もない道に、赤い血文字が書かれた。
このからだは そうたにかってもらったから おとどけにきた。
「……え?」
すぐに他の子達が地面に手をかざした。
おとどけの つきそいに きた。
おれも。
わたしも。
ぼくも。
彼らは大地に目をやる。だから叱らないで、とでも言わんばかりの表情をしていた。
彼はどこか気まずそうに口をもごもごと動かしている。
「……お前たちは、外に出られないんじゃなかったのか?」
大地の問いかけに、先ほどの血文字が消え、新しく書かれた。
ぬいぐるみに はいっていたら でられた。
「……そうなんだ」
小さく呟く。俺はへにょりと肩を落とした。
「……ありがとう。心配して来てくれたんだよな?」
目の奥が熱くなる。ぬいぐるみたちはお互いに視線を交わし、コクリと頷いた。
つん、と鼻先がしびれる。
「ごめん……、俺、お前たちがせっかく踊ってくれようとしたのに、いらないって言って……」
ずっとつっかえていたことを謝る。
次の瞬間、彼らは俺の膝の上に乗っかっていた。
ふるふると首を振り、気にしていないと示す。そんな仕草に、ますます俺の胸が震えた。
優しく彼らの頭を撫でる。
そこでふと、思いついた。
もともと、父さんと母さんが教団に入ったのは、俺に悪霊がとり憑いたと思ったからだ。そして、教祖がお祓いをしたところ、俺はもうこんなことは繰り返したくなくて、除霊されたフリをしてしまった。
彼は、俺に本当は悪霊なんてとり憑いていないことも見抜けていなかった。ただ、形式的にお経を唱えただけだった。
「……あのさ、ちょっと協力してくれないか?」
彼らに視線を向けると、ぬいぐるみ達は俺の方を見て首を傾げる。
「明日、教団で集会があるんだ。そこで……、教祖のインチキを暴いてほしい」
告げると、大地はぎょっとしたような顔をし、反対にぬいぐるみ達は目を輝かせた。
「インチキを暴くって、どうするんだ?」
「教祖は除霊が出来ないくせに、出来るようにふるまってお金を集めているんだ。だから、俺が悪霊にとり憑かれていると?をついて、でもお祓いをしたにも関わらず、血の手形がついたり、ポルターガイストが起こったりしていたら、教祖がインチキだとわかるだろ?」
「しかし……、危ないだろう? 詐欺まがいの霊感商法を堂々と続けている奴らだぞ? もしかしたら、反社とつながっていることも考えられる。その上、颯太は顔も名前も住所も知られている」
大地が身を乗り出す。
「それはそうだけど……、でも……。父さんや母さんに目を覚ましてほしいんだよ」
大地は黙って俺の顔を見つめる。
それから、ふぅとため息をついた。ぬいぐるみ達はというと、静かにそんな俺達のやり取りを見つめている。
「……わかった。だったら、俺が悪霊にとり憑かれている役をやろう」
「え……、いいよ、悪いよ。俺がやるって!」
慌てて俺は手を振った。しかし、大地はさらに続ける。
「親ぐるみで住所がバレている颯太よりも、失敗した時のリスクは少ないからな。逆に颯太は、両親が信者だからこそ、信用もあるだろう。血文字や手形を見つけて、大声で視線誘導をしてくれないか?」
確かに、せっかく霊障を起こしても、見つからなければ意味がない。そんな俺の腕の中で、ぬいぐるみたちはどんと自分たちの胸を叩いた。
まかせて。
地面に血文字も描かれる。
「……うん。わかった」
心配になりながらも頷く。
それから、俺たちは詳しい計画を立て始めたのだった。

