俺は「何」と心中しようとしたんだろう


 夜になり、眠っていた俺は空腹感に耐えかねて起きてしまった。備蓄が心もとないからと、今晩の夕食は少なめだったのだ。
 教室の端に寝転がった俺の下には段ボールが敷かれ、体育館から持ってきた薄い毛布を体の上にかけていた。
 周囲ではいくつかの家族が身を寄せ合って眠っている。ふと隣を見ると高宮さんもいる。俺が寝た後に帰ってきたようだ。
 俺は彼らを起こさないようにそっと立ち上がるとトイレへ向かう。あんなことがあった後で怖かったので、出入り口に置いてあった懐中電灯を取ると明かりをつけた。
 廊下に出て、周囲に誰もいないことを確認する。またあの男がいたらどうしようと思ったのだ。
 ホッと胸を撫でおろし、足を進める。トイレの扉を開け、中に入り、便器の前に到着した時だった。
 白い二本の手が伸びてきて俺を抱きしめる。
「っ……!」
 びくりと体が震えた。
「空、迎えに来たよ」
 夢見心地な声は昨日聞いたものだった。恐る恐る振り返る。相変わらず、美しい容貌を持った男がうっとりとした笑みを浮かべていた。
 俺の心臓がどっどっどっと短い鼓動を刻む。なぜかその中に甘さを感じ、ますます混乱してしまった。
「俺、本当にお前と一緒に死のうとしたんだよな……?」
 男は少し瞬いてすぐに頷いた。
「そうだよ。空も了承してくれたじゃないか」
 やはりか。高宮さんだけでなく本人からも証言されたことでもはや疑う余地はなくなった。
 そう思って彼を見るが、やはり納得がいかない。こんな人間離れした美しい男が俺に死ぬほどの執着を見せるとは思えなかった。
 俺はブンブンと首を横に振る。
「俺はお前と一緒には行かない」
 彼は顔をしかめた。
「なんで?」
「そもそもお前は本当に生きている人間なのか? 昨日、いきなりいなくなったじゃないか」
 本人は自分を幽霊ではないと言っていたが、やはり信じられなかった。
 彼は眉間に皺を寄せる。
「直紀が来たからだろう?」
「……高宮さんが? なんで?」
 俺は首を傾げる。高宮さんを警戒する理由なんて思い当たらなかった。しかし、男は俺の返答に何度も目を瞬かせる。
「ねぇ、一体どうしたの? 昨日からおかしいよ。……空じゃないみたいだ」
 彼の瞳に剣呑な色が宿る。俺は唇を引き結んでから返した。
「今、俺にはこの二年分の記憶がない。正直、お前の事も覚えていない」
 彼が口を開け、大きく息を呑む。ぎゅっと拳を握り、悲しそうに俺を見てきた。
「ひどい……」
 顔を伏せ、何かを考えているかのような沈黙が続く。彼の手が震えていた。
 すぐに彼は顔を上げ、両手を広げて俺に抱きついてきた。
「なっ……、なにっ!?」
 暴れて逃げ出そうとするが、それ以上に力が強く、動けそうになかった。
「空、好きだよ。大好き。出会った時からずっと好きだった。空が俺を見つけてくれた時、本当に嬉しかった。いっぱい、いっぱい、色んな事を話したよね? 思い出して? 大好きだよ。本当に好き。空だけが好き。空だけがいればいい。他には何もいらない」
 息をつかずに続けられた言葉に、心がどくんと跳ねる。嬉しいと一瞬でも思ってしまった。
 大きく息を吸って冷静に考えようとする。
 この気持ちは、過去にこの男のことを愛していたからだろうか。だから、恐怖の中にも一滴の喜びを感じているのだろうか。
 しかし、と俺は体に巻きつく彼の両手に視線を移す。まるで氷のように冷たくて、生きている人間だとはやはり思えなかった。
 更には、自分に話しかけてくれたのは俺だけとか、見つけてくれたとかいう、どう考えても怪しい言葉を並べている。
 ふいに、昼に考えてしまった仮説を思い出し、身震いがした。
 やはりこいつは蛇神様の化身なのではないだろうか。
 俺はゴクリと唾液を飲んでから問いかけた。
「あのさ……、もしかして、俺の両親が死んだこととか……、何か知っている……のか?」
 彼は少しの間口を開けると、すぐに引き結んだ。
「そう……。やっぱり、死んだんだ……」
 視線を伏せ、俺から手を離すと一歩下がる。
「やっぱり?」
 男はじっと俺を見つめる。色素の薄い瞳に射抜かれ、落ち着かない気分にさせられた。どこか俺を非難しているような色すら感じる。
 男が俺の肩を取って引っ張る。
「早く俺と一緒に天国に行こう? 俺は空と二人で行きたいんだ」
 彼の必死な形相に、俺の頭の中で警告音が鳴る。この手を取るとひどい目に合うという直感が沸き起こり、渾身の力を込めて男を突き飛ばした。
「……無理だ。……悪いが、お前の事を信用できない。……それに」
 唇を引き結ぶ。なぜかこの言葉を彼の前で告げてはいけないような気がした。
「……俺は今、高宮さんとお試しとはいえつきあっているんだ。彼を裏切れない」
 告げると、男は飛び出さんばかりに目を見開いた。
「……直紀と? なんで?」
「高宮さんは俺の事が好きだと言ってくれた」
「俺だってさっき空の事が好きって言ったじゃん」
 彼は焦っているようにまた一歩近づいてきた。
「悪いが、信用できない。……お前はこの世の存在じゃないって、高宮さんも言っていた」
 告げると、男はぎゅっと唇を引き結び、何かに堪えるかのように顔を顰めた。悲壮感溢れる顔に、思わず手を伸ばしそうになり、拳を握ることで抑える。
 男は小さく口の中で「そう」と呟くと、表情を失った顔をあげた。
「……そういうことか」
「……おい」
 彼の無表情が放っておけなくて、今度は俺の方が一歩前に出た。
 男は寂しそうな顔で俺に視線を向ける。
「朔弥って呼んで。……今までみたいに」
「……さくや?」
 口の中で転がした名前は何度も呼んでいたような気がして、俺はもう一度彼には聞こえないように小さくその名前を呟いた。
「俺は空の事が好き。だから空と一生一緒にいたい。そのために天国に行くんだって、昨日も言ったでしょ?」
 こつ、と男が一歩前に出る。よく見たら彼が着ていた白装束は泥で汚れていた。視線を下に向けると、ボロボロになった下駄を履いていて、変な感じがする。
 身がすくむ。立っているのがやっとだった。
 再び朔弥が俺に向かって手を伸ばす。
「空!」
 その時、ふいに背後から声がした。高宮さんだった。思わず振り返り、そちらへ一歩進めてから、また朔弥が消えるのではないかと彼の方を見る。
「……あ」
 やはり、いなくなっていた。
 懐中電灯を色々なところに向け、彼を探す。けれどどこにもおらず、俺は口に手を当てて小さく震えだしてしまった。
「空、ここにいるのか!?」
 高宮さんに呼び掛けられて、俺はぎこちない動きで後ろを振り返った。
「……高宮さん」
 俺の顔を見て、彼が大きな息を吐いた。安心したようで、大股で近寄ってくる。
「よかった……」
 彼に力強く抱きしめられる。朔弥とは違い、高宮さんは温かかった。
「……あの、なんでここに?」
 尋ねると、彼は俺から手を離して気まずそうに視線をそらした。
「いや……、その……、今日、親御さんが亡くなられていたのを見たんだろう?」
「……はい」
 俺はコクリと頷く。
「それで……、もしかしたら後を追おうとしたんじゃないのかなって……」
 ようやく俺は高宮さんがやけに焦っていたようだったことに納得がいった。
 同時に、それほどまでに心配をかけていると知って気まずくなる。
「すみません……。俺、ちょっとトイレに行こうとしてて……」
「ああ……、そのようだな」
 彼はゆっくりと一歩下がった。それから、待っていてくれることにしたようで、トイレの外に出る。
 急に尿意を思い出し、俺は用を足して手を洗ってから高宮さんの後を追いかけた。幸いなことにまだ断水していないようだった。
 日常の事をしていると次第に落ち着いてくる。
「ここまで来ていただいてありがとうございます」
「いや……。何事もなくてよかった」
 優しく笑う彼に、俺は小さく微笑みを返した。それから、その場で立ち止まる。
「あの……、俺と心中したという男が、さっきまでそこにいて……」
 高宮さんの顔が固まる。
「……まさか」
「でも、いたんです。朔弥と名乗っていました」
 高宮さんは黙って視線をそらした。懐中電灯で照らされた廊下は静まり返っていて、雨と風の音が絶え間なく聞こえている。
「もしかして、朔弥は怪異じゃなくて人間なんじゃないですか?」
 高宮さんは目を眇め、ゆっくりと首を横に振った。
「言っただろう? あいつは怪異だって。そして、空はアイツに魅入られて、身を投げようとしていた。俺はその瞬間をこの目で見たんだ。……ちょうどこの裏の、蛇浦岬からだ」
 俺はこの小学校の裏手にある蛇浦岬を頭に思い浮かべた。切り立った断崖絶壁で、長い間海に浸食されたために海と下の方がえぐれていた。島内でも有名な自殺の名所となっている。
 柵が設けられており、一般人は立ち入り禁止になっているが、その柵の一部が壊れていることはこの小学校に通っている子供はほぼ全員知っている。
 高宮さんは続けた。
「空が飛び降りようとしたところを、ギリギリ助けられた。……お前の服だけは掴めたんだ。でも、その際に崖に体を打ち付けてしまって、空は重傷を負ってしまった」
 高宮さんが嘘をついているようには見えない。左手に巻いた包帯を上からさすり、すぐに掴んだ。何かに縋りついていないとその場に座り込みそうだった。
 自分が飛び降り自殺をするような人間には思えない。やはり朔弥は怪異だったのだろうか。
 それでも、俺は彼に会い、抱きしめられ、愛していると告げられたのだ。
「でも、だったら俺が見た朔弥は……」
 急に、高宮さんの両腕に包まれた。彼の体温をやけに温かく感じてしまうのは、先ほど冷たい朔弥の体に抱きしめられたからだろうか。
「わからない。……まだ、この世を去っていなかったんだな。早くお祓いをしてもらわないと」
 俺は俯き、胸のあたりを服の上から掴む。
「俺、朔弥を見た時、心臓のあたりがぎゅっとしたんです……。俺は彼に何かを感じている。そうわかるのに、怖いとも思ってしまう。頭が混乱していて、落ち着かなくて……」
 再び高宮さんを見上げた。
 彼は、無表情で俺を見つめていた。ハッとして口を閉じる。ぞわりと背中に冷たいものが走った。
 すぐに高宮さんは笑みを作り、俺の頭を撫でてくれた。
「それがまさに怪異なんだよ。……でも、空はもう今は俺の恋人だろう? あまり他の男を気にかけないでくれ」
 優しい笑みに、それ以上は何も言えなくなる。
 確かに、先ほどの自分の言葉はまるで俺が朔弥に惹かれているようで、お試しとはいえ恋人である高宮さんに言うべきことではなかったな、とうなだれた。
 二度、三度と高宮さんの手が俺の後頭部を往復する。
「明日になれば台風も止むはずだ。……今日はゆっくり休もう?」
「……わかりました」
 返すと、高宮さんが手を離す。教室に戻る彼の背中に問いかけた。
「……高宮さんは、俺のどこを好きになったんですか?」
 朔弥のこと以外でならば答えてもらえるだろうと俺は尋ねる。
 高宮さんは寂しそうに眉尻を下げた。
「それも忘れているんだな。俺たちは通信制の高校に入ったんだ」
 そうなのか。確かに高校の記憶はなかった。
 昔は本土の寮に引っ越す事が多かったが、コロナが流行ってからはこの島ではネットで授業を受けることが一般的になっていた。
「空の家の引っ越しと高校入学の時期が重なってしまったんだけど、手違いでネット回線の工事が授業までに間に合わなくて……。一時的に俺の家のネットを使って授業を受けることになったんだ。
 空の父さんと俺の父さんが仕事で付き合いがあって、頼み込まれたんだよ」
 俺は困って口角を下げる。世話になっていたようなのに本当に記憶になく、申し訳ない気持ちになった。
「そうして、高校に入ってからはずっと二人でいた。最初は弟のように思っていたんだが……、次第に空の元気なところとか、純粋なところに惹かれて、守ってやりたいと思うようになったんだ」
 どこか気恥ずかしそうに高宮さんが笑う。俺も頬を緩めた。
「すみません……。覚えていなくて」
「いや、あんなことがあったんだから仕方ないよ。……そろそろ行こう」
 高宮さんに促されて再び俺は教室へ向かう。
 横になったが、やはり今日もうまく眠れなかった。