夕方になり、全員にすいとんが配られた。その際に高宮さんは町のお役人さんに用事があると連れていかれてしまい、俺は一人でほかほかと湯気がたっているすいとんを食べていた。
この島に俺と同い年の子はおらず、高宮さんが一番年が近い兄貴分だった。だから、俺は高宮さんに懐いていたので、今彼がいないのがひどく心細かった。
すいとんを食べ終わり、ぶんぶんと頭を振る。
心は十四歳でも、体は十六歳なのだ。こんなことではいけない、と俺は体育館を出た。トイレに行きたくなったのだ。
体育館にトイレはなかったので、校舎の中のものを使うようにと言われていた。電気はまだ止まっておらず、白熱灯が灯っている。ちらちらとちらつく明かりは恐怖心を駆り立てた。外は雨が降り続き、独特の蒸し暑さがまとわりついている。
俺は速足でトイレに向かうと用を足し、手を洗っていた。
ブツ……ッ。
不穏な音とともに、周囲が真っ暗になる。
「えっ……!」
停電したのだ。
何もこんな時に、と俺は水を止め、手探りで扉の方へ向かって歩き出そうとした。
「やっと見つけた」
ふいに、冷たい何かに巻きつかれたような気がして動きを止める。見ると、俺の体に二本の手が絡みついていた。恐る恐る振り返り、息を呑んだ。
そこには、この世の者とは思えない、ひどく造形が整った男が立っていた。
輝く美しい白い髪に、紙のように白く透き通った肌。瞳は薄い茶色で金色に光っているようにも感じられた。まるで死人のような白い襦袢に包まれた様子は、まさしく幽霊そのもののように思える。
彫像のように整った鼻に二重のアーモンドアイに俺は一目で引きつけられ、怖いと思うのに目を反らせなかった。
何故だろう。鼻の先がつんとして、泣き出したいような衝動を感じる。彼はふんわりと頬をほころばせた。俺と同じくらいの背丈で、抱きしめられている分至近距離で見つめあうこととなる。
「さぁ、さっそく行こう?」
一歩離れ、彼は俺に手を差し出す。
「……行くってどこへ?」
どくどくと徐々に心臓の音が激しくなっていった。
「天国」
その言葉で直感した。
俺が心中しようとした怪異とやらはきっとこいつだ、と。背筋が冷たくなり、喉が渇いた。震える足で一歩下がる。
彼はそんな俺を見て首を傾げた。
「どうしたの? 一緒に行こう?」
彼の腕が俺の手首を掴む。
「お前……、幽霊じゃないのか?」
尋ねると、彼は目を瞬かせて、楽しそうに噴き出した。
「幽霊って……。大丈夫だよ、俺は生きている。ちゃんと触れるだろう?」
確かに、手首には彼の白い手の感触がある。
「さぁ、行こう?」
彼が俺を引っ張ろうとしたので、俺は咄嗟に体を引いた。
「行かないっ……!」
喉がひりつく。どれだけ脳内を探っても相手の記憶はなく、怪異かもしれないと思うと怖かった。
彼は顔を顰める。
「なんで? 一緒に行こうって約束したじゃん……。俺は空と一緒にいたい。だから一緒に行きたい。だめなの?」
彼のまっすぐな瞳に言葉が詰まる。
「……なんで、俺なんだよ」
少なくとも、俺は俺が知る限り、ただの平凡な一島民だ。こんな美しい男に執着されるいわれはないはずだ。
男の瞳が真っ直ぐに俺を見る。
「空のことを愛しているから」
すぐに返された言葉に息を呑んだ。
高宮さん曰く、彼はこの世のものではないという話だった。であれば、俺は幽霊に愛されたというのだろうか。
そう考えると恐ろしいはずなのに、なぜだろう、俺の心が跳ねてしまった。
高宮さんの時には気になった男同士ということすら思考の外においやられていた。目の前の男が非現実めいているからだろうか。
その時、背後からコツコツと足音がした。
「空、いないのか?」
高宮さんの声だった。俺はハッと正気に戻り、彼の手を振り払うとトイレの出入り口に向かって走り出した。
「ここ! 俺はここにいます! 高宮さん!」
必死に呼びかける。高宮さんは懐中電灯を持って俺を探しに来てくれていたようで、彼の明かりに照らされて俺は泣きそうなくらい安心した。
高宮さんは俺の顔を見て肩を撫でおろす。
「空。ここにいたのか。よかった。いきなり停電になったから、びっくりしただろう?」
コクコクと何度も頷く。
「あの……、高宮さん! で、出たんです! 幽霊が……! 俺が心中しようとした幽霊が!」
途端に高宮さんの顔が凍り付いた。
「出た……? どこに?」
「こっち……! トイレの中です!」
高宮さんが小走りに俺の方に向かってきて、トイレの中を懐中電灯で照らす。
「……誰もいないじゃないか」
彼の声に、俺は驚いて彼の背中越しに中を覗いた。
「……なんで」
言われた通り、トイレの中には誰もいなかった。高宮さんはゆっくりと中に入り、個室のドアを開ける。たった二つしかない男子トイレの個室はどちらも無人だった。窓はあるものの、二十センチほどしか開かないように固定されているもので、これでは人間が外に出ることは出来そうにない。
「……やっぱり誰もいない。もしかして、空、俺を驚かせようとしているのか?」
俺は信じられない気持ちでもう一度トイレの窓を確認する。やはり二十センチ以上は開けられなかった。
ぞくりと背筋が冷える。
本当に、あれは幽霊なのではないだろうか。
俯き、黙り込んだ俺に高宮さんが心配そうな瞳を向けてきた。
「……とりあえず、いったん戻ろう」
彼の手が優しく俺の背中を撫でる。温かさが服越しに伝わってきて、ホッとしたと同時に何故か今すぐ逃げ出したいような複雑な気持ちになった。
さっきの男の手は冷たかった。だから、温かい高宮さんの手に本来は安心するはずなのに、なぜか気まずく思えてしまう。高宮さんは俺にとって頼れるお兄さんで、今はお試しとはいえ恋人で、彼が来てくれた今ならもう心配はないはずなのに。
一瞬でも、彼の『愛している』という言葉に揺らいでしまったから、その罪悪感なのかもしれない。
そんな事を考えていると悟られたくなくて大人しく彼に従った。
「うん……」
促されるようにトイレから出る。高宮さんが優しく俺に問いかけてきた。
「そいつは、何か言っていたか?」
俺は頷く。
「一緒に行こうって……」
「一緒に?」
まるで壊れたブリキ人形のように、俺は何度も頷いた。
「うん……。天国に行きたいんだって……」
少し、その後の言葉を言いよどむ。大きく息を吸ってから一気に告げた。
「あいつ、……俺の事を愛しているから、一緒に行きたいんだって」
もしかしたら言わない方がよかったのかもしれないが、先ほど感じた罪悪感から口にしてしまった。
今となっては怖いと思う。なのに、彼に愛を告げられた時に自分の心が跳ねてしまったのは、やはり俺が彼に魅入られていたことの名残なのだろうか。
「俺、あいつにとりつかれていたんでしょうか? それで、心中しようとしていたのでしょうか……?」
すがるような気持ちで高宮さんに問う。
彼は目を伏せ、少し考えこんだ後、優しい笑みを浮かべた。
「……そうだな。俺はすっかり幽霊は成仏したんだと思っていたが、どうやら、まだ成仏していなかったようだ。できるだけ早いうちに、母に言ってお祓いしてもらおう?」
彼の言葉に、俺はホッとして頷く。
この島では蛇神様という神様が信じられていて、何かあるとすぐにその神様にお祈りをする。本土で言う寺や神社へのお参りのような温度感だ。
高宮さんの母である志津子さんはそんな蛇神様と意思疎通が出来ると言われていて、この付近の老人達から一目置かれた存在だった。
そんな彼女にお祓いしてもらえると聞いて、いったんは胸を撫でおろす。
「はい……!」
目の裏に思い描いた志津子さんは優しく微笑んでいた。彼女にお祓いをしてもらえるなら安心だろうと、俺は高宮さんの裾を掴んだまま、彼と一緒に体育館へと戻っていった。
体育館では子供の泣き声が響いていた。いきなり暗くなったので怖くなってしまっているのだろう。高宮さんは避難の時用の毛布を手に取り端へと向かう。どうやら今日ずっといた場所は開けていてもらえていたようだった。
体育用のマットは子供のいる世帯に配られているので使えない。俺も高宮さんも段ボールを床に敷いてその上に寝ころんだ。
俺も毛布を取ってきていたが、ぺらぺらの毛布一枚だと雨が降っていることもあり、この時期には少し寒い。
「早く寝よう。もう、今日は出来る事は何もない」
叩きつけるような雨の音が聞こえてくる。
「……うん」
電灯がついていた時に、近くにいたおじさんがつけていたラジオで聞いた気象情報では、もうしばらくぐずついた天気が続くらしい。
今日はまだ食料があったが、明日はどうなるのだろう。
父も母も元気だろうか。
不安がどんどん膨らんでいく。
あの男は、また俺の前に現れるだろうか。
目をつむると、男の壮絶なまでの美しさが瞼の裏に蘇る。幽霊のようで怖いのに、彼の事が忘れられない。
同時に、じくじくと体中が痛みだす。包帯の下の傷が今更存在を主張し始めた。
俺は目をつむり、数を数える。すぐに集中力は途切れ、やはり先ほどの男の事を考えてしまうのだった。

