蛇浦岬の上には誰もいなくなっていた。先ほど崩れたことで、ここから降りるのは危険だと判断し、使用人たちは遠回りでも舗装された道を行くことにしたようだった。
朔弥と俺はお互いの体をロープで縛り、崖の上へと昇っていく。
朔弥はクライミング用のハーケンまで持ってきていたようで、十分ほどで崖の上に到達できた。
「随分準備がいいんだな」
高宮が落ちた方角と反対方向に走りながら尋ねる。
「前回の教訓だよ。もともとあの横穴のことは偶然見かけていたんだ。一か八かで飛び降りたら、木に引っかかって無事に横穴に入れた。前回もとっさに服だけを落として死んだように見せかけたから、しばらく追手は来なかったんだよ」
朔弥も返す。彼は下駄を蛇浦岬に捨ててきて、今は用意していた運動靴を履いていた。
「で、上に行って小学校のあたりに逃げたところで被災した。それからずっと空と一緒に天国に行くために画策していたんだよ」
朔弥が向かうのは港とは反対方向だった。俺は彼を信じてひたすら彼の後ろをついていく。
俺は呆れた気持ちになり肩を竦めた。
「その天国ってのだけど、早い話が本土って事だろ? なんでそう言ってくれなかったんだよ。おかげで俺はずいぶん混乱した」
記憶が戻った今なら、以前朔弥と話したことも覚えている。
本土の、高宮家の手が届かないところに行けばきっと朔弥は普通に生きて行けるはずだ。
そう俺が言って、朔弥も頷いた。
『だとしたら、きっとそこは天国だね。いつか一緒に、そこに行こう』
そう話していた上での、天国と言う言葉だった。
朔弥は唇を尖らせる。
「まさか空が記憶喪失になっているだなんて思わないだろう? その上、直紀に全幅の信頼を置いているようだった。あそこで変に直紀がヤバイ奴だって言ったら、疑われるのはきっと俺のほうだっただろ?」
確かに、彼と出会った時に高宮が実際にしていたことを言われたら、ありえなさに俺は朔弥の事を嘘つきだと思っていただろうし、彼に対して心を閉ざしていただろう。更には、それを高宮本人に言って何かしらの危害を加えられることも、今となれば考えられる。
だから彼は、そこまで見越した上で俺に自分で考えさせるようにしむけたのだ。
実際に、資料室では高宮を疑いたくなくて、――彼の庇護を失いたくなくて、俺は朔弥を拒絶してしまった。
「……ごめん」
再び呟く。彼は振り返らずに返した。
「記憶がない空に付け込んだ直紀が悪いんだ。気にしないで」
波の音が強くなる。
朔弥は堤防を乗り越え、テトラポットの方へと向かっていった。
そこにはボートが一艘、ビニールシートに覆われて置かれていた。
「行こう。今度こそ天国に行くんだ」
俺が乗り込んだのを確認し、彼はエンジンをかける。
少ししてボートがモーター音を立てて走り出した。
「これも用意していたのか?」
思わず話しかける。朔弥は頷いた。
「前回は、港にたくさん見張りがいて積んだから。もしもの時の事を考えて用意しておいた」
島が徐々に遠くなっていく。
山肌に、未だに燃え続けている高宮家が見えていた。
「空、腕の数珠捨てて」
ボートを操作しながらも朔弥が告げる。俺は目を瞬かせて腕に着けていた、志津子にもらった数珠を手に取った。
「それ、中にGPSが埋め込まれているの。何も知らずにお守りとして持っていたら位置がバレちゃう」
「……え」
言われ、けれどすぐに納得する。
道理で俺の行く先々に高宮が現れていたわけだ。
「郷土資料館にアイツが来た時、さすがにおかしいと思ったんだ。郷土資料館に入ったこと自体はタレコミでわかるかもしれないけれど、アイツは一直線に資料室に来ていた。位置がバレていたとしたら、何か仕込んでるはずだって」
俺はうんざりとした気持ちになって数珠を見る。
「他にも、逃げ出した時にやけにすぐに直紀が来ただろ? 一度目は港とか、そういうところに使用人を配置して監視していたのにさ」
「……そうだな」
俺は大きく振りかぶると、数珠を海の中に放り投げた。
もしもこれで壊れてくれればいいし、壊れなかったとして、更にあまり考えたくないが高宮が生きていたとしたら、彼はいもしない俺を海の中に探す事になるだろう。
はぁ、と俺は息をつく。
「どうする? そうは言っても、これから本土に行っても、すぐに連れ戻されるかもしれない」
振り返ると、朔弥はリュックからデジカメを取り出していた。
「……それ」
「佐久間先生のデジカメ。彼は直紀に攫われて高宮家に監禁された後に薬が効いてから学校に戻されたんだけど、俺は万一の事を考えて、攫われた時点で回収しておいたんだ。あとで証拠になると思って」
彼は操作して、デジカメの裏の画面に動画を移した。
ケージに入れられた俺と、高宮が向かい合っている場面が天井から撮られている。
『これ……、父さんや母さんや……、佐久間先生にもやったのか?』
『そうだな。同じ痣がついていただろう?』
『……もしかして、あの動画配信者も?』
『父さんを愚弄したからだ』
俺は目を見開いて朔弥を見た。
高宮が自白したシーンを撮影していたのだ。
「これを警察に届けたら、俺たちは保護してもらえる。こんなに強力な証拠があるんだから。志津子はきっと逮捕されるだろうね。直紀も、生きていたって刑務所行きだ」
彼はニィ、と笑い、他の写真も見せてくれた。
「佐久間先生がきっちりと空の体の写真も証拠として残してくれていたし、彼のメモも撮ってある。彼の両親の電話番号と住所も住所録から控えてある。いきなり警察に行くんじゃなくて、まずはそっちに行って俺達を助けてもらうようにお願いしよう」
デジカメをしまうと、彼は笑顔を引っ込めて視線を伏せた。
「ごめん……。こういうのをいちいち揃えていたから、空を助けるのが遅くなって」
俺は首を振る。
「いや……。その場で俺だけを助けてもすぐに連れ戻されるだけだろうし……。朔弥はその後をきっちりと考えてくれていたんだから、むしろありがたいって思ってる。……にしても、よく撮れたな、これ」
再びカメラに視線を向ける。朔弥は苦笑を返した。
「俺、割と簡単に関節をつけたり外したりできて……。おかげで色んな所に忍び込める」
そういえば、と思い出す。
彼はトイレで出会った後、すぐに姿を消していた。あれはたった二〇センチの窓の隙間から関節を外して外に出ていたということなのだろうか。
だとしても離れ業がすぎる、と俺は頬を引きつらせた。
「この動画も、空を助け出した後のことを考えて、何とか自白シーンを撮りたいって狙っていたんだ」
彼は眉尻を下げて俺を見つめ、再び船の操縦桿に視線を戻した。
俺は再び蛇比良島の方を向いて呟く。
「……高宮さんは、俺のどこがそんなによかったんだろう」
朔弥の舌打ちが聞こえてきた。
「空はとても魅力的だよ。ただ、それを差し引いたとしても、直紀は人一倍執着心が強かったんだ。……まるで蛇のようにね」
彼は吐き捨てるように続ける。
「その上狡猾だ。自分がやっていることをちゃんと理解していた。……世間一般的には許されないことだったっていうこともね。だから、空に記憶がないとわかったら、自分がやった事を隠蔽しようとしていたんだ」
俺は記憶をなくしてからの高宮を思い返す。確かに、何も覚えていないとわかってからは、高宮は自分に対して全幅の信頼を置くように仕向けていた。
俺は舌打ちをする。
「恋人とかいい雰囲気だったとか……、全部嘘だったんだよな。俺、信じちまったよ」
おかげで、朔弥の事を気にかける事自体が高宮への裏切りのような気がしていて、それが酷く気まずかったのだ。
朔弥は唇を尖らせる。
「仕方ないことだとはわかっているけどね……。でも、すっごく嫌だったよ。あんな奴と空が仲良さそうに何度も手を繋いでいたんだから」
そこも見られていたのか。
「……ゴメン」
「空は悪くないよ。でも、おかげで直紀を徹底的につぶそうと思ったんだ」
未だに彼は憤慨しているようだった。俺の為だと思うと少し可愛らしく思えてしまうのだから困ったものだ。
「あの注射は何だったんだ?」
ふと思い出して尋ねる。
「この島でしか取れない蛇草ってのから作られる薬で、一種の幻覚剤だよ。時間の流れを遅く感じさせて、覚醒状態を続ける。まるで何日も寝ていないように脳に錯覚させて、幻覚を見させたり、妄想を信じ込ませたりして人の脳を破壊するんだ。空は希釈されたものを投与されていたから被害は少なかったけど、原液を入れられた人たちは散々だっただろうね」
両親や小柴さん、葉宮さんの様子を思い出す。きっと佐久間先生も使われていた事だろう。
朔弥は続けた。
「最初にその症状が現れたのは大正三年の飯田武雄。この年何が起こったかわかる?」
俺は唇を引き締め、年号を思い出そうとする。大正三年は一九一四年。
「あ……、第一次世界大戦?」
「そう。それに伴い、海外から化学兵器の知識を取り入れて、日本軍は少しずつ毒薬の開発を進めていったんだ。本格的になったのは第二次世界大戦以降だけどね。
前にも言ったでしょ? 民間習俗という非合理的なものが、経済と言う合理的なものを追い風に広まっていくことがあるって。それで言うなら、蛇神は世界情勢から生まれたようなものだよ。その毒薬の開発中に生まれた薬が、そのまま蛇神様の祟りとやらになったんだから。
あの薬は、蛇草からしか作れないんだ。そこで、この島の山の土地をほぼ所有している高宮家は莫大な財産を築くことになった。
そのまま戦争が終わって今になっても、高宮家のお抱えの医者が開発を続けて、裏ルートで売る事で収入が途絶えない」
俺は佐久間先生が死んだ時に彼の仕事を引き継いだ老医者を思い出す。きっと彼が一枚噛んでいるのだろう。
どうりで、と俺は高宮家を思い出した。あんな豪邸を、こんな田舎の一介の地主が保持できているわけだ。
朔弥は島中の文献で気になるものはあらかた読み終えたと、前に聞いた。その時にこういった知識も手に入れたようだ。
俺は重い口を開く。
「もしかして、その秘密に迫った人が殺されていったってことか?」
「それもあるけどね。そもそも蛇神信仰があることであの土地を手に入れようとする人もいなかっただろ? 高宮家からしたら、蛇神信仰は裏の仕事を隠すためのいいカモフラージュだったってわけだよ」
俺は苦いものを飲み込んだような気がして顔を顰める。
「……本当に、高宮家は蛇神様のおかげで儲けていたんだ」
カラカラと朔弥は笑った。
「だからと言って、当主を蛇神に見立てるのはさすがにやりすぎだよね」
笑い事ではないが、今はもう乾いた笑いしか出てこない。
朔弥は歌うように続けた。
「全部、きちんと告発しよう。そして、空の両親も佐久間先生も、死んでいった他の人たちも、ちゃんと弔おう。それが俺達にできる唯一の事だよ」
俺はコクリと頷きを返す。
再び、島に視線を移した。焼けている高宮家からもくもくと煙が立ち上っていっている。まるで蛇が空へ逃げて行っているようにも見えた。
「これから、あの島はどうなるんだろうな」
呟くと、朔弥もちらりと背後を――島を振り返った。
「何も変わらないんじゃない? 今度はまた、別の蛇神様が立つだけだ」
「え? でも、確実に高宮家の人たちは逮捕されるよね?」
朔弥は目を伏せ、再び行先に視線を移す。
「そうだろうけどさ……。そもそも、あんないびつな支配構造が成り立っていた事自体、おかしいと思わなかった? 使用人たちとか、誰も止めなくてただただ志津子たちに従っていた。まともな感性なら、あれは犯罪だって止めるはずなのに」
「……ああ」
俺は持田のぬるりとした瞳を思い出す。目の前で人が監禁されているというのに、何の感慨もない表情をしていた。
「結局、一番怖いのはああやって自分の頭で考えず、ただ組織に従っている人間だろうね。そうしているのが楽なんだ。だから、変えようとしない。……きっと、志津子たちがいなくなっても、彼らは死ぬまで新たな依存先を探すだけだろうね」
俺は黙って朔弥を見つめる。
事実、彼はそうした高宮家の使用人達によって何年もないものとして扱われてきたのだ。
ぞわり、と心臓が粟立つ。
本当に怖いのは、高宮家や蛇神、蛇草なんかじゃなくて、それを見て見ぬふりをし、更には己の利益のために利用する周囲の人々なんじゃないのかと感じたのだ。
「……痛」
ふいに、朔弥は肩を押さえて前かがみになった。
あ、と思い出す。そういえば彼は猟銃で撃たれていた。
「大丈夫か!?」
「ああ……。一応消毒薬は持ってるから……」
彼はリュックから取り出すとびちゃびちゃとかける。どうやら弾は肩をこすった程度のようで、大事には至っていなかった。
「あーあ、これもちゃんとその時の事を動画とかで証拠として残せていたらよかったんだけど」
朔弥が冗談めかして唇を尖らせる。
俺は心配になって肉がえぐれたあたりにそっと手を置いた。ガーゼもタオルもなく、俺の包帯を分けることはできるだろうが、そうすると別の悪い細菌が付いてしまうかもしれない。
ヒヤリと冷たい感触がする。
「ずっと思ってたけど、朔弥の体っていつも冷えてるんだな」
おかげで余計に幽霊だと思っていた。朔弥は何でもないように笑う。
「そういう体質なんだよ。おかげで冬は本当に辛いんだ」
彼の微笑みは記憶をなくしていた頃に感じていた不気味な美しさはなく、ただただ可愛らしかった。
ふいに衝動に駆られて、そんな朔弥の唇に口づける。ふに、と優しい感触がした。
顔を離し、朔弥を見つめる。彼の金にも見える瞳が月の光を反射して輝いていた
ふいに朔弥の頬が耳まで赤く染まっていることに気が付き、笑みがこぼれる。
よかった、と俺は短く息を漏らす。
記憶がない間、俺はずっと朔弥を幽霊や、蛇神じゃないのかと疑っていた。
しかし、俺が一緒に死のうとした相手は、俺の事を好きな、少し変なところがある、ちゃんとした人間だったのだ。

