俺が朔弥を初めて見たのは、十四歳の春、郷土資料館でだった。
資料室に白装束を纏った幽霊が出る。そんな噂がまことしやかに流れていたのだ。ただの子供の噂話だと思っていた。
この島の中学校は小学校と一緒になっていた。子どもの少なさから委員会では小学生とも一緒に活動する。そこで、三年生の男の子に見に行って、そんなものはいなかったと証明してほしいと言われたのだ。
彼はとても怖がりで、郷土資料館どころか学校の図書室すらも一人では行けなくなっていた。
そして、一人っ子で兄弟と言うものに憧れていた俺はすっかり兄の気分で快諾してしまったのだった。
一応、とばかりに郷土資料館の前で証拠のための写真を撮り、中へと入っていく。
正直、怖かった。後輩の前では強くカッコよくを心掛けていたが、実のところ、俺も結構な怖がりで、心霊特番を見てしまった日には明るい中でしか眠れないような人間だったのだ。
郷土資料館の外から図書室の窓の前まで行き、室内を照らす。さすがに中に入ったら不法侵入だから、図書室に何もいないのがわかればそれでいいだろうと思ったのだ。
「誰もいませんように……」
ぽつりと呟きながら、窓の前を移動していく。
しかし。
ぬっと白い何かが姿を現す。
「うわぁあああああ!」
思わず大きな声をあげて俺はその場に倒れこんでいた。
よく見たら白い何かは白装束を着た男で、目の前の人間は全身が白くてまさしく幽霊のように見えた。
「お、おば……、おば、おばけっ……!」
叫ぶことしか出来ない。腰が抜けて立ち上がれそうになかったのだ。
がら、と窓が開く。
暗闇の中、月明りに照らされた男の顔はひどく整っていて、現実感がなかった。
彼は俺をまじまじと見つめると、口を開く。
「君、俺の事が見えるの?」
彼の言葉に、俺は更にまん丸に口を開けて凝視した。質問されたのだから、とコクコクと頷く。彼は顔をほころばせて窓から外へ出てきた。俺の前に腰を下ろし、優しく微笑む。
その笑顔に何故か胸が高鳴り、こいつは幽霊ではないと直感したのだ。
恐る恐る彼の腕に触れる。ひんやりと冷たかったが、やはり人体としての感触があった。
「お前……、幽霊じゃないよな?」
俺の問いかけに、男は大変嬉しそうな顔をした。
「うん。……最近自信無くなってきてたけど、君が俺を見つけてくれたんだから、俺はちゃんと人間なんだ」
変な回答だな、と首を傾げる。
「人間であることに自信がなくなった?」
男は頷く。
「皆、俺をないものとして扱うんだ。俺に誰かが話しかけてくれたのは、本当に久しぶりだ。……えっと、何て呼べばいい?」
彼が首を傾げる。外見は確かに男の骨格なのに、そうしていると可憐な少女のようにも見えてきた。
「俺は佐伯空。……空って呼んで」
「ありがとう。俺は朔弥。俺も呼び捨てでいいよ」
いつまでも尻もちをついたままでいるのはバツが悪かったので、俺が立ち上がると、朔弥もつられたように腰を上げた。
「朔弥はどうしてここにいるんだ?」
資料室の窓は未だに開いている。そちらに視線を移すと、朔弥は再び窓から中へと入っていった。
「これ。本を借りに来たんだ」
「本を……?」
朔弥が手にしている本はハードカバーの本で蛇比良島郷土史と書かれていた。
「図書館の本で気になるのはあらかた読み終わっちゃったから、今はこっちの本を読破中」
分厚い本は、空であれば一生読まないような難しそうで退屈な本に思えた。
「なんで昼間に借りに来ないんだ?」
「昼間は外に出られないんだ。今は皆が寝静まっているから、少しの間だけ自由でいられる」
俺はつい、眉間に皺を寄せてしまった。
「なんで外に出られないんだ? 俺と同じくらいの年だろ? 学校に行かなくていいのか?」
「言ったでしょ? 俺はいないものとして扱われているんだって」
朔弥は本を二冊ほど取り、手ぬぐいで包むと再び窓から外へ出てきた。
「ねぇ、よかったらもう少し話をしない? 俺、誰かと話をするのは久しぶりなんだ。何年振りだろう」
彼の声が浮かれている。まるで人懐こい犬のような表情だった。
そうして、俺はすっかり朔弥に心を許してしまった。
いつまでも資料館近くにいると泥棒だと思われるかもしれない、と俺と朔弥は海岸まで歩いて行った。
行先はどこでもよかった。けれど、親に内緒で出てきた以上、自分の家に招くわけにもいかない。だから、資料館から近い海岸へと行くことにしたのだ。
夜の海岸は真っ暗で、少し不気味な感じがした。波の音がひっきりなしにして、潮の匂いが鼻を突く。
俺と朔弥は砂浜に座り、横たわる。懐中電灯をつけていたら大人に見つかるかもしれないと思ったので、電気は消しておいた。
月のない夜だった。
おかげで星がよく見える。
朔弥は俺の日常の事を知りたがった。学校のことや、家での生活について。好きな歌、好きな本、好きな食べ物。
俺にとってはありふれた話だったが、朔弥はそれらがすごくキラキラして聞こえるのだという。
気が付けば、東の空の縁が明るくなっていた。
「もう、帰らなくちゃ」
そう俺が言うと、朔弥は悲しそうな顔をした。
「また会える?」
尋ねられ、俺は即座に首を縦に振っていた。俺の方こそ、朔弥にまた会いたいと思っていたのだ。
朔弥は嬉しそうに頬を緩ませる。
「じゃあ、次は明後日の夜にまたここで」
立ち上がり、体についた砂を拭いながら彼が告げる。
「明後日?」
「その頃には本を読み終わって、また新しいのを借りるために外に出てくるから」
こうして俺と朔弥は、一週間に二、三回ほどの目安で会うようになっていっていた。ちなみに、三年生の男の子には幽霊なんていなかったと報告したし、俺は誰にも朔弥の事は言わなかった。
自分だけの秘密にしていたかったのだ。
最初は海岸で会っていたが、お互いの家から遠いということで、中間地点である蛇浦岬で会うようになっていた。
夜空を見上げて、その日あったことを報告する俺の言葉に、朔弥は飽きずに、それどころか実に楽しそうに耳を傾けていてくれたのだった。
出会ってから半年ほどが経つとこの島で手に入る本で興味があるものは大抵読みつくしてしまったと朔弥が言うので、俺は本土の図書館から朔弥が読みたいと言うものを取り寄せて貸してあげるようになっていた。
そのまま俺は中学校を卒業し、通信制の高校に入った。
そこで、二歳年上の先輩、高宮さんと再び接点が出来てしまったのだった。
高宮さんは、俺にとっては安心できるお兄ちゃんのようなものだった。
引っ越したてで、高校が始まるまでにネット環境が整わなかった俺に家で一緒に勉強するように誘ってくれた。彼と授業を受けるのは楽しかったし、わからないところがあればすぐに教えてくれて、本当の兄の様に思うこともあった。
話が変わってきたのは、高校に入って半年後、俺が十六歳の誕生日を迎えた頃だった。
例の配信者が祠に落書きをし、世間を騒がせるようになってから三週間ほどが経過していた。
既に十八歳になっていた高宮さんは父親の仕事を手伝うようになっていた。それに伴い、早めに結婚をして跡取りを作らなくてはと志津子さん達両親にせっつかれていたらしい。
「俺、空のことが好きなんだ」
ネットがつながっても、高宮家のご厚意で一緒に授業を受けていた俺に、そう高宮さんが言ったのは九月の二学期が始まってすぐの頃だった。
俺は大いに戸惑った。
「え……、こ、困ります……。俺にとって高宮さんはお兄さんみたいなもので、恋愛対象とか、そういうんじゃ……」
しどろもどろになりながらも返した言葉に、高宮さんは悲し気に微笑んだ。
「そうだよな……。いきなり言われても困るよな。でも、考えておいてほしいんだ。俺の事……」
そう高宮さんに言われ、俺は逃げ出したい気持ちになってしまった。
その日の夜、朔弥にそのことを相談すると、彼の顔が固まった。
「……そう、直紀が」
ぽつりと彼が呟く。深夜の蛇浦岬は俺たち以外にはいなくて、煌々と輝く満月が二人を照らしていた。九月の生ぬるい風が二人を包む。
朔弥が高宮さんの事を知っているようだったので、俺は不思議に思って首を傾げた。
けれど朔弥はそれよりも先に真剣な顔を俺に向けた。
「俺だって空の事が好き。誰よりも好き。空と付き合いたい」
縋るような目に、彼の本気を悟る。
高宮さんに言われた時にはどこか怖いとすら思ったのに、朔弥に言われると胸の奥がむずむずとして、温かくなったような気がした。
「空は迷惑? 俺と恋人にはなれない?」
彼が捨てられた犬のようにじっと見つめてくる。俺はびくりと震えてしまった。そんな俺の肩に朔弥の手が置かれる。
「わ……、わからないよ。だって、俺は男で、女の子が好きで……」
そうは言うものの、俺は初恋もまだしたことがなかった。
「……じゃあ、キスしてみよ? それで、空の気持ちを確かめてみよう?」
何が『じゃあ』なのかわからなかったが、それでも真剣な朔弥の顔に、俺はまぁいいかと思ったのだった。
コクリと頷くと、朔弥の顔が近寄ってくる。ふに、と柔らかい唇の感触がした。
思ったよりも嫌じゃない。
まず感じたのはそんなことだった。触れるだけのキスはすぐに終わり、俺に心臓の高鳴りを残す。
「……どうだった?」
普段は白い朔弥の頬が真っ赤に染まっている。朔弥もどきどきしているのだと思うと、俺は全身が熱くなった。
俺は朔弥の手を取ると自分の胸に当てさせる。
「すげぇ、鼓動が早くなった」
朔弥は目を瞬かせ、俺の手を取って同じように胸に触れさせた。
「俺も……、空とキスしてどきどきしてる」
両思いだ。
その言葉が頭に浮かび、俺はニヤつかないように口に力を入れ、ようやく自分の気持ちに気が付いた。
「そっか……、俺、朔弥の事好きだったんだ」
呟くと、朔弥の目が潤んでいく。ぎゅっと彼に抱きしめられる。
「嬉しい……。俺も空が好き。ずっと一緒にいたい。俺の恋人になって?」
おずおずと俺も彼の背中に手を回す。
「うん……。よろしくな、朔弥」
こうして、俺と朔弥は恋人同士になった。
そうなれば、高宮さんからの告白は断らなければいけない。
もしもこの時の俺がもう少し慎重に動けていれば、このあとの悲劇は起こらなかっただろう。

