小学校に戻ると、玄関先で俺は役場の職員に声をかけられた。
「ああ、佐伯君。探しました」
俺と高宮さんは立ち止まり、職員の方を向く。四十代前半らしき、少し腹の出た男は額についた汗をぬぐいながら持っていたバインダーに視線を移した。
「この後のことについて、軽く話したいんですよ。遺産の相続とか、ご両親のローンのこととか」
あ、と俺は口を開ける。
そういえば引っ越したと聞いていた。先ほど見た家は新築だったので、当然ローンが残っている。
「……はい」
肩を落とし、彼の言葉の続きを待つ。
職員はバインダーに目を通しながら続けた。
「遺産ですが、今の状態だとローンの方が高く、このままだと佐伯君は借金を背負ってしまうことになります。もちろん相続放棄はできますが、どうしますか?」
俺は眉間に皺を寄せて話を聞く。
そんな事を言われても、どうすればいいのかわからない。
高宮さんが一歩前に出た。
「空は未成年ですから、放棄をするにしても後見人が必要になりますよね? 空、心当たりは?」
俺は首を横に振る。
父さんも母さんも、どちらの親族ももうだいぶ前に亡くなっていると聞いている。
役員はぺたぺたとハンカチで更に頬の汗も拭った。
「困りますね……。であれば家庭裁判所へ持ち込み、児童福祉施設へと預けられるのですが、現在そういった対応はかなり遅れる見込みなんですよね……」
彼の顔が本当に参っている様子だったので、俺は口をヘの字に曲げた。
高宮さんが再び口を開く。
「であれば、空、やっぱり俺のところに来い。もうすぐ小学校からの帰宅命令も出される。そうなったら、空は行く当てがなくなる。それに、食事はどうするんだ? 配給が無くなれば、お金が必要になるが、空はお金なんて持っていないだろう?」
言われてみれば、と俺は口をぽかんと開けた。
何故かずっと小学校にいられるような気がしていたのだ。
胃の中がぐるぐるとかき回されているような心地になる。高宮さんのお世話になるのが一番のはずなのに、朔弥の話を聞いた今では少しの恐怖すら感じていた。さらにはここのところ、何故か高宮さんに近寄られると心がゾワゾワしてしまう。
俺が答えあぐねていると、ぱぁ、と職員の顔が晴れやかなものになった。
「それはいいですね! 良ければぜひお願いしたいです!」
あ、と俺は彼の方を見るが、職員は話は決まったとばかりに手元のバインダーに何かを書きつけていた。
俺は上目遣いに高宮さんを見る。
「……高宮さんは、それで本当にいいんですか?」
彼は目を輝かせてほほ笑んだ。
「もちろんだ。朝も言ったけど、空とずっと一緒にいられるなんて、嬉しいよ」
彼の言葉は心の底から言っているようで、俺にとっても嬉しいもののはずだ。だって、高宮さんと俺はお試しとはいえ、恋人同士なのだから。
――そう思わなくては、いけないのに。
けれど、俺が何かを言う前にすっかり俺は高宮家に引き取られることになっていたようで、職員は俺の肩をばしばしと叩くと、あとは高宮家でよろしく! と告げて別の子供のところに行ってしまった。
高宮さんの言葉通り、震災から八日目の今日、俺達に帰宅命令が出された。これ以降は配給もなくなり、使える部屋が一階の教室二部屋だけになる。電気も制限されてしまうので、居づらくなってしまうのだ。
俺は高宮さん達とともに、高宮家に行くことになった。一週間とはいえ、同じ教室で寝泊まりしていたのだ。教室に集まっていた使用人の人たちとも打ち解けていて、彼らも笑って俺を歓迎してくれた。
「空君が来てくれてとても嬉しい!」
「これからよろしく」
そう言って背中を優しく撫でられて、むず痒い気持ちになったのだった。
高宮の屋敷は西側が被災していたが、以前言っていた通り東側の家屋は使えそうだったので、そちらに居を移した。高宮さんの部屋は東側の二階にあり、その隣に客間があるというので、俺はその部屋を使わせてもらうことになったのだった。
教室の半分ほどの広さで、文机と座布団が置いてあるだけの質素な部屋だった。正面には大きな窓が一つあり、すぐ隣の壁にある襖を開けると一人分の布団セットが出てきた。畳は綺麗な緑色で、手入れが行き届いた部屋だとわかる。
「俺の部屋はすぐ隣だから、いつでも来ていいからな」
高宮さんはそう言って軽く家を案内してくれた。
古いが豪華な日本家屋といった趣のある屋敷で、台所や食堂、風呂やトイレといったインフラが無事だったので、今日からすぐに住んでも問題ないようだった。
「西側には母さんの部屋があったんだけど、倒壊しちまったから今は寺の方で寝泊まりしてる。あそこは無事だったからさ」
高宮さんが告げる。
未だに彼女は島の色んな葬式で読経をしているらしくて滅多に姿を現さなかった。
「壊れたところは最優先で直させているからあと一週間もあればもとに戻るだろう」
彼の言葉に口をぽかんと開ける。
「早いですね……」
高宮さんは得意そうな笑みを浮かべた。ふと高宮家の収入事情が気になってしまった。ただの地主だと思っていたが、他にも何か収入源があるのだろうか。
けれど、そんなことは居候の身で聞けるわけがない。
再び高宮さんの部屋に戻る。
彼の部屋は俺の部屋よりも倍近く広かった。壁にぴったりと本棚が並び、難しそうな本が揃っている。ちらりと見たが、経済学から薬学まで、いろんなジャンルの本が集められていたが、小説はなさそうだった。
部屋の中央には大きな机が置かれていた。きっとここで以前の俺は高宮さんと顔を突き合わせてネット上の高校に通っていたのだろう。
彼は机を顎で示した。
「高校も、明後日からだって連絡があった。念のため、タブレットに触っておくか?」
俺は目を瞬かせて、高宮さんの言葉に頷いた。咄嗟に思ったのは、何か自分の記憶の手掛かりになるものがあるかもしれないということだった。
「はい、お願いします」
高宮さんは充電されていたタブレットを一つ取ると俺に差し出す。裏に俺の名前の書かれたシールが貼ってあった。
起動する。顔認証だったようで、あっさりとロックが解除された。
教科書のアプリをタップする。表示された画面に書いてあることはどれも全くわからなかった。
「どうしよう……。本当に全然覚えてない。俺、こんなことでやっていけるのかな」
不安になり肩を落とす。これまでの恐怖とは違い、今後の生活に対する生々しい怯えだった。
高宮さんは同情するような視線を向けてくる。
「ああ……、そうだったな。二年分の高校の勉強はかなりキツいな……。素直に言って補修を受けさせてもらうか?」
俺は唇を引き結び、頷いた。
「そうですね……。メール、送っておきます」
高宮さんがスタイラスペンとキーボード、スマホスタンドを貸してくれたのでセットしてメールを開く。
学校からの事務連絡のメールがずらりと並んでいた。
「あ……、被災に関しての連絡、たくさん来ていますね」
俺はその中の一つを開く。
高宮さんはすでに中を読んでいたのか、自分のタブレットは使わずに隣で俺のを覗き込んでいた。
「被災して授業に出られない場合はその旨を早めに連絡……、うぅ、やっぱり……」
「俺のところにも来ていたから、ネットが回復してすぐに空のことも加えて返しておいた」
高宮さんの言葉にホッと胸を撫でおろす。
少なくともこれで無断欠席扱いにはなっていないだろう。
「よかった……。……あ、確かにそのことも書いていますね」
履歴を遡っていくと、中には担任からのメールもあった。俺の事を心配している、早めに連絡を欲しいといった旨の事がつづられていた。
「ちょっと返信しますね」
少しの間、無言の時間となる。無事にメールを返し終え、俺はふぅと息をついて天井を見上げた。
その木目にはところどころしみがあり、歴史を感じさせる。
本当にこの家で俺は今後暮らしていくのだろうかと思うと実感がわかなかった。
「どうした?」
高宮さんが首を傾げる。俺は彼に視線を向けた。
「あ……、いえ……、俺、なんだか信じられなくて。高宮さんの家に入ったって言うのが」
彼は頬をほころばせた。
「そうだな。俺もだ。……でも、嬉しいよ」
高宮さんの手が俺の手を取って絡められ、熱い視線が向けられた。
「これで、ずっと一緒だ。空はどこにも行かず、俺のそばにいてくれればいい」
彼の熱っぽい表情が落ち着かない。頭が何かの警告を発している。彼に触れられるたびに、逃げ出したいような気持ちになるのが不思議だった。
俺は俯いて彼から半身を引く。
「あ……、ありがとうございます」
彼の顔はますます真顔になった。俺と絡めた手を繋ぎなおし、ぎゅっと握る。
「なぁ、本当の恋人にしてくれないか? 俺は空の事が好きだし、キスも、それ以上の事もしたい」
思わず息を呑む。ふいに、朔弥の言葉が脳裏に響いた。
『信じて……、考えて。俺は空の味方だから』
その言葉が耳に蘇った瞬間、俺はぶんぶんと首を横に振っていた。
「……すみません」
ばくばくと心臓がうるさい。
それでも、俺は妙な焦燥感を感じていた。彼の手を取ってはいけない。全身がそう訴えているのだ。
朔弥の言った通り、この警告を無視してはいけない。そんな気がして仕方ない。
「ごめんなさい……、俺……」
朔弥の真剣な顔が頭から離れない。
そんな彼が、不思議と今、ひどく恋しい。会いたくて仕方なかった。
「……なんでだろう。……朔弥が、頭にちらついて……」
ぽつりとその言葉を漏らして、高宮さんを見上げた。
「………………っ」
彼の形相に、俺は思わず息を呑む。まるで蛇のような瞳で冷徹に俺を見つめていた。
ぞくりと背筋に悪寒が走り、後ろに下がろうとする。
高宮さんはそんな俺の肩を押さえ動けないように固定した。
「……空、俺は空の事が好きだ」
再びの言葉に、俺の心臓が嫌な悲鳴を立てる。彼の事は受け入れられない。それでも、今その言葉を発してしまえばどうなるかわからない恐怖があった。
代わりに、俯いて沈黙を貫くしか出来ない。体が小刻みに震え始めた。まるで今から捕食される小動物の気分だ。
高宮さんの手が伸びてきて、俺の顎を掴む。無理やり上を向かされ、視界の先には至近距離に彼の顔があった。
キスされる……!
直感的にそう思い、俺の体が固まる。彼の吐息が唇に触れた瞬間、全身に鳥肌が立ち、俺は渾身の力を込めて高宮さんを押しのけていた。
「嫌だ!」
思わず言ってしまい、慌てて口を押さえて顔をそむける。肩にかかる彼の手にいっそうの力が入った。
伺うように高宮さんを見る。
彼は顔を伏せ、小さく震えていた。
マズい、と頭の中で警告音が鳴り響く。この状況は危ない。早く逃げろ。そう、直感が告げているのに、俺の足は石になったかのように動かなかった。
「………………………………なんでだよ」
ぽつりと高宮さんが呟く。
あまりにも小さい声で、何を言ったかわからなかった。どくどくと心臓が嫌な音を立てる。
立ち上がろうとしたが、高宮さんの手が肩を押さえたまま離れなかった。
彼がバッと顔を上げる。まるで鬼のような、恐ろしい形相だった。
「なんでダメなんだよぉおおおおおおおおお!」
鼓膜が破れるかと思うような怒鳴り声に、俺は思わず身を竦める。
「……高宮さん?」
声が震えている。高宮さんは俺の頬を思いきりひっぱたいた。
「なんでまたダメなんだよ! なんでなんだよ! なんでアイツはよくて、俺はダメなんだよぉおおおお!」
人が変わってしまったかのように、高宮さんは俺の体めがけて何度も拳を振り下ろした。
俺は何が起こっているかわからず、ただ両手で頭を押さえて耐えるしかできなかった。高宮さんは俺に馬乗りになり、襟首をつかんだ。
「いつまで俺の事をナメてたら気が済むんだよ、空ぁ! ふざけんなよ、お前、ふざけんなよぉおおおお!」
彼の怒声に視界が滲んでいく。何度も頭を殴られ、意識が朦朧としてきた。
「高宮さん……、やめてください! お願いです!」
叫ぶが、彼の耳に届かない。
そうして彼は俺を抱え上げると、無理やり一階へと移動させた。

