俺は「何」と心中しようとしたんだろう



 教室の定位置に戻ると、俺は黙って本を読んでいた。そうは言っても、先ほど思い出した朔弥の顔に頭が支配され、文字は読んでも理解できていなかったように思う。
 そのまま夜になり、消灯時間になる。
 高宮さんが戻ってこないから心配していたが、暗くされたら眠くなるもので、俺はそのまま寝入ってしまった。
 翌朝も高宮さんは戻っていなかったが、昼になり、ようやく彼の姿が見えた。
「お疲れ様です」
 教室に入ってきた彼に俺は軽く手を振る。
 高宮さんは俺の顔を見るとほほ笑んだ。
「ただいま。とは言っても、仮眠を取ったらすぐに出るんだけどな」
 俺は顔を曇らせる。
「そんなに、忙しいんですね……」
 ただ待つしかない己がふがいなく思える。朔弥の事も聞きたかったが、今はあまりその名前を口にしない方がいいだろう。
 高宮さんは苦笑し、俺と指を絡めた。
「やることが次から次へと出てくるからな」
 そうか、付き合うということは、こうやってふとした時に体を接触させることなのか、と今更ながらに思った。
 ドキドキしているのは俺の方だけなのだろうか。高宮さんはあまりにも自然な態度だった。
「空は、今日はずっと本を読んでいたのか?」
 彼は俺が持っている本に気が付いたのだろう。俺は表紙を彼に見せた。
「はい……。子供の頃好きだった本があったので……。気がまぎれるかと思って」
 彼は頬を緩ませる。
「そうか……。俺もその本は好きだったな」
「え? 読んだことあるんですか?」
「ああ。しかし、かなり前の事だったから、忘れてしまった。……また今度読んでみるかな」
 言いながら、彼は俺から手を離すと段ボールの上に横になり、仮眠の体勢に入った。
「そうですね! 落ち着いたらぜひ」
 これ以上話しかけるのは申し訳ないな、と再び読書に戻ろうとした、その時だった。
 シュー、と独特な電子音がしてスピーカーの方を見る。教室前方の黒板の上についている四角いスピーカーは普段はチャイムの音が鳴らされるものだった。
 ザザ……、ザザ……とノイズが走り、次に聞き覚えのある声がした。
『放送で失礼します。佐久間です』
 教室が静まり返り、スピーカーへ視線が集中する。
『昨日は嘘をついてしまい、大変申し訳ありませんでした。蛇神様の祟りは存在します。蛇神様は存在します。大変申し訳ありませんでした』
 時折彼の呂律が上手く回っておらず、聞き取りづらいところもあったが得てしてこんなことを言っていた。
 ぞわりと背筋が粟立つ。
 更に言葉が続けられた。
『ごめんなさい。軽率な事を言ってしまいました。本当に、本当に申し訳なく思っております。この事は、私の死をもって償いたいと思います』
 ブツ……、というノイズとともに放送が切れる。
「……え?」
 俺は彼の言葉が咄嗟には理解できなかった。
 ふと窓の外を見る。
 ふいに、白い何かと目が合った気がした。
 それはすぐに落ちていった。どすんと物が地面にぶつかる音がする。
「えっ……」
 思わず口を押さえた。一瞬の事だったのに、ぎょろりとした目が瞳に焼き付いて離れない。
「空?」
 起き上がった高宮さんが眉間に皺を寄せて俺を見た。俺は慌てて立ち上がると窓を開けて外を見る。
 一階だったので、すぐそこにそれは転がっていた。
「……え? ……え?」
 手足がありえない方向に曲がっている。目は見開かれ、上を向いていた。体中から血が流れ出している。
 その顔には、嫌という程見覚えがあった。
「……佐久間、先生?」
 俺の行動に、他の人たちも飛び起きて窓を開ける。
 薄暗い曇天の中、佐久間先生の死体が転がっていた。
 すぐに、耳をつんざくような悲鳴があがる。
「なんで? 佐久間先生……?」
 俺はその場に座り込む。騒ぎを聞きつけたのだろう、他の大人が外に出て、先生を確認した。
 役場の職員の一人が恐る恐る近づいて、呼吸を確認する。すぐに首の脈を測り、ゆっくりと首を横に振った。
「ひっ……」
 叫び出さないように必死だった。
 事切れてしまった彼は口をだらしなく開け、目ははるか上空を見つめている。頭が割れてしまっているようで、そこから流れた血がコンクリートに広がっていっていた。
 何より、目を引いたのは、首から胸元にかけて俺と同じような蛇の這ったような跡があったことだった。
「……蛇神様の祟り」
 思わず口に出してしまい、俺は慌てて首を横に振った。
 けれど同じことは子供達も思っていたようで、彼や彼女たちはいっせいに泣き始める。大人たちの間にも不安が広がっているのか、ひっきりなしに祟りやら呪いやらの言葉が出てきていた。
「静かに!」
 場に声が響く。高宮さんだった。
「前島さん、田中さんはすぐに遺体を回収してください」
 前島さん、田中さんは外にいる役場の職員たちの名前のようで、彼らはコクコクと頷くと佐久間先生の両手首と両足をそれぞれ掴んだ。
 高宮さんは今度は室内を見渡す。
「子供たちは出来るだけ親の元を離れないで。孤児になった子は誰でもいいから大人が安心させてあげてください。不安はわかりますが、今は落ち着いて行動してください!」
 彼の力強い言葉に、周囲はしんと静まり返った。そのまま高宮さんは教室の外へと向かう。
「俺は放送室へ行ってきます。どなたかついてきてください!」
 高宮さんの呼びかけに、男の人が二人ほど立ち上がる。どちらも高宮さんの家の使用人だった。
 俺も一緒になってついていこうとする。けれど、それは高宮さんに止められてしまった。
「空はここにいろ。……まだ十六歳なんだから、大人しく待っていなさい」
 まるで大人が子供をたしなめるかのような口調である。自分だってまだ十代のくせに、と唇を尖らせたが、実を言うと少し怖いと思っていたので俺は大人しくその場に座り込んだ。
 そんな俺を確認して高宮さん達は踵を返し階段へ向かう。
 いまだに周囲はざわついていたが、高宮さんの言葉が効いたのだろう、特に大人は何も言わず、近くにいた子供を力強く抱きしめてあげていた。
 俺は寝転がり、毛布の中にくるまる。
 寒気が止まらなかった。
 落ちる際の佐久間先生と目があってしまったのだ。
 その時の様子が忘れられなくて、目をつむれば瞼の裏に蘇り、泣きそうになった。
 昨日までは確かに生きていた。彼の体にあの痕はついていなかった。それなのに、先ほど彼は死んでしまっていた。
 身体が震える。
 頭の中で彼の最後の放送が何度も流れては消えていった。
 ついに堪えきれなくなって、涙が次から次へとあふれ出してくる。佐久間先生がいなくなったことが悲しかったし、次は俺の番なのではないのかと不安で仕方なかった。
 吐きそうになること数回、俺は何とか我慢をしてのそりと起き上がる。どうやら長い間泣いていたようで、外はすっかり暗くなっていた。
 教室から出ようとしたら、昼に話しかけた使用人の女性にどこに行くのかと聞かれたので、「トイレ」とだけ返した。
 速足で廊下の端のトイレへと向かう。明かりがついておらず、中は薄暗かった。
 個室に入り、便器へ向かって戻してしまった。
「っ……、う……、うぅ~……!」
 涙が溢れて止まらない。怖くて悲しくて、体がちぎれてしまいそうだった。
「かわいそう……。大丈夫?」
 ふいに朔弥の声がして、俺はのろのろと顔をあげる。振り返ると、やはり真っ白な男が心配そうに俺を見つめていた。
 何でここに? なんて最早問いかける気力もわかない。
「……なぁ、お前、佐久間先生を知ってるか?」
 尋ねると、彼は目を伏せて呟いた。
「知ってるよ。お医者さんでしょう?」
 俺は涙目で頷いた。
「その人が、死んだ。飛び降りだ。蛇神様が本当は存在していて、自分はそれを否定していたから命を持って償いますって……」
 朔弥は窓の外に視線を移し、ポツリと呟いた。
「きっと……、蛇神様にとって邪魔になったから殺されたんだろうね」
 ぞわりと背中に鳥肌が立つ。俺は尻もちをつき、後ろに下がった。しかし、すぐ後ろには便器があるせいで彼から逃げられそうにない。
「なんだよそれ……。やっぱり祟りだって言うのかよ! そもそも蛇神様ってなんなんだよ! お前の事じゃないのか!?」
 蛇神様の祟りなんてあるわけない。そうはっきり言い切った佐久間先生が死んだのだ。恐怖で頭がうまく回らず、俺は口から考えていることを吐き出していた。
「俺が? そんなまさか」
 朔弥が真顔になって俺に寄ってくる。美人の真顔は怖い。指先が震えて止められなかった。
 俺は一度は彼の事を愛したはずなのに、今は佐久間先生の自殺からの混乱や彼の情報があまりにもない事で、ますます彼の事を信じるのが難しくなっていた。
「お前は……、本当に何なんだよ! 卒業アルバムには載ってないし、他の人もお前の事なんて知らないって言うし……!」
 ようやく彼の顔が揺らぐ。彼の指先が俺の頬を撫でた。ひやりとした冷たさに体中に鳥肌が立つ。
「そうだよ。空が見つけてくれたんだ」
「だから、なんなんだよ、それは……!」
 以前も言っていた。だからこそ、俺は彼が人間だと信じられないでいるのだ。
「……空が記憶を取り戻せばわかるよ」
 俺は朔弥の手を払いのけ、両手で俺の頭を押さえ、ブンブンと首を横に振った。
「わかんねぇよ……。もう、何もわかんねぇよ……。俺も、殺されるのかよ」
「それはないね」
 すぐに朔弥が言い切る。あまりにもはっきり言うものだから、俺は目を丸くして彼を見た。
「空は大丈夫。絶対に大丈夫」
 彼の目に宿る熱はまっすぐで、信じられるわけがないのに縋ってしまいそうになる。
「……なんでそう言い切れるんだよ」
 朔弥は緩く微笑む。どこか悲しそうでもあった。
「もし不安なら、やっぱり一緒に天国に行こうよ。そうすれば、不安も苦しみもなくなるんでしょ?」
 思わず再び下がろうとして便器に体を押し付ける事となった。
「……行くわけないだろ。……俺は今、一応だけど、高宮さんの恋人なんだから」
 我ながら声が震えていて笑ってしまう。
 朔弥が切なそうに唇を引き結んだ。
「違うよ。空は俺の恋人。……ずっと、俺の恋人だったんだよ」
 泣きそうな彼の声に、何故か胸が軋む。高宮さん曰く、俺は一時は彼に魅入られていた。だから、その時の名残なのだろうか。
 その時だった。
「おい、誰かいるのか?」
 男の声がして、ぱっと一面が明るくなる。
 見ると、同じ教室にいた男性の一人が電灯のスイッチに手をかけていた。確か、持田さんと言っただろうか。同じ教室に避難していた中の一人である。
 体にかかっていた圧のようなものが消え、俺は立ち上がると個室の外へ出る。
「す、すみません! あの……、俺……」
 持田さんがホッとしたように頬をほころばせた。けれど続いた彼の言葉に、俺の顔は固まってしまった。
「なんだ、空君か。何一人でぶつぶつ呟いてるんだ」
 また朔弥がいなくなったのだろうかと思い、バッと振り返る。けれど彼は俺のすぐ後ろにいて、持田さんに見えないはずがなかった。
 持田さんは自然な口調で続けた。
「あんなことがあって不安なのはわかるけど、ここで一人で溜め込むのは止めたほうがいいんじゃないか? 早く戻ってゆっくり休みなさい」
「え……、あのっ……!」
 彼はそれだけ言うと振り返り、帰っていく。俺は慌てて呼び止めようとトイレの外に出たが、すたすたと歩き去る彼の背中に呼び止められなかった。
「なんで……」
 かすれた声で呟く。恐る恐るトイレに戻った。朔弥はまだいて、悲しそうに俺を見つめていた。
「言ったでしょ? 空が俺を見つけてくれたんだって」
 朔弥の白い両手が俺に向かって伸ばされる。
「俺は空さえいてくれればそれでいいんだ。空だけがいてくれれば。他は何もいらない。だから、お願い、早く俺と一緒に天国へ行こう」
 ゴクリと唾液を飲み、俺は慌てて彼を突き飛ばした。
「行くわけないだろ!」
 叫ぶと、手も洗わずにトイレを後にする。
 朔弥は追ってこなかった。けれど、心の底から傷ついたような顔をしていて、俺の胸に罪悪感が広がっていく。
 何故かじくじくと胸が痛み、今すぐ引き返して謝りたくなるのをこらえる。また戻って姿を消していたら、やはり彼は幽霊だと実感してしまいそうで怖かった。
 教室に戻ると、相変わらず泣いている子供が何人かいたが大人が抱きしめてあやしてあげていた。大人の顔にも不安が広がっており、ただただ心細かった。
 俺は隅の方に寝転がると、毛布の中へ逃げる。
 朔弥は俺以外の人には見えていないのがわかり、身震いした。
 俺はそっと顔を出すと、持田さんを見る。彼はこちらに背を向けて横になっていた。
 考えても考えてもわからない。
 朔弥は自分は蛇神ではないと言っていた。幽霊でもないとも。
 なのに記録は何もなく、他人には見えない。俺しか彼のことを見えないのだ。
 では、アイツは何なのだ。
 俺は一体〝何〟と心中しようとしたのだ。
 胃が重くて痛い。色んな懸念点と考え事がいっぺんに襲い掛かってきた。
 また吐きそうになって、口を押さえて必死にこらえる。指先が震えて仕方ないのに、何故か俺の口は小さく『ごめん』と呟いていた。