「悪いんだけど、蓮。突き当りがリビングだから、サクラさんをリビングに連れて行っておいてくれ。俺、ここの荷物片しちゃいたいからさ」
「わかりました」
俺はサクラさんが入っているキャリーケージを蓮に預けた。
「お邪魔します」
俺にだけ聞こえるくらいの声量でそっと呟いた蓮は、靴を脱いで揃えると、サクラさんが入ったキャリーケージを持って、奥のリビングへ向かって歩いていった。
その後ろ姿を見届けた俺は、リビングの扉が閉められて蓮の姿が見えなくなったのを確認すると、その場にしゃがみこんだ。
(は、恥ずかしかった……!)
さっきまでの出来事が頭の中で湧いてくるように思い出し、俺は顔が熱くなるのを感じて、手で顔を覆い隠した。
次の角までという約束で手をつないだ俺たちは、十字路に差し掛かったところで足を止め、互いに見つめ合った。
離してしまえば、終わってしまう。
蓮はどう思ったかわからないが、俺は離したくないと思った。
だが、前から自転車が向かってくるのが見えて、どちらからともなく自然と手を離した。
『……』
『……』
そのまま無言で歩き出した俺たちだったが、俺のマンションに到着し、エレベーターに乗った瞬間、また手をつないだ。
俺からだったのか、蓮からだったのか、わからない。
エレベーターの壁に備え付けられた、現在の階を表示する液晶画面を、俺たちはただ黙って見つめ続けた。
だが、目的の階に到着すると、そっと手を放して今に至る。
(なに、付き合いたてのカップルみたいなことしてんだ! 青春か? いや、高校生なら青春……って、違う! 問題なのは、相手だ! 相手!)
蓮相手にトキメキのようなものを感じてしまってる自分に、俺はどうしていいかわからず、しゃがみこんだまま頭を抱えた。
(だー、もう! アイツがイケメンなのがいけないんだ! きっと、そうだ! そうに違いない!)
俺は自分にそう言い聞かせると、気合いを入れて立ち上がった。
(アイツの顔に慣れてないのがいけないんだ。芸能人とか会ったことないけど、きっとこんな感じになるんだろう。よし! まずはアイツの顔に慣れることにしよう!)
そう決意して、俺もリビングに向かおうとするが、ふと、玄関に置かれていた荷物の存在を思い出す。
「ったく、母さん……。さては、注文してたの忘れてたな。どうすんだよ、こんなに……」
玄関に置かれていた荷物の正体は、いつも宅配購入している生鮮食品だと思われる。
専用の折り畳みケースと、発泡スチロールのケースに分けて入れられていたため、俺はとりあえず蓋を開けて中身を確認した。
「うげ、こんなに……。これじゃあ冷蔵庫がパンパンになるぞ。ったく……」
牛乳や卵、キャベツなどの野菜や冷凍食品が箱いっぱいに入っているのを見て、俺は深い溜め息をついた。
「とりあえず、腐っても困るし運ぶか……」
俺は渋々箱を片づけて家の中に入れると、取り出した中身を手に持って、リビングへと向かった。
リビングでは、蓮がちょこんと窓の前の床に座っていた。
「なんだよ蓮。ソファーに座っていいんだぞ?」
「あ、はい……。でも、サクラさんがカーテンの後ろに隠れてしまって……。サクラさんが怯えているなら、オレは帰ったほうがいいかと……」
カーテンの膨らみを見つめながら明らかに肩を落とす蓮に、俺は安心させるように笑いかけた。
「バーカ。そこに隠れるのは、いつものことだから気にしないでいいぞ。サクラさん、普段はばーちゃんちにいるから、この家に慣れてないんだ。そのうちひょっこり出てくるよ」
「そ、そうなんですか……。それならよかった」
蓮は安心したように胸を撫でおろすと、俺に向かって振り向いた。
すると、俺が大荷物を抱えていることに気付き、慌てた様子で走り寄ってきた。
「随分な大荷物ですね。呼んでくれれば手伝ったのに。オレも持ちますよ」
「サンキュー。でも、それほど重くはないんだ。それより……」
抱えていた荷物を、俺は対面キッチンのカウンター上へと置いた。
「なあなあ。玉ねぎってたしか、その辺にほったらかしておいたほうがいいんだっけ? でも、この玉ねぎ白いんだよなー」
ビニールの中から袋詰めされた玉ねぎを取り出すと、茶色い皮が剥けた白い状態だった。
「それは新玉ねぎですね。痛みやすいんで、冷蔵庫に入れたほうがいいですよ」
「へぇー、そうなんだ。サンキュー、教えてくれて。て、あれ……? キノコは野菜室? それともチルド室?」
「……。よかったら、オレが仕舞いますよ。冷蔵庫、失礼しますね」
右往左往する俺を見かねた蓮はキッチンの中に入ると、冷蔵庫を開けて手際よく食材を仕舞っていった。
その手際の良さに、俺はキッチンカウンターの上で頬杖をつきながら蓮を見つめた。
「すごいなー、蓮。冷蔵庫なんて毎日開けてるはずなのに、俺全然仕舞ってある場所とか覚えてないぞ」
「これくらい、慣れれば誰でもできますよ」
「ふーん、慣れればねー。ん? じゃあ、蓮はいつもやってるのか?」
俺が首を傾げると蓮は一瞬手を止めたが、すぐに笑みを浮かべた。
「たまに、ですけどね」
「へぇー、そっか。偉いなー」
「別に偉くないですよ。ほら、終わりましたよ」
喋っている間に蓮はあんなにも溢れかえっていた食材を、冷蔵庫の中へと仕舞い終えてしまった。
「すげー、もう終わったんだ。いやー、助かったわー。お礼にメシ奢るよ。今からコンビニ行ってくるけど、なにか食いたいもんあるか?」
「えっ? これだけ食材があるのに使わないんですか?」
蓮はもう一度冷蔵庫を開けて、中を見渡した。
「あー、うん。だって俺、料理なんてできないもん」
「もんって、そんな可愛く言ってもダメですよ。ちなみに、ご家族が戻られるのは?」
「ん? 一応来週の予定だけど」
俺の返事を聞いた蓮は、深い溜め息をついた。
「ちなみに昨日は何を食べたんですか?」
「昨日? 昨日は、カップラーメンとおにぎりだったかな」
「……。今日のお昼は、たしか焼きそばとメロンパンでしたよね。野菜は食べたんですか?」
「野菜……は言われてみれば食べてないな。まあ、少しくらい食べなくても死なないだろ」
呑気に俺は答えると、蓮は肩を震わせていた。
「……オレが……よ」
蓮が小さな声で何か呟いたのが聞こえず、俺はもう一度聞き返す。
「ごめん、聞こえなかった。今、なんだって?」
「オレが夕飯作って差し上げますって言ったんですよ!」
「は、はいっ!」
俺は蓮の勢いに押され、背筋を伸ばして反射的に頷いてしまった。
「蓮は普段から料理とかもするのか?」
俺はカーテンの裏に隠れていたサクラさんを抱き抱えると、ソファーに腰掛けた。
「そう……ですね」
「……?」
サクラさんを膝に乗せて背中を撫でながら、なんだかはっきりしない蓮の言い方に俺は首を傾げるが、とりあえず質問を続けた。
「もしかして、あの弁当も蓮が作ってるのか?」
「ええ。まあ……」
「まじかー……。すげぇなー……あんな完璧な弁当を作れるなんて」
今思い出しても蓮のお弁当は最強の布陣で、どうやって作るのかもわからない俺には、未知の世界だった。
「おかずのローテションを固定させてしまえば、それほど大変じゃないです」
「ふーん。でもやっぱりすごいと思うよ」
「……」
(あ、あれ……?)
急に返事が返ってこなくなったため、俺はサクラさんを撫でていた手を止めて蓮に目を向けると、蓮は難しい顔をしていた。
「ごめん、蓮。なんか俺、聞いちゃいけないこと聞いたか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですが……」
蓮はハッとしたようにいつもの顔に戻ると、冷蔵庫を開けた。
「これから話すハナシは……独り言だと思って聞いてくださいね」
「わか……」
(おっと)
独り言に相槌を打つのはおかしいと俺は口を紡ぐと、サクラさんの背中を撫でるのを再開した。
「高校に入学して少し経ったころに、母が再婚したんです。相手は裕福な人だったので、勉強部屋にと元々持っていたマンションの一室をオレにくれたんです」
(それって……)
「それからずっと、一人暮らしみたいなもんです」
献立を考えながら答えているのか、蓮は俺にとっては結構衝撃的な身の上話を、冷蔵庫を開けながら淡々と話してきた。
蓮にとってはもう日常なのかもしれないが、俺は蓮の置かれている環境を想像すると、胸が締め付けられて言葉が出なかった。
(今の話……。なんだか俺には、蓮が追い出されたように感じてしまう……。って、人様の家庭事情に口出すべきじゃないけど……)
俺が俯き気味に戸惑っていると、蓮はシンクで手を洗い始めた。
「言っときますけど、淋しいとかショックとかないですかね。新婚の家で急に父親になった人と一緒に暮らすほうが、よっぽどショックですよ」
「そ、そうかもしれないけど……」
蓮の言うことは一理あるが、やっぱり俺は蓮のことが心配になってしまう。
(だってあのとき……)
『もしかしたらオレも……サクラさんと同じ景色を見たのかもしれないって』
蓮が一瞬だけ見せた淋しそうな表情と、あの言葉。
俺は蓮の奥深くに、やはり淋しさがあるのではないかと思ってしまう。
(高校入ってすぐっていったら、もう二年近くってことだろ。今日も家に帰ったら誰もいないわけで……)
なんだか居てもたってもいられず、俺は膝の上に乗せていたサクラさんを抱き抱えると、対面キッチンのカウンター前に立った。
「その……作るとこ見ててもいいか?」
「別にかまいませんけど……。座っていて大丈夫ですよ。調味料の場所とか分からなかったら聞きますし」
蓮からの提案に、俺はそっと首を横に振った。
「いい。俺がここにいたいんだ」
なにかできるわけではなかったが、少しでも蓮のそばにいたいと思ったのは本心だ。
すると、蓮は呆れたように、でもちょっとだけ嬉しそうに俺の顔を見つめながら肩を竦めた。
「ほんと……」
「な、なんだよ?」
「いえ、オレって愛されてるなーって思いまして」
「なっ……!」
さっきまでの嬉しそうな顔と違って、蓮は眉を下げて幸せそうに微笑んでいた。
すると、俺の心臓は途端に跳ね上がり、俺は必死に首を横に振った。
「ず、ずるいぞ! そのイケメン顔!」
蓮の表情はまるで恋愛映画の一コマのようで、見た人全員の心を奪ってしまうんじゃないかと思えるほど魅力的だった。
「イケメン顔ってなんですか? まあ、悠太先輩に気に入ってもらえているなら、この顔で良かったですけ、ど」
「……!」
語尾を強くして、わざとらしくウインクをしてくる蓮に俺は慌てふためくと、俺の様子がよほどおもしろかったのか、蓮は突然笑い出した。
「ハハッ。ほんと、おもしろいですね悠太先輩って」
「おーまーえーなー」
俺が睨みつけると、蓮はぶりっこのように小首を傾げた。
「すみません。あまりにも悠太先輩が可愛くって」
「……。蓮、お前そういうことしていれば、何でも許されると思ってるだろ?」
「ふふっ、思ってないですよ」
(コイツは……!)
苛立ちを感じつつも、俺はもう一つ蓮のことで気になっていることがあった。
(蓮はどうして、授業中寝ているんだろう……家事で忙しいとか?)
授業中寝ていても学年一位なのだから、本当は蓮には授業自体が必要ないのかもしれない。
だが、蓮が人目につく場所で寝ているのは有名な話で、俺は心の中で首を傾げた。
(寝るなら、普通は静かなところだよな……。それを昨日みたいに、みんなが騒いでいる中庭で寝てたり……)
「悠太先輩は食べられないものとかないんですか?」
「えっ……?」
俺は考え事をしていて蓮の話を聞いてなかったため、慌てふためいてしまう。
「わ、悪い。聞いてなかった。なんだって?」
「嫌いな食べ物ですよ。アレルギーとかないですか?」
「な、ないない。なんでもおいしくいただけるタイプの人間です」
「それはいいことですね。ちなみにお腹はどれくらい空いてますか?」
蓮に聞かれて、俺はお腹の空き具合を確かめるため、お腹に手を当てた。
「どれくらいって……。あ、結構ペコペコかも……」
考えてみれば、お昼がいつもよりも少ないのだから、お腹が空くのは当然だった。
そして人間は不思議なもので、空腹であることに気が付くと、さらにお腹が減っていってしまう。
「その様子じゃ、それほど待てそうにないですね。じゃあ、サッと作れるパスタにしますね」
なんだか楽しそうに笑う蓮は、ネクタイを胸ポケットに仕舞うと、ワイシャツの袖を腕まくりした。
俺はひとまず、さっきの疑問は置いておくことにした。
「あ、なあ蓮? そういえばエプロンとかあったほうがいいよな。後ろの棚の一番下に、俺のエプロンが入ってるはずなんだけど」
「え? 悠太先輩のエプロンがあるんですか?」
「大昔に一度くらいしか使ったことないけどな。ほら、小学生のときに家庭科で作ったことあるだろ? あれだよ、あれ」
俺は蓮の後ろの棚を指差すと、蓮は棚の中から、折り畳まれたチェック柄のエプロンを取り出して広げた。
「あれ? 悠太先輩なら絶対に、ネタに走ってるデザインのものにすると思ってました」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ。まあ……たしか柄選ぶとき、母さんに止められた記憶は……ある」
「やっぱり。フフッ」
笑いながら蓮は俺の自作エプロンを付けるが、さすがに小学生のときに作ったものだったので丈が短すぎた。
背が高くて大人びた背格好の蓮が、子ども用のエプロンをつけているアンバランスさに、俺も笑いが零れてしまう。
「くくっ、変な恰好。って、わりぃ。考えてみたら、俺だって小学生のときは今より小さいんだから、使えるはずもなかったな」
「今でもまぁまぁ小さ……」
「……」
無言で思いっきり睨みつける俺の存在に気が付いたのか、蓮はそっと俺から目を逸らした。
「っというのは冗談でー。まあ、おもしろいんでこのまま借りますね」
「別に無理して使わなくっていいって。さっきの棚に母さんの予備が入ってるはずだから、そっち使えよ」
「いえ。オレは悠太先輩の作ったのが使いたいんですよ」
「ふーん、変なヤツ……」
蓮は本当に俺が昔作ったエプロンをつけたまま、料理に取り掛かり始めた。
シンクの下の棚から大きめの鍋を取り出して水を入れ、火にかける。
その鍋とは別に、今度は小ぶりの鍋を取り出すと、同じように水を入れて火にかけた。
(すげぇー。動きがテキパキしてる……)
俺はどんなふうに蓮が料理を始めるのか気になり、蓮の手元が見えるようにキッチンカウンターの前で背伸びをした。
すると、そんな俺の姿に蓮はクスッと笑った。
「悠太先輩。俺から見ると、猫が外に出たくて窓から覗いているときみたいに見えるんですけど」
「窓から覗いてる……?」
俺は蓮の言っている意味が分からず、頭の中で自分の仕草を客観視すると、たしかに窓から外を眺めているときのサクラさんにそっくりだった。
急に恥ずかしくなった俺は、慌ててソファーへ向かうとサクラさんをそっと下ろした。
「ニャア……?」
「ごめんなーサクラさん。ついでにサクラさんのメシも準備してくるから」
サクラさんをソファーの上に置いて、俺は急いでキッチンに戻ると、蓮から少し離れた位置で並ぶように立った。
「な? な? 俺、ここで見ててもいい?」
「別にいいですけど……見ていて楽しいもんじゃないですよ」
「そうか? 蓮の動きってテキパキしてて、ついつい見入っちゃうんだよなー」
「それって……まるで動くものを追ってしまう猫みたいですね」
「バーカ。俺を何度も猫扱いするなっ!」
俺は不貞腐れながら後ろの棚に寄り掛かると、蓮の動きを背後からそっと見つめ続けた。
おそらく、パスタ用のお湯を沸かしながら、隣でスープ用のお湯を沸かしているのだろう。
コンロの火を二つ使いながら蓮は包丁とまな板を準備すると、今度は冷蔵庫から野菜やきのこを取り出して切り始めた。
「ほんと器用だよなー。でも、こんなの毎日やってたら大変だよなー。もしかして授業中とか寝てるのって、家事が忙しくて寝る時間がないとかが理由なのか?」
(あっ……)
さっきまで頭に浮かんでいたせいか、俺はよく考えもせずに蓮へ質問をぶつけてしまった。
すると、俺の質問に蓮は一瞬、包丁を握りながら動きが止まった。
「……。まあ、そんなところですよ。あ、サラダ用のドレッシングとかあります?」
「え? あ、うん。あるけど……」
(あっ……これは誤魔化された……か。でも、それって話したくないってことだよな)
これ以上踏み込んではいけないと、俺は蓮の後ろをすり抜けて、キッチン奥にある冷蔵庫へ向かった。
「えっと、たしか……」
俺は冷蔵庫の中から胡麻ドレッシングとシーザードレッシングを取り出して両手に持つが、ふと手を止めた。
「ん? ドレッシング……って、もしかして蓮。サラダまで作るのか? 俺、パスタだけあれば十分だぞ」
「悠太先輩。オレの手間を考えているなら、心配無用です。むしろオレは、悠太先輩の身体が心配なんで、食べてくれたほうが助かります」
「お、おう。あ、ありがとう……」
ここでお礼をいうのは適切かわからなかったが、ドレッシングを両手に持った俺は蓮に会釈をして、また蓮の後ろを通り抜けた。
(俺の身体を心配をしてくれていたなんて……)
「ミャー」
キッチンを出ようとしたとき、ゴハンが待ちきれなかったのか、俺の足に甘えた声でサクラさんが擦り寄ってきた。
「あー。ごめん、ごめん。サクラさんもゴハンだよな。今準備するから」
「うっ……」
甘えてくるサクラさんの仕草が可愛かったのか、蓮は少し唸ると、口元を押さえながら顔を逸らした。
「ほんと、猫っていい性格してるよなー。まあ、こうやって時々甘えてくるのが可愛いんだけどなー」
俺は手に持っていたドレッシングをリビングのダイニングテーブルに置くと、後ろをついてきていたサクラさんを両手で持ち上げた。
「あ、そうだ。なー、なー。蓮ー。見てて、見ててー」
蓮に声をかけてから、俺はサクラさんに顔を近づけた。
「ほら、サクラさん。チューは? チュー」
俺は口を尖らせながらサクラさんの口元に顔を近づけると、サクラさんは俺の口をポンっと手で押さえた。
「見たかー蓮。今の可愛かっただろー。これ普段やるとシャーってなるんだけど、ゴハン前だけはこうやって静かに諭してくんのー」
サクラさんを少し離れさせて、俺はきっと蓮も可愛いと笑っているだろうと、満面の笑みで蓮の様子を確認する。
「あ、あれ?」
だが、蓮の姿は視界から消えていて、俺は慌ててキッチンに向かうと、蓮はその場でしゃがみこんでいた。
「えっ、なに? 一体どうしたんだ?」
蓮の体調が突然悪くなったのかと、俺はサクラさんを抱き抱えたまま、慌てて蓮の元に駆け寄って背中を擦った。
「だ、大丈夫です。ちょっと破壊力がありすぎただけですから……」
そう言いながら、蓮は足元をふらつかせながら立ち上がった。
「破壊力……? あっ! サクラさんが可愛すぎたのか? だよなー。これ動画とかあげたら絶対バズるよなー」
「だめです! そんなの絶対に許さないですからね!」
蓮は急に真剣な顔になると、声を荒げた。
「そんな可愛い顔した悠太先輩の動画なんて、アップしたら絶対にダメですからね!」
わざわざ念押ししてくる蓮に呆れて、俺は肩を竦めた。
「バーカ、しねーよ。本気にすんなよ。じゃあ俺、サクラさんのゴハン準備してくるわー」
(ん……?)
なにかが引っかかった気がしたが、俺はサクラさんを抱き抱えながら、リビングへと戻った。
(あ、あれ……? 蓮のヤツ……)
俺はもう一度蓮が言ったことを、頭の中で繰り返した。
『そんな可愛い顔した悠太先輩の動画なんて、アップしたらダメですからね』
(……! な、なんでサクラさんじゃなくて俺なんだよ!)
顔が熱くなるのを感じて、俺は蓮に背を向けながら、サクラさんのゴハンの準備を始めた。
だが、蓮の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
そして、嬉しいと思ってしまっている自分に、ただ戸惑うことしかできなかった。
「うわぁー、すげー! この短時間でこんなすげーの作ったのか? 魔法かよ!」
蓮が料理を始めておよそ二十分程度で、彩り豊かな料理がダイニングテーブルの上に並べられた。
キャベツと人参、しめじまで入ったペペロンチーノ風パスタに、薄切りの玉ねぎ入りコンソメスープ。
そして、レタスとトマトのサラダまで。
さすがあの手際のなせる技だと、俺は関心して腕を組みながら大きく頷いた。
「そんな感慨深く頷かなくても。ほら、温かいうちに食べましょ」
エプロンを外してダイニングテーブルの椅子背凭れにかけた蓮は、そのまま椅子に座った。
「おう。あ、そういえば飲み物準備してなかったな。ちょっと待ってろ」
俺はキッチンへ向かうと、ストックで置いてある二リットルのペットボトルのお茶と、氷を入れたグラスを二つ持って、蓮の元へ戻ってきた。
「感謝の気持ちを込めて、この俺が注いでやろう」
「はいはい。お願いします」
肩を竦めて呆れた様子で受け取った蓮のグラスに、俺はお茶を注いだ。
「はい。粗茶ですが、どうぞ」
「ありがとうございます。あっ! せっかくですし、乾杯しませんか?」
蓮の向かい側に座って、俺も自分のグラスにお茶を注いでいると、蓮がグラスを差し出してきた。
「乾杯って、何にだよ?」
「うーん、二人の出会いに?」
「バーカ」
俺もさっきの蓮のように肩を竦めて呆れるが、手に持ったグラスを蓮のグラスにそっとぶつけた。
「乾杯」
「乾杯」
「……」
「……」
向かい合って座っていてるのだから、目が合うのは当たり前。
だが、乾杯をした俺たちは、お茶に口を付けずに、なぜかそのまま見つめ合ってしまう。
「ニャァー……」
「……!」
どのくらいの時間、無言で見つめ合っていたかわからないが、サクラさんが身体を伸ばしながら鳴く声が響き、俺はハッとする。
「い、いただきます!」
俺はこのなんとも言えない空気を打開しようと、慌ててフォークとスプーンを握り、食べ始めた。
「……いただきます」
蓮はなんだか微笑んでいるように見えたが、俺は気付かないふりをしながら、湯気の立つ出来立てのパスタを口の中に頬張った。
「……! う、うまい! なんだこれ!」
正直俺は、パスタという料理は誰が作っても一緒の料理だと思っていた。
だが、母さんが作るときより、蓮のパスタは明らかにおいしく感じられた。
「えっ、えっ? どういうことだ? なんか魔法でも使ってるのか?」
俺が目を輝かせながら夢中で質問すると、蓮は吹き出して笑った。
「フッ、なんですか。さっきから魔法、魔法って」
「だって、こんなにうまいなんて……。冷蔵庫にあるものだけで作って、どうしてこんなにうまくなるんだ?」
野菜のうまみと、それを引き立てるのに丁度いい塩加減。
正直、料理にこんなにも感動したのは生まれて初めてだった。
「まあ……あるスパイスを入れてますから、ね」
蓮は俺がうまそうに食べる姿が余程嬉しいのか、食べる手を止めて俺を嬉しそうに目を細めながら見つめてきた。
(うっ……)
どうやら俺は、この蓮の顔に弱いらしい。
心臓が高鳴りそうで、蓮が俺のことを見つめていることに気付いていないかのように、俺はそのまま食べ進めた。
「へ、へぇー。なんかそんな特殊なスパイス、うちにあったんだ」
「いえ、持ち込んだんですよ。でも……悠太先輩には内緒です」
口元に人差し指を添える蓮に、俺はまたドキッとしてしまう。
「う、うわー。俺に内緒にするとか超生意気。ま、まあ。うまいからいいけど。あっ、スープも飲んでいいか?」
「どーぞ、冷めないうちに。全部、悠太先輩のために作ったんですから」
(全部、俺のため……)
「さ、サンキューな。よ、よーし。温かいうちに全部食べないとな!」
少しばかり声が震えてしまった気もするが、俺は速まる心臓の鼓動を蓮に悟られないように、慌てて食べ進めた。
だが、俺が食べている間、蓮は嬉しそうに俺のことを見つめてきた。
眉尻を下げて微笑みながら。
その顔は、ただ嬉しいと言う気持ちだけでなく、俺には幸せをかみしめて笑っているように思えた。
(なんて……)
俺は胸が疼くように締め付けられて、悲しくないのに涙が込み上げそうな気持ちになった。
この気持ちがなんなのか俺には分からなかったが、蓮が笑ってくれていると、俺も幸せな気持ちになれる。
「ありがとうな、蓮」
心から思った気持ちを、俺は素直に蓮へ伝える。
蓮は一瞬驚いたように目を見開いたが、俺から慌てて目を逸らすと、やっと食べるのを再開した。
恥ずかしそうに、耳を真っ赤に染めながら。
「わかりました」
俺はサクラさんが入っているキャリーケージを蓮に預けた。
「お邪魔します」
俺にだけ聞こえるくらいの声量でそっと呟いた蓮は、靴を脱いで揃えると、サクラさんが入ったキャリーケージを持って、奥のリビングへ向かって歩いていった。
その後ろ姿を見届けた俺は、リビングの扉が閉められて蓮の姿が見えなくなったのを確認すると、その場にしゃがみこんだ。
(は、恥ずかしかった……!)
さっきまでの出来事が頭の中で湧いてくるように思い出し、俺は顔が熱くなるのを感じて、手で顔を覆い隠した。
次の角までという約束で手をつないだ俺たちは、十字路に差し掛かったところで足を止め、互いに見つめ合った。
離してしまえば、終わってしまう。
蓮はどう思ったかわからないが、俺は離したくないと思った。
だが、前から自転車が向かってくるのが見えて、どちらからともなく自然と手を離した。
『……』
『……』
そのまま無言で歩き出した俺たちだったが、俺のマンションに到着し、エレベーターに乗った瞬間、また手をつないだ。
俺からだったのか、蓮からだったのか、わからない。
エレベーターの壁に備え付けられた、現在の階を表示する液晶画面を、俺たちはただ黙って見つめ続けた。
だが、目的の階に到着すると、そっと手を放して今に至る。
(なに、付き合いたてのカップルみたいなことしてんだ! 青春か? いや、高校生なら青春……って、違う! 問題なのは、相手だ! 相手!)
蓮相手にトキメキのようなものを感じてしまってる自分に、俺はどうしていいかわからず、しゃがみこんだまま頭を抱えた。
(だー、もう! アイツがイケメンなのがいけないんだ! きっと、そうだ! そうに違いない!)
俺は自分にそう言い聞かせると、気合いを入れて立ち上がった。
(アイツの顔に慣れてないのがいけないんだ。芸能人とか会ったことないけど、きっとこんな感じになるんだろう。よし! まずはアイツの顔に慣れることにしよう!)
そう決意して、俺もリビングに向かおうとするが、ふと、玄関に置かれていた荷物の存在を思い出す。
「ったく、母さん……。さては、注文してたの忘れてたな。どうすんだよ、こんなに……」
玄関に置かれていた荷物の正体は、いつも宅配購入している生鮮食品だと思われる。
専用の折り畳みケースと、発泡スチロールのケースに分けて入れられていたため、俺はとりあえず蓋を開けて中身を確認した。
「うげ、こんなに……。これじゃあ冷蔵庫がパンパンになるぞ。ったく……」
牛乳や卵、キャベツなどの野菜や冷凍食品が箱いっぱいに入っているのを見て、俺は深い溜め息をついた。
「とりあえず、腐っても困るし運ぶか……」
俺は渋々箱を片づけて家の中に入れると、取り出した中身を手に持って、リビングへと向かった。
リビングでは、蓮がちょこんと窓の前の床に座っていた。
「なんだよ蓮。ソファーに座っていいんだぞ?」
「あ、はい……。でも、サクラさんがカーテンの後ろに隠れてしまって……。サクラさんが怯えているなら、オレは帰ったほうがいいかと……」
カーテンの膨らみを見つめながら明らかに肩を落とす蓮に、俺は安心させるように笑いかけた。
「バーカ。そこに隠れるのは、いつものことだから気にしないでいいぞ。サクラさん、普段はばーちゃんちにいるから、この家に慣れてないんだ。そのうちひょっこり出てくるよ」
「そ、そうなんですか……。それならよかった」
蓮は安心したように胸を撫でおろすと、俺に向かって振り向いた。
すると、俺が大荷物を抱えていることに気付き、慌てた様子で走り寄ってきた。
「随分な大荷物ですね。呼んでくれれば手伝ったのに。オレも持ちますよ」
「サンキュー。でも、それほど重くはないんだ。それより……」
抱えていた荷物を、俺は対面キッチンのカウンター上へと置いた。
「なあなあ。玉ねぎってたしか、その辺にほったらかしておいたほうがいいんだっけ? でも、この玉ねぎ白いんだよなー」
ビニールの中から袋詰めされた玉ねぎを取り出すと、茶色い皮が剥けた白い状態だった。
「それは新玉ねぎですね。痛みやすいんで、冷蔵庫に入れたほうがいいですよ」
「へぇー、そうなんだ。サンキュー、教えてくれて。て、あれ……? キノコは野菜室? それともチルド室?」
「……。よかったら、オレが仕舞いますよ。冷蔵庫、失礼しますね」
右往左往する俺を見かねた蓮はキッチンの中に入ると、冷蔵庫を開けて手際よく食材を仕舞っていった。
その手際の良さに、俺はキッチンカウンターの上で頬杖をつきながら蓮を見つめた。
「すごいなー、蓮。冷蔵庫なんて毎日開けてるはずなのに、俺全然仕舞ってある場所とか覚えてないぞ」
「これくらい、慣れれば誰でもできますよ」
「ふーん、慣れればねー。ん? じゃあ、蓮はいつもやってるのか?」
俺が首を傾げると蓮は一瞬手を止めたが、すぐに笑みを浮かべた。
「たまに、ですけどね」
「へぇー、そっか。偉いなー」
「別に偉くないですよ。ほら、終わりましたよ」
喋っている間に蓮はあんなにも溢れかえっていた食材を、冷蔵庫の中へと仕舞い終えてしまった。
「すげー、もう終わったんだ。いやー、助かったわー。お礼にメシ奢るよ。今からコンビニ行ってくるけど、なにか食いたいもんあるか?」
「えっ? これだけ食材があるのに使わないんですか?」
蓮はもう一度冷蔵庫を開けて、中を見渡した。
「あー、うん。だって俺、料理なんてできないもん」
「もんって、そんな可愛く言ってもダメですよ。ちなみに、ご家族が戻られるのは?」
「ん? 一応来週の予定だけど」
俺の返事を聞いた蓮は、深い溜め息をついた。
「ちなみに昨日は何を食べたんですか?」
「昨日? 昨日は、カップラーメンとおにぎりだったかな」
「……。今日のお昼は、たしか焼きそばとメロンパンでしたよね。野菜は食べたんですか?」
「野菜……は言われてみれば食べてないな。まあ、少しくらい食べなくても死なないだろ」
呑気に俺は答えると、蓮は肩を震わせていた。
「……オレが……よ」
蓮が小さな声で何か呟いたのが聞こえず、俺はもう一度聞き返す。
「ごめん、聞こえなかった。今、なんだって?」
「オレが夕飯作って差し上げますって言ったんですよ!」
「は、はいっ!」
俺は蓮の勢いに押され、背筋を伸ばして反射的に頷いてしまった。
「蓮は普段から料理とかもするのか?」
俺はカーテンの裏に隠れていたサクラさんを抱き抱えると、ソファーに腰掛けた。
「そう……ですね」
「……?」
サクラさんを膝に乗せて背中を撫でながら、なんだかはっきりしない蓮の言い方に俺は首を傾げるが、とりあえず質問を続けた。
「もしかして、あの弁当も蓮が作ってるのか?」
「ええ。まあ……」
「まじかー……。すげぇなー……あんな完璧な弁当を作れるなんて」
今思い出しても蓮のお弁当は最強の布陣で、どうやって作るのかもわからない俺には、未知の世界だった。
「おかずのローテションを固定させてしまえば、それほど大変じゃないです」
「ふーん。でもやっぱりすごいと思うよ」
「……」
(あ、あれ……?)
急に返事が返ってこなくなったため、俺はサクラさんを撫でていた手を止めて蓮に目を向けると、蓮は難しい顔をしていた。
「ごめん、蓮。なんか俺、聞いちゃいけないこと聞いたか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですが……」
蓮はハッとしたようにいつもの顔に戻ると、冷蔵庫を開けた。
「これから話すハナシは……独り言だと思って聞いてくださいね」
「わか……」
(おっと)
独り言に相槌を打つのはおかしいと俺は口を紡ぐと、サクラさんの背中を撫でるのを再開した。
「高校に入学して少し経ったころに、母が再婚したんです。相手は裕福な人だったので、勉強部屋にと元々持っていたマンションの一室をオレにくれたんです」
(それって……)
「それからずっと、一人暮らしみたいなもんです」
献立を考えながら答えているのか、蓮は俺にとっては結構衝撃的な身の上話を、冷蔵庫を開けながら淡々と話してきた。
蓮にとってはもう日常なのかもしれないが、俺は蓮の置かれている環境を想像すると、胸が締め付けられて言葉が出なかった。
(今の話……。なんだか俺には、蓮が追い出されたように感じてしまう……。って、人様の家庭事情に口出すべきじゃないけど……)
俺が俯き気味に戸惑っていると、蓮はシンクで手を洗い始めた。
「言っときますけど、淋しいとかショックとかないですかね。新婚の家で急に父親になった人と一緒に暮らすほうが、よっぽどショックですよ」
「そ、そうかもしれないけど……」
蓮の言うことは一理あるが、やっぱり俺は蓮のことが心配になってしまう。
(だってあのとき……)
『もしかしたらオレも……サクラさんと同じ景色を見たのかもしれないって』
蓮が一瞬だけ見せた淋しそうな表情と、あの言葉。
俺は蓮の奥深くに、やはり淋しさがあるのではないかと思ってしまう。
(高校入ってすぐっていったら、もう二年近くってことだろ。今日も家に帰ったら誰もいないわけで……)
なんだか居てもたってもいられず、俺は膝の上に乗せていたサクラさんを抱き抱えると、対面キッチンのカウンター前に立った。
「その……作るとこ見ててもいいか?」
「別にかまいませんけど……。座っていて大丈夫ですよ。調味料の場所とか分からなかったら聞きますし」
蓮からの提案に、俺はそっと首を横に振った。
「いい。俺がここにいたいんだ」
なにかできるわけではなかったが、少しでも蓮のそばにいたいと思ったのは本心だ。
すると、蓮は呆れたように、でもちょっとだけ嬉しそうに俺の顔を見つめながら肩を竦めた。
「ほんと……」
「な、なんだよ?」
「いえ、オレって愛されてるなーって思いまして」
「なっ……!」
さっきまでの嬉しそうな顔と違って、蓮は眉を下げて幸せそうに微笑んでいた。
すると、俺の心臓は途端に跳ね上がり、俺は必死に首を横に振った。
「ず、ずるいぞ! そのイケメン顔!」
蓮の表情はまるで恋愛映画の一コマのようで、見た人全員の心を奪ってしまうんじゃないかと思えるほど魅力的だった。
「イケメン顔ってなんですか? まあ、悠太先輩に気に入ってもらえているなら、この顔で良かったですけ、ど」
「……!」
語尾を強くして、わざとらしくウインクをしてくる蓮に俺は慌てふためくと、俺の様子がよほどおもしろかったのか、蓮は突然笑い出した。
「ハハッ。ほんと、おもしろいですね悠太先輩って」
「おーまーえーなー」
俺が睨みつけると、蓮はぶりっこのように小首を傾げた。
「すみません。あまりにも悠太先輩が可愛くって」
「……。蓮、お前そういうことしていれば、何でも許されると思ってるだろ?」
「ふふっ、思ってないですよ」
(コイツは……!)
苛立ちを感じつつも、俺はもう一つ蓮のことで気になっていることがあった。
(蓮はどうして、授業中寝ているんだろう……家事で忙しいとか?)
授業中寝ていても学年一位なのだから、本当は蓮には授業自体が必要ないのかもしれない。
だが、蓮が人目につく場所で寝ているのは有名な話で、俺は心の中で首を傾げた。
(寝るなら、普通は静かなところだよな……。それを昨日みたいに、みんなが騒いでいる中庭で寝てたり……)
「悠太先輩は食べられないものとかないんですか?」
「えっ……?」
俺は考え事をしていて蓮の話を聞いてなかったため、慌てふためいてしまう。
「わ、悪い。聞いてなかった。なんだって?」
「嫌いな食べ物ですよ。アレルギーとかないですか?」
「な、ないない。なんでもおいしくいただけるタイプの人間です」
「それはいいことですね。ちなみにお腹はどれくらい空いてますか?」
蓮に聞かれて、俺はお腹の空き具合を確かめるため、お腹に手を当てた。
「どれくらいって……。あ、結構ペコペコかも……」
考えてみれば、お昼がいつもよりも少ないのだから、お腹が空くのは当然だった。
そして人間は不思議なもので、空腹であることに気が付くと、さらにお腹が減っていってしまう。
「その様子じゃ、それほど待てそうにないですね。じゃあ、サッと作れるパスタにしますね」
なんだか楽しそうに笑う蓮は、ネクタイを胸ポケットに仕舞うと、ワイシャツの袖を腕まくりした。
俺はひとまず、さっきの疑問は置いておくことにした。
「あ、なあ蓮? そういえばエプロンとかあったほうがいいよな。後ろの棚の一番下に、俺のエプロンが入ってるはずなんだけど」
「え? 悠太先輩のエプロンがあるんですか?」
「大昔に一度くらいしか使ったことないけどな。ほら、小学生のときに家庭科で作ったことあるだろ? あれだよ、あれ」
俺は蓮の後ろの棚を指差すと、蓮は棚の中から、折り畳まれたチェック柄のエプロンを取り出して広げた。
「あれ? 悠太先輩なら絶対に、ネタに走ってるデザインのものにすると思ってました」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ。まあ……たしか柄選ぶとき、母さんに止められた記憶は……ある」
「やっぱり。フフッ」
笑いながら蓮は俺の自作エプロンを付けるが、さすがに小学生のときに作ったものだったので丈が短すぎた。
背が高くて大人びた背格好の蓮が、子ども用のエプロンをつけているアンバランスさに、俺も笑いが零れてしまう。
「くくっ、変な恰好。って、わりぃ。考えてみたら、俺だって小学生のときは今より小さいんだから、使えるはずもなかったな」
「今でもまぁまぁ小さ……」
「……」
無言で思いっきり睨みつける俺の存在に気が付いたのか、蓮はそっと俺から目を逸らした。
「っというのは冗談でー。まあ、おもしろいんでこのまま借りますね」
「別に無理して使わなくっていいって。さっきの棚に母さんの予備が入ってるはずだから、そっち使えよ」
「いえ。オレは悠太先輩の作ったのが使いたいんですよ」
「ふーん、変なヤツ……」
蓮は本当に俺が昔作ったエプロンをつけたまま、料理に取り掛かり始めた。
シンクの下の棚から大きめの鍋を取り出して水を入れ、火にかける。
その鍋とは別に、今度は小ぶりの鍋を取り出すと、同じように水を入れて火にかけた。
(すげぇー。動きがテキパキしてる……)
俺はどんなふうに蓮が料理を始めるのか気になり、蓮の手元が見えるようにキッチンカウンターの前で背伸びをした。
すると、そんな俺の姿に蓮はクスッと笑った。
「悠太先輩。俺から見ると、猫が外に出たくて窓から覗いているときみたいに見えるんですけど」
「窓から覗いてる……?」
俺は蓮の言っている意味が分からず、頭の中で自分の仕草を客観視すると、たしかに窓から外を眺めているときのサクラさんにそっくりだった。
急に恥ずかしくなった俺は、慌ててソファーへ向かうとサクラさんをそっと下ろした。
「ニャア……?」
「ごめんなーサクラさん。ついでにサクラさんのメシも準備してくるから」
サクラさんをソファーの上に置いて、俺は急いでキッチンに戻ると、蓮から少し離れた位置で並ぶように立った。
「な? な? 俺、ここで見ててもいい?」
「別にいいですけど……見ていて楽しいもんじゃないですよ」
「そうか? 蓮の動きってテキパキしてて、ついつい見入っちゃうんだよなー」
「それって……まるで動くものを追ってしまう猫みたいですね」
「バーカ。俺を何度も猫扱いするなっ!」
俺は不貞腐れながら後ろの棚に寄り掛かると、蓮の動きを背後からそっと見つめ続けた。
おそらく、パスタ用のお湯を沸かしながら、隣でスープ用のお湯を沸かしているのだろう。
コンロの火を二つ使いながら蓮は包丁とまな板を準備すると、今度は冷蔵庫から野菜やきのこを取り出して切り始めた。
「ほんと器用だよなー。でも、こんなの毎日やってたら大変だよなー。もしかして授業中とか寝てるのって、家事が忙しくて寝る時間がないとかが理由なのか?」
(あっ……)
さっきまで頭に浮かんでいたせいか、俺はよく考えもせずに蓮へ質問をぶつけてしまった。
すると、俺の質問に蓮は一瞬、包丁を握りながら動きが止まった。
「……。まあ、そんなところですよ。あ、サラダ用のドレッシングとかあります?」
「え? あ、うん。あるけど……」
(あっ……これは誤魔化された……か。でも、それって話したくないってことだよな)
これ以上踏み込んではいけないと、俺は蓮の後ろをすり抜けて、キッチン奥にある冷蔵庫へ向かった。
「えっと、たしか……」
俺は冷蔵庫の中から胡麻ドレッシングとシーザードレッシングを取り出して両手に持つが、ふと手を止めた。
「ん? ドレッシング……って、もしかして蓮。サラダまで作るのか? 俺、パスタだけあれば十分だぞ」
「悠太先輩。オレの手間を考えているなら、心配無用です。むしろオレは、悠太先輩の身体が心配なんで、食べてくれたほうが助かります」
「お、おう。あ、ありがとう……」
ここでお礼をいうのは適切かわからなかったが、ドレッシングを両手に持った俺は蓮に会釈をして、また蓮の後ろを通り抜けた。
(俺の身体を心配をしてくれていたなんて……)
「ミャー」
キッチンを出ようとしたとき、ゴハンが待ちきれなかったのか、俺の足に甘えた声でサクラさんが擦り寄ってきた。
「あー。ごめん、ごめん。サクラさんもゴハンだよな。今準備するから」
「うっ……」
甘えてくるサクラさんの仕草が可愛かったのか、蓮は少し唸ると、口元を押さえながら顔を逸らした。
「ほんと、猫っていい性格してるよなー。まあ、こうやって時々甘えてくるのが可愛いんだけどなー」
俺は手に持っていたドレッシングをリビングのダイニングテーブルに置くと、後ろをついてきていたサクラさんを両手で持ち上げた。
「あ、そうだ。なー、なー。蓮ー。見てて、見ててー」
蓮に声をかけてから、俺はサクラさんに顔を近づけた。
「ほら、サクラさん。チューは? チュー」
俺は口を尖らせながらサクラさんの口元に顔を近づけると、サクラさんは俺の口をポンっと手で押さえた。
「見たかー蓮。今の可愛かっただろー。これ普段やるとシャーってなるんだけど、ゴハン前だけはこうやって静かに諭してくんのー」
サクラさんを少し離れさせて、俺はきっと蓮も可愛いと笑っているだろうと、満面の笑みで蓮の様子を確認する。
「あ、あれ?」
だが、蓮の姿は視界から消えていて、俺は慌ててキッチンに向かうと、蓮はその場でしゃがみこんでいた。
「えっ、なに? 一体どうしたんだ?」
蓮の体調が突然悪くなったのかと、俺はサクラさんを抱き抱えたまま、慌てて蓮の元に駆け寄って背中を擦った。
「だ、大丈夫です。ちょっと破壊力がありすぎただけですから……」
そう言いながら、蓮は足元をふらつかせながら立ち上がった。
「破壊力……? あっ! サクラさんが可愛すぎたのか? だよなー。これ動画とかあげたら絶対バズるよなー」
「だめです! そんなの絶対に許さないですからね!」
蓮は急に真剣な顔になると、声を荒げた。
「そんな可愛い顔した悠太先輩の動画なんて、アップしたら絶対にダメですからね!」
わざわざ念押ししてくる蓮に呆れて、俺は肩を竦めた。
「バーカ、しねーよ。本気にすんなよ。じゃあ俺、サクラさんのゴハン準備してくるわー」
(ん……?)
なにかが引っかかった気がしたが、俺はサクラさんを抱き抱えながら、リビングへと戻った。
(あ、あれ……? 蓮のヤツ……)
俺はもう一度蓮が言ったことを、頭の中で繰り返した。
『そんな可愛い顔した悠太先輩の動画なんて、アップしたらダメですからね』
(……! な、なんでサクラさんじゃなくて俺なんだよ!)
顔が熱くなるのを感じて、俺は蓮に背を向けながら、サクラさんのゴハンの準備を始めた。
だが、蓮の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
そして、嬉しいと思ってしまっている自分に、ただ戸惑うことしかできなかった。
「うわぁー、すげー! この短時間でこんなすげーの作ったのか? 魔法かよ!」
蓮が料理を始めておよそ二十分程度で、彩り豊かな料理がダイニングテーブルの上に並べられた。
キャベツと人参、しめじまで入ったペペロンチーノ風パスタに、薄切りの玉ねぎ入りコンソメスープ。
そして、レタスとトマトのサラダまで。
さすがあの手際のなせる技だと、俺は関心して腕を組みながら大きく頷いた。
「そんな感慨深く頷かなくても。ほら、温かいうちに食べましょ」
エプロンを外してダイニングテーブルの椅子背凭れにかけた蓮は、そのまま椅子に座った。
「おう。あ、そういえば飲み物準備してなかったな。ちょっと待ってろ」
俺はキッチンへ向かうと、ストックで置いてある二リットルのペットボトルのお茶と、氷を入れたグラスを二つ持って、蓮の元へ戻ってきた。
「感謝の気持ちを込めて、この俺が注いでやろう」
「はいはい。お願いします」
肩を竦めて呆れた様子で受け取った蓮のグラスに、俺はお茶を注いだ。
「はい。粗茶ですが、どうぞ」
「ありがとうございます。あっ! せっかくですし、乾杯しませんか?」
蓮の向かい側に座って、俺も自分のグラスにお茶を注いでいると、蓮がグラスを差し出してきた。
「乾杯って、何にだよ?」
「うーん、二人の出会いに?」
「バーカ」
俺もさっきの蓮のように肩を竦めて呆れるが、手に持ったグラスを蓮のグラスにそっとぶつけた。
「乾杯」
「乾杯」
「……」
「……」
向かい合って座っていてるのだから、目が合うのは当たり前。
だが、乾杯をした俺たちは、お茶に口を付けずに、なぜかそのまま見つめ合ってしまう。
「ニャァー……」
「……!」
どのくらいの時間、無言で見つめ合っていたかわからないが、サクラさんが身体を伸ばしながら鳴く声が響き、俺はハッとする。
「い、いただきます!」
俺はこのなんとも言えない空気を打開しようと、慌ててフォークとスプーンを握り、食べ始めた。
「……いただきます」
蓮はなんだか微笑んでいるように見えたが、俺は気付かないふりをしながら、湯気の立つ出来立てのパスタを口の中に頬張った。
「……! う、うまい! なんだこれ!」
正直俺は、パスタという料理は誰が作っても一緒の料理だと思っていた。
だが、母さんが作るときより、蓮のパスタは明らかにおいしく感じられた。
「えっ、えっ? どういうことだ? なんか魔法でも使ってるのか?」
俺が目を輝かせながら夢中で質問すると、蓮は吹き出して笑った。
「フッ、なんですか。さっきから魔法、魔法って」
「だって、こんなにうまいなんて……。冷蔵庫にあるものだけで作って、どうしてこんなにうまくなるんだ?」
野菜のうまみと、それを引き立てるのに丁度いい塩加減。
正直、料理にこんなにも感動したのは生まれて初めてだった。
「まあ……あるスパイスを入れてますから、ね」
蓮は俺がうまそうに食べる姿が余程嬉しいのか、食べる手を止めて俺を嬉しそうに目を細めながら見つめてきた。
(うっ……)
どうやら俺は、この蓮の顔に弱いらしい。
心臓が高鳴りそうで、蓮が俺のことを見つめていることに気付いていないかのように、俺はそのまま食べ進めた。
「へ、へぇー。なんかそんな特殊なスパイス、うちにあったんだ」
「いえ、持ち込んだんですよ。でも……悠太先輩には内緒です」
口元に人差し指を添える蓮に、俺はまたドキッとしてしまう。
「う、うわー。俺に内緒にするとか超生意気。ま、まあ。うまいからいいけど。あっ、スープも飲んでいいか?」
「どーぞ、冷めないうちに。全部、悠太先輩のために作ったんですから」
(全部、俺のため……)
「さ、サンキューな。よ、よーし。温かいうちに全部食べないとな!」
少しばかり声が震えてしまった気もするが、俺は速まる心臓の鼓動を蓮に悟られないように、慌てて食べ進めた。
だが、俺が食べている間、蓮は嬉しそうに俺のことを見つめてきた。
眉尻を下げて微笑みながら。
その顔は、ただ嬉しいと言う気持ちだけでなく、俺には幸せをかみしめて笑っているように思えた。
(なんて……)
俺は胸が疼くように締め付けられて、悲しくないのに涙が込み上げそうな気持ちになった。
この気持ちがなんなのか俺には分からなかったが、蓮が笑ってくれていると、俺も幸せな気持ちになれる。
「ありがとうな、蓮」
心から思った気持ちを、俺は素直に蓮へ伝える。
蓮は一瞬驚いたように目を見開いたが、俺から慌てて目を逸らすと、やっと食べるのを再開した。
恥ずかしそうに、耳を真っ赤に染めながら。


