君の影が溶ける前に。〜理系委員長と呪われた大型犬の、不合理な延命プロトコル〜

 蓼科での浮世離れしたサマースクールから、四ヶ月。
 夏の熱狂が嘘のように、季節は涼やかな風が吹き抜ける秋へと移り変わっていた。

「べよぉ♡」

 放課後の地学準備室。
 僕の足元では、相変わらずな『べよ猫』が、八の字を描くようにすりすりとまとわりついていた。
 まめたがパパうえに連れられて四国へ帰った後も、なぜかこいつだけは僕たちの傍から離れようとせず、今やすっかり地学研究会のマスコットとして定着してしまっている。
 相変わらず鯨岡先輩には見えないようで、たまに虚空にむけてスマホをかざしては、僕にいちゃもんを付けてくる。

「……瀬名。お前、おじい様に僕を『友達』だと紹介したんだろうな? 変な誤解を招くような言い方は、断固として慎んでもらうからな」

 病院へ向かう廊下で、僕は隣を歩く大型犬に釘を刺した。

「わかってるって、玲央ぉ。ほら、ここだよ」

 病室の扉を開けると、そこには瀬名の祖父――かつて地学博士として名を馳せた、瀬名譲りの彫りの深い顔立ちをした老人が、ベッドの上で穏やかに笑っていた。

「……おお、伊織。それに、君が高宮くんか。話は聞いているよ」

 おじい様の瞳は、驚くほど澄んでいた。
 その視線は、僕の首元の銀のチョーカーと、瀬名の指にあるリングを、一瞬だけ鋭く射抜いたような気がした。
 石に一生を捧げた博士の目には、ごまかしようもない。
 蔵の石を勝手に使ってアクセサリー作ったりしてないだろうな……。

「……はじめまして。クラスメイトの高宮玲央です。伊織くんんとは地学研究会でも一緒に活動させていただいております」

 丁寧な挨拶を皮切りに、僕は手土産代わりに持参した地質データをおじい様に提示した。

「――というわけで、フォッサマグナの西縁における糸魚川静岡構造線の……」

「ほほう! 高宮くん、君は本当に高校生か!? 素晴らしい知見だ! 弟子入りするかね?」

 瀬名の祖父の病室は、一瞬にして完全に地学会議の様相を呈した。
 ベッドの上に身を起こしたおじい様は、少年のように目を輝かせている。
 瀬名はというと、僕たちのマニアックな会話には一切ついてこれず、横でリンゴを剥きながらニコニコと僕たちの会話を見ているだけだった。

「……瀬名、お前も地学研究会の部員なら少しは話に入ったらどうだ」

「俺はいいの! 玲央とじいちゃんが楽しそうに話してるの見てるだけで、俺はすっげー幸せだから!」

 相変わらずのド低脳っぷりだが、その屈託のない笑顔に、おじい様も嬉しそうに目を細めていた。
 やがて、おじい様がゆっくりと息を吐き、僕の方へ向き直った。

「楽しい時間をありがとう。……伊織は、小さい頃から危ういところがあってね。この子がこうして笑っていられるのは、君のおかげだ。……よろしくな、高宮くん。このバカな孫を、どうか君の手で導いてやってくれ」

 おじい様が、僕の手をそっと握った。
 節くれ立った、温かい手。
 その手には、瀬名が作るシルバーアクセと同じ、石を慈しむ人間の誇りが刻まれている。

(……導いてくれ、か)

 ただの友達を通り越した、もっと重くて、逃れられない任務を受けたような感覚。
 それは内申点のためでも、強制されたものでもない。

 僕は思わず、「……最善を尽くします」と、自分自身の本音として答えていた。



 病院からの帰り道。
 並木道は落ち葉で黄金色に染まりつつあり、少し冷たくなった秋の風が僕たちの間を吹き抜けていく。
 おじい様との対話を経て、僕の胸の中には、言葉にできない静かな覚悟が居座っていた。

「ねえ、玲央」

 瀬名がふいに立ち止まり、僕の左手をそっと握った。
 手のひらから、温かい熱が伝わってくる。

「もう、まめたもいなくなったし、俺の影も戻ったし。命の危険なんて、もうどこにもないよね」

「……あ、ああ。論理的に考えて、お前の生気が脅かされる要因は排除された、と思われる」

 僕が答えると、瀬名はギュッと、僕の指の間に自分の指を絡ませてきた。

「……だったら、これからはさ」

 瀬名の声が、少しだけ震えていた。

「充電っていう『理由』がなくても。こうやって、玲央に触ってても、いいよね」

 ドクン、と。心臓が跳ねる。
 命の危機という免罪符はもうない。
 これは、彼自身の純粋な意思。
 サマースクールでの、その場の勢い的なものではなくて。

 正式に友達という枠を壊して、僕の領域に踏み込もうとする、要求。

「いつも、勝手に触っているだろうが……っ。……事後報告で許可を求めるな、このド低脳……!」

「じゃあ、玲央、俺たち正式にって感じ!?」

「……うるさい! 暗くなってきたから、はぐれないための安全措置だ! ほら、さっさと歩け!!」

 僕は真っ赤になった顔を隠すようにそっぽを向きながら、絡められた瀬名の手を、強く握り返した。
 秋の夕暮れ、僕たちの影は、一つの濃い塊となって歩道に長く伸びていた。


 そんな僕たちはすっかり、平和な日常を取り戻した……はずだった。

「ん〜、玲央、今日の弁当の卵焼き、すっげえ美味い。もう一個ちょうだい!」

「……お前は自分の弁当を食べろ。なぜ僕のタッパーに箸を伸ばしてくるんだ」

「んじゃ、半分返すわ」

「半分、むぐっ」 

 昼休みの地学準備室。
 瀬名が僕の隣にパイプ椅子を引き寄せ、肩がぶつかるほどの距離で弁当をつついている。
 付き合いたてのバカップルのそれに成り下がっていた。

「ごちそーさまあ」

 ぺろりと、僕の口内にちゃっかり侵入していた瀬名が、赤い舌をこれ見よがしに見せ付ける。

「おまえは、ここ、学校」

「え、もっと? 仕方ないなあ、玲央くん、相変わらず素直になれないねえ。ほら、手貸して」

「や、やめろ。ん――ッ」

 ぺろっと手首の内側を瀬名に舐められる。
 平和で、静かな昼休みの筈なのに。
 僕の足元で丸くなっていたべよ猫が、睦み合い?を感じたのか、落ち着きなく尻尾を振り、チラチラ物欲しそうな顔をしてじゃれついてくる。

「どうした、べよ猫」

 僕はべよ猫を抱え上げると、ぺろりんと顔を派手に舐められた。

「お、ずりーな。お前さりげなく混ざってきて。横取りいくないぞ」

 瀬名が、無駄な対抗心を見せて、僕に抱き着いてくる。

 僕は諦めて箸を置き、ふと――古文書や鉱石標本が並ぶ陳列棚へと視線をやった。
 そして、我が目を疑った。

(昨日まであんなもの、棚にあったか?)

 水晶のクラスターとアンモナイトの化石の間に、しれっと「それ」は鎮座していた。

 遮光器土偶のような姿をしながら、全身が血のように赤く、表面には呪術的な模様が刻まれた、禍々しい『土偶(はにわ)』。
 どう見ても、授業で作るような素焼きのレプリカではない。
 圧倒的ないわくつきのオーラが、周囲の空間を物理的に歪ませている。

「瀬名。あれは。お前、また土蔵から変なものを……」

 僕が瀬名の肩を揺さぶろうとした、その時だった。
 その禍々しい血塗れの土偶の裏側から、ひょっこりと、見覚えのあるぽわぽわの毛玉が顔を出した。

「きゅる♡ きちゃった……きちゃったぽん。まめたきちゃったぽん♡」

「…………え? おま、え?」

 僕の思考回路が、完全にフリーズする。
 短い手足。
 ビーズのような瞳。
 人を小馬鹿にしたような愛嬌ある話し方。

「ま、まめた!? お前、パパうえと一緒に四国へ帰ったはずじゃ……!!」

「あはは! まめたじゃん!! すっげー、会いに来てくれたの!? しかも何その赤いハニワ、超かっこいい!! お土産的な?」

 瀬名が弁当箱を放り出し、歓喜の声を上げて血塗れっぽい呪物(はにわ)とまめたを抱き上げようとする。

「バカ、触るな!! どう見ても災害級呪物だろうが! べよ猫が怯えてるのが見えないのか!!」

「いおりん、れおー、久しぶりだぽん♡ ママうえのめをぬすんで、いえでしてきたぽん! これ、パパうえの宝物蔵のからもってきた『血吸い土偶』だぽん♡ これからまた、いっしょに極上の愛しみを食べさせてもらうぽん♡ さあ、お名前つけてぽん」

「家出!? 手土産!? ふざけるな、今すぐクーリングオフだ!! パパうえを呼べ!!」

 僕の絶叫をよそに、まめたは瀬名の腕の中で「きゅるるん♡」とご満悦に喉を鳴らしている。
 瀬名に至っては「まめたが戻ってきたなら、また『特濃充電』しなきゃ死んじゃうかもなー! お名前ねー、埴輪だから『ハニー』かなー?」などと、完全にアウトな発言をしながら僕の腰に腕を回してくる始末だ。

 僕の平穏な高校生活は、完全に終わった……!

「離せ、この筋肉ダルマ! べよ猫、お前も僕の足に縋り付くな!! まめた、そのハニワを今すぐ塩漬けにして元あった場所に……!!」

 埃舞う地学準備室に、僕の怒号と瀬名のアホみたいな笑い声、そして二匹の怪異の鳴き声が響き渡る。
 窓の外では、秋の澄んだ空がどこまでも高く広がっている。

 僕の不合理で、最高にうるさい非日常は、どうやらまだまだ終わりそうにない。

「……あーもう、くそっ! お前らのせいで全部めちゃくちゃだ! 僕の、クリーンな青春を返せえええええ!!」

<HAPPY END ?>