0と100のあいだ

 次の日の朝。
 目が覚めた瞬間から、腹の奥がじくじくと痛んだ。緊張しているのが、嫌でも分かる。洗面台で水を被るみたいに顔を洗っても落ち着かなくて、何度もトイレと部屋を行き来した。
「……はぁ」
 ポロシャツの胸元に、つけたままだった去年の校章バッジを外し、新しいものに付け替える。そのまま、重い気持ちで制服に袖を通した。心なしか、いつもよりも制服が重く感じる。
 今日から学校、その実感が今さら指先に絡みつく。リビングに入ると、仕事の準備をしていた母親が髪をまとめる手を止め、顔を上げる。そのまま、自分の方を見て、ぴたりと固まった。
「あら、今日はずいぶん早いのね。どうしたの?」
「今日……学校、行く」
 短く答える。一瞬の間のあと、母親の顔がぱっと明るくなった。
「え、本当に?!やっとその気になったのね、ほんとによかった!」
 その声には、安堵と、期待するような響きが混ざっていた。
「このまま、ずっと行かないのかと思ったわ。成績だって、あんたならもっとやれるでしょう?もったいないのよ。ちょっとまっててね……ほら、これ持ってきなさい」
 差し出された千円札を、ほとんど反射で受け取る。
「お昼ちゃんと食べなさいよ。あと水筒も持って行ってね、今日暑いから。熱中症にならないように」
「……うん、ありがと」
 軽く流すように答える。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい。頑張って」
 背中に刺さる声を受け流して、玄関に向かう。靴を履いて、スマホを取り出した。新しい通知が一件。
 『おはようございます。今日、無理しないでくださいね(>_<)』
 思わず、小さく息が漏れ、さっきまでの重さが、少しだけ和らいだ。
 玄関の前で、一度立ち止まる。
「……お昼、約束したしな」
 ドアノブに手をかける。指先に、ほんの少しだけ力を込めた。
 


 校門が見えた瞬間、心臓が一気にうるさくなった。
 三ヶ月ぶりの学校の景色は、変わっていないはずなのに、やけに圧がある。なんだか、転校初日のような感覚だ。
 この学校は人数が少ないため、クラス替えがない。去年と同じ顔ぶれのはずなのに、元々の緊張しやすさもあって、いつも以上に息が詰まる。
 三ヶ月も休んでいた人間が、急に戻ってきたらどう思われるのだろう。そんな漠然とした不安だけが膨らんでいく。
 校舎に入ると、廊下の音が一気に押し寄せてきた。それから逃げるように俯いたまま、教室の前に立つ。
「……」
 ドアノブに手をかける、そのとき、伸ばした手は不自然に止まった。
 やっぱり、まだ無理かもしれない。胸の奥がぎゅっと縮まり、視界が少しだけ暗くなった気がした。
 そのとき。
「あれ?……冬夜?」
 少し間を置いて、背中から軽い声が飛んできた。
「やっぱりそうや!めっちゃ久しぶりやん!何してん、こんなところで」
 振り返ると、まず明るい茶髪が目に入った。
「……え、あ…」
 確か同じクラスの、黄瀬来人。
 毛先にかけて明るく染めた髪に、耳元で光る小さなピアス。相変わらず校則なんて気にしていない格好なのに、それが妙に似合っている。
 来人は一年の時も、何度か話しかけてくれた。なんで関西弁なのか詳しくは知らないけど、明るくて話しやすいからよく覚えている。このクラスのムードメーカーだ。
「冬馬だろ」
 低く落ち着いた声が、来人のすぐ後ろから差し込む。来人と一緒に来たらしい。
「……紫藤、おはよ」
「ん、おはよ」
 相変わらず余計な言葉が一切ない。
 スラっとした高身長に無表情で、どこか鋭い視線。紫藤葵、たしかそんな名前だったはずだ。数回しか話したことがないのに、妙に印象に残っている。
「うわ、それや!とうま!!ほんま久々やな。三ヶ月くらい?四ヶ月?」
「三ヶ月……」
「長っ!そら忘れるわ!」
「人数そんなに多くないだろ。忘れんな」
「いや、名前ちょい似てるやん。冬夜と冬馬!しゃーないやろ」
 紫藤が軽く来人の言葉に突っ込みを入れると、すぐに軽口が返ってきて、空気が柔らかくほどけた。
「悪いな、冬馬。こいつデリカシーとかないから。あと、あんま抱え込むなよ」
「……え?」
「一年の時、言えなかったら」
 それだけ言って、視線を逸らす。相変わらず、余計なことは言わないくせに核心だけ突いてくる。
「ん?なにそれ。俺にも教えてや」
 来人はそのやり取りに入りきれないまま、少し不満そうに唇を尖らせると、紫藤の腕を引っ張った。
「お前は知らなくていい」
「なんでやねん!」
 即座に返ってくるその突っ込みに、肩の力が抜ける。
 三ヶ月ぶりだというのに、前と何一つ変わっていない。その変わらなさが、少し意外で、そして妙に安心できた。
 そのとき、教室の中から声がした。
「おまえら、ドアの前で何してんだ。席つけ、そろそろ始まるぞ——」
 担任の声が途中でわずかに途切れる。何かに引っかかったように動きが止まった。
「あれ、冬馬?」
「……おはようございます、先生」
 軽く頭を下げる。
「おお!よく来たな。もう体調は平気か?」
「え、冬馬どこか痛かったん?」
 来人が横から覗き込んでくる。近すぎて思わず一歩引いたが、それを紫藤が引きはがしていた。
「あ……もう平気です。その……かなり、よくなりました」
 曖昧に答える。
 学校には体調不良だと母親が偽って休んでいたから、長い間体調が悪いやつになってしまっていた。
 不自然極まりないが、進学校でも何でもない田舎町のこの学校は、生徒が不登校になろうが、あまり気にしないらしい。いや、もしかしたら、この担任だけかも。
「そっかそっか、無理すんなよ。でも来れてよかった」
 担任は軽く頷くと、それ以上は何も触れなかった。
 三ヶ月という空白すら、ただの出席記録の一行として処理されたような、淡白な反応だった。
「ほら、さっさと入れ。始まるぞ」
『はーい』
 三人の声が重なった。


 
 あっという間に昼休みになった。
 授業は、思っていたよりも普通についていけた。黒板の文字も、先生の話も、まあ理解できる。
 三ヶ月空いていたはずなのに、頭は意外と鈍っていないらしい。授業中も、騒がしく喋るやつもいれば、机に突っ伏して寝ているやつもいた。その中に来人が混ざっていたことは、まあ見なかったことにしておく。
 とにかく、拍子抜けするくらい、いつも通りだった。
「冬馬、昼持ってる?」
 来人が椅子をがたんと引きながら聞いてくる。机に突っ伏していたのか、頬にはうっすらと寝ていた跡が残っていた。手には当然、何も持っていない。
「いや、持ってない。購買で買うつもり」
「お、じゃあ一緒に行こうや。俺もパン買いたいねん」
「あー……えっと、」
 言葉が詰まる。
 まさか誘われるとは思ってもいなくて、お昼は湊と約束してしまった。でも、それをどう説明しよう。クラスのやつに、わざわざ言うことでもない。でも断るのも、なんか失礼な気がする。せっかく誘ってくれているのに。
「どうしたん?」
「いや、その……」
 迷っていると、教室の扉が開いた。
 音に反応するように、自然と視線がそちらへ吸い寄せられる。そこに立っていたのは、見慣れた顔だった。
 背が高く、柔らかそうな髪がふわりと揺れる。……湊だ。
 教室前で湊は足を止める。きょろきょろと視線を動かし、ひとりひとりを確かめるように教室内を見渡していた。誰かを探しているのは、すぐに分かった。
「……あ」
 目が合った、その瞬間。湊の表情がぱっと明るくほどける。
「冬馬先輩!」
 弾けるような声で名前を呼ばれる。嬉しいはずなのに、どこかむず痒くて、反射的に視線を逸らしたくなってしまう。
「え、誰あれ」
「まって、やばい、かっこよくない?」
「国際科じゃない?一年の。文化祭の時に見たことある」
 周りの女子がひそひそと、ざわつき始めた。聞こえないように話しているつもりなのだろうが、そのほとんどは、はっきりと耳に届いてくる。
 視線が一斉に湊へと向かうのが分かった。なぜか、その光景に、胸の奥がわずかにざらついた。理由のない、言葉にできない違和感だけが残る。
「え?なになに、冬馬の知り合い?」
 来人が肘で小突いてくる。軽いその仕草で、現実に引き戻ってこれた。
「あー、えっと、その……」
 言葉が出ない。
 後輩、と言うには遠すぎる気がして、友達と言うにも、違う気がした。その曖昧な間に、自分でも気づかないまま、名前のつかない関係だけが宙に浮いていた。
「なんやねん。冬馬、あの後輩に虐められてんの?俺、言おか?」
「あ、いや、そういうわけじゃ——」
 湊は気にした様子もなく、まっすぐこっちに歩いてくる。そのたびに視線がついてくるのが分かって、なんとなく居心地が悪い。
「先輩、行きましょ」
 目の前まで来て、当たり前みたいに言う。
「え?なになに?どういうこと」
 来人は困惑したように、湊と俺を交互に見ている。湊が一瞬だけ、来人を見た。
「……先輩のお友達、ですか?」
「せや、友達やで!な、冬馬」
 肩を遠慮なく、ゆすられる。その瞬間、湊の笑顔が凍り付いた。
「え、……まあ?」
「なんで疑問形やねん!友達やろ!!」
 いつものように、スキンシップの激しい来人が俺の腕を引っ張る。
「ちょっと、離れてくださいよ。先輩のパーソナルスペース広いんですから」
「……行くぞ」
 さっきまで黙って見ていた紫藤が、途端に来人の首根っこを掴んで引っ張る。
「え、ちょ、引っ張んなって!くび、首締まる!」
「わるい、邪魔したな」
「え、?まだ話——」
「いいから来い」
 ずるずると引きずられるように来人と紫藤は教室を出ていってしまった。
 残されたのは、俺と湊。……と、周りの視線。
「先輩、場所、変えよ」
「うん……」
 湊に軽く引かれるようにして、立ち上がる。自然と足は、教室の外へ向いていた。
 廊下に出ると、空気が変わり、さっきまでの教室のざわめきが背後に遠ざかっていく。
「先輩、学校どうでした?」
 二人で並んで歩きながら、湊が何気なく聞いてくる。視線は前を向いたままなのに、その声だけが妙に近い。
「……別に。思ったより普通」
「そうですか、よかった」
 短い返事なのに、湊はそれだけで満足したみたいに、ふっと笑った。
「……なんで湊が嬉しいの」
「水曜日じゃないのに、先輩の顔ちゃんと見れたので」
 当たり前みたいな口調。特別なことを言っている自覚すらなさそうで、その自然さに、逆に言葉が詰まる。
「……ちゃんと、って」
「ちゃんとです」
 それ以上は何も言わない。でも、その一言がやけに頭に残って何度も再生される。
 渡り廊下を抜けて、国際科の棟に入ると、湊は慣れたように、どこかへ歩いていく。
「どこで食べるの?っていうか、俺購買行かないと……」
「まあまあ、こっちです」
 そのまま湊の後ろをついていくと、校舎の裏手にあるアーチェリー場に出た。もう廃部したのか、ほとんど使われていないのか、人の気配が全くない。足元には柔らかい芝が広がっていて、上履き越しに、ふわりとした感触が伝わってくる。日差しも強すぎず、ちょうどいい温かさだった。
「ここなら、人来ないです」
「……こんなとこ、あったんだ」
 初めて見る場所に、思わず周囲を見渡す。
 自分の方が上級生のはずなのに、こんな場所があることすら知らなかった。普段こちら側に来ることがないせいで、自分の知っている世界が思っていたよりずっと狭いことを、今さら突きつけられる。
 二人で並んで芝生に腰を下ろすと、張り詰めていたものがすっと抜けていくのが分かる。
「ここ、俺のお気に入りの場所なんです」
 湊は芝生を軽く見渡しながら、少しだけ誇らしそうに言った。
「へぇ」
「先輩と、ここで一緒に食べたいなって思ってました」
「……そう」
 心臓が、さっきから落ち着かない。言葉を返すのが、遅れてしまうのが嫌で、視線をわざと逸らす。
 そのとき、膝の上に軽く、ビニール袋が触れた。
「え、なにこれ」
「パンです。朝練のときにコンビニで買ったんですけど、ちょっと多くて」
 湊は悪びれる様子もなく、当然のように説明した。
「いや、いいって。俺、お母さんにお昼代もらってるし……」
「でも購買、人多いですよ?並ぶの面倒じゃないですか」
「……」
 たしかに。
「……じゃあ、ひとつだけ、」
「はい、どうぞ」
 差し出されたパンを受け取ると同時に、ポケットから財布を取り出した。迷いなく、今朝もらった千円札を抜く。
「これ」
「え?いらないです」
「いいから」
「そんなに使ってないですし」
「いいって言ってんだろ。受け取れ」
 少し強めに言うと、湊は一瞬きょとんとしたあと、困ったように笑った。
「……じゃあ、半分こで」
「は?」
「半分分だけ、もらいます」
 千円札を渡すと、代わりに五百円玉が返された。
「……変なとこ律儀だな」
「先輩もです」
 軽く笑われて、なんか悔しい。
 そのまま、二人で並んでパンを食べた。風がふわりと芝生を揺らし、湊の柔らかい髪が一緒に揺れる。その隙間から覗く瞳が、陽射しを受けて淡い、はちみつ色に見える。
「先輩、俺、放課後は部活で……」
「うん」
「一緒に帰れないですけど、大丈夫ですか?」
「別に平気。いつも一人で来てたし、一人で帰れる」
 即答する。なのに、
「はい。でも、ちょっと残念です。もっと一緒にいたい」
「……」
 ずるい。
「……部活、がんばって」
「はい。先輩も頑張ってください」
 湊が立ち上がる。芝生が少しだけ揺れて、光がきらっと反射した。
「じゃあ、俺行きますね」
「うん」
 軽く手を振って、湊は走っていく。その背中を、しばらく見ていた。
 今日、学校来てよかった。そう思ったのは、たぶん、湊のせいだ。