あの日、体調が戻ったあとは、案の定というか、湊が家まで送ってきた。
「一人で帰れる」って言っても、「いやです。送ります」の一点張りで、結局断れなかった。……ほんと湊って、見かけによらず頑固だ。
行こうと思って調べていた店も、水族館で買うはずだった土産も。結局、全部そのまま流れてしまったけれど、不思議と何も惜しくなかった。むしろ、あの時の会話と、触れた温もりの方が、よっぽど心に残っている。
あの日から二日。
俺は今、机に座って、ノートを開いている。明日は水曜日、日記を渡す日だ。先週、湊から受け取った交換日記を書かないといけない。
でも、完璧じゃなくていい、100点じゃなくてもいい。そう思えるだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
……ほんと、単純だな。
以前の自分なら、こんな中途半端な状態、絶対許せなかったはずなのに。今は、むしろその「中途半端」が心地いいとすら思っている。
変わった、というより、自分を縛っていたものが少しだけ、緩んだのかもしれない。
ペンを手に取ると、前みたいに手が止まることはなかった。
ノートを閉じようとして、ふと手が止まる。
窓の方を見ると、空はもう完全に夏の色をしていた。強い日差しが、アスファルトを白く照らしているのが見える。あんなに好きになりかけていた雨は、もうどこにもない。
やっぱり少しだけ、寂しい。
その寂しさを、紛らわせるようにスマホに手が伸びる。前までは通知が来ても放置していたのに、最近は違う。無意識に、あの名前を探している。
トーク画面を開くと、最後のメッセージが目に入る。「明日楽しみにしてますね!(*^-^*)」なんて、軽い文面。送られてきたのは朝の六時半だ。きっと朝練の前に送ってくれたのだろう。
湊からの返信は基本遅い。部活もあるし、学校もある。自分だって遅くなる時があるから、自分よりも忙しい湊が遅いのは当たり前だ。なのに既読がつくのを待っている自分がいる。
ここ数日は、学校に行っていないはずなのに、胸の奥が少し苦しい。あの頃とは違う種類の重さ。
もっと、会いたい。言葉にしたら、たぶんこれだけ。ただの友達に、こんなこと思うのは変かもしれないけど……純粋に、もっと湊と話したい。
一週間一回。それで満足していたはずなのに、今は足りない。足りなさすぎる。
湊がどこで何をしているのか。誰と笑っているのか。そんなことまで気になる自分が、少し気持ち悪い。
でも明日、また湊に会える。それだけで、今日は耐えられる。
でも、明日が終わったら。また、一週間待たないといけない。もし、湊の部活が忙しくなって、水曜日に来られなくなったら。そのとき、俺は……
「……はぁ」
小さく息を吐く。
こんなこと考えても、意味ないのに。まだ起きてもいない未来を、勝手に悪い方に想像して。ほんと、相変わらずだ。
でも、少しだけ動けば「あとは、ちょっとの勇気を出すだけ」。1でもいいから、進めば何か、変わるのかもしれない。
1から99。そのどこでもいい。0じゃなければ。
「……やってみるか」
窓の外では、強い日差しが揺れている。
梅雨が終わった。それと同時に、自分の中で何かが、静かに動き出している気がした。
次の日。今日もまた、いつもより少し早く公園に着いた。
屋根の意味をなさない覆いは、傾きはじめた陽射しをそのまま通す。じりじりと、夏に近づいた太陽が肌を焼く。
ベンチに腰を下ろして、膝の上にノートを置いた。何度も開いては閉じて、意味もなくページをめくる。
言うことは、決めてある。それなのに胸の奥が落ち着かない。
視線を上げて、入り口の方を見るが、まだ来ない。スマホを確認しては、またポケットにしまう。それでも結局、落ち着かなくてノートの角を指でなぞった。
「せんぱーい!」
少し遠くから呼ぶ声がして、顔を上げる。湊がこちらに向かって手を振っていた。いつも通りの柔らかい笑顔で近づいてくる。
「湊、そんなに走ったら暑いだろ。……これ」
合うや否や、即座にノートを渡す。いつもより少しだけ強引に手渡した。
「日記!ありがとうございます」
「うん。あとさ、」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
「俺、明日から学校行くから」
自分の言葉が、ちゃんと外に出た実感が、じわじわと広がる。怖いとか、不安とか、そういうのがないわけじゃない。でも、それ以上に少しだけ、前に進んだ気がした。
風が木の葉を揺らして、湊のふわふわした前髪が揺れた。
「え……ほんとですか?」
湊が、少しだけ目を丸くして俺を見る。
「……うん。まぁ、別に大した理由じゃないけど」
湊に会いたいから学校に行きます。なんて、絶対に言えない。
「大した理由じゃなくても、すごいですよ……!本当に、すごいです」
言い方があまりにも真っ直ぐで、少しだけ視線を逸らす。
「……別に、毎日行くとは言ってないし」
「いいじゃないですか、それで」
「途中で帰るかもしれない」
「それもいいです」
「……」
何を言っても、否定されない。拍子抜けするくらい、あっさり受け止められる。
「先輩が行こうかなって、思ったことが大事なので。0じゃなくなったってことですよね?」
湊は、そう言って少しだけ笑った。
「……またそれ」
「だって分かりやすいじゃないですか。先輩、明日何時に行きます?」
「……普通に、朝」
「じゃあ、一緒に学校行きましょ!」
「いや、それはいい」
「え、なんでですか」
ずいっと近づいてくるので、思わず距離を取ってしまった。まだ陽キャの距離は慣れない……。
「……湊、朝練あるでしょ、」
「あ、そっか」
あっさり引き下がる。少しだけ寂しくなったのは内緒だ。
「じゃあ、校門で待ってます」
「それも嫌だ。目立つでしょ」
「えーいいじゃないですか」
湊はくすっと笑う。
「でも、分かりました。無理はさせたくないので。お昼は会えますよね?」
「……まぁ、」
友達いないから、どうせお昼は一人だ。
「よかった。じゃあ、先輩の初日楽しみにしてますね!」
「ちょっと……プレッシャーかけないで」
「かけてないですよ。楽しみにしてるだけです」
「同じだし」
「違います」
はっきり言い切るその顔が、やっぱり少しずるい。
「明日、学校で待ってます、応援してます!」
「別に、応援いらない」
「いります」
「いらない」
「いる」
「……うるさい、」
小さく笑って、二人で歩き出す。別れの時、最後に湊が手を振った。
「せんぱい!また来週、じゃなくて……また明日、ですね」
「……うん」
また明日。その一言が、こんなにも胸をあたたかくするなんて、知らなかった。
「一人で帰れる」って言っても、「いやです。送ります」の一点張りで、結局断れなかった。……ほんと湊って、見かけによらず頑固だ。
行こうと思って調べていた店も、水族館で買うはずだった土産も。結局、全部そのまま流れてしまったけれど、不思議と何も惜しくなかった。むしろ、あの時の会話と、触れた温もりの方が、よっぽど心に残っている。
あの日から二日。
俺は今、机に座って、ノートを開いている。明日は水曜日、日記を渡す日だ。先週、湊から受け取った交換日記を書かないといけない。
でも、完璧じゃなくていい、100点じゃなくてもいい。そう思えるだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
……ほんと、単純だな。
以前の自分なら、こんな中途半端な状態、絶対許せなかったはずなのに。今は、むしろその「中途半端」が心地いいとすら思っている。
変わった、というより、自分を縛っていたものが少しだけ、緩んだのかもしれない。
ペンを手に取ると、前みたいに手が止まることはなかった。
ノートを閉じようとして、ふと手が止まる。
窓の方を見ると、空はもう完全に夏の色をしていた。強い日差しが、アスファルトを白く照らしているのが見える。あんなに好きになりかけていた雨は、もうどこにもない。
やっぱり少しだけ、寂しい。
その寂しさを、紛らわせるようにスマホに手が伸びる。前までは通知が来ても放置していたのに、最近は違う。無意識に、あの名前を探している。
トーク画面を開くと、最後のメッセージが目に入る。「明日楽しみにしてますね!(*^-^*)」なんて、軽い文面。送られてきたのは朝の六時半だ。きっと朝練の前に送ってくれたのだろう。
湊からの返信は基本遅い。部活もあるし、学校もある。自分だって遅くなる時があるから、自分よりも忙しい湊が遅いのは当たり前だ。なのに既読がつくのを待っている自分がいる。
ここ数日は、学校に行っていないはずなのに、胸の奥が少し苦しい。あの頃とは違う種類の重さ。
もっと、会いたい。言葉にしたら、たぶんこれだけ。ただの友達に、こんなこと思うのは変かもしれないけど……純粋に、もっと湊と話したい。
一週間一回。それで満足していたはずなのに、今は足りない。足りなさすぎる。
湊がどこで何をしているのか。誰と笑っているのか。そんなことまで気になる自分が、少し気持ち悪い。
でも明日、また湊に会える。それだけで、今日は耐えられる。
でも、明日が終わったら。また、一週間待たないといけない。もし、湊の部活が忙しくなって、水曜日に来られなくなったら。そのとき、俺は……
「……はぁ」
小さく息を吐く。
こんなこと考えても、意味ないのに。まだ起きてもいない未来を、勝手に悪い方に想像して。ほんと、相変わらずだ。
でも、少しだけ動けば「あとは、ちょっとの勇気を出すだけ」。1でもいいから、進めば何か、変わるのかもしれない。
1から99。そのどこでもいい。0じゃなければ。
「……やってみるか」
窓の外では、強い日差しが揺れている。
梅雨が終わった。それと同時に、自分の中で何かが、静かに動き出している気がした。
次の日。今日もまた、いつもより少し早く公園に着いた。
屋根の意味をなさない覆いは、傾きはじめた陽射しをそのまま通す。じりじりと、夏に近づいた太陽が肌を焼く。
ベンチに腰を下ろして、膝の上にノートを置いた。何度も開いては閉じて、意味もなくページをめくる。
言うことは、決めてある。それなのに胸の奥が落ち着かない。
視線を上げて、入り口の方を見るが、まだ来ない。スマホを確認しては、またポケットにしまう。それでも結局、落ち着かなくてノートの角を指でなぞった。
「せんぱーい!」
少し遠くから呼ぶ声がして、顔を上げる。湊がこちらに向かって手を振っていた。いつも通りの柔らかい笑顔で近づいてくる。
「湊、そんなに走ったら暑いだろ。……これ」
合うや否や、即座にノートを渡す。いつもより少しだけ強引に手渡した。
「日記!ありがとうございます」
「うん。あとさ、」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
「俺、明日から学校行くから」
自分の言葉が、ちゃんと外に出た実感が、じわじわと広がる。怖いとか、不安とか、そういうのがないわけじゃない。でも、それ以上に少しだけ、前に進んだ気がした。
風が木の葉を揺らして、湊のふわふわした前髪が揺れた。
「え……ほんとですか?」
湊が、少しだけ目を丸くして俺を見る。
「……うん。まぁ、別に大した理由じゃないけど」
湊に会いたいから学校に行きます。なんて、絶対に言えない。
「大した理由じゃなくても、すごいですよ……!本当に、すごいです」
言い方があまりにも真っ直ぐで、少しだけ視線を逸らす。
「……別に、毎日行くとは言ってないし」
「いいじゃないですか、それで」
「途中で帰るかもしれない」
「それもいいです」
「……」
何を言っても、否定されない。拍子抜けするくらい、あっさり受け止められる。
「先輩が行こうかなって、思ったことが大事なので。0じゃなくなったってことですよね?」
湊は、そう言って少しだけ笑った。
「……またそれ」
「だって分かりやすいじゃないですか。先輩、明日何時に行きます?」
「……普通に、朝」
「じゃあ、一緒に学校行きましょ!」
「いや、それはいい」
「え、なんでですか」
ずいっと近づいてくるので、思わず距離を取ってしまった。まだ陽キャの距離は慣れない……。
「……湊、朝練あるでしょ、」
「あ、そっか」
あっさり引き下がる。少しだけ寂しくなったのは内緒だ。
「じゃあ、校門で待ってます」
「それも嫌だ。目立つでしょ」
「えーいいじゃないですか」
湊はくすっと笑う。
「でも、分かりました。無理はさせたくないので。お昼は会えますよね?」
「……まぁ、」
友達いないから、どうせお昼は一人だ。
「よかった。じゃあ、先輩の初日楽しみにしてますね!」
「ちょっと……プレッシャーかけないで」
「かけてないですよ。楽しみにしてるだけです」
「同じだし」
「違います」
はっきり言い切るその顔が、やっぱり少しずるい。
「明日、学校で待ってます、応援してます!」
「別に、応援いらない」
「いります」
「いらない」
「いる」
「……うるさい、」
小さく笑って、二人で歩き出す。別れの時、最後に湊が手を振った。
「せんぱい!また来週、じゃなくて……また明日、ですね」
「……うん」
また明日。その一言が、こんなにも胸をあたたかくするなんて、知らなかった。
