0と100のあいだ

 あれからの四日間、何度もスマホを開いては、水族館の場所や館内の写真を眺めていた。
 ついでに近くのごはん屋も調べてみたりした。海が近いらしく、地図を拡大するとすぐそばに海岸線が見える。行ったこともないくせに、なんとなく空気まで分かった気になっている自分が少し可笑しい。
 電車のルートも確認した。乗り換えの時間や、何番線に来るのかまで一応見ておく。別に一人で行くわけじゃないのに、こういうのを調べてしまうのは癖みたいなものだ。
 日曜日の朝、目が覚めたとき、部屋の中にはすでに明るい光が差し込んでいた。
 カーテンの隙間から入り込んだ光は、いつもの曇り空とは違って、やけに輪郭がはっきりしている。
 身体を起こして、カーテンを開けると、外は見事なまでの快晴だった。雲一つない、という言葉がそのまま当てはまるくらい、きれいに晴れている。青がやけに深くて、眩しい。
「……珍しいな」
 今日は、雨じゃない。それだけで、少しだけ違和感がある。ここ最近、ずっと曇りか雨だったせいか、こんな空を見るのは久しぶりな気がした。
 ベッドから降りて、クローゼットを開ける。
 私服なんて、ほとんどない。着る機会自体が少ないから。ハンガーに掛かった数少ない服を眺めても、結局どれがいいのか分からない。
 一枚ずつ手に取っては戻す。
 気温はそこそこ高そうだ。でも、水族館は室内だし、冷房も効いているだろう。それに、海が近い。風があるかもしれない。
 少し考えてから、黒のTシャツを引っ張り出す。無難で、何も考えなくていい色。そのまま、薄手のカーディガンを手に取って、鞄に押し込んだ。
 着替えながら、ふと鏡を見る。いつもと変わらないはずの自分の顔が、少しだけ落ち着かない。
「……別に、楽しみとかじゃないし」
 誰に言い訳するでもなく、目を逸らす。部屋を出ると、リビングから物音が聞こえた。
「あら、もう起きてたの?」
 キッチンに立っていた母が、少し驚いたように振り返る。
「……うん」
「今日は早いじゃない。どうしたの?」
 何気ない調子で聞かれる。けれど、その視線はほんの少しだけ柔らかかった。
「……ちょっと、出かける」
「出かける?珍しいわね、いいじゃない。どこいくの?」
 母の声が、わずかに弾む。
「……水族館」
「水族館?」
 一瞬きょとんとして、それから、ふっと表情が緩んだ。
「誰と?」
 その問いに、少しだけ言葉が詰まる。
「……知り合い」
「知り合い?」
 繰り返される。
「……うん、公園で会った同じ学校の、後輩」
「ふうん」
 それだけ言うと、母は少しだけ目を細めた。それ以上は聞いてこなかったけれど、どこか安心したような顔をしている。
「気をつけて行ってらっしゃいね」
「……うん」
 短く返事をする。玄関で靴を履きながら、ふと立ち止まる。外に出る理由があることが、少しだけ不思議だった。
 扉を開けると、さっき窓から見た青空がそのまま広がっている。
 眩しさに目を細めながら、一歩踏み出した。

 
 
 約束の時間よりも、少しだけ早い。いや、正確には、かなり余裕を持って出てしまった。
 待ち合わせ場所に着いたのは、案の定、約束の十五分前だった。昨日やり取りしたメールに「着いた」と一言だけ送るとすぐに、スタンプが送られてきた。人参のよくわからない、変なスタンプに思わず笑ってしまった。
 日曜日の朝は、思っていたよりも静かだった。
 ふと、空を見上げると、太陽はすでに高い位置にあって、しっかりと光を地面に落としている。その光を、周りの木々が一身に受けていた。葉が光を反射してきらきらと揺れている。
 ……光合成してるな。今この瞬間も、あの葉っぱたちは光エネルギーを変換しているわけで……。
 そう考えると、ただの風景が少しだけ違って見える。別に、だから何かが変わるわけでもない。それでも、ぼんやりと木々を見上げ続けた。
 暇なのか、俺は。いや、暇なんだろうな。もう梅雨は終わってしまったのだろうか。
 少しだけ寂しい気持ちが湧き上がってきた。
 そんな、くだらないことを考えていると、遠くから足音が聞こえた。視線を下ろすと、湊が小走りでこちらに向かってきていた。
「せんぱーい!おはようございます」
「……おはよ」
 返しながら、ふと違和感に気づく。
 いつもの制服じゃない。当たり前だけど、いざ目の前にすると少しだけ緊張してしまう。
 白っぽいTシャツ、足元はスニーカーで、全体的にラフな格好だ。袖は少しだけロールアップされていて、健康的な腕が見える。それに、いつもの四次元バックじゃない。今日は少し小さめの斜めがけのバックだった。
 ……ずるいだろ。なんでそんなに様になるんだよ。
 身長があるせいか、シンプルな服でも無駄に映えるらしい。視線が、ついそっちに引き寄せられる。
 こんなふうに人をじっと見ることなんて、普段はほとんどないのに。隣に並ばれると、余計に意識してしまう。距離が近い。身長差も、はっきり分かる。自分より少し高いだけのはずなのに、やけに差を感じる。
 ——こんなやつと並んでていいのか?
 自分が浮いて見えないか、とか。つりあってないな、とか。考え始めると止まらない。面倒くさいな、と思う。でも、やめられない。
「先輩?」
 湊が少しだけ首を傾げる。視線が合うその瞬間、ぐるぐると巡っていた思考が止まった。
「……なに」
「ぼーっとしてました?」
「してない」
 即答する。嘘だと自分でも分かっているけど、言わずにはいれなかった。湊は少しだけ笑った。
「今日、晴れてよかったですね」
「ああ……まあね」
 本当は、雨の方がよかったかもしれない、なんて思う。あの空気の方が、少しだけ落ち着くから。
 でも、今日は違う。晴れている。それも、やけに綺麗な青空。
「電車二番線だって。あと七分くらいで来る」
 ポケットからスマホを取り出して、あらかじめ調べておいた電車時間のスクショ画面を軽く見せると、指で該当の時刻を指し示した。
「え、調べてくれたんですか?」
「別に。暇だっただけ。それに湊、こういうの調べなさそうだし」
 画面を消して、そのままスマホをポケットに戻す。
「そんなにズボラに見えてるんですか……」
 わざとらしく肩を落とす湊。「見える」と短く返すと、湊は「まあ合ってます」と笑った。
「ほら、はやく行くぞ」
 小さな改札を抜けて、階段をのぼる。
 ホームに上がると、二人のほかには誰もいなかった。日曜の午前中だからか、空気が緩い。
 誰もいないホームなのに、それでも端の方に寄る。人の少ない位置を無意識に選んでいた。
 電車が来るまでの、わずかな時間。風が、ホームの端を抜けていく。さっきまでの外の空気よりも、少しだけ涼しい。その隣に、湊が立つ。
 ……?なんか、今日。
 朝から少し違和感があった。ずっと視線を感じる。横を見ると。ほら、やっぱり目が合った。
「……なに」
 思わず口に出る。
 湊は、少しだけきょとんとした顔をして、それからふっと笑った。
「いえ、先輩ってちゃんと調べる人なんだなって思って」
「普通だろ」
「俺、こういうの当日その場で調べるタイプなんで」
「だと思った」
 即答すると、湊は笑う。それなのに視線はそらされない。
 ……なんだよ。落ち着かない。
 視線を逸らして、線路の方を見る。でも、意識はどうしても横に引っ張られる。普段なら、こんなに気にならないはずなのに。
 むしろ、無視する。なのに今日は、その視線が、やけに引っかかる。
 そんなに見られたら、こっちが見れないだろ。
 ふと、そんなことを思ってしまって、内心で自分に驚く。
 見たいのかよ、俺は。意味が分からない。
 視線を落とすと、床の白線。その上に立つ自分の靴。頭の中でぐるぐると思考が回る。
 なんでこんなに意識してるんだ。ただの後輩だろ。
「先輩」
 呼ばれて、顔を上げる。湊が、少しだけ身を乗り出してこちらを見ていた。
「なんか、今日かわいい」
 その言い方が、あまりにもまっすぐで、嘘とか、お世辞とか、そういうのが一切混ざっていない言い方。だから余計にどう返せばいいか分からなくなる。
 手持ち無沙汰になって、背負っているリュックの肩ひもを、両手でぎゅっと握る。布越しに伝わる感触に、わずかに力がこもった。
「……可愛いっていうな」
 なんとかそれだけ絞り出す。結局、短くしか返せない。
「じゃあ、綺麗。かっこいい」
「適当言うな」
「本当ですよ」
 本当なわけあるか。それを言うなら、どちらかというと湊の方だ。湊の方が、かっこいいし、整っているし、目を引く。これは主観じゃなくて、客観的に見てもそうだと思う。……多分。
 誤魔化すように視線を逸らす。ちょうどその時、遠くからかすかな音が聞こえてきた。
 カン、カン、カン、と規則的な音。それに重なるように、線路の向こうから低い振動が伝わってくる。
「あ、そろそろ来ますね」
 湊が、少しだけ弾んだ声で言う。
 ホームに電車と一緒に風が吹き抜け、前髪を揺らす。
 このあたりを走る電車は、せいぜい二両か三両編成。今日は三両だった。都会の満員電車とは違って、ガラガラなのが今は救いだ。
 
 車内は、思った通り空いていた。日曜の午前中らしい、ゆるい空気。中に入った瞬間、電車特有の少しこもったような匂いがした。
 そして、頭上からは一定のリズムで回る音。カラカラ、と軽い音を立てながら、扇風機が回っている。天井に取り付けられたそれは、古びてはいるけれど、きちんと風を送っていた。
 三か月ぶりに乗る電車は、やっぱりいつもと変わらなかった。
 一番端の席に腰を下ろすとクッションが少し沈んだ。そのすぐ隣に、湊も迷いなく座った。
 隣に座るだろうと予想はしていた。していたけど、やっぱり近い。ほんの少し腕を動かせば、すぐにぶつかる。
 電車が再び動き出した。ゆるやかな加速とともに、身体がわずかに揺れる。その拍子に、肩がかすかに触れた。ほんの一瞬。
 ……落ち着かない。意識が触れている所に引っ張られる。
 湊は、そんなことを気にする様子もなく、きょろきょろと外の景色を見ている。子どもみたいに、興味のまま視線を動かしていて、その横顔が、やけに無防備で……。
 また、無意識に目が行く。慌てて視線を窓の外に向けた。


 
 やがて、車内に終点を知らせるアナウンスが静かに流れた。
「次、降りますよ」
 湊が軽く身を乗り出して言う。
「うん」
 短く返しながら立ち上がる。電車が減速していく感覚が、足の裏からじわりと伝わってきた。
「先輩、降りるの遅いと挟まれます」
「俺は子供じゃない」
「俺、一回挟まれたことあります」
「……マジか」
「ちょっと恥ずかしかったです」
 確かに湊なら挟まれてそう。小さく息が漏れた。
 扉が開くと、外の空気が流れ込んできた。ホームに降りて、そのまま乗り換えの案内板に目を向ける。矢印に従って歩き出すと、湊も自然と隣に並んだ。
「こっちですよね」
「たぶんな」
「たぶん、なんだ」
 軽く笑いながら、同じ歩幅でついてくる。階段を上って、渡り通路を抜ける。
「先輩って、こういう乗り換え、慣れてます?」
「別に」
「でも迷わないですよね」
「看板見てるだけでしょ。それに広くもない。迷う要素ないし」
「俺、たまに逆行きます」
「……方向音痴」
「あはは、ちょっとだけ」
 こいつのちょっとはちょっとじゃないことをこの二週間で理解した。
 
 次の電車は思ったよりすぐに来た。
 今度はさっきより少しだけ人が多い。それでも、やっぱり、ぎゅうぎゅうになるほどじゃない。
「座れましたね」
「ラッキーだな」
「先輩、運いいんですか?」
「さあ。良いってあんまり思ったことないかも」
「俺、いいほうです」
「自分で言うなよ……」
 さっきと同じ距離。同じように、近い。でも、少しだけ、慣れた気がする。
 窓の外の景色もゆっくりと様子を変えていき、古びた町並みはいつの間にか後ろへ流れ、代わりに広い道路や店の看板が目につくようになっていた。
「だいぶ街っぽくなってきましたね。さっきまで田んぼしかなかったのに。でもあれはあれで好きですけど」
「まあね。移動は不便だけど、落ち着く」
「水族館って、どんなのがいるんですかね」
「さあ。だいたい魚じゃん?」
「せんぱい、雑」
「……クラゲとか、いるんじゃない?」
「クラゲ!見たいです。ふわふわしてて、かわいい」
「分かる。あれは、ずっと見てられる」
「先輩も好きなんですね」
「まあ」
 そう言うと、湊は少し嬉しそうに頷いた。
「先輩、ペンギンとか好きですか?」
「普通」
「でた、また普通だ」
「……便利なんだよ」
「あはは、知ってます」
 くすっと笑う声が、すぐ隣で弾ける。
「もうすぐですね」
「……うん」
 くだらないやり取りを交わしながら、時間はあっという間に過ぎた。気づけば、目的の駅に着いていた。
 同じ駅で降りる人は、それなりに多く、みんな同じ方向に流れていく。なんとなく、水族館に向かう人たちなんだろうと分かる。二人並んで改札を抜けると、さっきまでの静けさが嘘みたいに人が増えた。
「あれ、意外と人多いですね」
「水族館だし、こんなもんじゃない?」
「先輩、大丈夫ですか?」
「これくらい平気。そんなにか弱くない」
 そのまま少し歩くと、水族館の建物が見えてくる。遠くからでも分かるくらい大きくて、事前に見た写真よりもずっと存在感があった。
「でか……」
「思ってたより大きいですね」
 入口の前には、既に、そこそこの列ができている。家族連れやカップル、学生らしきグループ。想像していたよりも、ずっと賑わっていた。
「みんな考えること一緒なんですかね」
「まあ、休みの日だし。チケット売り場は……あ、チケットもう持ってるんだっけ?」
「先輩のと、二枚ありますよ。そのまま見せれば、入れると思います」
 湊はポケットから、少し使い込まれた革の財布を取り出した。そこから、チケットを一枚つまみ出すと、それをそっと差し出してきた。
 その綺麗な指先に一瞬、受け取るのを戸惑った。
「……いいの?これ、本当に貰っちゃって」
「いいもなにも、余ってたのを貰ってくれたんですから、ありがたいくらいです」
「そう?じゃあ、ありがたく……」
 チケット売り場よりは、マシだが、入り口の方も人でにぎわっていた。ざわめきと、遠くから聞こえる子供の声。その中で、隣の気配だけが妙にくっきりと感じられた。
 水族館は、湊のおかげで、あっさりと入館できた。ガラス扉をくぐると、ひんやりとした空気が肌に触れる。外の蒸し暑さとは別世界みたいだった。
「わ、涼しい……」
 素直に声を漏らすと、入り口のすぐ横に置かれている案内図に目を向けた。全体の構造が分かりやすく、まとめられている。
「えっと、まずは左から回って……」
「先輩って、ちゃんと順番に回るタイプなんですね」
「え?普通でしょ。こっちの方が効率いいし」
「でも、せっかくなら気になったとこから行きたくないですか?」
「いや、それじゃあ無駄に戻ったりするでしょ」
「それも含めて楽しいんですよ」
 即答された。迷いがなさすぎて、少しだけ言葉に詰まる。
「……いや、でもさ、普通に考えて——」
「先輩、ほら、あれ見に行きましょ」
 言い終わる前に、湊が腕を軽く引いた。
「ちょっと、まだルートが……」
「いいじゃないですか、順番なんて後からでもどうにでもなりますし」
「いや、だから——」
「今、気になったんですよ。今見たいんです」
 その言い方が、妙にまっすぐで。反論が、途中で止まる。
「……わ、わかったよ。あと、ちょっと、腕引っ張らないで」
 ため息をひとつついて、引っ張られるまま連行された。
 展示は、最初から順路通りじゃなくなった。右に行ったと思えば、次は戻って、また別の通路に入る。完全に無計画。
 なのに。
「先輩、これ見てください。この魚なんか可愛くないですか?」
「え、どこが」
「口の形がちょっと間抜けでかわいい」
「そうかな……普通」
「えー、絶対ちょっと抜けてる顔してますって」
 湊はガラスに近づいて、じっと魚を覗き込む。その横で、自分も同じ水槽を見る。確かに、言われてみれば少し間抜けな顔にも見える。
「……まあ、そうかも?」
「ほら、やっぱり!」
「ふは、なんで嬉しそうなんだよ」
 嬉しそうに笑う湊を見てつられて笑ってしまう。湊は一瞬面を食らったような表情をすると、すぐにスマホを取り出した。
「え……何してんの?」
「先輩、もう一回笑ってください」
「はあ?むり。なんで」
「保存しておこうかと」
「ふざけんな」
 そのまま、また次の水槽へ。気づけば、さっき考えていた“効率”なんてどうでもよくなっていた。戻ることも、遠回りすることも、別に悪くない。
「先輩こっち!見てください、クラゲです」
 湊に腕をひかれるまま行くと、少し奥まった場所に、大きな水槽が見えた。円柱型の水槽で、ぐるりと360度どこからでもクラゲが見える構造になっている。
 薄暗い空間の中で、水とクラゲだけが青色のライトに照らされて、淡く幻想的に光っていた。その中を、クラゲがゆっくりと漂っている。ふわり、ふわりと。重力を感じさせない、美しい動きだ。
「……すごい、きれい」
 思わず、声が漏れる。
「ですよね」
 湊はクラゲではなく、しばらくの間、水層のライトで青白く光る俺の顔を見ていた。絶対にカッコよく見えないだろうから、そんなに見ないでほしい。
 湊の視線に気まずさを感じながらも、しばらくすると湊は、興味津々で水槽の周りを歩き始めていた。
「先輩、この角度だと、ちょっと透けて見えるの分かります?」
「ん……どれ」
「ほら、ここ。光の当たり方で色、変わって見えるんです」
 言われて、少し湊に寄るように位置を変える。確かに、さっきより透けて見えた。角度を変えるたびに違った表情を見せるのが、面白い。
「……ほんとだ。全然、色違う」
「面白いですよね。ずっと見てられそう」
 湊は、くるりと反対側へ回り、ガラスを挟んで一枚向こう側へ行った。ガラス越しに、水槽の中のクラゲと、その向かいにいる湊。どちらも、同じくらい淡い光の中にいる。
 水層越しの輪郭が、ぼやけて重なった。
 ……きれいだな。
 クラゲじゃなくて、その向こうにいる、湊の方を見ながらぼんやりとそんな考えが浮かんだ。
 ガラスに映る横顔。少しだけ真剣な顔つきで、でもやっぱり柔らかい。その姿が、クラゲと一緒に、水の中にいるみたいに見える。
 ——まるで、隔てられてるみたいだ。
 ガラス一枚。たったそれだけなのに、手を伸ばしても、絶対に触れられない。
 クラゲと、自分たち。自分と、湊。
 同じ場所にいるのに、どこか遠い。透明な壁が、間にあるみたいに。
「…………」
「先輩?」
 呼ばれて、我に返る。
「ぼーっとしてました?」
「……し、てない」
「してましたよ」
 湊が、くすっと笑うと、そのまま、こちらに近づいてくる。今度は、ガラス越しじゃない距離だった。
「クラゲってなんか自由そうでいいです」
「自由、ね……」
 さっきまで見ていた光景が、頭に残る。
 水の中を、ただ漂う存在。どこに行くかも、流れに任せて。湊そっくりだ。自然で、無理がない。なりたくてもなれない、そんな遠い存在。
「先輩も、ちょっと似てる気がします」
「は?」
「なんか、雰囲気?上手く言えないですけど」
「いや、ないない、どこがだよ。それを言うなら湊の方が、ぽい」
 即座に否定する。こんなにも綺麗なクラゲは、やっぱり湊に似合う。でも湊は、首を横に振った。
「クラゲ見てたときの先輩、すごく綺麗で……なんか、目、離せなかったです」
「……そんなの、知らないし」
 そっぽを向く。
 恥ずかしくて耳が赤くなるのを自分でも感じた。薄暗い所でよかった、なんて思う。
 でも心のどこかで、さっき浮かんだ言葉が引っかかっていた。
 湊の顔は恥ずかしくて、今は見られない。もう一度、行き場のない視線を水槽に移す。
 ゆらゆらと漂うクラゲ。その向こうに、自分たちの姿がうっすら映る。重なって、揺れて。
 ——やっぱり、ガラス越しだ。


 
 しばらくクラゲの水槽の前に立ち尽くしていたが、さすがにずっとそこにいるわけにもいかず、名残惜しさを引きずるようにしてその場を離れた。ゆらゆらと揺れる光の余韻が、まだ視界の奥に残っている。
 気づけば館内もだいぶ歩き回っていて、残っている展示はもうわずかだった。案内表示に目をやると、最後に大きく示されているのはペンギンエリア。どうやらそこが、この水族館の締めくくりらしい。
 人の流れに乗って進んでいくと、次第に周囲の空気が変わっていくのが分かった。
 視界に入る人数が、明らかに増えている。クラゲエリアとは一変変わって、さっきまでの静けさが嘘みたいに、ざわざわとした空間が広がっていた。
 人の集まったところに目をやると、小さな売店と軽食スペースが併設されている。ちょうど昼時と重なっているのか、このエリアに人が、一気に集まっていた。
 館内の照明も、さっきまでの青く落ち着いたものとは違って、白く明るい。そのせいか、人の動きも声も、やけに鮮明に耳に響いた。
「人、多いですね」
 湊が周囲を見回しながら言う。
「……う、ん……」
 短く返しながら、人の流れに合わせて歩く。
 通路はそこまで広くない。前からも後ろからも人が来て、自然と距離が詰まる。肩が触れそうな距離に、知らない人間が何人もいる。
 誰かの会話、子どもの高い声。全部が混ざって、頭の中で何度も反響した。
「先輩、こっちペンギンですよ」
 少し先を歩いていた湊が振り返る。
「……あ、」
 返事はしたけど、足が思うように動かなかった。息が、少し浅くなるのを感じる。
 なんとなく、分かる。この感じ、知ってる。人が多いところにいると、たまにこうなってしまう。
「……先輩?」
 声が近づく。いつの間にか、湊が目の前にいた。
「顔、ちょっと白いですけど、大丈夫ですか?」
「……別に、ちょっと、気持ち悪いだけ、」
 反射的に答える。でも、その声が思ったよりも掠れているのが、自分でも分かった。
「全然、別にじゃないですよ」
 湊の眉が少しだけ寄る。
「人、多いの苦手ですか?」
「……」
 答えない。代わりに、少しだけ俯く。
 呼吸が、乱れてきている。吸っても吸っても足りない。これ以上吸えないのに、息苦しくて無意識に吸ってしまい悪循環になる。
「先輩、ちょっと外出ましょう」
「……いい」
 こんなので迷惑かけたくない。たぶん、しばらく我慢していれば治る。
「よくないです。こっち、来て」
 手首を強く掴まれた。さっきとは違う、その力強さに一瞬息をのむが、それでも抗えず、そのまま人の流れを縫うように進んでいった。
 ……しんどい、なんか、気持ち悪い。
 手を引かれて歩く足元が、少しふらつく。
「……っ」
 一歩、踏み外しそうになった瞬間。
「先輩」
 腕を引かれて、身体が支えられる。
「無理しないでください」
「……大丈夫」
「大丈夫じゃないです」
 そのまま、少し強引に引き寄せられる。
「ちょっと失礼しますね」
「え?」
 次の瞬間、視界が一瞬だけ揺れて……気づいたときには、身体が浮いていた。
「え、ちょ——」
「外、連れていきますね」
「はあ!?いいって、降ろせ——」
「暴れないでください、危ないので」
 低く、でもはっきりした声。いつもの柔らかさとは違う、少しだけ強い口調。反射的に、動きが止まる。
「外まで行きます。ちょっとだけ我慢してください」
「……ぅ、」
 言い返そうとして、やめる。正直、歩くちょっと、きつい。
 悔しいけど、そのまま湊の背中に、顔を隠すようにして身を預けた。湊の体温が、じわっと伝わってくると同時に、ふわりとした甘い香りが鼻をくすぐる。その体温とあたたかい香りに少し、落ち着いた。
 人混みを抜けていくと、ざわざわした音が少しずつ遠くなる。
 ガラス張りの出入口を抜けると、ひんやりとしていた館内の空気が途切れて、外の生ぬるい風が肌にまとわりついた。そのまま細い路地に連れていかれると、二人の呼吸音だけが聞こえた。それがなんとなく心地よくて、少しだけ、強く抱きしめた。
「ここで、いいですか?」
 それからしばらくして、ゆっくりと降ろされた。
 風に乗ってくる潮の香りで顔を上げると、目の前には、広大な海が広がっていた。キラキラと海面をはねるように太陽が反射している。下ろされたのは、どうやら、コンクリート堤防の上だった。
 辺りに人はいない。波の音だけが、一定のリズムで聞こえてくる。
「先輩、座れますか?」
「……うん、平気」
 近くの縁に腰を下ろすと、深く息を吐く。さっきより、だいぶ呼吸が楽になっていた。
「少しここで休みましょう」
 湊も隣に座る。少し間を置いて、湊が鞄を開けた。
「はい、これ」
 差し出されたのは、コンビニのおにぎりだった。
「え……いつの間に」
「朝外出たときに。お昼混むかなと思って、一応」
「……用意よすぎじゃない?」
「俺の鞄、何でも入ってるんで」
 いつも通りの、軽い調子で笑う。
「それ、食べられそうですか?」
「うん。……ありがと」
 ゆっくりと、袋を開け一口かじる。気づけば、半分くらい食べていた。
「……落ち着いてきました?」
「うん。かなり良くなった」
「そっか、よかった」
 湊が、ほっとしたように息をつく。そのまま、二人で海の方を見た。波の音と海風が、やけに心地いい。
「先輩、人多いとこうなるんですね」
「別に……たまにだし。普段はならない」
「無理しないでくださいね。辛かったら、いつでも言ってください」
「うん……」
 なんだか気恥ずかしくて、無言で残りのおにぎりを食べた。
 全部食べ終わる頃には、すっかり元気になった。空腹もあったのかもしれない。朝、あんまり食べてなかったし。でも、それを言うのは、なんか悔しい、恥ずかしいから隠した。
「みなと、その……ありがと」
 小さく呟く。
「どういたしまして」
 横を見ると、湊が笑っていた。その笑顔が、さっきよりも少しだけ、優しく見えた。
 ……湊になら、少し話してもいいのかもしれない。いや、湊には聞いてほしい、そんな考えがよぎった。
「あのさ、俺学校行ってないじゃん?前言ったけど……」
「はい」
 ふと、口が開いてしまった。なんで今こんなことを言うのか分からない。でも、湊には話したかった。自由な湊なら、何を思うのか、知りたくなった。
「言っとくけど、別に、いじめられてるとかじゃないから。みんな話しかけてくれるし、授業もちゃんと受けてたし。それに、勉強は……得意な方だし」
 少しだけ視線を落とし、逃げるように海へと向けた。
「この学校、順位貼りだされるじゃん。一回順位が落ちたら……次も、その次も。気づけば、どんどん下がっていって」
「……はい」
「何もできなくなって、特に仲のいい友達もいないし、行く意味ないって思って……」
 それだけ、たったそれだけの話。でも、それだけで俺は崩れた。弱いやつなのかもしれない。自分でもそう思う。
「俺は、できない人間だから」
 ぽろりと口からこぼれた言葉に、自分でも少し驚く。
 そうか、こんなこと思ってたのか、自分に。
「違います。それだけは絶対に」
 間髪入れずに返ってきた声と、食い気味に否定するその強さに、一瞬、言葉を失った。
「…………でも、勉強できないなら俺、意味ない、から」
「先輩は、0か100で考えてるんですね」
「え……?なにそれ」
 予想外の言葉に少し顔を上げる。
「0か100じゃなくて、30くらいでいいと思います」
「……は?」
 意味が分からない。30って何だ。テストの話か?そんな点数取ったら、なんて言われるか。
「全部できなくてもいいし、ちょっとできるだけでもいいし。その間、いっぱいあるじゃないですか。20とか、50とか、80とか。先輩は、その真ん中を全部飛ばしてる気がします」
 さらっと言われる。言い返そうとして、言葉が出ない。
「それに思ったことを素直に、そのまま伝えてみるのはどうですか?」
「え……なにを」
「え?友達になりたいです、とか」
「はあ?!」
 思わず、声が強くなる。
「いや、幼稚園生じゃないんだから……」
「でも、言わないと分からないですよ?相手が何考えてるかなんて。先輩は、俺が普段何考えてるのかも、全くわかってないようですから」
「……?」
「ほらね。それに俺、先輩にそんなこと言われたら、すごく嬉しいです。可愛くて、もっと構いたくなっちゃいます」
「……は、」
 なんだそれ。恥ずかしいから絶対に言わないぞ、絶対……。
「もっと自由に生きていいと思います」
「じ、自由……」
「はい。クラゲを見習ってください」
 湊がいたずらに笑った。その綺麗な笑顔を見て、さっきの水槽を思い出した。ゆらゆらと漂う、あの姿。
「……あれは、流されてるだけじゃん、」
「それでもいいじゃないですか。流されるのも、一つの進み方ですよ」
「……そ、うだけど、」
 悔しいけど、何も言い返せない。
「これができなきゃダメとか、これさえできれば、とかって極端です。楽になると、見えるもの増えると思います。あ、こんな道もあったんだ、って」
「……」
「そしたら、あとは、ちょっとの勇気を出すだけでいいと思います」
 できる、できない。好き、嫌い。ずっと、それしかないと思っていた。
 これができなきゃダメだとか、これさえできれば許容範囲とか。いつも、自分の中で勝手に答えを決めて、それ以外は全部「失敗」みたいに切り捨てていた。
 できなかったら終わり。そうやって、自分で自分を追い詰めていたのかもしれない。勉強以外に、何かをやりきった記憶がない。だから余計に、「できるか、できないか」だけで物事を決めていた気がする。
 ……白黒の世界しか見えていなかった。
 でも、本当は違うのかも。白か黒だけじゃない、その間にある無数の色のほうが、ずっと現実に近い。0だと思っていた場所にも、1から99まで、いくらでも数字は並んでいる。
「それに俺の点数なら、いくらでも上げますよ」
「……は?」
「一人で100点目指さなくてもいいんじゃないですか?二人で50点なら、それは100点です」
「っふ、なにそれ」
「俺と先輩で、100点。足りないところは埋めあって。ね、結構いいと思いません?」
 湊は、当たり前みたいに言う。口調はやけに軽くて。でも、その言葉は胸の中に重く残る。かっこいい、すべてが。ほんとに、ずるい。
「……ふたり」
 小さく、繰り返す。
「はい。だから、もっともっと、頼ってほしいです」
 ……もう十分頼っていると思う。これ以上頼ったら、俺が湊から離れられなくなりそうで……。
 でも、その選択肢を心の内側に入れた瞬間、これまで自分を隔てていた透明なガラスが、スッと溶けていくのを感じた。
 ガラスに閉じ込めていたのは、他の誰でもなく、自分だったのかもしれない。
 そう思ったとき、胸の奥にあった息苦しさが、少しだけ、ほどけた。