あの日から、また一週間が過ぎた。
水曜日の同じ時間、同じ場所。あの小さな広場に続く石段を、今度は迷いなく上っていく。
広場に着くと、まだ誰もいなかった。また、早く来すぎてしまったらしい。
ベンチに腰を下ろして、ぼんやりと空を見上げる。
今日も曇り。分厚い雲が空を覆っているが、雨は降っていない。けれど、今にも降り出しそうな、そんな色をしていた。前はただ鬱陶しいだけだった重たい空も、今はどこか落ち着く。
あの雨の日の記憶が、少しだけ混ざっているせいかもしれない。
ぼんやりと空を眺めていると、ふと足音が聞こえた。
軽くて一定のリズム。確認するまでもない。俺はこの足音を知っている。
「先輩ー!」
手を軽く振りながら、いつもの調子で近づいてくる。一週間ぶりの姿に、胸の奥が不意にざわついた。落ち着いていたはずの鼓動が、勝手に速くなる。
「……おそい」
「え、そうですか?まだ時間ぴったりですよ?」
にこっと笑われる。なんとなく、その笑顔を見ると安心してしまう自分がいて、少しだけ悔しい。
湊は鞄を下ろすと、すぐに中を探り始めた。例の、何でも出てきそうな鞄だ。
「はい、先輩」
差し出されたのは、あのノート。受け取ると、ほんの少しだけ重みを感じた。
自分が書いた分と、湊が書いた分。それが増えていることに、小さな実感が宿る。
「……読んだ?」
「もちろんです。すごくよかったです」
「適当言うな」
「本当ですよ」
真っ直ぐに言われて、言い返せなくなる。視線を逸らして、手元のノートを無意味に撫でる。
「……後で読む」
「はい」
素直に頷く声が、やけに近くに感じた。
「あ、そうだ」
不意に、湊が思い出したように顔を上げる。
「先輩に聞きたいことあって、今週の日曜日って空いてますか?」
「日曜……?」
カレンダーを咄嗟に思い浮かべても、何も書かれていない白い枠ばかりが並んでいた。
「空いてるけど……なんで?」
そう答えた瞬間、湊の顔がぱっと明るくなる。
「ほんとですか?!じゃあ、よかったら俺と水族館行きませんか?」
「はあ?!す、水族館?なんで……てか、急だし」
思わず声が裏返る。
水族館。そんな場所、最後に行ったのがいつかも思い出せない。そもそも、誰かと出かけること自体、最近はほとんどなかった。
「俺、チケット持ってて」
「チケット?」
「はい。親が職場でもらってきたやつなんですけど、二枚あって」
「……友達と行けばいいだろ」
「行こうと思えば行けますけど、」
そう言いながら、湊はわざとらしく肩をすくめた。
「どうせなら、先輩と行きたいなって思ったんです」
「……なんで俺」
「なんででしょうね」
くすっと笑う。はぐらかされた気がして、少しだけむっとする。それでもなお、湊は首をかしげながら、期待するような目で俺を見てくる。
水族館ってことは、今まで湊と会った所とは違う、人の多い場所だ。
ざわざわした空気を想像するだけで、息が詰まりそうになる。それに男二人で水族館なんて、どう考えても目立つ。まるで、デートみたいで……。
ちらりと湊を見る。いつも通りの顔。特に深い意味はなさそうな、無邪気な表情。……こいつ、分かってないだろ。
「……もしかして、外は嫌でした?」
少しだけ不安そうに、湊が言う。
その声音が、ほんの少しだけ弱くて、さっきまでの勢いが、わずかに引いている。その変化に、胸の奥がちくりとした。
違う、嫌じゃない。怖いだけだ。でも、それをそのまま言うのは、なんとなく嫌だった。ここで断ったら、この距離も、少し遠くなる気がした。それは、嫌だ。
理由は、うまく説明できないけど。
「……いや、行く」
気づけば、そう言っていた。
心臓は、相変わらず落ち着かないまま。正直、人が多い場所はまだ怖い。できれば避けたいし。でも——この機会を逃したら、もう誘いは来ないかもしれない。それが妙に引っかかって、思わず承諾してしまった。
「ほんとですか?」
小さく頷くと、湊は分かりやすく顔を綻ばせた。
「よかった。じゃあ決まりですね」
「……湊の連絡先しらない」
一瞬きょとんとしたあと、湊はぱっと顔を明るくした。
「あ!そうだ、忘れてた。今日こそは聞こうと思ってたんです!先輩も知りたかったでしょ」
「……別に」
少しだけ視線を逸らすと、湊はくすっと笑う。
「これ、俺のラインです」
「……ん」
短く返して、自分のスマホを取り出す。カメラをかざして、差し出されたスマホのQRを読み込むまでの数秒が、妙に長く感じた。表示されたアカウントには、ハムスターのアイコンと「白羽湊」の文字。
思わずアイコンを二度見した。
「……ハムスター?」
「はい」
「なんで?」
湊といえば、どちらかといえば犬みたいなイメージだったから、少し意外だった。いや、でも可愛いかも。
「この子、うちで飼ってるんです」
「え、ハムスター?」
思わず顔を上げる。
「飼ってるの?」
「はい。可愛いですよ」
そう言って、湊はスマホを操作する。すぐに画面に、丸くて小さなハムスターの写真が映し出された。
白っぽい毛に、つぶらな黒い目。小さな手で餌を持っている姿が、やけに愛らしい。
「……ちっちゃ」
「でしょ?」
思わず身を乗り出して見てしまう。
「この子、名前は?名前なんていうの」
「ミルクです」
「ミルク、かわいい」
「白いからミルクです」
「安直だな……」
「分かりやすいでしょ。姉が付けた名前なんですけどね」
楽しそうに笑う。そのやり取りすら、どこか羨ましく感じてしまう。
「……いいな」
「何がですか?」
「飼えるの」
ぽつりとこぼすと、湊は少しだけ驚いたような顔をした。
「先輩、動物飼ったことないんですか?」
「ない。俺の家、そういうのダメだから」
「ああ……」
納得したように頷く。
「じゃあ余計、可愛く見えますよね」
「うん」
もう一度画面を見る。小さな体で餌をかじる姿が、いじらしくて可愛い。こんなに小さくても一生懸命生きてる、もしかしたら俺より立派かもしれない。
「見に来ますか?」
「え?」
不意に顔を上げる。
「ミルク。実物のほうがもっと可愛いですよ」
「……いや」
少しだけ言葉に詰まる。
「今日は、いい。今度……」
そう言うと、湊はすぐに頷いた。
「分かりました。今度、ですね」
その言い方が妙に嬉しそうで、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなる。
「約束ですよ?」
「……別に約束とかじゃ、」
「じゃあ、俺が約束にしときます」
「おい、勝手に決めんな」
「いいじゃないですか」
軽く笑いながら、湊はスマホをポケットにしまうと空を見上げた。俺もつられて、浮ついた気分で空を見上げる。重たい雲の隙間から、ほんの少しだけ光が差していた。
雨は、まだ降らない。でも、いつかまた降るだろう。
そのときも、たぶん……今みたいに、少しだけ楽しみに思える気がした。
水曜日の同じ時間、同じ場所。あの小さな広場に続く石段を、今度は迷いなく上っていく。
広場に着くと、まだ誰もいなかった。また、早く来すぎてしまったらしい。
ベンチに腰を下ろして、ぼんやりと空を見上げる。
今日も曇り。分厚い雲が空を覆っているが、雨は降っていない。けれど、今にも降り出しそうな、そんな色をしていた。前はただ鬱陶しいだけだった重たい空も、今はどこか落ち着く。
あの雨の日の記憶が、少しだけ混ざっているせいかもしれない。
ぼんやりと空を眺めていると、ふと足音が聞こえた。
軽くて一定のリズム。確認するまでもない。俺はこの足音を知っている。
「先輩ー!」
手を軽く振りながら、いつもの調子で近づいてくる。一週間ぶりの姿に、胸の奥が不意にざわついた。落ち着いていたはずの鼓動が、勝手に速くなる。
「……おそい」
「え、そうですか?まだ時間ぴったりですよ?」
にこっと笑われる。なんとなく、その笑顔を見ると安心してしまう自分がいて、少しだけ悔しい。
湊は鞄を下ろすと、すぐに中を探り始めた。例の、何でも出てきそうな鞄だ。
「はい、先輩」
差し出されたのは、あのノート。受け取ると、ほんの少しだけ重みを感じた。
自分が書いた分と、湊が書いた分。それが増えていることに、小さな実感が宿る。
「……読んだ?」
「もちろんです。すごくよかったです」
「適当言うな」
「本当ですよ」
真っ直ぐに言われて、言い返せなくなる。視線を逸らして、手元のノートを無意味に撫でる。
「……後で読む」
「はい」
素直に頷く声が、やけに近くに感じた。
「あ、そうだ」
不意に、湊が思い出したように顔を上げる。
「先輩に聞きたいことあって、今週の日曜日って空いてますか?」
「日曜……?」
カレンダーを咄嗟に思い浮かべても、何も書かれていない白い枠ばかりが並んでいた。
「空いてるけど……なんで?」
そう答えた瞬間、湊の顔がぱっと明るくなる。
「ほんとですか?!じゃあ、よかったら俺と水族館行きませんか?」
「はあ?!す、水族館?なんで……てか、急だし」
思わず声が裏返る。
水族館。そんな場所、最後に行ったのがいつかも思い出せない。そもそも、誰かと出かけること自体、最近はほとんどなかった。
「俺、チケット持ってて」
「チケット?」
「はい。親が職場でもらってきたやつなんですけど、二枚あって」
「……友達と行けばいいだろ」
「行こうと思えば行けますけど、」
そう言いながら、湊はわざとらしく肩をすくめた。
「どうせなら、先輩と行きたいなって思ったんです」
「……なんで俺」
「なんででしょうね」
くすっと笑う。はぐらかされた気がして、少しだけむっとする。それでもなお、湊は首をかしげながら、期待するような目で俺を見てくる。
水族館ってことは、今まで湊と会った所とは違う、人の多い場所だ。
ざわざわした空気を想像するだけで、息が詰まりそうになる。それに男二人で水族館なんて、どう考えても目立つ。まるで、デートみたいで……。
ちらりと湊を見る。いつも通りの顔。特に深い意味はなさそうな、無邪気な表情。……こいつ、分かってないだろ。
「……もしかして、外は嫌でした?」
少しだけ不安そうに、湊が言う。
その声音が、ほんの少しだけ弱くて、さっきまでの勢いが、わずかに引いている。その変化に、胸の奥がちくりとした。
違う、嫌じゃない。怖いだけだ。でも、それをそのまま言うのは、なんとなく嫌だった。ここで断ったら、この距離も、少し遠くなる気がした。それは、嫌だ。
理由は、うまく説明できないけど。
「……いや、行く」
気づけば、そう言っていた。
心臓は、相変わらず落ち着かないまま。正直、人が多い場所はまだ怖い。できれば避けたいし。でも——この機会を逃したら、もう誘いは来ないかもしれない。それが妙に引っかかって、思わず承諾してしまった。
「ほんとですか?」
小さく頷くと、湊は分かりやすく顔を綻ばせた。
「よかった。じゃあ決まりですね」
「……湊の連絡先しらない」
一瞬きょとんとしたあと、湊はぱっと顔を明るくした。
「あ!そうだ、忘れてた。今日こそは聞こうと思ってたんです!先輩も知りたかったでしょ」
「……別に」
少しだけ視線を逸らすと、湊はくすっと笑う。
「これ、俺のラインです」
「……ん」
短く返して、自分のスマホを取り出す。カメラをかざして、差し出されたスマホのQRを読み込むまでの数秒が、妙に長く感じた。表示されたアカウントには、ハムスターのアイコンと「白羽湊」の文字。
思わずアイコンを二度見した。
「……ハムスター?」
「はい」
「なんで?」
湊といえば、どちらかといえば犬みたいなイメージだったから、少し意外だった。いや、でも可愛いかも。
「この子、うちで飼ってるんです」
「え、ハムスター?」
思わず顔を上げる。
「飼ってるの?」
「はい。可愛いですよ」
そう言って、湊はスマホを操作する。すぐに画面に、丸くて小さなハムスターの写真が映し出された。
白っぽい毛に、つぶらな黒い目。小さな手で餌を持っている姿が、やけに愛らしい。
「……ちっちゃ」
「でしょ?」
思わず身を乗り出して見てしまう。
「この子、名前は?名前なんていうの」
「ミルクです」
「ミルク、かわいい」
「白いからミルクです」
「安直だな……」
「分かりやすいでしょ。姉が付けた名前なんですけどね」
楽しそうに笑う。そのやり取りすら、どこか羨ましく感じてしまう。
「……いいな」
「何がですか?」
「飼えるの」
ぽつりとこぼすと、湊は少しだけ驚いたような顔をした。
「先輩、動物飼ったことないんですか?」
「ない。俺の家、そういうのダメだから」
「ああ……」
納得したように頷く。
「じゃあ余計、可愛く見えますよね」
「うん」
もう一度画面を見る。小さな体で餌をかじる姿が、いじらしくて可愛い。こんなに小さくても一生懸命生きてる、もしかしたら俺より立派かもしれない。
「見に来ますか?」
「え?」
不意に顔を上げる。
「ミルク。実物のほうがもっと可愛いですよ」
「……いや」
少しだけ言葉に詰まる。
「今日は、いい。今度……」
そう言うと、湊はすぐに頷いた。
「分かりました。今度、ですね」
その言い方が妙に嬉しそうで、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなる。
「約束ですよ?」
「……別に約束とかじゃ、」
「じゃあ、俺が約束にしときます」
「おい、勝手に決めんな」
「いいじゃないですか」
軽く笑いながら、湊はスマホをポケットにしまうと空を見上げた。俺もつられて、浮ついた気分で空を見上げる。重たい雲の隙間から、ほんの少しだけ光が差していた。
雨は、まだ降らない。でも、いつかまた降るだろう。
そのときも、たぶん……今みたいに、少しだけ楽しみに思える気がした。
