0と100のあいだ

 あっという間に水曜日になった。
 時計を見ると、六時半。普段ならまだ布団の中で寝ている時間なのに、今日は妙に目が冴えていた。理由なんて考えなくてもなんとなく分かる。分かっているからこそ、意識しないようにした。
 いつも通り七時過ぎに母親を見送り、軽く外を歩く。
 今日は珍しく雨が降っていなかったが、空気はまだ湿っていて、梅雨の名残がそこかしこに残っていた。
 家に戻っても、なんだかそわそわして落ち着かない。
 じっとしていられなくて、気づけば掃除を始めていた。
 最初はリビングだけのつもりだったのに、気づけばキッチン、廊下、自分の部屋と手を伸ばしていく。普段は適当に済ませる場所まで、やけに丁寧に拭いた。
 ……何やってんだ、俺。
 ふと我に返る。胸の奥が、妙にざわついている。時計を見ると、まだ十時を少し回ったところだった。
 五時まで、あと七時間近くある。長いな……思っていたより、ずっと。
 部屋の中を見渡すと、どこもかしこも、やけに綺麗になってしまった。やることがもうない。仕方なく自室に戻ると、本棚に手を伸ばし、久しぶりに小説を一冊取り出した。
 ページを開いて、文字を追う。けれど、目は動いているのに、内容が全く頭に入ってこない。一行読んでは、次の瞬間には忘れている。そんな状態を何度か繰り返して、結局本を閉じた。
 ……無理だ。
 ため息をついて、今度はスマホを手に取る。画面をつけて、適当に動画を流した。流れてくる映像と音声を、ぼんやりと眺める。
 内容はほとんど頭に残らない。ただ、時間だけが少しずつ削られていく。
 こういうとき、スマホは便利だ。何も考えなくても、勝手に時間を潰してくれる。指先で画面をスクロールしながら、無意識に同じような動画を繰り返し見ている自分に気づく。
 それでもやめられない。止めてしまうと、また時間の流れが遅く感じてしまいそうで。
 ちらりと時計を見る。まだ、そんなに経っていない。
 胸の奥が、落ち着かないまま、時間だけがゆっくりと進んだ。
 


 ついに、約束の時間の三十分前になった。
 結局待っている間何をしていたのか、ほとんど思い出せない。落ち着かないまま部屋の中をうろうろして、綺麗に洗った制服に袖を通す。
 鏡の前に立つと、無意識に髪へ手が伸びた。前髪を整えて、横の跳ねを押さえて、少し離れて全体を見る。
 普段なら、寝ぐせなんて気にしない。面倒で、そのまま出る日もあるくらいなのに。なのに今日は、気づけば十分近くも鏡の前に立っていた。気にしていないふりをしているくせに、体の方が無意識に整えようとしてくる。
 その事実が、なんだか気まずくて、最後に整えた髪をぐしゃっと崩してしまった。
 紙袋を手に取ると、机の端に置いた交換日記も一緒に中に入れた。ハンカチ、ノート、クッキー。全部ちゃんと入っている。
 玄関を出ると、朝よりはジメジメとした空気がマシになっていた。空は相変わらず重たい色をしているが、まだ雨は落ちてきていない。
 足がいつもよりも軽い。住宅街を抜け、見慣れた道を進む。
 やがて、あの石段が見えてきた。
 石は昨日の雨で湿っていて、少しだけ滑りやすい。一段一段、慎重に上る。視線を落とすと、段の隙間に、小さな花が咲いていた。紫色の、見覚えのある花。梅雨の間、そこら中で見かけたやつだ。
 けれど、その色はもう鮮やかとは言えなかった。花びらの端が茶色くなり、少し縮れている。
 もう終わりか。
 ついこの前まで、あんなに当たり前に咲いていたのに。気づかないうちに、少しずつ終わりに近づいていたらしい。
 広場に出ると、誰もいなかった。まぁ、当たり前だ。少し早めに家を出てしまったから、まだ時間には早い。
 ベンチの近くに立って、スマホを取り出す。画面をつけて、時間を確認する。
 まだ十五分前。ポケットにスマホを戻し、きょろきょろと意味もなく湊の姿を探してしまう。
 数分後、また取り出す。そんなことを何度も繰り返した。
 落ち着かない、じっとしていられない。こんなことは初めてだ。ベンチにじっと座っていることも困難になって、立ったまま紙袋を抱えた。
 あいつのことだ。俺との約束なんか忘れて、そのまま来ない可能性だってある。むしろ、その方が自然かもしれない。
 小さく息を吐く。
 何やってんだろう、ほんとに。あの日から俺はどこかおかしくなった気がする。
 胸の奥が、少しだけ嫌にざわついた、そのときだった。
 少し湿った地面を踏む音。石段の下の方から、段を上がってくる音が、はっきりと分かる。
 視線を石段の方へ向けると、現れたのは、やっぱり湊だった。少しだけ息を弾ませながら、最後の数段を軽く跳ねるように上ってくる。少しだけ服が乱れていて、走ってきたのが分かる。
 いつもの夏服のポロシャツ。ネクタイは緩められていて、襟元も少し開いている。それでも、だらしない印象にはならないのがずるい。むしろ、無駄に様になっている。上に着るはずのブレザーは見当たらないから、たぶん鞄の中だろう。あのパンパンに膨れた鞄の中に、ぐしゃぐしゃに押し込まれているに違いない……。
 湊と視線が合った瞬間、湊の顔が、ぱっと顔が明るくなる。
 ……ほんと犬っぽい。人懐っこくて、距離が近くて、無駄に元気な大型犬。
 湊はそのまま、まっすぐこちらへ走ってきた。
「先輩、ごめんなさい、待たせちゃいました?」
「いや、まだ五時じゃないし……大丈夫」
 時計を見るまでもなく分かる。勝手に早く来ていたのはこっちだ。なのに、湊は少しだけ眉を下げて、心配そうに顔を覗き込んでくる。
 ……距離が、近い。
 無意識に一歩引きそうになるのを、なんとか踏みとどまる。
「そこ座りなよ、疲れてるじゃん」
「先輩に早く会いたくて、走ってきちゃいました」
 ほんとに、こういうの、反応に困る。
 冗談っぽく言ってるわけでもなく、かといって深い意味があるようにも見えない。ただ事実をそのまま口にした、みたいな顔をしている。そのまっすぐな視線に、なぜか耐えきれなくなって、思わず逸らした。
 湊がベンチに腰を下ろすと、視線がふと俺の手元に向いた。
「……これ、ハンカチ貸してもらったお礼」
 差し出すと、湊の隣にぎこちなく座った。湊は一瞬きょとんとした顔をしたあと、ぱっと目を見開いた。
「え?!これ、先輩が?……って、ハンカチめっちゃ綺麗になってる」
「お母さんが買ってきた。中身は……その、あんまり気にしないで。お姉さんいるって言ってたから、お姉さんにあげてもいいし」
 早口で言い訳みたいに付け足す。すると湊は、紙袋を両手で受け取りながら、やけに真剣な顔をした。
「いやです、こんなのもったいなくて食べられません」
「え?いや、食べなよ。食べ物なんだから……」
 本気で言っているらしい。紙袋を大事そうに抱えている様子が、妙におかしくて、少しだけ肩の力が抜けた。
「それと、日記もその中に入ってるから。一応書いてきたけど……内容は期待しないで」
「あ、これですか?楽しみー!今見てもいいですか?」
「はぁ?!ここで?!む、むり。家で見て」
「待ちきれないです」
「家で見ろ」
「……はーい」
 素直に引き下がったものの、少しだけしょんぼりしたように見えた。そのまま、ノートを大事そうに紙袋の中へしまう。その動作が妙に可愛く見えて、少しだけ戸惑う。
「あ、そういえば先輩。駅の反対側にある駄菓子屋って行ったことありますか?」
「駄菓子屋……?」
 この町に来てから、一年経ったが駅の反対側はまだ行ったことがない。というより、一人で新しい場所に行くのが苦手だ。新しい店に入るだけでも妙に緊張するし、いつも同じ道を通る。失敗したくないから。
 知らない場所なんて、なおさらだ。
「おばあちゃんが一人でやってる駄菓子屋で、結構いいところなんですよ。古い感じで、落ち着いてて……先輩、好きそうだなって。今からどうですか?」
「え、いまから、?」
 即答できない自分がいる。
 知らない場所、知らない空間。学校の人に見られたくないし、知らない人とはなるべく関わりたくない。
 視線を落とすと、足元の湿った土をぼんやり見つめながら、短く吐いた。
「いく……」
 口から出た言葉は、自分でも驚くくらいぎこちなかった。けれど湊は、それを聞いた瞬間、ぱっと顔を明るくした。
「ほんとですか?よかった」
 嬉しそうに笑う。
 その反応が、少しだけくすぐったくて、俺はまた視線を逸らした。

 
 
 駄菓子屋は、本当に駅の反対側にあった。
 思っていたよりもずっと近い場所にあったらしい。少し奥に入るだけでこんな場所があるなんて知らなかった。
 外観は、いかにも昔ながらの日本家屋といった感じだった。ぱっと見じゃあ駄菓子屋だとは気づかない。瓦屋根は、沈みかけた太陽に撫でられて鈍い朱に染まっていた。木の引き戸には色あせた昭和っぽいポスターがいくつも貼ってあり、その隣には小さな散髪屋が。
 昔ながらのサインポールがくるくる回っている。
「ここです」
 湊が軽く指をさす。初めての場所に入る前の、あの独特の緊張が、じわっと広がった。
「大丈夫ですよ、先輩」
 そう言って、湊は何のためらいもなく俺の手を握って引き戸を開けた。
「え、?ちょ、っと」
 ガラガラと、戸の音が響いた。中から、少し懐かしい香りがふわっと流れてくる。
「おばあちゃん、ひさしぶりーまだやってる?」
「……こんにちは、」
 湊が先に入ると、続いて挨拶をした。
 知らない場所で思わず、握っていた手に力が入ってしまう。そんな俺を気遣ってか、湊は優しく微笑んだ。その表情に張りつめていたものが、ふっとほどけていく。
 店の中は、外から見たよりも広く感じた。自宅と店がひと続きになっているらしく、レジの脇には生活の気配を残した台所がのぞいている。
 棚には色とりどりのお菓子が並んでいて、見たことのあるものも、ないものも混ざっていた。
「はいよ、あらあら、湊くんじゃないかい。ずいぶん久しぶりだねぇ。もう高校生かい、背もまた伸びたもんだ……。そっちの子は、お友達かい?綺麗な子だねぇ」
 奥の方からビーズのれんをくぐって、小柄な人影が現れた。一人でやっているのか、他の人の気配はしない。
 もう五時を過ぎているのに、まだ店を開けているなんて珍しい。
「綺麗でしょー?同じ学校の先輩」
「……どうも、お邪魔してます」
 途端に、つないでいた手のぬくもりが意識にのぼって、手を離した。手をつないでいたところは見られていないと思いたい。
「いいのよ、いらっしゃい。本当は五時までなんだけどねぇ、湊くんはいつも、そのあとに顔を出してくれるの。せっかくだから、ゆっくりしていきなさいな。何か買っていくかい?」
「あれ、五時までなんだ。忘れてた」
 軽く流しながら湊は籠いっぱいに駄菓子を詰めていた。本当にこういうところは子供っぽい。
「少し見てもいいですか?」
「はいよ、ゆっくり見ていきなさい。お会計のときは、声かけておくれ」
 そういうと、またビーズのれんをくぐっていった。奥の方から、かすかなテレビの音だけが流れてきた。
「なんか、懐かしいな……」
 辺りを見回して、思わず小さく呟く。
 都内にいた頃、父と一緒に駄菓子屋に一度だけ入ったことがある。その時は人が多かったから、あまり好きではなかったが、ここはこじんまりとしていて落ち着く。
「先輩は、どのお菓子が好きですか?」
「いや、特にないけど……」
 そう答えながらも、視線は自然と棚を追っていた。
 棚には色とりどりの駄菓子が、ぎっしりと並んでいる。色あせた紙箱に入ったチョコレート菓子や、透明な瓶に詰められた飴玉、吊るされたままの小さな袋菓子。
 端のほうには当たり付きのくじや、くしゃくしゃになりかけた値札がそのまま貼られていて、どれも少しずつ時間を含んでいるようだった。
 湊は迷いなく、たくさんのお菓子を手に取って小さなかごの中に入れていく。どこに何があるのか把握しているようで、選び方にも慣れている感じがした。
「先輩。これ、美味しいですよ。あ、これも。こっちは酸っぱくて……」
「……よく知ってるな」
 結局、湊に勧められるまま、いくつか適当に選んでかごに入れた。たくさん入れたはずなのに三百円もいかなかった。
 値札を確かめることもなく会計を済ませていく様子に、おばあちゃんの手慣れた気配がにじんでいた。


 
 外に出ると、空気が少しだけ変わっていた。
 さっきよりも湿度が増している気がするのは気のせいだろうか?湊と並んで歩く距離が、思ったよりも近くて、そんなことはすぐに頭から消えてしまったが。
「先輩が書いてくれたやつ、読むの楽しみです」
「だから期待すんなって言っただろ」
「そういうのも含めて楽しみなんです」
 軽く笑う声を横から聞きながら、袋の中に手を入れ、黄色の飴玉をひとつつまんで口に放り込む。甘酸っぱい味が、静かに口の中に広がって、胸の辺りがじんわり暖かくなった。
「パイン味?……うまいな、これ」
「でしょ?」
 湊は、どこか余裕のある顔で、くすりと笑った。その目は、面白がるというより、可愛いものを見つけたときみたいに、やわらかく細められている。
「先輩、ハムスターみたい」
 言いながら、湊は遠慮もなく、飴玉で膨らんだ俺の頬を指先でつついた。思わず肩がびくりと揺れる。
「……っ、なにすんだよ」
 年下のくせに、と言い返そうと、少し頬を膨らませたまま睨み上げると、湊はますます楽しそうに目を細めた。
 その時、ぽつりと頬に何かが当たった。見上げると、空から小さな雨粒が落ちてきていた。
「あれ、降ってきましたね」
「……最悪」
 呟いた直後、ぱらぱらと雨が強くなる。
 完全に油断していた。紙袋だけ渡して帰る予定だったから、手ぶらで来てしまった。今の俺の持ち物と言えばさっき駄菓子屋で買ったお菓子の沢山入った袋しかない。
「先輩、こっち」
 湊がパンパンの鞄を開けて、折り畳み傘を取り出す。骨は無事らしく、ちゃんと開いた。
 用意周到というか、すごい。あの鞄、なんでも出てきそう。でも……あれ、これってもしかして、相合傘?
「入ってください」
「……せ、狭いからいい。湊も濡れるし」
「大丈夫ですって」
 半ば強引に肩を引かれて、傘の中に入る。距離が、一気に近い。肩が触れそうで触れない、そのぎりぎり。緊張して湊の顔を見れない。
 雨音が、傘に当たって柔らかく響くいた。小さな傘の中に二人だけ。広い外の世界と、少しだけ切り離されたみたいな感覚。
「先輩の家、どっちですか?」
「……こっち」
 小さく指で示す。
「送ります」
「いや、いいって。近いし、」
「だめです。風邪ひいたら困るんで」
「風邪ひかないってば……」
 押し切られる形で、そのまま並んで歩く。見慣れた道が、少しだけ違って見える。
「先輩、さっきの飴、まだあります?」
「あるけど」
「もう一個食べていいですか」
「……自分で買ったやつ食べなよ」
「先輩の袋から食べるほうが、なんかいいじゃないですか」
「意味わかんねぇよ」
 呆れながらも袋を差し出すと、湊は嬉しそうに覗き込んでくる。肩がかすかに触れて、変に意識してしまう。
「どれにしようかな……あ、水色だ」
「さっきもそれ食べてなかった?」
「好きなんですよ、水色。綺麗で」
「へえ」
 言いながら、飴を口に入れる仕草までいちいち楽しそうで、見ているこっちが落ち着かない。
「先輩は、甘いの好きなんですか?」
「普通」
「普通って。便利な言葉ですね」
 くすっと、意地の悪い笑みを浮かべられた。からかっているような仕草に少しだけムッとする。
「便利だから使ってるんでしょ」
「じゃあ、嫌いではない?」
「……まあ」
「よかった」
 何が“よかった”のかは分からないまま、湊は満足そうに頷く。少し間が空いて、足音と雨音だけが続く。
「先輩の好きな色何ですか?」
「言わない」
「ヒントくらいくださいよ」
「……一番暗い色」
「俺も好きです」
「嘘つけ。お前、何でも好きって言うだろ」
「好きなもの多いんです」
「はいはい」
 短く返事をして、湊はまた笑った。その声が、雨音に混ざってやけに近くに聞こえる。
 ふと見上げた空から落ちてくる雨は、街灯に滲んで、どこか淡い水色を帯びて見えた。さっきまでただの雨だったはずなのに、いつの間にか、湊の言葉に引き寄せられるみたいに色を変えている。
 その色を、もう少しだけ見ていたくなった。
「俺の家、ここだから。その、ありがと。傘」
「はい」
 少しだけ間が空く。なんだか気恥ずかしくて下を向いた。
「……先輩、ちょっと」
 湊が傘を手にしたまま近づいてきた。気づいたときには、額にかかっていた髪に指先が触れている。驚いて顔を上げる間もなく、軽く撫でるように整えられた。
「な、にして」
「髪、ぐしゃってなってるから……はい、できました」
 不意を突かれて見上げると、湊は何事もなかったみたいに笑っている。
 もう家に入るだけ、わざわざ直す必要なんてないはずなのに。その言葉は出てこなかった。
「来週も来ますね」
「……うん、じゃあ」
 耳の奥がじわりと熱くなるのを感じて、誤魔化すように少しだけ顔を背ける。
 来週。明日じゃなくて。その言葉だけが妙に胸に残った。素っ気なく返したつもりだったのに、湊はまた嬉しそうに笑う。
「はい。じゃあ、また」
 手を軽く振って、雨の中を戻っていく。
 その背中が見えなくなるまで、なぜかその場に立っていた。ようやく家の中に入りドアを閉めた瞬間、ドキドキと心臓がうるさくなる。さっきまでの空気が、まだどこかに残っている気がした。
 ……どうしよう。雨の日が、いつの間にか好きになっている。
 理由なんて、うまく言えないけど。ただ、あの音も、湿った空気も、全部が少しだけ心地よく感じた。
 
 梅雨が、できるだけ長く続けばいいのに。