「どうしよ……」
あれから既に三日が経った。
あの日、家に帰ってすぐ風呂に入って、身体に残っていた雨の冷たさを流し落としたあと、勢いのまま机に向かった。ノートを開いて、ペンを持って、さあ書こうと意気込んでペンを握った。そこまでは順調だった。
しかし、いざ白紙を前にすると途端に頭の中が空っぽになる。書いては消し、書いては消し。
何度も繰り返しているうちに、書きかけの言葉すら恥ずかしくなってきて、最後には何も残らなかった。
それから三日、同じことを繰り返している。
ふと視線を落とすと、最初に書いた一行が目に入る。
“知らない後輩に絡まれた。”
あのときは勢いで書いたのに、今見るとやけに気恥ずかしい。消してしまおうかと何度も思ったが、結局そのままにした。
消したら、あの時間までなかったことになる気がして、嫌だった。
ペンを置いて、背もたれに体を預ける。
だめだ、今日も何も思いつかない。
視線だけが宙をさまよって、やがて本棚の端に置いた紙袋に止まった。
思い出したように手を伸ばし、紙袋の中から、あの日返しそびれたハンカチを取り出した。
一応、洗って、アイロンもかけた。お母さんに見つかったときは、少し怪訝な顔をされたけれど「老人ホームのおばあちゃんが貸してくれた」と適当に言ったら、あっさり納得された。その流れで、「お礼しなさい」とクッキーまで渡された。
問題は、そのクッキーがやたら可愛らしいピンクの缶に入っていたことだ。
——完全にミスった。変におばあちゃんとか言ったせいで、こうなってしまった。しかし、今さら訂正もできない。
小さくため息をついて、ハンカチを丁寧に畳み直し、紙袋に戻した。
水曜日までは、あと三日。いや、当日を除けば、実質二日しかない。
やばい。そろそろ何か書かないと、本当にまずい。あのとき「暇つぶしに書いてやる」とか言ってしまったせいで、変にハードルが上がっている気がする。
でも、不登校の俺がいいネタなんて思いつくはずもない。せいぜい外に出るのは朝の散歩か、洗濯物を干す時くらいだ。
そもそも、あの日のこと自体なんだったのだろう。
公園で、偶然同じ学校の後輩に出会って。交換日記をやることになって。
普通に考えたらかなりおかしい状況だろ。むしろ夢だったんじゃないか、とすら思う。もしくは、都合よく作られた幻覚とか。
ノートに視線を戻して、ゆっくりと一枚めくる。そこにある文字を見て、ほんの少しだけ安心した。
湊の字。丸みがあって、なんか可愛い。その上に、そっと指を乗せると、なぞるように触れた。
「寝坊してよかった、か」
自分で書いたわけじゃないのに、なぜか少しだけ照れくさい。こんなことをさらっと書けるあたり、やっぱりあいつは普通じゃない。
モテる、だろうな……。
そう考えた瞬間、胸の奥がわずかに重くなる。
ハンカチは姉のものだと言っていた。でも、「彼女がいない」とは言っていない。むしろ、いない方がおかしい気がする。
そう思った途端、手の中のノートが少しだけ重く感じられた。ページの上にある文字を、じっと見つめる。にらめっこみたいに。
いっそこの際、日記に書いてしまおうか。いや、まてよ?なんであいつの彼女事情なんて気になるんだ。いても、いなくても俺には関係ないはず。
しかし、一度疑問に思ってしまえばその後も、どうしようもなく気になってしまった。
直接聞くのは、さすがにハードルが高い。でも、文字なら。ノート越しなら、まだ出来る気がする。それに、話題としても、それほど悪くない。
ゆっくりとページをめくると、書き途中の自分の文字が見えた。もう一度ペンを手に取り、指先に少しだけ力を込めて、持ち直す。
最初の一文字を書くまでに、ほんの少しだけ時間がかかった。しかし、書き始めてしまえば、あとは不思議と止まらなかった。気づけばするすると続いていく。頭の中にあったはずの整理されていない感情が、そのまま文字に置き換わっていくような感覚だった。
綺麗にまとめようとか、ちゃんとしたことを書こうとか、そんなことはもう考えなかった。
ただ、思いついたままに聞きたいこと、知りたいことを書いた。
書き始めてしまえば、ものの数分で終わった。書き終えたページを見返す勇気はなかったので、そのままノートを閉じる。
胸の奥に、妙な達成感と、同じくらいの気恥ずかしさが残る。
——まあ、いいか。
小さく心で呟くと、ノートを机の端に置いた。
あれから既に三日が経った。
あの日、家に帰ってすぐ風呂に入って、身体に残っていた雨の冷たさを流し落としたあと、勢いのまま机に向かった。ノートを開いて、ペンを持って、さあ書こうと意気込んでペンを握った。そこまでは順調だった。
しかし、いざ白紙を前にすると途端に頭の中が空っぽになる。書いては消し、書いては消し。
何度も繰り返しているうちに、書きかけの言葉すら恥ずかしくなってきて、最後には何も残らなかった。
それから三日、同じことを繰り返している。
ふと視線を落とすと、最初に書いた一行が目に入る。
“知らない後輩に絡まれた。”
あのときは勢いで書いたのに、今見るとやけに気恥ずかしい。消してしまおうかと何度も思ったが、結局そのままにした。
消したら、あの時間までなかったことになる気がして、嫌だった。
ペンを置いて、背もたれに体を預ける。
だめだ、今日も何も思いつかない。
視線だけが宙をさまよって、やがて本棚の端に置いた紙袋に止まった。
思い出したように手を伸ばし、紙袋の中から、あの日返しそびれたハンカチを取り出した。
一応、洗って、アイロンもかけた。お母さんに見つかったときは、少し怪訝な顔をされたけれど「老人ホームのおばあちゃんが貸してくれた」と適当に言ったら、あっさり納得された。その流れで、「お礼しなさい」とクッキーまで渡された。
問題は、そのクッキーがやたら可愛らしいピンクの缶に入っていたことだ。
——完全にミスった。変におばあちゃんとか言ったせいで、こうなってしまった。しかし、今さら訂正もできない。
小さくため息をついて、ハンカチを丁寧に畳み直し、紙袋に戻した。
水曜日までは、あと三日。いや、当日を除けば、実質二日しかない。
やばい。そろそろ何か書かないと、本当にまずい。あのとき「暇つぶしに書いてやる」とか言ってしまったせいで、変にハードルが上がっている気がする。
でも、不登校の俺がいいネタなんて思いつくはずもない。せいぜい外に出るのは朝の散歩か、洗濯物を干す時くらいだ。
そもそも、あの日のこと自体なんだったのだろう。
公園で、偶然同じ学校の後輩に出会って。交換日記をやることになって。
普通に考えたらかなりおかしい状況だろ。むしろ夢だったんじゃないか、とすら思う。もしくは、都合よく作られた幻覚とか。
ノートに視線を戻して、ゆっくりと一枚めくる。そこにある文字を見て、ほんの少しだけ安心した。
湊の字。丸みがあって、なんか可愛い。その上に、そっと指を乗せると、なぞるように触れた。
「寝坊してよかった、か」
自分で書いたわけじゃないのに、なぜか少しだけ照れくさい。こんなことをさらっと書けるあたり、やっぱりあいつは普通じゃない。
モテる、だろうな……。
そう考えた瞬間、胸の奥がわずかに重くなる。
ハンカチは姉のものだと言っていた。でも、「彼女がいない」とは言っていない。むしろ、いない方がおかしい気がする。
そう思った途端、手の中のノートが少しだけ重く感じられた。ページの上にある文字を、じっと見つめる。にらめっこみたいに。
いっそこの際、日記に書いてしまおうか。いや、まてよ?なんであいつの彼女事情なんて気になるんだ。いても、いなくても俺には関係ないはず。
しかし、一度疑問に思ってしまえばその後も、どうしようもなく気になってしまった。
直接聞くのは、さすがにハードルが高い。でも、文字なら。ノート越しなら、まだ出来る気がする。それに、話題としても、それほど悪くない。
ゆっくりとページをめくると、書き途中の自分の文字が見えた。もう一度ペンを手に取り、指先に少しだけ力を込めて、持ち直す。
最初の一文字を書くまでに、ほんの少しだけ時間がかかった。しかし、書き始めてしまえば、あとは不思議と止まらなかった。気づけばするすると続いていく。頭の中にあったはずの整理されていない感情が、そのまま文字に置き換わっていくような感覚だった。
綺麗にまとめようとか、ちゃんとしたことを書こうとか、そんなことはもう考えなかった。
ただ、思いついたままに聞きたいこと、知りたいことを書いた。
書き始めてしまえば、ものの数分で終わった。書き終えたページを見返す勇気はなかったので、そのままノートを閉じる。
胸の奥に、妙な達成感と、同じくらいの気恥ずかしさが残る。
——まあ、いいか。
小さく心で呟くと、ノートを机の端に置いた。
