0と100のあいだ

 日曜日。
 今日も湊の家の玄関をにくぐる。
 ピンポンを押して、扉を開けた瞬間ふわりと漂ってくる、甘い匂い。
「いらっしゃい、先輩」
 奥から顔を出した湊が、嬉しそうに笑う。
 その表情を見ただけで、来てよかったな、なんて思ってしまうあたり、自分でもかなり侵されている。
「……お邪魔します」
 靴を揃えて上がると、いつもいる湊のお母さんがいないことに気づいた。
「湊、今日お母さんは?」
「今日は家族でお出かけしてるんです。多分、夜くらいには帰ってきますよ?」
「え?一緒に行かなくていいの?」
「……?はい。先輩と二人きりになれますし」
 さらっと言われて、言葉に詰まる。
「……そういうの、普通に言うなよ」
 視線を逸らしながら小さく返すと、湊が少しだけ首をかしげた。
「付き合ってるのに、だめですか?」
 悪びれもなく聞いてくる声に、余計に言い返せなくなる。
「……だめ、じゃないけど」
 ぼそりと答えると、くすっと小さな笑い声が落ちた。
 廊下を歩く足音が、いつもより静かに響く。家の中に他の気配がないせいか、やけに二人の距離が近く感じた。
 何気なく並んでいるだけなのに、妙に意識してしまう。
 階段を上がる途中、ふと後ろから視線を感じて振り返ると、湊がこちらを見ていた。
「なに」
「いえ、先輩、ちょっと緊張してるなって」
「は?!し、してない」
 即答すると、今度ははっきりと笑われた。
 そのまま何も言わずに、少しだけ足早に二階へ向かう。
 背中越しに感じる気配が、妙にくすぐったい。
 扉の前で、湊が少しだけ誇らしげに言った。
「先輩。今日は、ちゃんと片付けてありますよ」
「“ちゃんと”の基準が不安なんだけど……」
 そう言いながらドアを開ける。
 まあ確かに、前よりはマシだった。
 床一面に広がっていた服や物は、いくつか箱にまとめられていて、歩くスペースがちゃんと確保されている。ベッドは相変わらずきれいで、そこだけ別世界みたいに整っていた。
 が、机に視線を向けた瞬間、ため息が出る。
「……みなと」
「はい?」
「これで“ちゃんと”は、だいぶ甘いんだけど」
 教科書の上に漫画、その上に謎のカエルの小物、さらにその上にプリント。
 もはや層になっている。地層か何かだ。
「えー、でも前よりはだいぶ良くないですか?」
「比較対象が悪すぎる……」
 思わず机に近づいて、軽く指で押すと、ぐらりと積み上がったものが揺れた。
「ほら。崩れるよ、これ。あぶない」
「崩れないように積んでるんで大丈夫です」
「そういう問題じゃない」
 呆れ半分で言いながら、適当に物をどかしてスペースを作る。
「ほら、ここ。最低限これくらい空けとけ。勉強できないだろ」
「……先輩、先生みたい」
「うるさい」
 振り返ると、湊がくすくす笑っている。
 その顔があまりにも楽しそうで、少しだけ言葉が詰まった。
「……何」
「いや、先輩が俺の部屋で、こうやって文句言ってるの、なんかいいなって」
 こういうところ、変わらず、ずるい。
「よくないだろ。汚いんだから」
「でも、先輩いると片付けようって思うんですよ」
 その言葉に、胸の奥があたたかくなる。視線を逸らして、机の上のプリントを揃える。
「じゃあ、俺が来るたびにチェックする」
「え、厳しい……」
「嫌ならちゃんとして」
「はーい」
 軽く返事をしながらも、湊はどこか嬉しそうだった。
 しばらく無言で片付けを続ける。物をどかして、整えて、ほんの少しだけ机らしい形に近づける。
「……こんなもん?」
「すごい、机だ」
「元から机だ」
 思わず吹き出すと、湊もつられて笑った。
 そのまま、自然と隣に腰を下ろす。肩が触れる距離。前までは少しだけ身構えていたはずなのに、今はもう、当たり前にこの距離だ。
「先輩、そういえば修学旅行そろそろじゃないですか?たしか、ディズニーですよね?」
「あ、そうだっけ。忘れてた」
 クラスで盛り上がっていた気もするし、しおりらしき紙も配られていた気がする。でも、どこか遠い話だった。多分、湊と一緒に行けないから。
「え、忘れることあります?夢の国ですよ?」
「別に。夢見てないし」
「じゃあ俺が夢見せますね」
「いらない」
「えー」
 わざとらしく肩を落とす湊。
 別に夢なんて見なくても今が幸せすぎるからいらない。
「先輩、夢の国で何する予定なんですか?」
「たぶん並ぶんじゃない?めっちゃ混んでるらしいし」
「夢なさすぎません?」
「現実見てるだけ」
「じゃあ、俺と行けば全部ショートカットです」
「え、何その裏ルート。気になる」
「愛の力で」
「……信用できない」
 そんなこと言いながらも、自然と口元が緩む。
「あー、どうしよう。先輩の心身の健康のために修学旅行には行かせたいけど、独占欲が邪魔する……」
「よくそんな堂々と言えるな」
「だって本音ですし」
「はいはい」
「ほんとは一緒に行きたかったんですよ」
 ぽつりと落ちた声が、やけに引っかかった。
「……俺も」
 小さく返すと、今度は湊が黙った。ほんの数秒。だけど、不思議と長く感じる。
「……今のもう一回いいですか?」
「なんで。やだ」
「録音したかったな……先輩の声、勝手に再生できるようになりたい」
「みなと、最近ちょっと気持ち悪い」
「え!ひどいです……先輩への愛なのに」
 またいつもの調子に戻る。その軽さに、少しだけ安心する。
「あ、いいこと思いつきました」
「いうなよ」
 嫌な予感しかしない。
「先輩、俺と行きましょ。修学旅行」
「……は?」
「二人でディズニー行くんです」
「いや、いやいや、何言ってんの」
「現地集合現地解散ならバレませんって」
「犯罪の匂いしかしないんだけど……」
「何言ってるんですか、先輩。夢の国に犯罪はないですよ?」
「あるだろ普通に」
 真顔でとんでもないことを言うから、思考が一瞬止まる。でも、否定しきれない自分がいるのも事実で。
「……チケット、取れんの?」
「取ります。先輩と行けるなら、何でもします」
 その言葉だけは、冗談じゃなかった。まっすぐすぎて、俺も揺れてしまう。
「……ほんとに?行く気?ばれて怒られても知らないよ、俺」
「行きます」
「……断るって言ったら?」
「毎日説得します」
「めんどくさ……」
「根負けするまでやりますよ」
「確信犯じゃん、」
 ため息をつきながらも、口元が緩むのを止められない。
 どうせ、こういうやつだ。湊は見かけによらず強引なのだ。決めたら最後まで諦めない。
「……いい。考えてやってもいい」
 一瞬の沈黙。それから、ぱっと顔が明るくなる。
「ほんとですか!先輩となら、絶対楽しいです。なに乗ります?ってか、ランドですか?シーですか?それによって心持ちが、かなり変わるんですけど」
「まだ行くって決めてない」
「俺は決めてます」
 隣で、満足そうに笑う。
 その顔を見ていると、まあいいか、なんて思ってしまう。
 どうせなら、楽しめばいい。湊となら、多分、どこに行ってもすごく楽しい。
 そんな風に思ってしまった時点で、もう負けなんだろう。
「俺、ほんとは先輩が学校に行き始めたとき、結構悩んでたんですよ」
「え、なんで?」
 そんなの初耳だ。俺だけが色んな事、グルグル悩んでいると思っていた。
「先輩、学校で楽しそうに笑うじゃないですか。友達と話してるときとか」
「……別に、普通」
「その普通が嫌だったんです。俺といるときより楽しそうに見えて。俺といるより、そっちのほうがいいのかなって、何回も思いました」
「……」
「でも、やめられなかった。先輩のこと、諦めるの」
 静かに言い切る声。
 その横顔は、いつもの軽さとは違って、どこか真剣で。
「あの時覚えてます?先輩が俺のこと避けて、俺死にそうでした。まだちょっと、怒ってるんですからね?もしあのまま避けられ続けたら、部活辞めようとも思ってましたし」
「……それはダメ」
「ですよね。先輩なら、そう言うと思ってました」
 当たり前みたいに言われて、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……すき」
 気づいたら、口から零れていた。
 小さくて、頼りない声。自分でも驚くくらい。
「先輩、」
「……なに」
「キス、してもいい?」
 なんで、そんなにストレートに言えるのか全く分からない。声が出なくて、その代わりに、ぎゅっと目を閉じた。
 でも、それはいつまで経っても一向に来なくて。
「……?」
 すぐ目の前で、湊がにやにやしていた。
「っふ、先輩、待ちの顔してました」
「ふざけんな……」
「ごめんなさい。でもすごく可愛かったです、満たされました」
 顔が熱い。絶対に赤い。
「……もういい。おわり」
「先輩。まだしてない」
「湊が逃したから、もうない」
「今度はちゃんとします」
 そう言って、今度は逃がさないみたいに、そっと距離を詰めてくる。
 さっきまでふざけていたくせに、急に真剣な顔になるのは、ずるい。
「……いい?」
 低く、確かめるような声。
 目を逸らしたまま、小さく頷くと——
 次の瞬間、唇に、やわらかい熱が触れた。
 触れた場所が、じんわりと熱を持って残る。呼吸がうまくできなくて、思わず息を詰めた。
「……っ」
 顔を上げられない。でも、隣から小さく笑う気配がする。
「先輩、今の顔……やばいです」
「うるさい……」
 そのまま、湊に寄りかかるように体重をかける。
「先輩、楽しみですね」
 何気ない声。でも、その中にある温度はちゃんと伝わってくる。
「うん……遅刻するなよ」
「先輩との約束は遅刻しません」
 迷いのない即答。その素直さに、少しだけ笑う。
 たぶん、きっとこれからも、こういう何でもない時間が、増えていく。散らかった部屋も、くだらないやり取りも、全部ひっくるめて。
 こうやって、少しずつ。
 俺たちの「0と100のあいだ」は、今日も確かに積み重なっていく。