昼休み。今日も、いつものアーチェリー場の隅で並んで昼を広げていた。
「先輩、前ミルク見たいって言ってたじゃないですか。今日、部活ないんですけど……家、来ませんか?」
不意に、そんなことを言われる。
少しだけ間を置いて、続けられた言葉に、思わず顔を上げた。
あの体育祭から、気づけば二か月が過ぎている。
夏の蒸し暑さもいつの間にか消えて、空気は少しだけ肌寒い。
あの一件のあとも、関係は変わらず続いていた。
むしろ、前よりもずっと近くなった気がする。言葉にしなくても、態度や距離で、嫌でも分かるくらいに。
それでも——ほんの少しだけ、ちゃんとした形で聞いてみたいと思う自分がいる。
「え?きょ、今日……?」
一瞬、箸が止まる。
頭の中で言葉がうまくまとまらない。行きたい気持ちは、すぐに浮かんだ。でも、それと同じくらい、緊張もあって。
「はい。今日です。放課後、空いてますか?」
逃げ場を塞ぐみたいに、まっすぐ見てくる。気づけば、頷いていた。
「……うん」
「やった。じゃあ約束です」
ぱっと表情が明るくなる。その変化が分かりやすくて、少しだけ笑ってしまう。
「そんな嬉しい?」
「嬉しいですよ。先輩、初めて家来るじゃないですか」
「そりゃ、まあ……」
「あ、ちゃんと片付けとけばよかったな……」
「今さら?」
軽口を叩きながら、どこか落ち着かない。午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
放課後になり、二人で校門を出る。
湊の家は、駅の反対側。自分の家から徒歩七分ほどの距離らしい。思ったより近いことに、少し驚いた。
「こっち来るの、久しぶりですよね?」
「うん。駄菓子屋行ったとき以来」
「あの時梅雨でしたっけ?懐かしいですね」
そんな他愛もない会話をしながら歩いていると、すぐに目的地に着いた。
「ここです」
見渡すと、想像していたよりずっと広かった。
いわゆる“田舎の家”という感じで、奥にも庭が広がっている。
その庭の一角に、小さな小屋があった。茶色と白で塗られたお菓子の家みたいな可愛らしい外観に、「OPEN」と書かれた看板。
「湊、あれ何?」
「ああ、お母さん趣味でパン焼いてるんです。ちょっとした店みたいになってて……見ます?」
「うん、見たい」
中に入ると、想像以上だった。パンだけじゃなく、クッキーや焼き菓子、手作りのアクセサリーまで並んでいる。
「わ、すご、色んなのある」
その一角に、小さなケージが。
「あ、ミルク!」
白くて丸い、小さな体がこちらを見ている。
「ここにいるんだ」
「はい。部屋よりあったかいですし、お客さんにも人気なんで」
ちょこんと座る姿が、やけに愛らしい。
「……かわいい」
思わず呟いた瞬間、横から視線を感じた。
「なに」
「いえ、なんでもないです」
にこにこと笑っている。その顔が、少しだけ気に食わない。
ミルクとひとしきり戯れ、玄関へ足を踏み入れた。
玄関の中は装飾品で溢れていた。木彫りの人形や、キノコ型のランプ、見たことのない置物たち。
カオスなのに、不思議とまとまっている。
「あら!冬馬君ね?」
置物に夢中になっていると、横から声が飛んできた。
「可愛いじゃない~!さ、上がって」
振り向くと、柔らかい雰囲気の女性が立っていた。緑のワンピースに、ゆるくまとめた髪。全体的にふわふわしていて、雰囲気が湊そっくりだ。
「え、なになに、連れてきたの?」
今度は二階から、どたどたと足音。
現れたのは、若い女性だった。背が高く、すらっとしていて、どこかモデルのような雰囲気がある。
「どうも……お邪魔してます」
「あれ、姉ちゃんいるの?」
「なによ、いたら悪い?」
軽く言い返す声が、どこか楽しそうだ。
「今日寝坊してさ、大学サボったの。天気いいから散歩してきた」
思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえた。湊と脳内繋がってるんじゃないか?と思うほど話すことが一緒だ。
「ええ……ちゃんと行きなよ。前もそれで単位落としてたのに」
お前が言うな、と突っ込みたかったけど、湊のお姉さんに言われてしまった。
「先輩、二階が俺の部屋なんで。こっち」
くい、と手首を引かれて、そのまま階段を上がる。妙に近い距離に少しだけ意識が向くけど、そんなことを考えている余裕はすぐになくなった。
「……お邪魔しま——」
「どーぞ。あ、座るとこ作りますね」
軽い調子で言いながら、湊は床のものをかき分ける。
床一面、服と物で埋まっている。歩くたびに何かが足に当たるし、机の上は完全に機能していない。プリントの山に押し潰された招き猫が、哀れに思えた。
ベッドだけ綺麗なのが、余計に謎だ。
「おい。なんだよこの汚部屋は」
思わず、声が低くなる。
「えー、汚部屋じゃないです。ちょっと散らかってるだけですって」
「これを世間では汚部屋って言うの」
湊は床に散らばったものを手で押しのけて、無理やりスペースを作ろうとする。
けれど、それじゃ余計にぐちゃぐちゃになるだけだ。慌てて、その手を止める。
「はい、先輩ここ——」
「座れるか!先に掃除!」
「え?やってくれるんですか?」
「違う!お前もやるの!」
結局、二人でしゃがみ込んで片付ける羽目になった。服を畳んで端に寄せて、落ちている漫画を端にまとめて。ようやく、人が座れる程度の空間ができた。
それでも、まだ気になる場所だらけだけど。
「……とりあえず、こんなもんでいいか」
「わあ!ありがとうございます、先輩。すご、床見える」
どこか嬉しそうに笑うのが、なんとなく悔しい。
そのタイミングで、軽くノックの音が響いた。
「あらら、冬馬くん、ありがとう。湊ったらお片付けできないの。疲れたでしょ?これ、二人で食べてね」
湊のお母さんが、小さな花柄のトレイを持ってきてくれた。トレイには、チョコチップ入りのクッキーと、湯気の立つココアが二つ。お店に置いてあったやつだ。
「あ。ありがとうございます」
礼を言って受け取ると、ふわっと甘い香りが広がった。
「いいえ~。ゆっくりしていってね」
やわらかく微笑んでそう言い残し、湊の母の足音が遠ざかる。
クッキーをひとつつまんで口に入れると、ほろりとほどけるように崩れ、優しい甘さが舌の上に広がった。
手作りのクッキーなんて初めて食べたかもしれない。市販のものとは違う、あたたかい味だった。
「……うま。すごい」
「でしょ」
横を見ると、湊がじっとこっちを見ていた。
「先輩、口小さい。かわいい」
「ふざけんな。掃除しろ、残り」
「今度来るまでにやっときます」
軽く言い返しながらも、空気は暖かかった。クッキーをもう一つ手に取りながら、部屋を見渡す。
「……なんか、いいな」
「何がですか?」
「この家の感じ。お前の部屋は別だけど。玄関の写真とか、お土産とか、色々飾ってあってさ。俺の家、物あんまりないから。こういうの、ちょっと新鮮」
「いつでも来ていいですよ」
ぽつりと、湊が言う。少しだけ視線を逸らしながら、それでも確かめるみたいにもう一度こちらを見た。
「それに、先輩が来るなら、俺たぶんもっとちゃんと片付けますし」
冗談めかして笑うけど、その声はどこかやわらかかった。
「普段から片付けなさい」
「ええー」
わざとらしく肩を落としてみせたあと、すぐに顔を上げて、湊は小さく微笑んだ。
その余裕そうな表情につい、不満がこぼれる。
「……なんで、いつもそんなに余裕なの。なんか、ずるい」
ふと口をついて出た言葉に、湊が小さく笑う。
「笑うなよ」
「あはは、すみません。先輩が可愛すぎてつい。」
「つい、で済ませるな。俺は真剣なんだからな」
少しだけ眉を寄せて、拗ねたみたいに言う。視線を逸らしながら、指先でクッキーの欠片をつまんだ。
自分でも子どもっぽいと思ってしまって、余計に気まずくなる。
「……よかった」
湊は頷きながら、どこか嬉しそうに目を細めた。その視線が妙に甘くて、落ち着かない。
「なにが?」
「先輩には、俺が余裕あるように見えてるんだなって」
「……そうだけど」
「なら、成功です」
その言葉の意味を考える前に、ふと思い出したように湊が立ち上がった。
「今日渡そうと思って、どこかに……」
机の上をかき分け始める。積み上がった物の山が、今にも崩れそうで思わず身構えた。
「ちょ、っと。崩れる、それ」
「大丈夫ですって。……あ、あったあった」
差し出されたのは、B6サイズのノート。あの、角が少し折れているやつだ。
「え、懐かしい……。まだ持ってたんだ」
受け取って、懐かしむように指で表紙をなぞる。
交換日記。開くこともなく、しばらく触れていなかったもの。そういえば、もう二か月ほどやっていない。何を書いたのかも完全に忘れている。
「当たり前ですよ」
「湊のことだから、ゴミの山に埋もれてるかと思った」
「ゴミじゃないです。大事なやつです」
少しだけ拗ねた声に、思わず笑った。
そのあとも、他愛もない話をしたり、適当にゲームをしたりして、時間はあっという間に過ぎた。
ふと時計を見ると、もういい時間になっている。
「……そろそろ帰るか」
「ですね。明日もありますし」
名残惜しさを、少しだけ感じながら、部屋を出る。
外に出ると、空気はすっかり冷えていた。昼間の柔らかさは消えて、冬の気配がはっきりと近づいている。
「近いから送らなくていいって」
「いやです」
短く言い切られて、結局並んで歩くことになる。
家の前に着くと、湊がふと視線を落とした。
「じゃあ先輩、また明日。あとそれ、読んだらまた返してくださいね」
手元のノートを軽く指さす。
「え、これ?返すの?」
「はい。日記として使ってるんで」
「日記なら湊がもってた方がいいじゃん」
「いいから見てくださいよ。最初のほうとか。意外と面白いんですから」
「……まあ、気になるけど」
ノートをちらりと見下ろす。
最初の頃、何を書いたかなんてほとんど覚えていない。でも、きっとろくでもないことを書いていた気がする。
それでも、湊が書いたものを読むのは、少しだけ楽しみだった。
家に帰ると、いつもと同じ自分の家なのに、なぜかより静かに感じた。
あいつの家の雰囲気に飲み込まれてしまったらしい。
制服を脱いで、お風呂に入り、湯気に包まれながらも頭の中にあるのは、あのノートのことだった。
軽い気持ちで読む。そのつもりだった。
ただ少し、懐かしさに浸れればいい、それくらいのつもりで。
髪を乾かして、机の前に座る。
部屋の明かりはやわらかくて、外はもうすっかり夜だ。
机の上に置いたノートを手に取ると、久しぶりに交換日記の最初のページを開いた。
そこには、まだ少しぎこちない内容が書かれていた。
“6月6日 木曜 雨
寝坊したから散歩がてら公園に行ったら、冬馬先輩と出会った。寝坊してよかった。”
思わず、ふっと息が漏れた。
あまりにも真っ直ぐで、飾り気のない言葉。これを読んですぐ、あの日のことが蘇った。
雨の匂いと濡れたベンチ。
どうしようもなく沈んでいた自分と、そこに現れた湊。今思っても、すごい出会いだ。
でも、こんなふうに、ちゃんと残っているんだな、と胸の奥がじんわり温かくなった。メールでもなく、言葉でもなく、こうして紙に形として残っていることが嬉しかった。
あの時、交換日記やってよかった。
何年も先、何十年も先に、これを開いて、同じところで笑えたらいい。そんな未来が、ふと現実味を帯びて浮かんでくる。
ページをめくる。
くすりと笑いながら、いくつも読み進めていくうちに、ふと違和感に気づいた。
後ろのページに、よく見なければ気づかないほど小さな付箋が一枚、そっと貼られていた。
こんなの、自分で貼った覚えがない。
指先でそっとそのページを開くと――
そこにあったのは、体育祭の日に書かれた、湊の日記だった。
「先輩、前ミルク見たいって言ってたじゃないですか。今日、部活ないんですけど……家、来ませんか?」
不意に、そんなことを言われる。
少しだけ間を置いて、続けられた言葉に、思わず顔を上げた。
あの体育祭から、気づけば二か月が過ぎている。
夏の蒸し暑さもいつの間にか消えて、空気は少しだけ肌寒い。
あの一件のあとも、関係は変わらず続いていた。
むしろ、前よりもずっと近くなった気がする。言葉にしなくても、態度や距離で、嫌でも分かるくらいに。
それでも——ほんの少しだけ、ちゃんとした形で聞いてみたいと思う自分がいる。
「え?きょ、今日……?」
一瞬、箸が止まる。
頭の中で言葉がうまくまとまらない。行きたい気持ちは、すぐに浮かんだ。でも、それと同じくらい、緊張もあって。
「はい。今日です。放課後、空いてますか?」
逃げ場を塞ぐみたいに、まっすぐ見てくる。気づけば、頷いていた。
「……うん」
「やった。じゃあ約束です」
ぱっと表情が明るくなる。その変化が分かりやすくて、少しだけ笑ってしまう。
「そんな嬉しい?」
「嬉しいですよ。先輩、初めて家来るじゃないですか」
「そりゃ、まあ……」
「あ、ちゃんと片付けとけばよかったな……」
「今さら?」
軽口を叩きながら、どこか落ち着かない。午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
放課後になり、二人で校門を出る。
湊の家は、駅の反対側。自分の家から徒歩七分ほどの距離らしい。思ったより近いことに、少し驚いた。
「こっち来るの、久しぶりですよね?」
「うん。駄菓子屋行ったとき以来」
「あの時梅雨でしたっけ?懐かしいですね」
そんな他愛もない会話をしながら歩いていると、すぐに目的地に着いた。
「ここです」
見渡すと、想像していたよりずっと広かった。
いわゆる“田舎の家”という感じで、奥にも庭が広がっている。
その庭の一角に、小さな小屋があった。茶色と白で塗られたお菓子の家みたいな可愛らしい外観に、「OPEN」と書かれた看板。
「湊、あれ何?」
「ああ、お母さん趣味でパン焼いてるんです。ちょっとした店みたいになってて……見ます?」
「うん、見たい」
中に入ると、想像以上だった。パンだけじゃなく、クッキーや焼き菓子、手作りのアクセサリーまで並んでいる。
「わ、すご、色んなのある」
その一角に、小さなケージが。
「あ、ミルク!」
白くて丸い、小さな体がこちらを見ている。
「ここにいるんだ」
「はい。部屋よりあったかいですし、お客さんにも人気なんで」
ちょこんと座る姿が、やけに愛らしい。
「……かわいい」
思わず呟いた瞬間、横から視線を感じた。
「なに」
「いえ、なんでもないです」
にこにこと笑っている。その顔が、少しだけ気に食わない。
ミルクとひとしきり戯れ、玄関へ足を踏み入れた。
玄関の中は装飾品で溢れていた。木彫りの人形や、キノコ型のランプ、見たことのない置物たち。
カオスなのに、不思議とまとまっている。
「あら!冬馬君ね?」
置物に夢中になっていると、横から声が飛んできた。
「可愛いじゃない~!さ、上がって」
振り向くと、柔らかい雰囲気の女性が立っていた。緑のワンピースに、ゆるくまとめた髪。全体的にふわふわしていて、雰囲気が湊そっくりだ。
「え、なになに、連れてきたの?」
今度は二階から、どたどたと足音。
現れたのは、若い女性だった。背が高く、すらっとしていて、どこかモデルのような雰囲気がある。
「どうも……お邪魔してます」
「あれ、姉ちゃんいるの?」
「なによ、いたら悪い?」
軽く言い返す声が、どこか楽しそうだ。
「今日寝坊してさ、大学サボったの。天気いいから散歩してきた」
思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえた。湊と脳内繋がってるんじゃないか?と思うほど話すことが一緒だ。
「ええ……ちゃんと行きなよ。前もそれで単位落としてたのに」
お前が言うな、と突っ込みたかったけど、湊のお姉さんに言われてしまった。
「先輩、二階が俺の部屋なんで。こっち」
くい、と手首を引かれて、そのまま階段を上がる。妙に近い距離に少しだけ意識が向くけど、そんなことを考えている余裕はすぐになくなった。
「……お邪魔しま——」
「どーぞ。あ、座るとこ作りますね」
軽い調子で言いながら、湊は床のものをかき分ける。
床一面、服と物で埋まっている。歩くたびに何かが足に当たるし、机の上は完全に機能していない。プリントの山に押し潰された招き猫が、哀れに思えた。
ベッドだけ綺麗なのが、余計に謎だ。
「おい。なんだよこの汚部屋は」
思わず、声が低くなる。
「えー、汚部屋じゃないです。ちょっと散らかってるだけですって」
「これを世間では汚部屋って言うの」
湊は床に散らばったものを手で押しのけて、無理やりスペースを作ろうとする。
けれど、それじゃ余計にぐちゃぐちゃになるだけだ。慌てて、その手を止める。
「はい、先輩ここ——」
「座れるか!先に掃除!」
「え?やってくれるんですか?」
「違う!お前もやるの!」
結局、二人でしゃがみ込んで片付ける羽目になった。服を畳んで端に寄せて、落ちている漫画を端にまとめて。ようやく、人が座れる程度の空間ができた。
それでも、まだ気になる場所だらけだけど。
「……とりあえず、こんなもんでいいか」
「わあ!ありがとうございます、先輩。すご、床見える」
どこか嬉しそうに笑うのが、なんとなく悔しい。
そのタイミングで、軽くノックの音が響いた。
「あらら、冬馬くん、ありがとう。湊ったらお片付けできないの。疲れたでしょ?これ、二人で食べてね」
湊のお母さんが、小さな花柄のトレイを持ってきてくれた。トレイには、チョコチップ入りのクッキーと、湯気の立つココアが二つ。お店に置いてあったやつだ。
「あ。ありがとうございます」
礼を言って受け取ると、ふわっと甘い香りが広がった。
「いいえ~。ゆっくりしていってね」
やわらかく微笑んでそう言い残し、湊の母の足音が遠ざかる。
クッキーをひとつつまんで口に入れると、ほろりとほどけるように崩れ、優しい甘さが舌の上に広がった。
手作りのクッキーなんて初めて食べたかもしれない。市販のものとは違う、あたたかい味だった。
「……うま。すごい」
「でしょ」
横を見ると、湊がじっとこっちを見ていた。
「先輩、口小さい。かわいい」
「ふざけんな。掃除しろ、残り」
「今度来るまでにやっときます」
軽く言い返しながらも、空気は暖かかった。クッキーをもう一つ手に取りながら、部屋を見渡す。
「……なんか、いいな」
「何がですか?」
「この家の感じ。お前の部屋は別だけど。玄関の写真とか、お土産とか、色々飾ってあってさ。俺の家、物あんまりないから。こういうの、ちょっと新鮮」
「いつでも来ていいですよ」
ぽつりと、湊が言う。少しだけ視線を逸らしながら、それでも確かめるみたいにもう一度こちらを見た。
「それに、先輩が来るなら、俺たぶんもっとちゃんと片付けますし」
冗談めかして笑うけど、その声はどこかやわらかかった。
「普段から片付けなさい」
「ええー」
わざとらしく肩を落としてみせたあと、すぐに顔を上げて、湊は小さく微笑んだ。
その余裕そうな表情につい、不満がこぼれる。
「……なんで、いつもそんなに余裕なの。なんか、ずるい」
ふと口をついて出た言葉に、湊が小さく笑う。
「笑うなよ」
「あはは、すみません。先輩が可愛すぎてつい。」
「つい、で済ませるな。俺は真剣なんだからな」
少しだけ眉を寄せて、拗ねたみたいに言う。視線を逸らしながら、指先でクッキーの欠片をつまんだ。
自分でも子どもっぽいと思ってしまって、余計に気まずくなる。
「……よかった」
湊は頷きながら、どこか嬉しそうに目を細めた。その視線が妙に甘くて、落ち着かない。
「なにが?」
「先輩には、俺が余裕あるように見えてるんだなって」
「……そうだけど」
「なら、成功です」
その言葉の意味を考える前に、ふと思い出したように湊が立ち上がった。
「今日渡そうと思って、どこかに……」
机の上をかき分け始める。積み上がった物の山が、今にも崩れそうで思わず身構えた。
「ちょ、っと。崩れる、それ」
「大丈夫ですって。……あ、あったあった」
差し出されたのは、B6サイズのノート。あの、角が少し折れているやつだ。
「え、懐かしい……。まだ持ってたんだ」
受け取って、懐かしむように指で表紙をなぞる。
交換日記。開くこともなく、しばらく触れていなかったもの。そういえば、もう二か月ほどやっていない。何を書いたのかも完全に忘れている。
「当たり前ですよ」
「湊のことだから、ゴミの山に埋もれてるかと思った」
「ゴミじゃないです。大事なやつです」
少しだけ拗ねた声に、思わず笑った。
そのあとも、他愛もない話をしたり、適当にゲームをしたりして、時間はあっという間に過ぎた。
ふと時計を見ると、もういい時間になっている。
「……そろそろ帰るか」
「ですね。明日もありますし」
名残惜しさを、少しだけ感じながら、部屋を出る。
外に出ると、空気はすっかり冷えていた。昼間の柔らかさは消えて、冬の気配がはっきりと近づいている。
「近いから送らなくていいって」
「いやです」
短く言い切られて、結局並んで歩くことになる。
家の前に着くと、湊がふと視線を落とした。
「じゃあ先輩、また明日。あとそれ、読んだらまた返してくださいね」
手元のノートを軽く指さす。
「え、これ?返すの?」
「はい。日記として使ってるんで」
「日記なら湊がもってた方がいいじゃん」
「いいから見てくださいよ。最初のほうとか。意外と面白いんですから」
「……まあ、気になるけど」
ノートをちらりと見下ろす。
最初の頃、何を書いたかなんてほとんど覚えていない。でも、きっとろくでもないことを書いていた気がする。
それでも、湊が書いたものを読むのは、少しだけ楽しみだった。
家に帰ると、いつもと同じ自分の家なのに、なぜかより静かに感じた。
あいつの家の雰囲気に飲み込まれてしまったらしい。
制服を脱いで、お風呂に入り、湯気に包まれながらも頭の中にあるのは、あのノートのことだった。
軽い気持ちで読む。そのつもりだった。
ただ少し、懐かしさに浸れればいい、それくらいのつもりで。
髪を乾かして、机の前に座る。
部屋の明かりはやわらかくて、外はもうすっかり夜だ。
机の上に置いたノートを手に取ると、久しぶりに交換日記の最初のページを開いた。
そこには、まだ少しぎこちない内容が書かれていた。
“6月6日 木曜 雨
寝坊したから散歩がてら公園に行ったら、冬馬先輩と出会った。寝坊してよかった。”
思わず、ふっと息が漏れた。
あまりにも真っ直ぐで、飾り気のない言葉。これを読んですぐ、あの日のことが蘇った。
雨の匂いと濡れたベンチ。
どうしようもなく沈んでいた自分と、そこに現れた湊。今思っても、すごい出会いだ。
でも、こんなふうに、ちゃんと残っているんだな、と胸の奥がじんわり温かくなった。メールでもなく、言葉でもなく、こうして紙に形として残っていることが嬉しかった。
あの時、交換日記やってよかった。
何年も先、何十年も先に、これを開いて、同じところで笑えたらいい。そんな未来が、ふと現実味を帯びて浮かんでくる。
ページをめくる。
くすりと笑いながら、いくつも読み進めていくうちに、ふと違和感に気づいた。
後ろのページに、よく見なければ気づかないほど小さな付箋が一枚、そっと貼られていた。
こんなの、自分で貼った覚えがない。
指先でそっとそのページを開くと――
そこにあったのは、体育祭の日に書かれた、湊の日記だった。
