0と100のあいだ

「冬馬、学校行かなくてもいいから、せめて外には出なさい。ずっと家にいるから気が滅入るのよ」
「……うん」

 屋根に当たる雨音は柔らかいのに、どこか執拗で耳の奥にじわじわと染み込んでくるようだった。

「うん、じゃなくて。……まあいいわ、朝ごはん食べたら公園にでも行ってきなさい。お母さん、今日も夜遅いからね。冷蔵庫の中のタッパーに、おかずは作ってあるから。お味噌汁くらいは自分で作れるわよね?」
「わかった」
「……あと、家にいるんだから掃除くらいしなさい。じゃあ、行ってくるわね」

 朝、七時過ぎ。学校に行く時間はとうに過ぎている。
 パジャマ姿のまま、靴も履かず、ただ床の冷たさを足裏で感じながら母の背中を見送る。

「いってらっしゃ……」

 言い終わるより早く、ドアは無機質な音を立てて閉まった。
 その音は、外の雨音と混ざり合って、しばらく耳から離れなかった。
 しばらく、ぼんやりと立ち尽くしたあと、重い足取りでキッチンへと向かう。
 カウンターの上には、ラップをかけられたミネストローネと、袋に入った食パンが、ぽつんと置かれていた。母なりの気遣いなのだろうが、その整えられた光景が逆に距離を感じさせる。
 
 

 クローゼットを開け、ポロシャツに袖を通しながら、どこか他人の服を着ているような感覚がした。
 玄関脇に立てかけてある、ビニール傘を手に取り、ドアに手を伸ばす。ひんやりとしたドアノブが体温を奪っていくが、ジメジメした暑さにはちょうどいい冷たさだった。
 
 傘をさし、一歩外へ踏み出すと、じとっとした空気が一気に入り込んできた。
 ビニール傘越しに見上げた空は、分厚い雲に覆われて、重たく沈んでいる。梅雨のくせに気温だけは妙に高い。
 傘を差しているのに、なぜか肩口が濡れていく。うまくさせていないのか、風向きのせいなのか、自分でも分からない。

「……はあ」

 多分さすのが下手なのかもしれない。
 傘を閉じると、半ば投げやりに、それを引きずりながら歩き出した。ガラガラと乾いた音が、雨音をかき消すように古びた住宅街に響く。
 住宅街を抜けて、左右には放置された田んぼが広がった。
 水だけが張られたその面は、空の色をそのまま写し取っていて、雨粒が落ちるたび、小さな波紋がいくつも広がっては、形を崩して消えていく。
 舗装された道はいつの間にか細くなり、小さな森が見えてきた。
 森、といっても、ただの雑木林だ。背の高い木々が密集していて、昼間でも薄暗い。
 入口の石段には苔が張りついているので、滑らないように足元を見つめ、一段ずつ慎重に上った。
 途中でふと振り返ると、もう自分の住んでいる住宅街は見えない。代わりに、細い道が森の奥へと続いている。そのさらに先には、ぼんやりと灰色の建物が見える。
 老人ホームだ。
 ときどき、そこから散歩に出てくる人を見かけることがある。けれど、今日は雨。こんな日にわざわざ来る人はいないだろう。
 だから、あの公園は自分だけのお気に入りだ。誰にも邪魔されない、自分だけの。


 
 石段を上りきり、ようやく足を止めた。
 胸の奥がじんわりと熱を持っていて、呼吸が浅くなる。たったこれだけの段数なのに、こんなにも息が上がる自分に、少しだけ呆れた。運動をしていないから元からない体力がさらに落ちているのかもしれない。
 家に帰ったら、せめて腹筋くらいはしようか。でも、それもきっと、やろうと思うだけで終わるかもしれない。
 そんなことを考えていると、すぐに視界が開ける。そこには、いつもと変わらない小さな広場があった。
 中央には、壊れかけの木製ベンチ。木は黒ずみ、ところどころささくれ立っている。触れれば棘が刺さりそうで、見ているだけで少しだけ指先がざらつくような気がした。 
 その上に、申し訳程度の屋根がついているが、屋根の意味は……ほとんどない気がする。ぽたぽたと、屋根の縁から落ちる水が、ベンチの端を濡らしていた。
 傘を適当にベンチに立てかける。
 雨に濡れた前髪が頬に張りついて、じわりとした不快感が残る。それを適当に腕で顔を拭うと長い息を吐いた。
 ここに来ると、少しだけ呼吸が楽になる。家にいるよりも、学校にいるよりも、ずっと。
 俺は濡れたベンチを気にせず、端に腰を下ろした。
 屋根から落ちる雫が、肩に当たる。少しだけ、冷たい。でも、それくらいでちょうどいい。相変わらず、空気はどんよりしていて蒸し暑いのは変わらなかった。
 
 どのくらい経ったのだろうか。時間の感覚が曖昧になり、ただ雨音だけが続いていたそのとき——
 ふと、頬に柔らかいものが触れた。

「うわぁ!!」

 驚いて心臓が飛び出そうになる。反射的に振り返ると、茶髪のイケメンが少しだけ驚いた表情で立っていた。
 背は高く、すらりとしている。整った顔立ちに、どこか穏やかな雰囲気が乗っていた。
 その手には、白いハンカチ。どうやら、さっき頬に触れたのは、これらしい。
 同じ学校の制服に、顔が引きつる。

「あ。ごめんなさい、驚かせちゃいました?濡れていたので」

 柔らかい雰囲気の顔に似合う声だった。
 声くらいかけろや!という怒りを、胸の内になんとか押し込むと、代わりに無理やり口角を上げた。

「……すみません、大丈夫です。直ぐ帰るんで」

 イケメンは気にした様子もなく、むしろ人懐っこい笑みを浮かべたまま、手に持っていたハンカチを差し出してくる。

「顔、濡れてますよ。これ使ってください」
「……いいです」

 思わず視線がハンカチに向く。
 真っ白なハンカチには小さなリボンの刺繍が施されていた。どう見ても女物。
 ……彼女か?自慢しやがって。と、少しひがんだ妄想をして眉を顰める。

「これ、姉のおさがりです。いらないって押し付けられたので、気にしないで使ってください」
「……」
「はい、どーぞ」

 間髪入れずに手が伸びてくる。拒否の余地を与えない自然さ。こいつ、見かけによらず厚かましいな。
 勢いと無言の笑みの圧に耐え切れず、受け取ってしまった。

「……どうも」
「隣、良いですか?」
「……え?あ、はい」

 返事をするよりも先に、イケメンは自然な動きで隣に座った。濡れたベンチにも構わず。
 クソ、何なんだこいつ。
 内心で舌打ちしながら、手の中のハンカチに視線を落とす。どう扱えばいいのか分からず、とりあえず頬を軽く拭いた。
 隣に図々しく座ってきたイケメンは、なぜか俺のことを、じっと見ている。

「……あの、なんか付いてます?」

 居心地の悪さに耐えきれず、少しだけ棘を混ぜて言う。

「あ、ごめんなさい。つい見ちゃった。嫌でした?」

 イケメンは俺のささやかな攻撃を、ものともせず元の垂れ眉をさらに困ったように垂れさせて見せた。子犬に似ている、と一瞬思った。どうでもいい想像が浮かび、すぐに打ち消す。

「いえ、別に。気になっただけです……」
「よかった。あの、俺、白羽湊って言います。流川高校の一年です。……同じ高校ですよね?」

 一年生?なんだ、後輩か。
 背が高いし、雰囲気も落ち着いているから、勝手に年上だと思い込んで無駄に敬語で話してしまった。

「冬馬。二年」

 それだけ言うと、もらったハンカチをベンチの横に置いて視線を外した。
 必要以上に会話を広げる気はない、という意思表示のつもりだった。
 けれど、その間はすぐに塗り替えられ、次の瞬間には面白いものでも見つけたかのように、ぱっと表情が明るくなる。
 そして——ぐい、と大胆に距離を詰めてきた。
 ベンチの上で肩が触れそうなほどに近づく。湿った空気の中で、相手の体温がじわりと伝わってきそうな距離。思わず体が強張った。
 近い、近すぎる。視界いっぱいに蜂蜜のように甘い瞳が入り込んでくる。

「先輩だったんですね!?俺のことは、湊って呼んでください!」
「み、湊ね、みなと……。ち、近いんだけど」

 思わず声が裏返った。
 こいつ、距離感おかしい。
 全身から話しかけるなオーラを出しているつもりなのに、まったく効いていない。むしろ逆効果なんじゃないかと錯覚するほど、ぐいぐい来る。

「俺、部活でよく二年生の教室に行くんですけど、冬馬先輩見たことなくて……もしかして先輩、普通科ですか?」
「……そう、だけど」
「そうだったんですね!だから知らなかったのか……」

 湊は少しだけ顔を逸らして、考え込むような仕草を見せる。その横顔は、さっきまでの無遠慮さが嘘みたいに落ち着いていた。

「お前は違うの」
「はい。俺は国際科です」
「あー、なるほど」

 その一言で、腑に落ちた。
 流川高校は普通科と国際科で棟が分かれている。
 一応、廊下でつながってはいるが、実際に行き来することはほとんどない。関わるのは体育祭とか、文化祭とかの行事ごとのみだ。
 自分が一年生の頃感じたのは、国際科は陽キャが多い、ということ。湊のバカみたいな距離感のなさに納得がいった。

「湊、だっけ。何してんの?こんなとこで。学校は?」

 俺はさりげなく体をずらし、ばれないように少しだけ距離を取った。これ以上近づかれたら俺がしんどい。色々と。

「寝坊したので散歩に。やっぱり雨の日っていいですね、静かで」

 湊はまたもやあの人懐っこい笑顔を向けて笑った。太陽もない梅雨のジメジメした天気を覆すほどの威力。俺は眩しさと鬱陶しさに、普段かけもしないサングラスが、この瞬間だけ、猛烈に欲しくなった。
 それにしても、寝坊したから散歩……。
 全く意味が分からないし辻褄が合わない。俺なら飛び起きて、慌てて支度して駅に走る。
 散歩なんて選択肢、最初から存在していない。自由で、楽しそうな奴だ。
 はっとして視線を戻すと、湊はベンチの上を見ていた。俺の横にあるはずのもの——鞄がないことに気づいたらしい。
 濡れた制服、ここにいる時間帯、隣にはビニール傘一本だけ。どう考えても、寝坊じゃない。

「学校、しばらく行ってないから、」

 思ったよりもあっさり出てしまったことに、自分でも驚く。すぐに後悔が追いついてきて、じわじわと胸を締めつけた。
 会ったばかりの後輩に、なんで言ってしまったのだろう。
 引かれるだろうか、気まずい顔をされるだろうか。いや、逆に変に励まされるかもしれない。どちらにしろ面倒だ。
 その答え合わせをする勇気が無くて、そのまま地面とにらめっこした。早くどこかに行ってくれと。
 でも、

「そうだったんですね」

 それだけだった。
 軽い、あまりにも軽い返事。驚きも、軽蔑も、同情もない。拍子抜けして、湊を見つめた。

「三ヶ月くらいですか?」
「え……な、んで分かんの、」

 背筋に水滴が落ちた。
 まさか、学校で噂になっているのではないのか。田舎の高校で不登校なんて、目立たないはずがない。

「それ、去年のままですよ。新学期入って三ヶ月経ってるのに、校章のバッチ替えてない」

 湊は少し視線を落としながら、さらっと言った。
 あ。そういえば、そうだ。新しいバッチをせっかく届けてもらったのに、付け替えるのをすかっり忘れていた。

「……どうでもいいでしょ、そんなの」

 半ば投げやりに言い捨てると顔を逸らした。

「はい」

 あっさりと、そう言った。本当にどうでもよさそうに。けれど、突き放す感じでもなくて。

「先輩が学校行くかどうかは、先輩の自由だし。俺、担任でも親でもないですし」

 そう言って湊は、雨で貼りついていた俺の前髪を、指先でそっとかき上げた。
 完全に不意打ち。
 近い距離で見る湊の茶色い瞳は、思っていたよりも金色っぽくて、雨に濡れた光を柔らかく反射していた。
 ——綺麗だ、と思った。
 瞬間、嫌に重たい音が、胸の奥で響いた。

「…………は?いや、なにして、」
「先輩は、」

 湊はそう言いながら、まるで壊れ物に触れるみたいに、ゆっくりと俺の髪に触れた。濡れて重たくなった髪を、指先で確かめるようにすくい上げる。
 その仕草が妙に丁寧で、無遠慮な距離の詰め方とは噛み合っていない。ちぐはぐなのに、不思議と不快じゃなかった。心臓だけが変に勘違いして早く動く。

「ここまで歩いて来られてる、それだけで十分です」

 髪から手をぱっと離すと、ふわりと笑った。

「……」

 意味が分からない。
 変な奴、本当に変な奴だ。さっきから心臓が変に跳ねて落ち着かない。呼吸も少しだけ浅い。
 なんなんだ、これ。おかしい。こんなの異常事態だ。

「変なこと言うなよ、年下のくせに」

 誤魔化すように言いながら、ばっと距離を取ると、顔を逸らした。
 視線を合わせたくなかった。見られたくない表情をしている気がしたから。

「年下って、1年しか変わらないじゃないですか。誤差ですよ、誤差」

 湊の笑い声に重なって、鞄のチャックを開ける音がした。ふと横目で見ると、湊の鞄から次々と中身が引っ張り出されていく。
 ぐちゃぐちゃに絡まったイヤホン。しわくちゃになったプリント。ペットボトルの空き容器に、よく分からない小さな袋。その後も止まることなく鞄からは沢山の荷物が出てきた。まるでドラえもんの四次元ポケットの様だ。

「……何してんの?」
「えーと……あ、あったあった」

 底の方からようやく取り出されたそれは、B6サイズの無地のノートだった。角が少し折れている。まあ、あの鞄の中でよく角が折れるだけで済んだな、と感心した。
 湊はそのノートを持ち上げて、俺の目の前で開いて見せた。何も書かれていない、綺麗な白紙。罫線だけが規則正しく並んでいた。

「先輩、俺と交換日記しませんか?」
「……は?」

 本日二回目の間抜けな声が出た。
 俺は目の前に広げられた真っ白のノートと同じくらいには頭の中が真っ白になった。いや、このノートよりも混沌としているかもしれない。

「毎日じゃなくていいです。書けるときだけでいいし。無理に何か書こうとしなくても、今日の天気とか、今の気分とか。それだけでもいいです」
「……いや、そういうことじゃなくて、」
「俺、毎日学校帰りに、ここ寄るんで。そのときに置いといてくれたら読むし、なかったらそれでいいし。先輩がここに来てるって分かるだけでも、なんかいいなって思うので」

 湊はノートを自分の膝に乗せると、さらさらと何かを書き始めた。
 ペンを持つ指は細くて、でも節が自分より少しだけしっかりしていた。手の甲にはうっすらと血管が浮き出ていて、肌はほんのり焼けている。それに、ポロシャツから覗く首筋も……。
 見つめていると無意識に寄ってしまっていたらしい。湊のペンが止まると、俺は慌てて少しだけ離れた。湊はそのまま、ノートをこちらに傾けて見せてくれた。

“6月6日 木曜 雨
寝坊したから散歩がてら公園に行ったら、冬馬先輩と出会った。寝坊してよかった。”
 
 それだけ。

「ほら、もう始まりました」

 なんなんだ、ほんと。困惑しているはずなのに、ほんの少しだけ胸がざわつく。

「いや、意味分かんないんだけど」
「分からなくていいですよ、俺がやりたいだけです。書くのが嫌なら俺が勝手に書きます。それを読んでくれるだけでもいいですよ?」

 勝手に決めるな。そう言いたいのに。差し出されたノートと、その目は妙にまっすぐで。

「……俺、続かないけど」
「いいですよ、続かなくても。先輩が一行でも書いたら、それで勝ちです」
「勝ちって、何の勝負だよ……」
「俺との?」

 さらっと言う。そのくせ、視線だけは相変わらず真っ直ぐだ。
 ……試されてる。なんとなく、そんな気がした。俺は、しばらくノートを見つめたあと、ため息をついた。

「めんどくさいし、毎日は来なくていい。一週間、一回。それならまぁ……暇つぶしに、書いてもいい」
「はい!それでいいです。じゃあ、水曜日はどうですか?毎週水曜の午後五時とか」
「水曜?中途半端だな。金曜とか言うのかと思った」
「それ以外の日は、部活があって待たせてしまうので。それに、水曜が一番疲れるじゃないですか。週の真ん中にご褒美がある方が頑張れます」

 湊は恥ずかしげもなく俺の目を見てさらっと言った。

「ご、……おまえな、」

 思わず言葉が詰まる。こういう時、どう反応すればいいのか分からない。こんなの、男の俺でも勘違いしてしまいそうになる。
 陽キャのコミュニケーション能力は、やっぱり伊達じゃない。軽く息を吐いて渋々、手を差し出した。

「……ペン」
「はい」

 湊が嬉しそうにペンを渡してきた。
 差し出されたペンを適当に受け取り、雨に濡れた冷たい指先を少し動かした。

 “6月6日 木曜 雨
 知らない後輩に絡まれた。”

 それだけ書いた。ペンを置いた瞬間、また心臓がうるさくなる。
 俺は一体、会ったばかりの後輩と何をしているのだろう。交換日記なんて小学生の頃女子たちがやっているのを遠目に見たことしかない。少し恥ずかしくなってきた。
 湊はすぐ横から書き終えたノートを覗き込んだ。肩が触れそうな距離で、湊の視線が文字の上をなぞる。
 ほんの一瞬、読み取るように目を細めて、満足そうに小さく頷いた。

「あはは、知らない後輩って。でも、……うん。いいですね」
「何が」
「先輩が、ちゃんとここにいるって証拠です」

 その言葉と同時に、雨が少し弱まった気がした。
 さっきまで一定だった雨音が、ゆるやかにほどけて、重く分厚い雲の隙間から、隠れていた太陽の光が少しだけ差し込んだ。その瞬間、世界がほんの少しだけ、明るくなった気がした。

「……学校、遅刻してるんでしょ。行かなくていいの」
「大丈夫ですよ、どうせもう遅刻してるし。今から急いでも変わんないですから」
「……そう」

 やっぱり変な奴だ。能天気というか、マイペースというか。でも不思議と嫌じゃない。

「は……くしゅ!!」

 急に寒気がして、くしゃみが出る。濡れた制服が冷えてきたらしい。もう雨は、ほとんど止んでいた。

「先輩、風邪ひいちゃいます。俺のブレザー着ますか?」

 例の四次元鞄から、くしゃくしゃのブレザーが出てきた。俺のものより少しだけ大きく見える。

「いや……いい。すぐ帰るし」
「えー見たかったのに……」
「……何が?」
「いえ、独り言です」

 湊は、ふわっと笑って荷物を全部鞄に押し込んだ。パンパンの鞄が悲鳴を上げている気がして、初めて鞄に同情した。
 全て詰め終わると湊は立ち上がり、こちらを見下ろした。
 差し込んできた光を背にして、俺は湊の影の中にすっぽりとおさまった。背中から光を受ける湊は、まるで映画に出てくる騎士そっくりだ。

「そろそろ行きますね。先輩、風邪ひかせちゃうとまずいので」
「俺、風邪ひかないけど」
「ノートどうします?俺が持っときますか?」

 手元のノートを見る。一行だけ書いた交換日記。あまりにも適当過ぎる。

「……いい。もうちょっとだけ書く。ひまだし」
「はい!じゃあ、来週の水曜日、絶対ここに来ます。先輩、すっぽかしちゃダメですよ?」

 すっぽかしそうなのは湊の方な気がする。というか電車、そろそろじゃないのか?時間にルーズというか、マイペースというか……自由な奴。

「は や く い け」
「はーい。先輩、またね」

 ひらりと手を振って傘を鞄の取っ手に引っ掛けながら、角を曲がっていった。その足取りは軽く、遅刻しているくせに楽しそうだった。
 湊の姿が見えなくなると、ようやく一息つく。
 手元に残された小さなノートを見た。たった一冊の端の折れた、小さなノート。

「……ここにいる証拠、ね」

 いつもなら散歩して帰って、スマホを見て終わる日常。でも今日はやることが一つ増えた。
 不思議とそれが嫌ではなくて、むしろ少しだけ、わくわくする。
 ノートを濡れないように持つと空を見上げた。水滴に太陽の光が反射して宝石のようにキラキラと輝いている。虹は見えなかったけど、重い雲の中から力強く光る太陽が顔を出していた。

「まぁ、悪くない」

 小さく呟く。
 雨の日も、悪くないかもしれない。
 そんなふうに思えたのは、きっと、今日が初めてだった。