0と100のあいだ

 体育祭当日。
 目が覚めた瞬間、いつもと違うことに気づいた。
 体が軽いし、頭もすっきりしている。昨日は久しぶりに、ぐっすり眠れた。途中で目が覚めることもなく、朝まで一度も意識が浮上しなかったのは、いつぶりだろうか。
 胸の奥に溜まっていた重たいものが、すっかり抜け落ちたみたいだった。
 昨日の夜ご飯も、気づけば二回もおかわりしていた。自分でも少し呆れるくらい単純だと思う。あれだけ食欲もなかったのに、今はむしろ食べすぎなくらいだ。
 結局、悩みなんてものは、抱え込んでいる時間が一番無駄なのかもしれない。ぐるぐる考えて動けなくなるより、1でも前に進んだ方が、よっぽど早く解決する。
 ベッドから起き上がり、スマホを手に取る。画面を開くと、メッセージが一件。送られてきたのは、一時間ほど前だった。
 『先輩、今日バスケ頑張ってください!俺は朝からリハなので、先に学校で待ってます』
 短い文面なのに、それだけで胸の奥がじんわりと温かくなる。前なら、一緒に登校できないだけで、少しは寂しさを感じていたかもしれない。でも今は、不思議と何も引っかからなかった。
 ちゃんと、繋がっていると知っているから。
「……よし」
 小さく呟いて、体操服に袖を通す。鮮やかな赤。普段の制服とは違う、少しだけ騒がしい色だ。
 家を出ると、朝の空気はすでに少し暑かった。それでも、どこか軽やかに感じるのは、気持ちのせいだろう。

 駅までの道はいつもと変わらない。
 二両しかない短い電車に乗り込み、揺られること数駅。降りた瞬間、視界に飛び込んできたのは、同じ赤い体操服の群れだった。
 いつもはまばらなホームが、今日は妙に賑やかだ。赤が、あちこちで揺れている。学校に近づくにつれて、その数はさらに増えるばかりだった。
 校門をくぐると、目の前の光景に一瞬、足が止まる。
 色とりどりの国旗が、空に向かって張り巡らされていた。風に揺れるたび、ぱたぱたと軽い音を立てる。
 国旗はアジアからヨーロッパ、それから見たこともないような国のものまで並んでいた。
 中央には大きな看板が一つ。真ん中には「流川高校体育祭」と書かれている。
 この大きな看板は国際科の先輩たちが作ったらしい。さすが、と言ったところか、中々に派手にデコレーションされていた。
 教室に行くまでの廊下も、いつもより騒々しい。
 女子たちは鏡を手にして、慣れた手つきでメイクをしたり、髪を巻いたりしていた。床にコンセントを広げて、堂々とコテを使っている姿に、思わず苦笑する。
 普段なら邪魔だな、と思うはずなのに、恋愛バイアスのせいで今の俺はやけに穏やかだ。
 きっと、彼女たちも一番綺麗な自分を見せたいのだろう。気になる相手がいて、その人に少しでもよく見られたくて。
 わかる、わかるぞ。なんて少しだけ大人びた気持ちで横を通り過ぎた。

「おはよー!」
 教室に向かう途中、背後から勢いよく声が飛んできた。次の瞬間、肩に重みが乗る。
「来人……おはよ」
 振り返らなくても分かる。この距離感とテンションは、あいつしかいない。
「あれ、今日は紫藤と一緒じゃないの?」
 ちらっと周囲を見回す。いつもなら、ほぼセットでいるのに。片方だけだと、どうにも落ち着かない。
「あいつ、放送委員やねん。朝からなんか忙しそうにしとったわ」
「へぇ。紫藤、そんなのやってたんだ」
「とうまー暇やろ?かまってやー」
 ぐい、とさらに体重をかけられる。
「おーもーい!離れろって」
 揺すっても、全然どかない。普段なら、ここで紫藤が無言で引き剥がしてくれるのに、今日はいない。
 俺一人じゃあ、どうにも扱えないので仕方なく、来人を引きずる形で教室に入った。
 
 教室はいつもと全然違っていた。
 机と椅子はすべて移動され、広くなった床にみんなが好き勝手に座っている。
 体育祭特有の、少しだけ解放された空気。教室の床に二人で座ると、来人がじっと顔を覗き込んできた。
「冬馬、今日なんか雰囲気違うなあ……」
「そう?別にいつもと同じだけど」
「違う、全然ちがう。なんやろ、ちょっと余裕ある感じ……」
 じーっと観察されて、居心地が悪い。
「あ!わかった」
「なに、」
 嫌な予感がする。
「さてはバスケ、一人で特訓したな?」
 全くの見当違いなことを自信満々に言う。
「ふは!なんだそれ。してないって」
「うそつけ!ええとこ見せようとか思っとるやろ!」
 肩をがくがく揺さぶられる。
「図星やな?」
「違うし」
「ほら顔赤いで!図星や!」
 くだらないやり取りなのに、妙に楽しい。でもいい加減、離してほしい。この陽キャ距離はまだ慣れそうにない。
「……朝からうるさい」
 言おうとしていた言葉が、横から差し込んだ。振り向くと、いつの間にか紫藤が立っていた。
「うわ、出た!なんや、放送しとるんとちゃうの」
「出たってなんだ。朝は集まりだけって言っただろ」
 淡々と返しながら、紫藤は無言で来人の襟首を掴む。
「ちょ、ちょっと待って!くび、首締まる!」
 そのまま、すっと引き剥がした。あまりにも自然な動きで、少しだけ笑ってしまう。
「ありがとう、紫藤。助かった」
「どういたしまして」
 紫藤は短く言って、来人の隣に座った。
「なんやねん二人して……」
「お前がうるさいだけだろ」
「ひどっ!うるさいんはチャームポイントや!」
 その後すぐにホームルームが始まった。
 担任が段ボールを抱えて教室に入ってきた。担任が配ったのは、鮮やかな赤色のハチマキだった。去年も使ったはずなのに、こうして改めて手に取ると、妙に新鮮に感じる。
「長っ……これどう結ぶんだよ」
 思わず本音がこぼれる。
 女子たちは器用に、この長すぎるハチマキを可愛くアレンジしていた。
 カチューシャ風にしたり、リボンにしたり、髪にくくりつけたり。ああいうのを見ると、ほんとに女子ってすごいなぁと感心する。
 少しでもやり方をまねようと、見よう見まねで結んでいると、隣からすっと手が伸びてきた。
「ぐちゃぐちゃになってる。貸せ」
 紫藤が淡々とした声で言い、慣れた手つきで俺のハチマキを結ぶ。きゅっと額にフィットする感覚がした。
「お、いい感じだ。ありがと」
「別に」
 短く返すその様子が、いかにも紫藤らしい。
 視線をずらすと、来人のハチマキも同じように均一な長さで結ばれていて、なんとなく頬が緩んだ。

 やがて校庭に移動し、いよいよ体育祭が始まった。
 校長の話は、驚くほど短かった。暑さのせいか、去年よりもずっと簡潔で、周りからも小さく安堵の空気が漏れる。
 正直、運動は得意じゃないので体育祭に気分がそこまで上がらない。
 でも今年は、湊のステージがある。むしろ、それさえ見られればいい、なんて思いながら競技に向かった。
 最初の試合は同学年同士。結果は……まあ、言うまでもない。
「……はや」
 体力がないばかりに、全くボールを追いかけられない。むしろボールに遊ばれている。その様子を、来人に笑われた。
「冬馬、やる気なさすぎやろ」
「やる気もないし、体力もない」
「開き直んな!」
 午前の種目が終わる頃には、体力も気力もそこそこ削られていた。
 バスケは午後にもあるはずだったが、初戦敗退した俺らにはもう出番はない。ある意味、気楽だ。
 
 昼休みになると、人混みを避けて、三人でアーチェリー場へ向かった。
 日陰を求めてうろうろした結果、空いていたのがここだけだった。
 ベンチに腰を下ろしながら、つい辺りを見回す。湊もいるかな、なんて期待したけど案の定いなかった。湊はきっと、ステージの準備で忙しい。
「はぁ~ホンマにくやしい……結局ふつーに負けたし!」
 お昼を食べ終えると来人が芝生に寝転びながら叫ぶ。
「一年も負けてたな」
 紫藤が淡々と補足する。
「結局、白羽おらんくても普通科ぼろ負けやん!」
「いまどこが勝ってるの?」
「国際科の一年と三年」
「国際科同士の決着?すごいね」
 やっぱり今年も圧倒的に国際科が優勢らしい。こういう行事ごと、ましてや体力勝負は敵わない。
「あの後輩君のクラス、やばいで。バケモン。バドミントンも国際科の三年に勝って優勝したらしい」
「え?!そうなの」
「うん。さっき放送してたん聞ぃただけやけど」
「ストレート勝ち」
 紫藤が短く言う。
「……すご」
 やっぱり、見たかった。絶対にかっこよかった。
「じゃあ俺、そろそろだから」
 ふいに紫藤が立ち上がる。
「え?なんや、もう行くん?」
「昼も放送って言っただろ」
「あーそやった、そやった。いってらー。噛むなよ」
「お前と違うから平気」
 軽口を交わしながら、紫藤はさっさと去っていった。背筋の伸びた後ろ姿は、どこか頼もしい。
 二人きりになる。来人は心地よくなったのか、寝転んだまま目を瞑った。
「来人、こんなところで寝ないでよ。俺お前起こす自信ない」
「寝てへん。光合成してん」
「なんだそれ……。人間は光合成しないし。っていうか、来人は係とか何もないの?応援団とか。そういうのやりそうなイメージあるのに」
「え!ほんま?やっぱり似合う?」
 ばっと飛び起きた。あまりの勢いに、こっちのテンションが追いつかない。
「え……うん。やってない方が意外。三年になったら団長とかやれば?めっちゃ似合う」
「んーでもなー面倒やなー。紫藤が団長で俺が副団だったらええわ。めんどいの全部まかせて応援だけ本気出す」
「はは、ほんとにそうなりそう」
 想像したら妙に現実味がある。
「今年は?やらなかったの?」
「うん。応援団になったら忙しくて、みんなで食べれへん」
「……そっか」
 その言葉に、妙に納得する。
 たぶん来人は、騒ぐのが好きなんじゃなくて、こうやって誰かといる時間が好きなんだ。
「よっしゃ!ほな、俺ちょっと紫藤邪魔しに行ってくるわ!」
 何の前触れもなく、来人がいきなり立ち上がった。
「え?やめとけって、怒られるぞ」
「ええねんええねん、あいつの真顔崩すの楽しいし!」
「絶対怒られるからな……」
「ほななー」
 言うだけ言って、来人はそのまま駆けていった。
 止めはした。止めたからな、俺は。
 ……紫藤、ご愁傷さま。

 一人残されたアーチェリー場は、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静かだった。
 遠くから聞こえる歓声と、どこかのスピーカーの音。
 それをぼんやり聞きながら、芝生の上に寝転ぶ。
 視界いっぱいに広がる空は、やけに広くて、やけに遠い。こうして一人でいるのは、嫌いじゃなかったはずなのに。
 やっぱりここで友達と食べても、一番に思い出すのは湊と食べた、あの日だった。
 あいつ、今どこにいるんだろう。
 そんなことを考えた瞬間、
「せんぱーい!」
 耳に届いた声に、心臓が跳ねた。
「やっと会えた。おはようございます」
 顔を上げると、見慣れた姿が駆け寄ってくる。
 思わず起き上がると、湊がそのまま距離を詰めてきて、反射的に一歩引いた。
「学校でそういうのしないでよ……。目立つ」
 学校で会うと妙に恥ずかしい。いや、今日は特に。
 走ってきた湊の頭には白色のハチマキが結ばれていた。すごく似合っていて、かっこいい。他の人に見せたくないなんて、独占欲むき出しな思考に自分でも呆れた。
「いいじゃないですか。ここ誰も来ませんって」
「よくない。てか、なんでいるの?部活は?」
「リハはさっき終わりました。お昼食べてから、先輩探しに来たんです」
「電話すればいいのに」
「ここにいる気がしたので」
 当たり前みたいに言われて、言葉に詰まる。隣に座ってくる距離も、いつも通りで。
 改めて湊を見ると、今日は少し雰囲気が違った。いつもより、整えられた髪。それだけで、大人っぽく見える。
「……かっこいいじゃん、今日」
 ぽつりと呟くと、湊がぱっと顔を上げた。
「え!ほんとですか?」
「うん」
「よかった……ちょっとだけ、髪セットしたんです」
「……ライブあるから?」
 口に出した瞬間、自分でも分かるくらい、ほんの少しだけ棘が混ざった。ステージの上に立つんだから、みんなの為にセットするのは当たり前だけど、それでも、言葉にできない小さなモヤモヤが胸の中にたまった。
「それもありますけど、一番は先輩に見てもらうためです」
「……じゃあ今、見た」
「はい。だから満足です」
 そう言って笑う顔が、やけにまぶしい。
 ふと手が伸びて、両手で湊の髪に触れていた。ワックスでも付けたのか、少し硬い手触り。いつもの方がふわふわで好きだ。
「わ……せんぱい?」
「別に。……これでいい」
 触れているうちに、さっきまでのモヤモヤがすっと引いていった。手を離すと、妙な満足感が残る。
 ふと見ると、湊が目を細めてこちらを見ていた。どこか嬉しそうに。
「先輩も、ハチマキ似合ってます」
「そう?真っ赤で騒がしくない?」
「そんなことないですよ?あ……結び目、綺麗ですね、」
「ああ、これは俺じゃない。紫藤がやってくれた」
「……紫藤?」
「この前一緒にいたじゃん。四人で」
「ああ、あの静かな方の人か」
 なんとなく納得してしまう呼び方に、少しだけ苦笑する。
「先輩、ちょっと」
「……?」
 くるっと後ろを向かされる。瞬間、頭の締め付けがふっと緩んだ。
「え、なに。なにしてんの?」
「いいから、じっとしててください」
 指先が触れるたびに、妙に意識してしまう。結び直されたハチマキは、さっきよりも少しだけ歪だった。
「……下手くそ」
「うるさいです。でも解けませんよ?」
 そう言って笑う顔に、何も言えなくなる。綺麗さよりも、こっちのほうがいいと思ってしまう自分がいた。
「バドミントン、優勝したって聞いた。おめでと」
「ありがとうございます。でも雫が上手かっただけなんですけどね」
「雫とペアだったの?雫も運動できるんだ」
「あの人、何でもできますよ」
「へえ……意外」
 見た目で判断するなって、こういうことなんだろうな。
「それより先輩。午後、絶対来てくださいね」
「うん」
 当たり前だ。むしろ、それしか楽しみじゃない。
「一番いい場所、取ってるんで」
 少しだけ誇らしげな顔。
「……楽しみにしてる」
「はい!」
 その返事があまりにもまっすぐで、思わず笑ってしまう。
 それからの時間は、妙に曖昧だった。
 他の競技を来人と見ていたはずなのに、内容はほとんど覚えていない。ただ頭の中にはずっと、午後のステージのことと、さっき隣にいた、あいつのことばかりが残っていた。



 やがて、体育祭は終盤へと差し掛かり、閉会式を迎えた。
 結果は、意外なほどの接戦で。
「くっそー!あとちょいやったのに!」
「去年も負けてるし。別に驚くことでもない」
 紫藤が淡々と追い打ちをかけた。
「二年連続て、どういうことやねん……」
「体力差だろ」
「いや、ざっくりしすぎやろ!」
 そんなやりとりを横目に、俺はどこか上の空だった。
 正直、勝敗なんてどうでもいい。それよりも、これから始まるものの方が、ずっと大事だった。
「はあ、ヘコむわー。あ、せや。俺らこの後グラウンド残るわ。屋台とかあるらしいで。な、紫藤」
「あっちにクレープ売ってる」
「後輩君のステージ、行けたら行くわー!」
 ひらひらと手を振って行く来人のその姿に、思わず苦笑する。行けたら行くは、来人の場合ほぼ来ないと思う。
「ほんと仲いいな……まあ、いいけど」
 二人が去ったあと、俺は一人でステージの方へ向かった。
 開始まで、まだ三十分ほどある。それなのに、用意されたパイプ椅子はすでにかなり埋まっていた。
 ふと、いろはが前に言っていたことを思い出す。
 体育祭のステージに立てるのは、軽音部の中でも一つのバンドだけだと。
 あの日見た演奏の完成度の高さは、そういう選抜の中で磨かれてきたものなのかもしれない。
 人の間を縫うようにして前へ進むと、すぐに席は見つかった。
 一番前の、端の席。椅子の上に、ブレザーと、見覚えのある小さなハンカチがちょこんと置かれている。
 中央じゃなくて、端を取ってくれたあたり湊は俺のことを熟知している。人混みが苦手なことを分かっている配置と、終わった後すぐに抜けられる位置。
 ありがたい。
 そう思いながら、そっとその席に腰を下ろした。
 背後では女子の話し声が絶えない。甲高い笑い声に、思わず席を移動したくなる。けれど、せっかく湊が取ってくれた席だから、ぐっと堪えた。
 しばらく一人で待ってると、肩に重みがかかった。
「よ!冬馬っち。おつー」
 顔を上げると、いろはがいた。その隣には湊。みんなで準備していたらしい。
「いろは……びっくりした。誰か分からなかった」
「でしょ?めっちゃイケてるっしょー!」
 高めのサイドポニーテール、目元にはキラキラと光るストーン。普段とはまるで別人みたいで、思わず見入ってしまう。
「うん、似合ってる」
 そう言うと、いろはは満足げに胸を張った。
「冬馬さん、お世辞言わなくていいよ」
 後ろから雫が顔を出す。いつの間に来ていたらしい。全く気付かなかった。
「うざっお世辞じゃないし!」
「二人とも落ち着いてください……。もうすぐ本番なんだから喧嘩しない」
 湊が間に入ってなだめている。
「あ、そうだ。そろそろ着替え入らないと。雫持ってきた?」
「……着替え?」
 なんだ、このままやるんじゃないの?と首を傾げた。
「体操服のままやるわけないでしょ?今日の衣装、かなり気合い入ってるから期待しててねん」
「……別に、期待とか」
 そう言いながらも、内心は舞い上がっていた。
「先輩、行ってきます」
 そう言った瞬間、ふわっと距離が詰まる。反応する間もなく、軽く抱き寄せられた。
「……っ、ちょ、みなと」
「この前のツケの分、充電させてください」
 耳元で囁かれて、心臓が跳ねる。
「あーあ、大胆。いいなーそれ」
 いろはがにやにやしながら覗き込んでくる。こんな大勢いる所で恥ずかしい。
 後ろの女子たちの騒がしい声も、ぴたりと止まったのが分かる。恥ずかしくて、耳まで真っ赤に染まった。
「もう、おしまい……」
「はい。着替えてきますね、待っててください」
 あっさり離れていくのに、なぜか少しだけ名残惜しい。
 三人は紙袋を持って、更衣室の方へ向かっていった。取り残されたみたいに一人になる。
 心拍数のおかしい心臓と赤くなった耳はしばらく治りそうにない。
 そのときだった。
「ねえ」
 不意に、背後から声をかけられる。
 反射的に振り返ると、派手に装飾されたメガホンを肩にかけた、二人組の女子が足を組んで座っていた。
 片方は金髪に派手なネイル。もう片方は茶髪の髪にリボンが編み込まれていた。キラキラのシールでびっしり飾られたメガホンには、「三年二組しかかたん」と書かれている。
 先輩だ。しかも、どう見ても中心にいるタイプ。
「あんた、何?」
 リボンの女の子の見た目からは想像できないほど鋭い声だった。いきなりすぎて、一瞬固まってしまう。
「……え?」
「いや、“え?”じゃなくてさ。うける」
 隣の金髪の女の子が肩をすくめて馬鹿にしたように笑う。リボンの女の子は、組んでいた足を解き、ぐいっと近づいてきた。
「ってかそれ、こっちのセリフなんだけど。あんた、不登校だったやつだよね?うちしってる。あんたさ、湊とどういう関係?」
 空気が一瞬で張り詰めた。逃げ場のない視線が、じわじわと肌にまとわりつく。
「あ、いや……」
 言葉を探すけど、ちょうどいい答えなんて見つからない。
 俺にとって湊は「好きな人」で。でも付き合っているかと聞かれたら付き合ってはいない。そんな曖昧な関係を、こんな場でどう説明すればいいのか分からなかった。
 それに俺たちは、そういうの言わなくてもなんとなく伝わっていた。
「はっきりしないね」
 くすっと笑われる。
「ねえ、あんた勘違いしてない?湊ってさ、優しいじゃん?きもい勘違いする奴多いんだよねー。ほんと困る」
 胸の奥に、鈍い何かが刺さる。
「そうそう。ていうかー」
 もう一人が口を挟む。
「あんたみたいなのが、隣にいていいタイプじゃないでしょ。わかんなかった?」
「引きこもり陰キャって感じだし。正直、釣り合ってなくない?湊、優しいから嫌がらないけどさ、ほんとはいい迷惑してると思う。付きまとわないでくれる?湊が可哀そう」
「それな~。湊くんならーもっと、うちらみたいな“映える”子といるべきでしょ?それに、湊ならインスタ映えるし」
「きゃはは!おまえインスタ目当てかよ!」
 二人の笑い声とメガホンを叩く音が重なる。軽いのに、やけに頭の中に響く。
 ——知ってる。自分でも、分かってる。
 釣り合ってないことも、あいつが目立つ存在なことも。だからこそ、距離を取ろうとした。
 でも、それでも。
 あいつが好きだって言ってくれた事実まで、否定されたくはなかった。
 口を開こうとして、やめる。
 どうせ、言い返したところで伝わらない。そういう種類の相手だと、知っている。ここで言い返すのは無意味だ。
 落ち着いて前を向く。視線だけを落とした。
 ……湊はモノじゃないし。勝手なこと言うな。ムカつく。
 言い返したいのに、気づけば拳を強く握っていた。爪が食い込むのも気づかずに。
 せっかくのステージ。今日、一番楽しみにしていた時間なのに、こんな人たちに、ぐちゃぐちゃにされたくない。
 そのとき。
 「せんぱい」
 聞き慣れた声が、空気を切り裂いた。顔を上げると、いつもと違う雰囲気の湊がいた。
 白を基調に、差し色の赤が入った衣装。まるで舞台の上から、そのまま降りてきた騎士みたいだ。
「お待たせしました!じゃーん!先輩、どうですか……って、先輩?」
 すぐにしゃがみ込んで、目線を合わせてくれる。顔が近い。甘い琥珀色の瞳が、まっすぐこちらを覗き込む。
 さっきまで必死に抑えていたものが、零れ落ちそうになった。
「大丈夫ですか?顔、ちょっと……」
「……平気」
 声が、少しだけかすれる。
「ほんとに?人多いですか?どこかで休みます?」
「……違う」
 なんで、今来るんだよ。タイミングが悪すぎる。
 目の前に現れた、湊は衣装も相まって、ピンチの時に現れるヒーローのようで、すごくかっこいい。やっぱり俺には釣り合わない、なんてまた思ってしまう。もうこんなこと考えたくないのに。
「ねーねー湊くん!」
 後ろからさっきよりも高く、甘えたような声が割り込んできた。
「その衣装めっちゃかっこいいじゃん!うちらと写真撮ろーよ」
「インスタ載せたらバズるって絶対!」
 さっきの二人だ。
 湊は一瞬だけそちらに目を向けて、すぐにいつもの甘い笑顔を浮かべた。
「あ、すみません。今ちょっと……」
「えー?なんで?」
「そいつと話してる時間はあるじゃん」
「……」
 こんなこと言わせてしまう自分が情けなくて、申し訳なくて。ぽつりと一滴、我慢が流れ落ちた。
「ねーこいつ普通科の不登校だった奴でしょ?もっとちゃんと友達選びなよー」
 その瞬間。湊の表情が、消えた。ほんの一瞬だったのに、はっきり分かるほど。
「…………ごめん。先輩、嫌な思いさせた。場所、変えましょ」
 静かに言って、手を差し出してくる。その声は、落ち着いていたけど、どこか冷たかった。
 俺が湊の手を取るよりも先に、ぐっと湊の方に引き寄せられた。
「え、ちょっと待ってよ」
「あたし、まだ話終わってないんだけど?」
 背後で声が上がる。それでも湊は振り返らなかった。
「ねえ、湊」
 もう一度呼ばれる。
「うちらの方が似合うって、みんな言ってるけど?」
 足が止まる。それから、ゆっくり振り返った。その目は、見たことがないくらい冷えていた。
 怒っている。あの、めちゃくちゃに優しい湊が。
「あのさ。悪いけど俺、そういうの無理。他人見下して、自分の価値上げる人、好きにならない」
「先輩は、俺が選んだ人なんで」
 その言葉に、息が止まった。
「それだけで十分でしょ」
 静かにそう言って、今度こそ背を向ける。
「ちょっと、湊。女の子に言いすぎ……俺別にへいき、」
「平気じゃない。大切な人のこと悪く言われて、黙っていられるほど、俺は優しくないです」
 手を引かれるまま、外に連れていかれる。
「は?え?まって、ライブは?みなと、?ちょっと、」
 ざわめきが遠ざかる。それと同時に、胸の奥に残っていた嫌な感情も、少しずつほどけていく。
 なんだよ、ずるい。かっこよすぎるだろ。
 
 連れてこられたのは、観客席の裏側だった。
 さっきまで見ていた華やかな場所とは打って変わって、ごちゃごちゃした空間だった。
「おー、遅せーぞ湊。もうそろ始まる……って冬馬さん?」
 振り向くと、雫が機材の前でしゃがみ込んでいた。衣装の細かいパーツを調整しているらしい。近くで見ると、その衣装は想像以上に凝っていて、布の重なりや装飾の一つひとつが丁寧に作り込まれているのが分かる。
 そして、視線のやり場に若干困る。
 腹部ががっつり開いたデザイン。そこから、へそのピアスがちらりと覗いていた。似合いすぎていて余計に困る。
「ごめん雫。ちょっと色々あってさ。先輩ここに置いとく。見といて」
「お、まじ?」
「え!いやいや、俺いいから、うしろで立って見てる……」
「だめ。絶対ここにいて」
 それだけ言い残して、湊はまたどこかへ走っていく。嵐みたいなやつだ、本当に。
「……」
 呆然と立ち尽くしていると、雫が軽く肩をすくめた。
「ま、ここから見た方が一番近いし、音もいいけどね」
 そう言って、椅子の上に置かれていた機材をどかしてくれる。
「そこ、使えば?」
「あ、ありがと……」
 言われるまま腰を下ろす。
 ステージの裏。ほんの数メートル先には、あいつが立つ場所がある。
「あれ?冬馬ここで見んの?」
 軽やかな声とともに、いろはが現れた。
 思わず目を見張る。
 さっきとは違う、完全なステージ仕様の姿だった。
 ハートのトランプ柄のスカートに、白のジャケット。動くたびにふわりと揺れる布が、光を受けてきらめく。目元にはさっきのシールはなく、代わりに赤いハートが描かれていた。
「あ、ごめん。邪魔だよね、」
「え?全然?それよりさ、どうよ。この衣装」
 いろはが、くるっと一回転して見せる。正直すごく似合う。というか、みんな、めちゃくちゃ似合っていて、かっこいい。
「……すごい、似合ってる。ていうか、こんな衣装よく見つけたね。みんなイメージにピッタリ」
 素直に口から出た。
「えー!そんなほめちゃう?よかったねー雫」
 いろはがニヤニヤして雫を見た。
「うるせぇ」
 雫は顔を上げずに返す。けど、どこか誇らしげにも見えた。
 何が良かったのか分からず頭をかしげていると、照明がふっと落ちた。
「あ、始まるね」
「あぶな、間に合った……セーフ」
 息を切らしながら、湊が戻ってきた。
「アウトだろ」
 雫が即座に突っ込む。
「せんぱい」
 湊が一歩、近づいてくる。
「一番近くで、ちゃんと見ててくださいね」
 そう言って、ぽん、と頭に手が乗った。その一瞬の仕草で、全部持っていかれた気がした。
 こんなのライブどころじゃない。そう思ったのに。
 曲が始まると、それだけで意識が一気に引き戻された。
 スポットライトの中に立つ湊は、さっきまで隣にいたやつと同じ人間とは思えなかった。それでも、後ろから聞こえてくるギターの音は、間違いなく湊のものだ。
 耳に届くたびに、胸の奥をまっすぐ叩いてくる。指先の動き一つ、視線の流れ一つ、全部が鮮明に焼き付く。
 気づけば、息をするのも忘れていた。
 音に呑まれる、なんて言葉があるけど、まさにそれだった。思考も感情も、全部持っていかれて、ただ見ていることしかできない。
 かっこいい。
 それだけじゃ足りないのに、他にぴったりの言葉が見つからなかった。
 曲が終わって、歓声が上がる。それでも、しばらく現実に戻れなかったのは、体の奥に残った振動のせいだ。

 ライブが終わると、次の準備が始まった。
 湊たちは手際よく機材を片付けていて重そうな機材も、いろはが軽々と運んでいた。
 そのまま流れるように外へと出た。
 次はダンス部の発表らしい。いろはと雫は、そのまま残って観ると言っていた。
「じゃあ、今日はお疲れさま!また来週」
「はい、お先に」
 湊と一緒に軽く手を振って別れる。そのまま、二人で帰ろうと歩き出したときだった。
「おーい、冬馬!」
 聞き慣れた声が後ろから飛んでくる。
 振り返ると、来人と紫藤が駆け寄ってきていた。
「あ、来人と紫藤。お疲れ」
「とうまーどこいたん?湊のライブ間に合ってんけど、冬馬探してもおらんかったし」
「先輩ちょっと体調悪くて、裏で休んでもらいました」
 どう言うか迷っていると、すっと湊がフォローしてくれた。
 その声を横で聞きながら、思わず視線を逸らした。別に、知られて困るわけじゃないけど……。
「え!そりゃ大変やったね、もう平気なん?」
「冬馬、大丈夫か」
 紫藤が、いつも通りの落ち着いた声で聞いてくる。その一言だけで、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
「うん、良くなった」
「よし、冬馬。俺に任せとけ!笑わせたる——」
「いいです」
 気合を入れて両腕を伸ばした来人に間髪入れず、湊が遮った。
「先輩は俺が笑わせるんで」
「なんやそれ!俺だって笑わせたいしー」
 来人が大げさに抗議する。そのやり取りが可笑しくて、少しだけ肩の力が抜けた。
「ま、でも白羽おるなら平気やな!」
 パシパシと肩を叩かれる。
 そのたびに、湊が露骨に眉をひそめているのが分かって、少しだけ可笑しくなる。
「うん。本当にもう平気、ありがと」
 本当に、そう思えている。みんなのおかげだ。
「ほんま心配したんやで?まさか裏いるとは思わへんかったわ……」
「ごめんな、気づかなくて」
 紫藤が静かに言う。
「ほんとですよ」
 横から、少し拗ねた声。
「みなと」
 軽く背中を叩く。それだけで、少しだけ空気がやわらぐ。
 気づけば、自然に笑っていた。
 さっきまでのざらついた感情は、もう残っていない。代わりにあるのは、いつも通りの、少し騒がしくて、でも居心地のいい空気だった。
 こうして笑っていられるなら、それでいい。
 隣にいるのがこいつで、周りにこいつらがいるなら。たぶん、もう大丈夫だ。