その日の放課後、気づけば足は国際科の棟に向かっていた。
理由なんて、もう分かっている。分かっているのに、認めたばかりのその感情を、まだうまく扱えない。
空教室の前に静かに立つ。
教室の中からは、ギターの音と、ドラムのリズムが混ざって聞こえてくる。前に来たときと同じ、にぎやかな空気。
……その中に、湊がいる。
ドアノブに手をかけて、一瞬だけ止まる。
逃げるなら、今だ。でも、ここで逃げたら、たぶんずっとこのままだ。
小さく息を吐いて、扉をノックした。
「……あの、湊いる?」
一瞬、音が途切れる。
中から視線が集まるのが分かって、少しだけ居心地が悪い。すぐに扉が開いて、見慣れた顔が現れた。
「え、せ、先輩……?」
驚いたように目を見開く。その反応に、胸の奥が少しだけ痛くなる。
「どうした、の……?」
「……ちょっと、話したいっていうか、」
ぎこちない言葉しか出てこない。それでも、ここまで来たんだから引き返せない。
すると、湊の後ろからひょこっと、いろはが顔を出した。
「お、来た来た」
ずっと待っていたかのような口ぶりで話した。
「冬馬そいつ、そのまま連れてっていいよー。どうせ今の湊、使い物にならないし」
「え?」
湊が困惑した声を上げ、いろはを見る。
「ちゃんと話してきなよー?ほら、行った行った」
軽い調子で言いながら、背中を押される力は強い。
「ちょ、っと、まって、え?なになに、いろは先輩、なんか言いました?」
「別にー?心当たりあるならそっちで考えなー」
ひらひらと手を振るいろは。そのまま半ば強引に外へ押し出されて、ぴしゃッと扉が閉まる。
廊下に、二人きりぽつんと取り残された。
「……」
さっきまでの音が嘘みたいに静かだった。
どうしよう。勢いで来てしまった。いや、来たはいいけど……何から言えばいいのか分からない。
「えっと、その……。とりあえず、駅まで行く?」
「……はい」
短く返ってきた返事。その声色はいつもより、確かに元気がないように思えた。それだけで、胸が締めつけられる。
並んで駅まで歩き出す。
歩く距離はいつもと同じなのに、どこか心の距離が遠い。すぐそこにいるのに、もどかしい。前は、こんな空気じゃなかったのに。くだらないことで笑って、適当に話して、それでよかったはずなのに。
その後も、何も言えないまま、電車に乗った。ガタン、ガタンと揺れる音だけが、やけに大きく響く。隣を見る勇気がなくて、首が固まったように窓の外ばかり見ていた。流れていく景色が、やけに速く感じる。
早く言わなきゃ。ちゃんと、話さないと。伝えないと。
そう思うのに、喉が詰まる。
もし、これを言って、全部壊れたら。そしたら俺は、また湊のいない日々に戻る。そんなのもう耐えられる気がしない。
ふと、勇気を出して顔を上げると、湊がぼーっと床を見ていた。置いて行かれた犬のような表情に胸の奥がじくっと痛む。
結局、勇気は出ず、何も言えないまま電車は最寄り駅に着いた。
「降りる」
「あ、はい……」
短い会話だけして、改札を出る。
外に出ると、夕方の風が、じんわりと肌に触れた。昼間の熱気は少しだけ引いて、風が通るたびに、心地いい涼しさに心が揺らぐ。
それでも、空気は梅雨の空のように重たいままだった。
並んで、家の方向へ歩く。いつもの帰り道を。
このままじゃダメだと分かってるのに、足が勝手に進んでいく。
言えないまま、終わる。そんな未来が、頭に浮かんだ。
「……あのさ」
ようやく、声が出た。湊が少し驚いたようにこちらを見る。
「久しぶりに……公園、行きたい、んだけど」
視線を少し逸らしながら言う。
あの場所なら、ちゃんと話せる気がした。いや、ただの逃げかもしれない。でも、一旦逃げてもいい。少しでも動けば、それは進んだことになるって、あの時教えてくれたから。
「……はい」
少しの沈黙の後、静かな返事が返ってきた。
その一言で、少しだけ救われた気がした。
湊と並んで、公園へ向かう細い田んぼ道を歩く。
街灯はほとんどない。出てきた月明かりが辺りをぼんやりと照らしてくれる。整備されない田んぼ道は、薄暗くて一人で歩くとかなり怖い。今は、隣にいる湊の息遣いにどうしようもなく安心した。
公園の入り口に着いた。
見慣れた石段が目の前に続いていて、小さな街灯がぽつぽつと遠感覚に光っている。その光だけを頼りに一段、一段、ゆっくりと上る。
そのすぐ隣で、湊も静かについてくる。チラチラと俺の足元を気にするような、わずかな間。
――ほんとに、変わらないな。
この公園で、初めて会ったあの日。最初は変な奴だと思った。図々しくて、俺とは全く違う世界に住んでいる陽キャの後輩。それくらいの認識だったのに、いつの間にかこんなにも俺は……。
「あの、先輩……なんで急に、」
隣から、遠慮がちな声が落ちる。
「今日、話したくて」
短く答えた。それ以上は、まだ言えない。湊も、特に何も言わずについてきてくれた。
石段を上りきると、見慣れたベンチが目に入る。薄暗い中にぽつんと置かれていて、周りには誰もいない。
俺の……いや。俺と湊の、お気に入りの場所。
風に揺れる葉の音に混じって、スズムシの鳴き声が高く響いている。
こんなに静かなのに、心臓の音だけがやけに大きい。湊に聞こえているんじゃないだろうか、と思ってしまうほど。
ベンチからは街の明かりがぽつぽつと見えた。派手じゃない、控えめな光。数も少ないし、都会みたいにきらびやかじゃないけど。
それでも。ここで見る景色が、一番きれいだと思った。
隣に、湊がいるから。
「……今まで、その」
口を開く。声が、少しだけ震えた。
「ごめん。何も言わずに、避けて」
言い終わると、少しだけ沈黙が落ちる。
「……はい」
責めるでもなく、ただ受け止めるみたいな、短い返事。それが逆に、苦しい。
「俺、湊と一緒にいるとすごく楽しいのに……なんか、イライラするし、落ち着かなくて」
隣の気配が、少しだけ動いた。
「友達なのに、なんでだろって思ってた。この前、部活見せてもらったとき、余計にそれが強くなって。俺の知らないところで、普通に楽しそうにしてるの見て……」
言葉が詰まる。
「……なんか、嫌で。ごめん、意味分かんないこと言ってるのは分かってる。でも、俺といる時間なんて、湊の中の、ほんの一部でしかないのに、それが嫌だとか思って」
指先が、無意識にぎゅっと握られる。
「……めんどくさいって、自分でも思う。でも、それで分かった」
ゆっくりと顔を上げる。
「なんでこんなふうになるのか」
ジッと目を見つめる。指先は震えている。怖いけど、でももう逃げたくない。今度は絶対に離したくないから。
「…………湊のこと、好き」
世界から音が消えた。
返事が、怖い。でも、それでも。ちゃんと伝えたかった。
隣にいる、大好きな人に。
隣で、深いため息が落ちる。同時に、両手で顔を覆う気配。その反応に、思わず肩がびくっと跳ねた。
拒絶されたのかと思って、一瞬で血の気が引く。
やっぱり、言わなきゃよかったかもしれない。そんな考えがよぎった、そのとき。
「……ほんと、ずるいです。せんぱい」
低くこぼれた声は、思っていたのと違っていた。
次の瞬間。
ぐっと、腕を引かれる。そのまま、強く抱きしめられた。
「……っ」
息が詰まる。
頬に、ふわっと柔らかい髪が触れた。体温がそのまま伝わってきて、全身が一気に熱くなる。
心臓が、うるさい。壊れるんじゃないかってくらい、暴れてる。
「充電させてください」
耳元で、低く囁かれる。
「俺、本当に……しんどかったんです」
その声は、少しだけ震えていた。
「……うん。ごめん」
「いいです。もう、離さないので」
少しだけ腕に力がこもる。
ぎこちなく、でも確かに、自分の手も、そっと湊の背中に回す。触れているだけで、心臓が落ち着かないのに、それでも離したくないと思ってしまう。
どれくらい二人でそうしていたのか分からない。少しずつ、恥ずかしさが追いついてきた頃。
「……もう、いいでしょ、充電」
なんとか声を絞り出す。
「全然足りないです」
「いや、もう無理。俺がもたないから」
「……じゃあ、ツケにしといてあげます」
やっと腕が離れて、少しだけ距離ができる。それでも、さっきまでの熱が残っていて、落ち着かない。
なんとなく誤魔化すみたいに口を開いた。
「……ずっと思ってたんだけど、なんで俺なの。第一印象、最悪だっただろ」
あの日のことは今でも鮮明に覚えている。あれで好かれる要素なんて、どこにもなかったはずだ。俺だったら二度と話しかけない。
「ひとめぼれだったんです」
「……顔ってこと?」
思わずそう返してしまう。
「顔も、先輩の一部でしょ?今は顔も、性格も、声も行動パターンも。全部好きです」
「……」
外見だけかと思って、少しムッとしていたはずなのに。
それ以上のものを、あっさり並べられてしまって、何も言い返せなくなった。
「それに、先輩のこと見た瞬間、運命だって思いました」
「はぁ?なにそれ、変なの」
運命とか、そういうのは信じない。そんな都合のいいもの、あるわけない。
でもそう言われて、嫌な気はしなかった。むしろ少しだけ、嬉しくて。その運命なんてものを信じてもいいかも、なんて思った。
ふと視線を上げると、湊が楽しそうに目を細めていた。
「先輩、俺の第一印象は?どうでした?」
「湊の?なんだろ……犬っぽい?」
「えー犬?」
一気に不満そうな声になる。
「カッコいいとか、イケメンとかじゃなくて?」
肩を落とす仕草が、あまりにも分かりやすい。その様子が可笑しくて、思わず吹き出した。
「ふは、今のお前、めっちゃ犬っぽい」
「……俺、かっこいいって思われたいのに」
「うそ。かっこよかった。ちゃんと」
なんとなく、ベンチの上に置かれていた湊の手に、自分の手を重ねる。触れた瞬間、びくっと小さく震えたのが分かった。そのまま、逃がさないように、そっと指を絡める。
「……先輩ってほんと。わざとですか?」
少し掠れた声が落ちる。
「なにが」
「こういうとこです」
「さあ」
そう言いながら、湊の指も、ゆっくりと握り返してきた。
次の瞬間、後頭部にやわらかく、反対の手が添えられる。そのまま、一秒もしないうちに、引き寄せられた。
——近い。今までで一番、距離が近い。おでこが触れそうなくらい。それなのに、綺麗な琥珀色の瞳からは催眠でもかかったかのように逃げられなかった。
「先輩、好き」
まっすぐに言われる。逃げ場なんて、最初からなかった。
「知ってる。……近い、離れて」
「いやです」
即答だった。
「先輩と、ずっとこうしてたい」
さっきまでの軽さなんてどこにもなくて、ただ、まっすぐで、重い。
……こんな顔、ずるい。
風の音も、虫の鳴き声も、全部遠くなる。自分の視界には、湊しか見えない。
「先輩も、俺のこと、好きですか」
好きなんて二文字じゃ足りない。でも、それ以上の言葉も見つからない。
だから――代わりに手を伸ばした。
触れるか触れないかの、その境目で、言葉の代わりに想いを重ねた。
その一瞬で俺の全部が伝わる気がした。
離れたあと、しばらく動けなかった。呼吸の仕方を忘れたみたいに、息が浅くなる。視線を逸らして、少しだけ顔を背ける。
……伝われ。
「……っ、」
隣で、小さく息を呑む音がする。
ずいぶん大胆なことをしてしまったかもしれない。引かれてないだろうか。
「……やば」
ちらっと見ると、湊が自分の顔をまた手で覆っていた。そのまま、深く息を吐く。
「無理……心臓もたない」
「……こっちのセリフ」
思わず返すと、湊がゆっくりと手を下ろした。その顔は、いつもよりずっと余裕がなくて、でも、嬉しそうで。
「せんぱい」
「なに」
そう言って、また距離を詰めてくる。今度はさっきよりも、迷いがない。
「もう一回していいですか」
「……だめ」
即答した。これ以上は、さすがに耐えられない。
「なんで」
「今日はだめ、」
そう言うと、湊がくすっと笑った。
「じゃあ、今日は、我慢します」
少しだけ意地悪な声だった。
「……でも、ちゃんと伝わりました」
静かに言われて、言葉に詰まる。
誤魔化せない。さっき、自分で全部やってしまったから。
「……そう」
小さく、頷いた。その瞬間、予告もなく、またぎゅっと抱きしめられた。
「やっとだ」
耳元で、ほっとしたような声が落ちた。
「ほんと、長かった……」
「……ごめん」
「いいです」
すぐに返ってくる。
「もう、ちゃんと捕まえたんで」
その言葉に、少しだけ笑った。逃げるつもりなんて、もうないのに。
夜風が、またふたりの間を抜けていく。
「は……くしゅ!!」
こんなにもいい雰囲気なのに、俺のくしゃみは空気が読めない。もっとくっついていたかったけど、夏が過ぎた風は思ったより冷えていた。
「先輩、これ着てください」
鞄からブレザーを取り出すと、肩にかけてくれた。少し大きいけど、寒かったから、じっとしてた。ブレザーから、ほんのり甘い香りがする。
「そろそろ帰りますか。風も冷たくなってきましたし」
「……うん」
並んで歩く距離は、いつもと同じくらい。肩が触れそうで触れない、そのくらいの間隔。でも、さっきまでとは決定的に違っていた。
心の距離が、近い。それが分かるだけで、どうしようもなく落ち着かないのに、嫌じゃなかった。
「あ、そういえば先輩。体育祭の種目、何にしたんですか?」
「あー……バスケ」
一瞬の間。それから、分かりやすく沈んだ声が返ってきた。
「バスケか……」
「なに、その反応」
横を見ると、少しだけ口を尖らせている。暗がりの中でも、その表情は妙にはっきり分かった。
「先輩、バスケ選ばなさそうだったんで、俺バドミントンにしちゃいました」
「なんだそれ」
思わず笑う。勝手に予想されて、勝手に外されている。
「俺のクラス、余ってたのがバスケしかなかった」
「えー……」
「文句言うな」
そう言いながらも、少しだけ惜しいと思っている自分がいた。一緒の種目だったら、なんて。
「見たかったなー、先輩の」
ぽつりと落とされた言葉に、胸が少しだけ揺れる。
……俺も。そう思ったのに、口には出さなかった。
「……別に、大したもんじゃないよ」
「先輩がやるなら、なんでも見たいんです」
しばらく、静かな時間が流れる。靴音だけが、規則的に夜の道に響いていた。
やがて、湊がまた口を開く。
「先輩。体育祭後にライブやるんですけど、来てくれますか?」
顔を向けると、暗がりの中でも分かるくらい、目がきらきらしていた。期待がそのまま形になったみたいな、まっすぐな視線。
……やっぱりなんか可愛い。
「うん」
考えるまでもなかった。
その一言で、湊の表情がぱっと明るくなる。
「やった。でも、やばい……先輩に見られてるって思うと、今から緊張してきた……」
「はは、なにそれ」
さっきまで余裕な顔してたくせに。
「監視しとくから」
「え!?ほんとにやばいんですけど……」
本気で焦った声に、思わず吹き出す。
「あはは、嘘。ちゃんと見てるから」
そう言うと、湊がぴたりと黙った。
……あれ。
少ししてから、そっと横を見る。湊は、こっちを見ていなかった。少しだけ耳が赤い気がする。
「……なに」
「いえ、別に」
そっけない返事。でも、その声は少しだけ揺れていた。
それから、しばらく湊はこっちを見なかった。何も言わなくても、隣にいることが自然になっている。
街灯の下を通るたびに、影が伸びて、重なって、また離れる。その繰り返しが、妙に綺麗に見えた。
「……先輩」
ぽつりと、また呼ばれる。
「なに?」
「今日のこと、後悔、してないですか」
少しだけ、不安そうな声だった。
その言葉に思わず足を止める。さっきまであんなに強気だったのに、今は少しだけ弱く見えた。
「してない。むしろ、もっと早く言えばよかったって思ってる」
口に出した瞬間、自分でも少しだけ驚いた。こんなにまっすぐな言葉が、こんなに自然に出てくるとは思っていなかった。
随分と遠回りをした気がする。避けて、誤魔化して、気づかないふりをして。それでも結局、同じ場所に戻ってきた。
「……よかった」
夜は静かだった。
遠くで車の走る音が、かすかに聞こえるくらいで、あとは虫の声と、風が葉を揺らす音だけ。
その風が、ふたりの間をすり抜けていく。
「じゃあ。明日、楽しみにしてるから」
「はい。先輩」
その呼び方も今までとは、どこか違って聞こえる。
ふいに、湊が一歩近づいた。湊の指先が、そっと髪に触れる。
「な、なに……」
思わず肩が強ばる。また前みたいに整えられるのかと、少しだけ身構えた。
けれど次の瞬間、予想とは違う感触が落ちてきた。やわらかくて、あたたかいものが、そっと頭に触れる。
「……?」
状況が理解できずに顔を上げると、湊が悪戯っぽく笑っていた。
「先輩にしてやられたので、仕返し」
にこっと、いつもの無邪気な笑顔。それなのに、やってることは全然可愛くない。
じわじわと熱が上がってくる。耳から顔にかけて、一気に熱くなるのが分かった。
「顔、真っ赤ですよ」
「うるさいな」
そっぽを向く。でも、その反応を見て、湊はますます楽しそうに笑っていた。
「明日、寝坊すんなよ」
「はい。先輩、おやすみ」
「……おやすみ」
別れ際、ほんの少しだけ名残惜しさが残る。
顔の熱が引くのを待ってから、玄関の扉を開けた。その瞬間、ふわりと味噌汁の匂いが迎えてくる。
「あら、おかえり。今日は遅かったわね」
リビングから、母の声がする。
「うん。ちょっと……寄り道してた」
靴を脱ぎながら答えると、母が顔を覗かせた。
「珍しいじゃない。帰ってきたら家にいないから、少し心配したのよ?最近よく出かけてるわね」
「そうかな」
「前は部屋にこもってばかりだったのに」
少しだけ、言葉に詰まる。
「湊と、話してた」
「湊って……あの、公園で会った子?」
「そう」
母は一瞬だけ目を丸くして、それからやわらかく笑った。
「そう。あの子なのね」
どこか納得したような、安心したような表情だった。
「最近の冬馬、少し変わったと思ってたの。前よりも表情が明るくなったし、ちゃんと外にも出るようになって」
「……」
「いい出会いをしたのね」
その言葉に、指先がじんわりと温かくなった。
「うん……そうかも」
軽くシャワーを浴びて部屋に戻ると、すぐベッドに横になった。
今日のことが、頭の中で何度も繰り返される。公園での会話も、触れた感触も、最後の仕草も。一つ一つ思い出すたびに、心臓が騒がしくなる。
明日の体育祭が、こんなにも楽しみになるなんて思わなかった。いろはに感謝しないと。
目を閉じると、自然と笑みがこぼれる。
これから、きっと色んなことがある。うまくいかないことも、すれ違うこともあるかもしれない。
それでも隣に湊がいるなら、大丈夫だと思えた。
ああ、明日が待ち遠しい。
理由なんて、もう分かっている。分かっているのに、認めたばかりのその感情を、まだうまく扱えない。
空教室の前に静かに立つ。
教室の中からは、ギターの音と、ドラムのリズムが混ざって聞こえてくる。前に来たときと同じ、にぎやかな空気。
……その中に、湊がいる。
ドアノブに手をかけて、一瞬だけ止まる。
逃げるなら、今だ。でも、ここで逃げたら、たぶんずっとこのままだ。
小さく息を吐いて、扉をノックした。
「……あの、湊いる?」
一瞬、音が途切れる。
中から視線が集まるのが分かって、少しだけ居心地が悪い。すぐに扉が開いて、見慣れた顔が現れた。
「え、せ、先輩……?」
驚いたように目を見開く。その反応に、胸の奥が少しだけ痛くなる。
「どうした、の……?」
「……ちょっと、話したいっていうか、」
ぎこちない言葉しか出てこない。それでも、ここまで来たんだから引き返せない。
すると、湊の後ろからひょこっと、いろはが顔を出した。
「お、来た来た」
ずっと待っていたかのような口ぶりで話した。
「冬馬そいつ、そのまま連れてっていいよー。どうせ今の湊、使い物にならないし」
「え?」
湊が困惑した声を上げ、いろはを見る。
「ちゃんと話してきなよー?ほら、行った行った」
軽い調子で言いながら、背中を押される力は強い。
「ちょ、っと、まって、え?なになに、いろは先輩、なんか言いました?」
「別にー?心当たりあるならそっちで考えなー」
ひらひらと手を振るいろは。そのまま半ば強引に外へ押し出されて、ぴしゃッと扉が閉まる。
廊下に、二人きりぽつんと取り残された。
「……」
さっきまでの音が嘘みたいに静かだった。
どうしよう。勢いで来てしまった。いや、来たはいいけど……何から言えばいいのか分からない。
「えっと、その……。とりあえず、駅まで行く?」
「……はい」
短く返ってきた返事。その声色はいつもより、確かに元気がないように思えた。それだけで、胸が締めつけられる。
並んで駅まで歩き出す。
歩く距離はいつもと同じなのに、どこか心の距離が遠い。すぐそこにいるのに、もどかしい。前は、こんな空気じゃなかったのに。くだらないことで笑って、適当に話して、それでよかったはずなのに。
その後も、何も言えないまま、電車に乗った。ガタン、ガタンと揺れる音だけが、やけに大きく響く。隣を見る勇気がなくて、首が固まったように窓の外ばかり見ていた。流れていく景色が、やけに速く感じる。
早く言わなきゃ。ちゃんと、話さないと。伝えないと。
そう思うのに、喉が詰まる。
もし、これを言って、全部壊れたら。そしたら俺は、また湊のいない日々に戻る。そんなのもう耐えられる気がしない。
ふと、勇気を出して顔を上げると、湊がぼーっと床を見ていた。置いて行かれた犬のような表情に胸の奥がじくっと痛む。
結局、勇気は出ず、何も言えないまま電車は最寄り駅に着いた。
「降りる」
「あ、はい……」
短い会話だけして、改札を出る。
外に出ると、夕方の風が、じんわりと肌に触れた。昼間の熱気は少しだけ引いて、風が通るたびに、心地いい涼しさに心が揺らぐ。
それでも、空気は梅雨の空のように重たいままだった。
並んで、家の方向へ歩く。いつもの帰り道を。
このままじゃダメだと分かってるのに、足が勝手に進んでいく。
言えないまま、終わる。そんな未来が、頭に浮かんだ。
「……あのさ」
ようやく、声が出た。湊が少し驚いたようにこちらを見る。
「久しぶりに……公園、行きたい、んだけど」
視線を少し逸らしながら言う。
あの場所なら、ちゃんと話せる気がした。いや、ただの逃げかもしれない。でも、一旦逃げてもいい。少しでも動けば、それは進んだことになるって、あの時教えてくれたから。
「……はい」
少しの沈黙の後、静かな返事が返ってきた。
その一言で、少しだけ救われた気がした。
湊と並んで、公園へ向かう細い田んぼ道を歩く。
街灯はほとんどない。出てきた月明かりが辺りをぼんやりと照らしてくれる。整備されない田んぼ道は、薄暗くて一人で歩くとかなり怖い。今は、隣にいる湊の息遣いにどうしようもなく安心した。
公園の入り口に着いた。
見慣れた石段が目の前に続いていて、小さな街灯がぽつぽつと遠感覚に光っている。その光だけを頼りに一段、一段、ゆっくりと上る。
そのすぐ隣で、湊も静かについてくる。チラチラと俺の足元を気にするような、わずかな間。
――ほんとに、変わらないな。
この公園で、初めて会ったあの日。最初は変な奴だと思った。図々しくて、俺とは全く違う世界に住んでいる陽キャの後輩。それくらいの認識だったのに、いつの間にかこんなにも俺は……。
「あの、先輩……なんで急に、」
隣から、遠慮がちな声が落ちる。
「今日、話したくて」
短く答えた。それ以上は、まだ言えない。湊も、特に何も言わずについてきてくれた。
石段を上りきると、見慣れたベンチが目に入る。薄暗い中にぽつんと置かれていて、周りには誰もいない。
俺の……いや。俺と湊の、お気に入りの場所。
風に揺れる葉の音に混じって、スズムシの鳴き声が高く響いている。
こんなに静かなのに、心臓の音だけがやけに大きい。湊に聞こえているんじゃないだろうか、と思ってしまうほど。
ベンチからは街の明かりがぽつぽつと見えた。派手じゃない、控えめな光。数も少ないし、都会みたいにきらびやかじゃないけど。
それでも。ここで見る景色が、一番きれいだと思った。
隣に、湊がいるから。
「……今まで、その」
口を開く。声が、少しだけ震えた。
「ごめん。何も言わずに、避けて」
言い終わると、少しだけ沈黙が落ちる。
「……はい」
責めるでもなく、ただ受け止めるみたいな、短い返事。それが逆に、苦しい。
「俺、湊と一緒にいるとすごく楽しいのに……なんか、イライラするし、落ち着かなくて」
隣の気配が、少しだけ動いた。
「友達なのに、なんでだろって思ってた。この前、部活見せてもらったとき、余計にそれが強くなって。俺の知らないところで、普通に楽しそうにしてるの見て……」
言葉が詰まる。
「……なんか、嫌で。ごめん、意味分かんないこと言ってるのは分かってる。でも、俺といる時間なんて、湊の中の、ほんの一部でしかないのに、それが嫌だとか思って」
指先が、無意識にぎゅっと握られる。
「……めんどくさいって、自分でも思う。でも、それで分かった」
ゆっくりと顔を上げる。
「なんでこんなふうになるのか」
ジッと目を見つめる。指先は震えている。怖いけど、でももう逃げたくない。今度は絶対に離したくないから。
「…………湊のこと、好き」
世界から音が消えた。
返事が、怖い。でも、それでも。ちゃんと伝えたかった。
隣にいる、大好きな人に。
隣で、深いため息が落ちる。同時に、両手で顔を覆う気配。その反応に、思わず肩がびくっと跳ねた。
拒絶されたのかと思って、一瞬で血の気が引く。
やっぱり、言わなきゃよかったかもしれない。そんな考えがよぎった、そのとき。
「……ほんと、ずるいです。せんぱい」
低くこぼれた声は、思っていたのと違っていた。
次の瞬間。
ぐっと、腕を引かれる。そのまま、強く抱きしめられた。
「……っ」
息が詰まる。
頬に、ふわっと柔らかい髪が触れた。体温がそのまま伝わってきて、全身が一気に熱くなる。
心臓が、うるさい。壊れるんじゃないかってくらい、暴れてる。
「充電させてください」
耳元で、低く囁かれる。
「俺、本当に……しんどかったんです」
その声は、少しだけ震えていた。
「……うん。ごめん」
「いいです。もう、離さないので」
少しだけ腕に力がこもる。
ぎこちなく、でも確かに、自分の手も、そっと湊の背中に回す。触れているだけで、心臓が落ち着かないのに、それでも離したくないと思ってしまう。
どれくらい二人でそうしていたのか分からない。少しずつ、恥ずかしさが追いついてきた頃。
「……もう、いいでしょ、充電」
なんとか声を絞り出す。
「全然足りないです」
「いや、もう無理。俺がもたないから」
「……じゃあ、ツケにしといてあげます」
やっと腕が離れて、少しだけ距離ができる。それでも、さっきまでの熱が残っていて、落ち着かない。
なんとなく誤魔化すみたいに口を開いた。
「……ずっと思ってたんだけど、なんで俺なの。第一印象、最悪だっただろ」
あの日のことは今でも鮮明に覚えている。あれで好かれる要素なんて、どこにもなかったはずだ。俺だったら二度と話しかけない。
「ひとめぼれだったんです」
「……顔ってこと?」
思わずそう返してしまう。
「顔も、先輩の一部でしょ?今は顔も、性格も、声も行動パターンも。全部好きです」
「……」
外見だけかと思って、少しムッとしていたはずなのに。
それ以上のものを、あっさり並べられてしまって、何も言い返せなくなった。
「それに、先輩のこと見た瞬間、運命だって思いました」
「はぁ?なにそれ、変なの」
運命とか、そういうのは信じない。そんな都合のいいもの、あるわけない。
でもそう言われて、嫌な気はしなかった。むしろ少しだけ、嬉しくて。その運命なんてものを信じてもいいかも、なんて思った。
ふと視線を上げると、湊が楽しそうに目を細めていた。
「先輩、俺の第一印象は?どうでした?」
「湊の?なんだろ……犬っぽい?」
「えー犬?」
一気に不満そうな声になる。
「カッコいいとか、イケメンとかじゃなくて?」
肩を落とす仕草が、あまりにも分かりやすい。その様子が可笑しくて、思わず吹き出した。
「ふは、今のお前、めっちゃ犬っぽい」
「……俺、かっこいいって思われたいのに」
「うそ。かっこよかった。ちゃんと」
なんとなく、ベンチの上に置かれていた湊の手に、自分の手を重ねる。触れた瞬間、びくっと小さく震えたのが分かった。そのまま、逃がさないように、そっと指を絡める。
「……先輩ってほんと。わざとですか?」
少し掠れた声が落ちる。
「なにが」
「こういうとこです」
「さあ」
そう言いながら、湊の指も、ゆっくりと握り返してきた。
次の瞬間、後頭部にやわらかく、反対の手が添えられる。そのまま、一秒もしないうちに、引き寄せられた。
——近い。今までで一番、距離が近い。おでこが触れそうなくらい。それなのに、綺麗な琥珀色の瞳からは催眠でもかかったかのように逃げられなかった。
「先輩、好き」
まっすぐに言われる。逃げ場なんて、最初からなかった。
「知ってる。……近い、離れて」
「いやです」
即答だった。
「先輩と、ずっとこうしてたい」
さっきまでの軽さなんてどこにもなくて、ただ、まっすぐで、重い。
……こんな顔、ずるい。
風の音も、虫の鳴き声も、全部遠くなる。自分の視界には、湊しか見えない。
「先輩も、俺のこと、好きですか」
好きなんて二文字じゃ足りない。でも、それ以上の言葉も見つからない。
だから――代わりに手を伸ばした。
触れるか触れないかの、その境目で、言葉の代わりに想いを重ねた。
その一瞬で俺の全部が伝わる気がした。
離れたあと、しばらく動けなかった。呼吸の仕方を忘れたみたいに、息が浅くなる。視線を逸らして、少しだけ顔を背ける。
……伝われ。
「……っ、」
隣で、小さく息を呑む音がする。
ずいぶん大胆なことをしてしまったかもしれない。引かれてないだろうか。
「……やば」
ちらっと見ると、湊が自分の顔をまた手で覆っていた。そのまま、深く息を吐く。
「無理……心臓もたない」
「……こっちのセリフ」
思わず返すと、湊がゆっくりと手を下ろした。その顔は、いつもよりずっと余裕がなくて、でも、嬉しそうで。
「せんぱい」
「なに」
そう言って、また距離を詰めてくる。今度はさっきよりも、迷いがない。
「もう一回していいですか」
「……だめ」
即答した。これ以上は、さすがに耐えられない。
「なんで」
「今日はだめ、」
そう言うと、湊がくすっと笑った。
「じゃあ、今日は、我慢します」
少しだけ意地悪な声だった。
「……でも、ちゃんと伝わりました」
静かに言われて、言葉に詰まる。
誤魔化せない。さっき、自分で全部やってしまったから。
「……そう」
小さく、頷いた。その瞬間、予告もなく、またぎゅっと抱きしめられた。
「やっとだ」
耳元で、ほっとしたような声が落ちた。
「ほんと、長かった……」
「……ごめん」
「いいです」
すぐに返ってくる。
「もう、ちゃんと捕まえたんで」
その言葉に、少しだけ笑った。逃げるつもりなんて、もうないのに。
夜風が、またふたりの間を抜けていく。
「は……くしゅ!!」
こんなにもいい雰囲気なのに、俺のくしゃみは空気が読めない。もっとくっついていたかったけど、夏が過ぎた風は思ったより冷えていた。
「先輩、これ着てください」
鞄からブレザーを取り出すと、肩にかけてくれた。少し大きいけど、寒かったから、じっとしてた。ブレザーから、ほんのり甘い香りがする。
「そろそろ帰りますか。風も冷たくなってきましたし」
「……うん」
並んで歩く距離は、いつもと同じくらい。肩が触れそうで触れない、そのくらいの間隔。でも、さっきまでとは決定的に違っていた。
心の距離が、近い。それが分かるだけで、どうしようもなく落ち着かないのに、嫌じゃなかった。
「あ、そういえば先輩。体育祭の種目、何にしたんですか?」
「あー……バスケ」
一瞬の間。それから、分かりやすく沈んだ声が返ってきた。
「バスケか……」
「なに、その反応」
横を見ると、少しだけ口を尖らせている。暗がりの中でも、その表情は妙にはっきり分かった。
「先輩、バスケ選ばなさそうだったんで、俺バドミントンにしちゃいました」
「なんだそれ」
思わず笑う。勝手に予想されて、勝手に外されている。
「俺のクラス、余ってたのがバスケしかなかった」
「えー……」
「文句言うな」
そう言いながらも、少しだけ惜しいと思っている自分がいた。一緒の種目だったら、なんて。
「見たかったなー、先輩の」
ぽつりと落とされた言葉に、胸が少しだけ揺れる。
……俺も。そう思ったのに、口には出さなかった。
「……別に、大したもんじゃないよ」
「先輩がやるなら、なんでも見たいんです」
しばらく、静かな時間が流れる。靴音だけが、規則的に夜の道に響いていた。
やがて、湊がまた口を開く。
「先輩。体育祭後にライブやるんですけど、来てくれますか?」
顔を向けると、暗がりの中でも分かるくらい、目がきらきらしていた。期待がそのまま形になったみたいな、まっすぐな視線。
……やっぱりなんか可愛い。
「うん」
考えるまでもなかった。
その一言で、湊の表情がぱっと明るくなる。
「やった。でも、やばい……先輩に見られてるって思うと、今から緊張してきた……」
「はは、なにそれ」
さっきまで余裕な顔してたくせに。
「監視しとくから」
「え!?ほんとにやばいんですけど……」
本気で焦った声に、思わず吹き出す。
「あはは、嘘。ちゃんと見てるから」
そう言うと、湊がぴたりと黙った。
……あれ。
少ししてから、そっと横を見る。湊は、こっちを見ていなかった。少しだけ耳が赤い気がする。
「……なに」
「いえ、別に」
そっけない返事。でも、その声は少しだけ揺れていた。
それから、しばらく湊はこっちを見なかった。何も言わなくても、隣にいることが自然になっている。
街灯の下を通るたびに、影が伸びて、重なって、また離れる。その繰り返しが、妙に綺麗に見えた。
「……先輩」
ぽつりと、また呼ばれる。
「なに?」
「今日のこと、後悔、してないですか」
少しだけ、不安そうな声だった。
その言葉に思わず足を止める。さっきまであんなに強気だったのに、今は少しだけ弱く見えた。
「してない。むしろ、もっと早く言えばよかったって思ってる」
口に出した瞬間、自分でも少しだけ驚いた。こんなにまっすぐな言葉が、こんなに自然に出てくるとは思っていなかった。
随分と遠回りをした気がする。避けて、誤魔化して、気づかないふりをして。それでも結局、同じ場所に戻ってきた。
「……よかった」
夜は静かだった。
遠くで車の走る音が、かすかに聞こえるくらいで、あとは虫の声と、風が葉を揺らす音だけ。
その風が、ふたりの間をすり抜けていく。
「じゃあ。明日、楽しみにしてるから」
「はい。先輩」
その呼び方も今までとは、どこか違って聞こえる。
ふいに、湊が一歩近づいた。湊の指先が、そっと髪に触れる。
「な、なに……」
思わず肩が強ばる。また前みたいに整えられるのかと、少しだけ身構えた。
けれど次の瞬間、予想とは違う感触が落ちてきた。やわらかくて、あたたかいものが、そっと頭に触れる。
「……?」
状況が理解できずに顔を上げると、湊が悪戯っぽく笑っていた。
「先輩にしてやられたので、仕返し」
にこっと、いつもの無邪気な笑顔。それなのに、やってることは全然可愛くない。
じわじわと熱が上がってくる。耳から顔にかけて、一気に熱くなるのが分かった。
「顔、真っ赤ですよ」
「うるさいな」
そっぽを向く。でも、その反応を見て、湊はますます楽しそうに笑っていた。
「明日、寝坊すんなよ」
「はい。先輩、おやすみ」
「……おやすみ」
別れ際、ほんの少しだけ名残惜しさが残る。
顔の熱が引くのを待ってから、玄関の扉を開けた。その瞬間、ふわりと味噌汁の匂いが迎えてくる。
「あら、おかえり。今日は遅かったわね」
リビングから、母の声がする。
「うん。ちょっと……寄り道してた」
靴を脱ぎながら答えると、母が顔を覗かせた。
「珍しいじゃない。帰ってきたら家にいないから、少し心配したのよ?最近よく出かけてるわね」
「そうかな」
「前は部屋にこもってばかりだったのに」
少しだけ、言葉に詰まる。
「湊と、話してた」
「湊って……あの、公園で会った子?」
「そう」
母は一瞬だけ目を丸くして、それからやわらかく笑った。
「そう。あの子なのね」
どこか納得したような、安心したような表情だった。
「最近の冬馬、少し変わったと思ってたの。前よりも表情が明るくなったし、ちゃんと外にも出るようになって」
「……」
「いい出会いをしたのね」
その言葉に、指先がじんわりと温かくなった。
「うん……そうかも」
軽くシャワーを浴びて部屋に戻ると、すぐベッドに横になった。
今日のことが、頭の中で何度も繰り返される。公園での会話も、触れた感触も、最後の仕草も。一つ一つ思い出すたびに、心臓が騒がしくなる。
明日の体育祭が、こんなにも楽しみになるなんて思わなかった。いろはに感謝しないと。
目を閉じると、自然と笑みがこぼれる。
これから、きっと色んなことがある。うまくいかないことも、すれ違うこともあるかもしれない。
それでも隣に湊がいるなら、大丈夫だと思えた。
ああ、明日が待ち遠しい。
