0と100のあいだ

 九月に入った。
 夏休みが終わって、街の空気も少しだけ落ち着いた気がする。
 朝の風は相変わらず、まだ暑いけど、どこか乾いていて八月とは少しだけ違う匂いがした。

 結局、あれから湊とは一度も会っていない。
 メールは何度か来ていた。「今日も来ませんか」とか、「時間あったら話したいです」とか。
 どれも、なんとなく断ってしまった。
 理由は、よく分からない。ただ、会ったら、何かが変わってしまいそうで。それが少し、怖かった。
 本当は毎日会いたくて、ぐるぐると考えながら公園に行ったこともある。ひょとして偶然会えるかもなんて思ったが、当たり前のように湊はいない。
 我ながらずいぶん面倒くさい性格だと思う。今に始まったことじゃないが。

「はあ、……行くか」
 小さく呟いて、家を出る。いつもよりギリギリになってしまい、走る羽目になった。
 久しぶりの学校。
 門をくぐるだけで、少しだけ嫌になる。夏休み前よりはましだけど、それでも慣れたとは言えない。
 教室の扉を開けると、いつものざわついた空気が広がっていた。そこに来人と紫藤の姿を見つけて、少しだけ安堵する。
「あ!冬馬おはよー!久しぶりやな……って、なんや冬馬ちょっと痩せた?」
 いつもの調子で絡んでくる来人は、夏休み前より焼けて見えた。
「おはよ……そうかな?」
 言われてみれば、心当たりはある。ここ最近、あまり食欲がなかった。夜も、変な時間に目が覚めてしまったりして、ぐっすり眠れた記憶があまりない。
「ちょっと雰囲気変わった」
 隣で紫藤が淡々と言う。
「せやろ?なんか、前より大人しくなったっていうか……」
 来人が腕を組みながらじっとこちらを見る。品定めするかのように、執着に見てくるものだから気まずくて目を逸らした。
「どういう意味だよ……」
「ええやん、褒めてるつもりやで?」
「絶対違うだろ」
「ちゃんと食べてる?冬馬ほそっこいから心配やわ」
 次の瞬間、ぽんぽんと確かめるみたいに腕を軽く叩かれた。
「……食べてるって」
 視線を逸らしながら答えると、来人は覗き込むように顔を近づけてきた。
「目の下ちょっとクマあるし、夜更かししたん?」
 図星を突かれて、少しだけ言葉に詰まる。
「それは……ちょっと寝れてないだけ」
「それあかんやつやん」
「自覚あるなら早くなんとかしろ」
 横から、紫藤が淡々と口を挟む。
「なんとかって言われてもな……」
「規則正しく生活」
「紫藤みたいにできたら苦労しない」
 思わずジトっとした目で見ると、紫藤は特に気にした様子もなく視線を外した。
「はは!こいつほんまロボットやからな。素人がマネできるもんやない。まあ、無理すんなって」
 来人が笑いながら、軽く背中を叩いてくる。
「夏休み明けやし、だるいのはみんな一緒や」
「……ん」
 多分、俺のは夏休み明けでだるいとか、そんなのじゃない気がする。話して解決しないといけないけど、それができない。
「ま、細かいこと気にすんなって。昼一緒に食おうや。ちゃんと食わせたるから」
「保護者かよ」
「任せとき。栄養管理は得意やねん!」
「絶対嘘だろ」
 くだらないやり取りに、少しだけ肩の力が抜ける。こういう、どうでもいい会話が、思っていたよりも救いになっていた。
「冬馬」
 ふと、紫藤が名前を呼んだ。いつになくまっすぐな視線に、目を逸らせない。
「無理はするなよ」
「……してないし」

 
 夏休み明けから、学校は一気に騒がしくなった。
 理由は分かりきっている。体育祭だ。毎年恒例の対抗戦で、国際科の連中は、やたらと熱が入る行事。
「よし、今日から体育祭の準備に入るぞー」
 担任が教卓に手をつきながら言う。
「実行委員の二人に任せるが、時間はあんまりないからな。今日中に各自、出場種目を決めておけ」
 それだけ言うと、あっさりと教室を出ていった。たぶん職員室だろう。
 残された教室は、一瞬静かになって、すぐにざわついた。
「えー、どうする?」
「もう決めちゃう?」
 一応、実行委員の女子二人が前に出てきたけど、黒板の前で少し話したかと思えば、そのまま近くの女子たちと雑談を始めている。
 ……相変わらず自由だ。そういえば、一年の時もこんな感じだったな。
「なあ、冬馬」
 横から声がして、振り向く。
 来人がどこからか椅子を引っ張ってきて、そのままこちらに座った。紫藤も無言で隣の席に腰を下ろす。
 ……そこ、女子の席なんだけどな。
「冬馬は何出るん?ってか、去年俺らなんやったっけ?」
「ドッジボール」
 間髪入れずに紫藤が答える。
「あー、それや!」
 来人が思い出したように、机を叩く。
「んで、国際科にボロ負けしたやつやろ?あいつら無駄に強いねん、ほんま」
「無駄って……。俺は、確かキックボールだったかも」
「え?そんなんあったっけ?」
「うん。人数足りなくて、女子と混ざってやった」
「なにそれおもろ!」
 来人が身を乗り出す。
「めっちゃ見たかったわーそれ。絶対浮いてたやろ」
「浮いてなかったし……たぶん」
 適当に返しながら、黒板の方に目を向ける。
 いつの間にか女子たちは決め終わったらしく、種目の欄がどんどん埋まっていた。
「うわ、埋まるの早ない?」
「仕事早いな」
 残っている枠をざっと見る。……ほとんど埋まっていた。
「あと何残ってる?」
「えーっと……」
 立ち上がって黒板を覗き込む。
「あ、バスケくらいしかない……」
「バスケ!ええやん、面白そう。冬馬はやらんの?」
「いや、できなくはないけど……」
 正直、運動全般が得意ではない。でも他に選択肢があるわけでもないし。
「紫藤は?」
 来人が何気なく聞いた。問いかけられた本人は、少しも迷う様子なく口を開いた。
「バスケでいい」
「即決やん。まあ、俺もそれでええわ」
 来人が肩をすくめながら笑う。最初から、決めていたような速さだった。
「……俺も、それでいい」
「よっしゃ、決まりやな」
 来人が満足そうに頷く。話が転がるみたいに、あっさりと決まってしまった。
 そのまま来人が立ち上がると、女子が集まっている黒板の方へ、何のためらいもなく入っていく。
「ちょい失礼しますー。俺らバスケやるわ。余っとるし」
「え、マジ?ありがとー!」
 チョークを手に取ると、迷いなく名前を書き連ねて、すぐに戻ってきた。チョークの粉を軽く払うようにこちらに来る。
「ありがと」
 こういうのを率先してやってくれる辺り、来人もいいやつだ。
「ええでー!てか、今年こそは勝ちたいよな」
「無理だろ」
 期待に満ちた来人の間に、割るようにして紫藤が返す。
「なんでやねん!」
「戦力差」
 紫藤がいつも通りの調子で淡々と言う。余計な感情を一切乗せないその一言が、現実的だった。
「お前なぁ、そういうこと言うからあかんねん。試合前から負けてたらあかん!」
「事実だし」
「夢見ろ夢を!おまえには夢が足らんわ」
 騒がしいやり取りに、少しだけ笑う。
「あ、そういや冬馬、あいつは?」
 来人がさっきと変わって、少し真面目な声で言う。
「ん?あいつって誰?」
「ほら、あの後輩くんおるやん。白羽、やっけ?」
 その名前が出た瞬間、心臓が少しだけ跳ねた。
「……湊?」
「そうそう、それ!」
「なんか白羽、めっちゃ運動できそうやん。ああいうやつ一人おるだけで変わるで」
「国際科だけどな」
 紫藤が冷静に突っ込む。
「そこなんよ……同じバスケだったらほんま嫌や」
 来人が腕を組んでうなる。
 その会話を聞きながら、視線を黒板から外す。同じ学校なのに、同じ場所にいるのに。今は、会えない。
「……」
 なんとなく、胸の奥がざわつく。
 ただの体育祭だ。勝っても負けても、大したことじゃない。
 なのに。同じバスケだったらいいな、なんて思った。