0と100のあいだ

 久しぶりにクローゼットの奥から制服を取り出す。
 夏休み中なのに、こんなふうに制服を着ることになるとは思ってもいなかった。
 いつもの駅前で立ち止まって、周りを見渡すがやっぱりまだ来ていないようだ。待っている時間すら、どこか落ち着かないのに、悪くないと思ってしまう。湊に会える。それだけで、変に気分が上がるのだ。
 少しして、見慣れた姿が視界に入る。背中にギターを背負って、こちらに向かってくる湊。それだけで、妙に安心する。
 同時に、もう少しこのままでいたい、なんて思ってしまう。まだ会ったばかりなのに、帰りのことまで考えている自分に気づいて、少し呆れた。
「おはようございます、先輩」
「……おはよ」
「今日も早いですね。俺のほうが先に待ってるつもりだったのに」
「たまたま早いだけ」
「絶対楽しみだったじゃないですか」
「……違う」
 即答したつもりだったのに、少しだけ間が空いたのを自覚して、視線を逸らす。
「顔に出てますよ」
「出てない」
 くすっとからかわれるように笑われて、少しだけむっとする。そのまま二人でホームに上がると電車が来るまで待った。
「……それ重そうだな」
 湊の背負っているギターケースを指さす。大きくて肩に負担が凄そう。
「慣れてるので。それに、軽いほうですよ、これ」
「ふーん……」
「気になりますか?持ってみます?」
「うん。持ちたい」
 軽く頷いて、差し出されたギターケースのストラップに腕を通す。背負った瞬間、肩にずしっと重みがかかった。思っていたよりもずっと存在感がある。
 軽いほう、って言ってたよな。これで?
 背中にぴったり沿うように調整されたベルトが、微妙に合わなくて、少しだけ居心地が悪い。湊の体格に合わせたものだから当然だけど、なんとなく子供っぽく見える感じが強くて、落ち着かない。
「先輩、それやばいです……すごくいい」
「そう?なんか、俺が持つと違う気がするんだけど……」
「すごくかわいいです」
「……うるさい、重い、返す」
 ぶっきらぼうにそう言って、すぐにギターを外す。
「え、もういいんですか?」
「いい。……っていうか、よくこんなの毎回持ち歩いてるね」
「慣れですよ。最初は肩死にましたけど」
 ストラップを渡すと、湊は慣れた手つきで背負い直した。やっぱり湊が背負うと妙に似合う……悔しい。
 その後、ものの数分で電車が来た。乗り込んだ車内は、いつも以上に静かだった。いつもの短い車両には、乗客の姿は一人もいない。
「ガラガラじゃん」
「夏休みはこんなもんですよ」
 適当に空いている席に腰を下ろすと、向かいの窓から光が差し込んできた。がたん、と小さく揺れて、電車が動き出す。
「先輩、今日なに見たいですか?」
「別に、なんでもいい」
「えー、ちゃんと見てくださいよ。先輩に来てもらうの、けっこう緊張してるんですから」
「なんで?」
「なんでって……先輩だから?」
 意味が分からない。でも、湊があまりにも嬉しそうに言うから、それ以上は突っ込めなかった。
 そんな軽いやり取りをしながら、学校に着いた。
 夏休みの学校は、いつもと全く雰囲気が違っていた。人は少なくて、聞こえてくるのは部活の掛け声ばかり。
 どこか空気が緩くて、普段よりも自由な感じがする。
「すごい静か……この感じ、なんかいいな」
「ほんとですか?よかった」
 人が少ないだけで、こんなに空気が違うのかと思う。どこか空気が軽くて、普段よりも自由な感じがする。
「先輩、今日来てくれて、ありがとうございます」
 不意に言われて、歩いていた足が止まりそうになる。
「……別に」
 短く返すしかできない。でも、隣で嬉しそうに笑ってるのを見て、今日来てよかったと思った。

 練習は空き教室でやっていた。
 廊下を抜けて、その教室の前に立った時点で、扉の向こうから、楽器の音と笑い声が混ざって聞こえてくる。
「どうぞ、先輩。お先に」
 湊が軽く教室の扉に手をかけて、エスコートするかのように開けてくれた。
「しつれいします……」
 中に入った瞬間、目に飛び込んできたのは、想像以上に自由な光景だった。
 机の上には開けかけのお菓子の袋、沢山のペットボトル、譜面らしき紙が雑多に広がっている。床には、コードが絡まり合っていて、その後ろには大きな機会が置かれていた。
 ……カオスだ。国際科の洗礼を受けた気がする。
「お、白羽ー。やほやほ!」
 明るい声が飛んできた。視線を向けると、高い位置でポニーテールを結んだ女子が、机の上に座って手を振っていた。
「あれ?隣の子は?」
「俺の先輩です」
「え、そうなんだ!うちと同い年?なになに、軽音興味あるの?」
「違う、俺が誘いました」
「へぇ、湊が、ね。珍しいじゃん」
 今度はドラムの前に座っていた男が、にやっと笑いながら話しかけてきた。耳のピアスがやたら多い。来人も確か、ピアス開いていたけど、比べ物にならないくらいだ。
「お邪魔してます、冬馬です」
 ペコッと軽く挨拶する。
「そんなかしこまらなくていいって!タメでいいよタメで」
 顔を上げると、その女子は座っていた机から軽く飛び降りて、距離を詰めてきた。
 近くで見ると、少し化粧っ気のある大人っぽい女子だった。スカートは既定の長さよりも短く切られていて、既定のリボンじゃなく男子用のネクタイをしていた。
「うち、いろは。で、あっちのピアスだらけのやつが弟の雫。こいつは無視していいからね。見た目通りだから」
「姉ちゃん、ひどくない?」
「事実じゃん」
 すごいな、兄弟で軽音部。仲いいのか悪いのか、よくわからない人たちだけど。
「いろは、さん」
 呼びかけると、いろはは一瞬だけ目を丸くして、それから軽く肩を揺らしながら笑った。
「あはは、さん付け?いろはでいいよ」
「……じゃあ、いろは。なんでネクタイなの?」
 いろはの胸元のネクタイを軽く指さした。
「ああ、これ?弟のやつ借りてんの」
 そう言いながら、首元のネクタイをひらひらとつまんでみせる。
「いや、こいつに盗まれてる」
「うるさ、どっちでもいいでしょ。どうせあんた使わないんだし」
 軽く言い返して、いろははそのままギターケースを持ち直した。
 肩にかけたそれは湊のものと似ているのに、どこか違って見える。弦が、少しだけ太い気がした。
「それって、ギター?」
「あーこれ?これはね、ベース」
 そう言って、いろはは指で弦を軽く弾く。
 どーん、と腹の底に響くような低い音が、空気を震わせた。思っていたよりもずっと重くて、体の内側に残る。
「ギターより音が低くて、リズム支える役って感じかな」
「へぇ……音、全然違う」
「でしょ?地味って言われがちだけど、聴くとかっこいいんだよ」
「先輩、どっちが好きですか?」
 湊がちらっと、こちらを見る。どことなく期待しているような目だった。
「うーん……音だけならギターの方が分かりやすいけど……でも、いろはのベースも、すごくかっこいいと思う」
「え、うそ、嬉しい!!」
 そう言うと、いろはの表情が分かりやすく、ぱっと明るくなった。
「そうそう、それなんだよ!分かってるじゃん先輩!」
「お前単純すぎ」
「うるさいな!」
 いろはが雫のすねを軽く蹴った。
 なんか……思ったより歓迎してくれているっぽい。いつもここで湊は練習しているのか。なんか、全然違う世界だ。
「ってか、あんたが誰か連れてくるとか、ちょっと意外だわ」
 いろはが、湊を見ながら意外そうに声を出した。
「そうですか?」
「うん。うちら結構連れてくるけど、あんた誰もつれてこなかったし」
「そんなことないですよ」
 さらっと流す湊に、いろはが「ふーん」と意味ありげに笑った。
「ま、最近の謎が解けたわ」
 ふと、視線がドラムの男、雫に向く。
 一目見た時から、どうしても、あのピアスが気になる。それによく見ると、鎖骨の辺りにもなんかついている。
「え、そのピアス怒られないの?」
「あーこれ?」
 雫が俺の視線を辿って、鎖骨の辺りに指先で軽く触れた。
「開けちゃったもん。開けたらもうどうしようもなくない?」
「た、たしかに……?」
 あまりにも悪びれる様子がないから、妙に納得してしまう。
「こっちもあるよ」
 そう言って、雫が少しだけ口を開けて見せた。
 ちらりと見えたのは、舌のピアスと、銀色の牙のようなものが、ちらっと見えた。
「え」
 思わず声が漏れる。
「あはは、なにその顔。びっくりした?」
「銀色の、……なに」
「スクランパーってやつ。牙っぽく見えるやつね。かわいいでしょ」
「……へぇ」
 正直、全然分かんない。でも、とりあえず頷いておく。なんか、思ってたよりだいぶ凄い。
「先生も最初はなんか言ってたけど、まあ結局慣れるよ」
「慣れるものなのか……。そこ、痛そう」
「うーん、あんまり痛くない。冬馬さんも開けてあげよっか?俺、上手だし」
 にやりと笑われる。冗談なのか本気なのか分からない。
「あ、開けない」
「即答だ」
 くすっと笑われる。その表情は少しだけ、いろはに似ていた。言ったら怒られそうだから言わないけど。
「雫、先輩に変なこと吹き込まないで」
 横から、少し低い声が割って入った。湊だ。いつもよりちょっとムッとしてる。
「変なことって、ピアスくらい普通でしょ」
 からかうように笑っている。
「普通でも嫌」
「あはは、なんで湊が嫌がんの」
 雫がそう返すと、湊は一瞬だけ言葉に詰まっていた。
「それは、先輩のピアスは、俺が開けるんで」
 ほんの少し視線を逸らしてから、ぼそっと続ける。
「は?」
 三人の声がきれいに重なった。
「え、いやだよ」
 間髪入れずに返す。
「ていうか、なんで湊に開けられないといけないの。自分も開いてないくせに。素人は余計怖いんだけど」
「……それは、その」
「それに、開けるなら普通に病院行くし」
 ぴしゃっと言うと、湊は少しだけ口を閉ざした。
「う、はい……」
「はは、湊振られてんじゃん」
 雫が面白そうにお腹を抱えて笑った。
「うるさい」
「やっぱりそういうことね!やば、ちょー面白い。こんな湊初めて見たわ。動画撮っていい?」
 いろはが楽しそうに身を乗り出す。からかう気満々の顔で、スマホを取り出しかけた。
「違いますってば、やめて」
 いつもより一段低い声で否定するけれど、まったく効いていない。むしろ反応すればするほど、二人の勢いは増していく。
 完全におもちゃにされている。
 こんな湊を見るのは初めてだった。いつも余裕ある湊が、こんなふうに崩れることもあるのかと、少しだけ意外に思う。
 そのやり取りが妙に面白くて、思わず口元が緩んだ。
「もう……先輩も笑ってるし」
「いや、まあ……ちょっと」
 ごまかすように返すと、湊はわずかに不満そうな顔をした。ほんの一瞬だけ、何かを言いかけるみたいに視線が揺れて——
「……別に。先輩はそのままで十分、素敵です」
 小さく、ほとんど聞き逃しそうな声で呟く。その言葉に、少しだけ間が空いた。
「最初からそのつもりだって。ピアスとか怖いから多分開けない」
「ですよね」
 湊はほっとしたように息を吐いた。
「あー、いいもの見せてもらった」
「ほんとほんと」
 いろはと雫が顔を見合わせて笑う。
 からかい半分のその声が、さっきまでの空気をそのまま引きずっていた。
「……もう、合わせするんでしょ、早く」
 間に割って入るみたいに、湊が言う。
 湊に軽く肩を押されて、教室の隅に移動させられた。
 ……呼んだのは、こいつなのに。なんか雑じゃないか?と少し不服に思いながらも、パイプ椅子に腰を下ろす。
「ちょっと待っててください。もう始まるんで」
 そう言って、湊はギターを手に取って音を確認した。軽く弾いただけなのに、それだけで湊の空気が変わる。
「そろそろ合わせやるか」
 雫がドラムスティックを回しながら言った。
「おっけー。湊も準備いい?」
「はい」
 空気が、自然と変わる。湊がこっちをちらっと見て、小さく頷いた。
 ——始まる。
 もらったお菓子を片手に、なんとなく口に運ぶ。でも、最初の一音が鳴った瞬間、そんな余裕は一瞬で消えた。
 いろはがマイクを手に取ると、すぐに綺麗で力強い歌声が響いた。
 さっきまでの緩い空気は全くない。一瞬でライブ会場になってしまった。気づけば、手に持っていたお菓子のことなんて完全に忘れていた。
 上手い、とかそんな言葉じゃ足りない。さっきまで、普通に話していたやつらが同じ空間にいるはずなのに、まるで別の世界にいるみたいだった。
 みんな桁違いに上手い。でも視線は湊に向いてしまう。いつもの柔らかい雰囲気とは違う。集中している顔、指の動き。まるで別人みたいだ。目が離せない。
 ……楽しそうに弾いている。周りのメンバーとも息が合っていて、音を重ねて。ここが、湊の居場所なんだ。
 そう思った瞬間、胸の奥に重たいものが、じわりと広がった。
 こんなふうに、当たり前みたいに輪の中にいて。俺とは、全然違う世界の人。初めから分かっていたはずなのに。
 放課後、一緒に帰れなかった理由も、部活で忙しいっていうのも。全部、こういう時間があるからなんだと、改めて突きつけられた気がした。
 曲が終わると、拍手と笑い声が混ざった。
「今の良かったじゃん!」
「ね。今までの合わせで一番いい」
 軽くそんなやり取りをしている。そこに、俺の入る余地はない。
 
 もらったクッキーは、いつの間にか潰れてしまった。