0と100のあいだ

 テスト返却三日目。
 すでに成績は出ているのに、わざわざ一教科ずつ答案を受け取るだけの、妙に間延びした日だ。授業らしい授業もないから、鞄の中身は赤ペンと問題用紙くらいで、肩にかかる重さが、いつもより軽い。
 窓の外は、久しぶりの雨だった。梅雨が明けてから、しばらく見ていなかった景色。不思議と懐かしいと思った。たぶん、あの日を思い出すからだ。
 
 駅に着くと、今日は珍しく湊が先に待っていた。
 しかも、見慣れない傘をさしている。淡い色に、小さな花柄。姉のものか、よくわからないが、可愛らしい傘をさしている。イケメン高身長がそんなかわいいの持っていたら心臓に悪いからやめてほしい。
「あ、先輩きた。おはようございます」
「……おはよ。珍しいね、今日は早いじゃん」
「はい。あの、先輩、今日は少しだけサボりませんか?」
「は?」
 唐突すぎて、間の抜けた声が出た。
「だってもう返却だけでしょ?授業ないし、今日くらいいいじゃないですか」
「今日くらいって……」
 言いながらも、完全に否定しきれない自分がいる。あの雨の日も、湊はこうして自由に散歩に出たのだろうか。
「昼になると暑くて出れないじゃないですか」
「今日、雨だけどね」
「雨の日の朝、好きなんですよ」
 そう言って笑う。
 ……俺も、なんて言ったら湊が調子に乗るから言わないけど。
「朝の景色も、きれいですよ。ね?行きましょう」
「……分かったから、引っ張るな」
 気づけば、手首を掴まれていた。
 そのまま半ば強引に、駅とは反対方向へ連れていかれる。抵抗する理由も、特に思いつかなくて。
 たぶん、こいつの自由さが移ってしまった。
 久しぶりに来た公園は、少しだけ雰囲気が変わっていた。
「久しぶりですね、雨の日の公園」
「……そうだな」
 石段の脇に並んでいたアジサイは、もう色を失っていた。花はしぼんで、葉もくすんでいる。
「ここ、梅雨は青いアジサイでいっぱいだったのに。通学路にもアジサイ咲いてましたけど、ここみたいに綺麗な青色はないです」
「ふーん。アジサイって、土の性質で色変わるんだって。酸性だと青で、アルカリ性だと赤」
「へえ、そうなんですか?」
「アルミニウムの吸収量で変わるらしい。だから色違ったりする」
「すご、先輩物知り」
「いや、生物の先生が言ってた」
「え?そうなんですか?」
「湊、授業聞いてないでしょ……」
「生物室、眠くなっちゃうんです」
 全く悪気なさそうに笑う辺り、本当にいつも寝てそうだ。
 その笑顔につられるように自然と自分も笑っていた。
 石段を上りながら、景色を目に焼き付ける。あの日と同じ場所なのに、見える景色は全然違った。
 あのときは、一人だった。今は、隣に湊がいる。うまく言葉にできないけど、このまま卒業しても離れたくないな、なんて思った。
「……っ、」
 そんなことを考えて石段を上ったせいか、足元が疎かになってしまった。
 濡れた苔に足元を取られ、滑る。体がぐらりと傾いた瞬間、腕を強く引かれた。
「おっと、」
 気づいた時には、湊の胸にぶつかっていた。肩に回された手が、しっかりと支えている。
「……大丈夫ですか?」
「……っ、だい、じょうぶ」
 離れようとするのに、うまく力が入らない。触れているところだけ、妙に熱い。そこだけ切り取られたみたいに、感覚がはっきりしている。
 おかしい。こんなの、前はなかったはずだ。
 意識すればするほど、余計に離れづらくなる。それでもなんとか距離を取ると、急に空気が入り込んできた。さっきまで近すぎたせいか、そのわずかな隙間すら、やけに広く感じる。
 心臓が、やたらとうるさい。落ち着こうとしても、しばらく収まる気配はなかった。
「先輩、ほんと気をつけてくださいね?」
「……うん」
 目を合わせようとしない俺を見て、湊がほんの少しだけ嬉しそうに笑った。
 ようやく石段を上りきって、いつものベンチに腰を下ろす。
 耳の熱は、まだ引かない。さっきの一瞬が、何度も頭の中で繰り返される。そのくせ、視線は勝手に隣へ向いてしまう。
 横顔。少し伏せたまつ毛。湿気にあてられて、いつもよりもっと柔らかくなった髪。
 ——やっぱり、綺麗だ。
 なんだか、見てはいけない気がして、慌てて視線を逸らす。
 ……もし、湊がいなかったら。
 あの日、あの公園にどちらかが来ていなかったら。俺は、きっと今も部屋の中で、同じところをぐるぐる回っていた。
 心配事の九割は起きない、なんて言うけど。今の俺は、むしろ逆だ。
 起きるはずがないと思っていたことばかりが、当たり前みたいに起きている。誰かと並んで歩くことも。学校に戻ることも。こうして、隣に座って、どうでもいい話をする時間も。
 全部、想定外だ。
 なのに、そのどれもが、ちゃんとここにあって。しかも悪くない、なんて言葉じゃ足りないくらいには、心地いい。