それから、一週間ほどが過ぎた。
気づけば、同じ時間に家を出て、同じ道を歩くことが当たり前になっていた。
「先輩、おはようございます」
「……おはよ」
背後からかけられた声に振り返ると、湊がいた。
テスト期間に入って、湊も部活がないらしい。それからは自然な流れで、一緒に登下校するようになっていた。
隣に並ぶのも、もう迷いはない。気づけば当たり前のようにそこにいて、その距離に、違和感もなくなっている。
あれから、交換日記の頻度は少し減った。それでも——いや、それだからこそかもしれない。直接顔を合わせて言葉を交わせる毎日が、思っていた以上に心地よかった。
「せんぱい、今日も眠そうですね」
「ん……朝弱いだけ」
「昨日ちゃんと寝ました?」
「……たぶん」
「たぶん、って」
くすっと笑われる。その笑い方があまりに心地よくて、何でもないはずなのに、妙に意識してしまう。
ふと横を見ると、柔らかく細められた目が、こちらを見ていた。
その表情を受け止めきれなくて、思わず視線を逸らす。胸の奥で、心臓がさっきよりも速く鳴っていた。
やがて、遠くから電車の近づく音が聞こえてくる。レールを伝ってくる振動が、足元にわずかに届いた。
二両編成の短い車両がホームに滑り込むと、開いた扉へ、同じ制服の生徒たちが、ぽつぽつと乗り込んでいった。
「今日は、英語のテストが二個もあるんです」
「へー。国際科って、英語のテスト何個あるの?昨日も英語のテストとか言ってた気がするけど」
「基礎英語、コミュニケーション英語、応用英語の三つです」
湊は迷いなく答えて、指を三つ立ててみせた。
「……多、そんなにいらないだろ」
英語、英語、英語。頭の中で並べてみるだけで、少しうんざりしてくる。
それでも湊は、特に苦でもなさそうな顔をしている。むしろ、当たり前のことを話しているだけ、という様子で。
そんなに英語ばかりあって、飽きたりしないのか、不思議だ。
「今日のテスト、やばいです」
「湊、いつもやばいって言ってるじゃん」
「でも今回は本当に、やばいです」
「それも昨日言ってる」
「先輩、今度教えてください」
「まあ……気が向いたらね」
頭の中でその場面を想像した途端、理由もなく落ち着かなくなった。他のやつに教えるのは何でもないのに、相手が湊になるだけで、妙に意識してしまう。
曖昧に濁したのに、湊は嬉しそうに「やった」と小さく呟く。その反応に、なんでそんな喜ぶんだよ、と思いながらも、悪い気はしなかった。
学校に着くと、昇降口の手前で、どちらからともなく足が止まる。
「じゃあ、また昼に」
「ん」
短く言葉を交わして、湊は国際科の棟へ向かう。軽い足取りで離れていく背中を、なんとなく目で追ってしまうのは最近の癖だ。
やがて見えなくなってから、自分も教室に向かう。
「よ!冬馬、おはよ」
「……わ、びっくりした。おはよ」
不意に、背後から誰かの両腕が、わきの下にずぼっと差し込まれた。
くすぐったさにも似た感覚に、思わず肩が跳ね上がる。
振り向くと、来人がいつもの調子で笑っていた。隣では紫藤が、軽く手を上げて挨拶してくる。
「なあ、さっき一緒に来てたやつ、例の後輩くん?」
「……まぁ」
「誰なん?あれ。めっちゃイケメンやん」
「……休んでたときに、ちょっとあって」
「ほうほう?」
「……その、家の近くの公園で知り合った、後輩」
「友達?」
紫藤がぽつりと聞く。
「……たぶん?」
「たぶんて、なんやねん」
「いや、だって……」
本当に分からないのだ。言葉にしようとしても、しっくりこない。なんていえばいいのか、この関係に名前を付けても、どれも違う気がして。
「まぁええやん、仲良さそうやし」
「そう見える?」
「見える見える。めっちゃ懐かれてるやん」
来人が面白がるようにこちらを見ている。
「……犬かよ」
思わずぼそっと返すと、来人が吹き出した。
「それや!めっちゃ大型犬っぽいわ!」
「うん……否定できない、」
軽口を叩き合うこの感じも、いつの間にか日常になっていた。
そんな日々を繰り返しているうちに、あっという間に短いテスト期間が終わった。
机に向かう時間が増えるほど、勉強のストレスで何度も胃薬にお世話になってしまった。
それでも、朝と帰りの時間だけは別だった。
駅までの短い道と、並んで歩くほんの数分。その時間だけは、妙に呼吸がしやすくて、張りつめていたものが少しだけ緩んでいく。
気づけば、それが一日の中でいちばん落ち着く時間になっていた。
「うわ、順位出てるで!」
「見たくない……」
「見るやろ普通!」
来人に半ば引きずられるようにして、廊下の掲示板の前に連れていかれる。
成績優秀者の上位10名だけが廊下に張り出される仕組みになっている。母はいつもこの順位を気にする人だった。
人だかりの中を覗き、視線が上から順に滑っていく。一つひとつ名前を追うたびに、心臓の音が大きくなる。
そして、真ん中あたりで、ぴたりと止まった。
そこに、自分の名前があった。
「……あ、あった」
少しだけ、安心したような息が漏れた。
「え、冬馬すごくね?!」
来人が横で騒ぐ。しかし上の方を見ると、相変わらず一位を陣取っているのは紫藤だった。
一年の時からずっと、紫藤が不動の一位で変わりない。
やっぱり、天才にはかなわない。
「休んでたのに俺よりできるとか、なんでなん?意味わからへんのやけど!」
「……別に、」
できるだけ平静を装って返す。声が少しだけ素っ気なくなるのは、たぶん誤魔化しきれていない証拠だ。
「いや別にちゃうやろ!俺なんかギリ赤点回避やぞ?!」
「いや、隣に学年一位がいるじゃん」
視線だけで隣を示すと、来人も同じように紫藤をみた。
けれど当の本人は、そんな視線などどこ吹く風で、いつも通りの表情で立っていた。
「こいつはあかんねん!」
「……」
「何言うてるかわからん!教える気ない」
「来人が理解してないだけ」
「うざっ!ほんまうざい!」
騒ぐ来人を見て、思わず口元が緩んだ。
紫藤はたぶん、いわゆる天才型なんだろう。考えるより先に、答えに辿り着いてしまうタイプ。
でも、俺は違う。家で時間をかけて、何度も繰り返して、ようやく上位に食い込めているだけだ。
だからこそ、来人の言い分も、少しだけ分かる気がした。
「少しくらいなら、勉強教えられるよ」
「え、まじで?!」
「うん。何の教科が苦手なの?」
「なんのっていうか……全部?」
「は?」
……訂正。これは相当、時間がかかりそうだ。
テスト期間が終わると同時に、湊も部活が再開した。
湊を待っているだけなのも手持ち無沙汰で、気づけば空き教室に集まっていた。
窓際の机を寄せて、返却されたテストを広げる。窓の外では、野球部の掛け声と、サッカー部の試合の音が混ざり合って届いてくる。
「ここ、なんでこうなるか分かる?」
「……いや全然」
「ここで式変形してるの」
「え、それどこから出てきたん」
「うーん、と……」
言葉にしようとして、一瞬だけ詰まる。どう説明すればいいのか、頭の中で組み立てている、その時。
「こう」
紫藤が横から、さらりと数式を書き足した。無駄のない簡略化された式で、一気に答えまで繋げてしまう。途中がごっそり抜けていた。
「いや、意味わからんて!」
「だからここがなくなって消えるの」
「なんでそうなるん!もー紫藤は入ってくんな!余計頭悪なる!!」
来人が机に突っ伏しそうな勢いで頭を抱える。
「……来人、落ち着け……」
苦笑しながら、もう一度ゆっくり説明し直す。さっきよりも噛み砕いて、一つずつ順を追って。
来人がうんうんと唸りながらも、なんとか食らいついてくるのを見て、少しだけ可笑しくなる。
こうして三人で机を囲むのも、悪くない。
「あーつかれた。初めて一時間もやったわ。ってか、冬馬マジでわかりやすい」
「え、そう?」
「うん。先生向いてるで、絶対。次も教えてや、飯おごるから!」
「いいよ、おごらなくて。俺も勉強になるし」
「来人、そろそろ時間」
紫藤が短く声をかける。つられて窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。オレンジと紺色の混ざり合った空が、グラウンド全体をやわらかく染めている。
「あ、ほんまや。やば、じゃあ俺ら帰るわ!」
「うん。おつかれ」
「またなー!」
扉が閉まったあと、教室には一人分の静けさが残った。
さっきまでの賑やかさが嘘みたいに引いていく。その落差に、少しだけ息が詰まる。
ふと、一年の頃の自分を思い出した。
あの頃は、何もかもを自分から遠ざけていた気がする。どうせ無理だと決めつけて、最初から踏み込まなかった。湊と出会ってから、ようやく、そのことに気づいた。自分の心を開くと相手も開いてくれる。こんなにも恵まれていたのに、一年の時はそれに気づかなかった。
少しだけ寂しくなって窓の外を見ると、サッカー部が片づけを始めていた。ボールをまとめる音や、短いやり取りが、夕方の空気に溶けていく。
その光景をぼんやり眺めながら、もう一度ノートを開く。さっきの説明をなぞるように、ペンを走らせた。
それからまた三十分ほどして、集中力が切れかかった、そのとき——
教室の扉が、開いた。
「先輩、お待たせしました」
振り返ると、扉のところに湊が立っていた。背中にはギターケースを背負っていた。肩にかかるその黒いシルエットが妙に似合っていて、思わず目が留まる。
あれ、自分のものだろうか?中々にかっこいい。
そんなことを考えながら、にやけそうになる口元をなんとか押さえた。
「……遅かったね」
「すみません、部活、長引いちゃって……。勉強してたんですか?」
湊は教室の中を軽く見渡しながら、こちらへ歩いてくる。
「さっきまでな」
「一人で?」
「いや、友達」
「ふーん。この前の二人ですか?」
「うん。来人と紫藤」
名前を出した瞬間、湊の目がほんの少しだけ細くなる。
「……?なに」
「別に。結構、長くやってたんですね」
「まぁ、一時間くらい」
「へぇ……」
軽い相槌。けれど、その声の奥に、ほんのわずかな違和感が混じっている気がした。
「楽しかったですか?」
「は?」
思わず聞き返すと湊は、ちらっと、こちらを見た。
「その勉強会」
「……まあ、」
曖昧に答えると、湊は短く息を吐くようにして頷いた。
「ふーん」
それだけ言って、今度はわざとらしく視線を逸らす。
……なんだこいつ。今日は、少しおかしい。
「湊、機嫌悪い?お腹空いてんの?」
「悪くないですよ」
「いや、なんか——」
「悪くないです」
さっきよりも、ほんの少しだけ強い言い方。そのあと、湊はふっと表情を緩め、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「俺も、もっと頑張らないとなって、思っただけです」
そう言って、視線を少しだけ落とす。その横顔が、一瞬だけ静かに見えた。
「……あ。そういえば湊、テストどうだった?」
「え、いま聞きます?」
「聞く。気になる」
「赤点二個です」
ニコッと笑いながら、さらっと言うので、一瞬聞き間違えたのかと思った。
「……は?」
「あ、青点も一個あったかな……」
まるで大したことじゃないみたいに付け足す。
どうやら来人より先に、こっちを対処しないといけなかったらしい。
「湊、前俺に点数上げるとか大口叩いてなかったっけ?これじゃあ、貰える点数ないんだけど」
ジトッとした目で湊を見ると、そんな視線も心地いいかの様に、ふわっと笑った。
「でも赤点を全部足せば50点超えるじゃないですか」
「どんな言い訳だよ……」
ため息をつきながらも、口元は笑っていた。
椅子を引くと荷物を丁寧に鞄に詰め込む。外はもう暗い。街灯がぽつぽつと灯りはじめていた。薄暗い道を、二人で並んで歩き出す。
「電車、後四十分後だって」
「お、意外と早いですね」
「……すごいな、その考え。ここ座りなよ、それ重そう」
「はい。ありがとうございます」
湊は背負ったギターをホームの椅子に立てかけると、当たり前みたいに隣に座る。その瞬間、ふわっとした、ほんのり甘い香りがした。
それだけの事で、さっきまでの寂しさは忘れてしまった。
気づけば、同じ時間に家を出て、同じ道を歩くことが当たり前になっていた。
「先輩、おはようございます」
「……おはよ」
背後からかけられた声に振り返ると、湊がいた。
テスト期間に入って、湊も部活がないらしい。それからは自然な流れで、一緒に登下校するようになっていた。
隣に並ぶのも、もう迷いはない。気づけば当たり前のようにそこにいて、その距離に、違和感もなくなっている。
あれから、交換日記の頻度は少し減った。それでも——いや、それだからこそかもしれない。直接顔を合わせて言葉を交わせる毎日が、思っていた以上に心地よかった。
「せんぱい、今日も眠そうですね」
「ん……朝弱いだけ」
「昨日ちゃんと寝ました?」
「……たぶん」
「たぶん、って」
くすっと笑われる。その笑い方があまりに心地よくて、何でもないはずなのに、妙に意識してしまう。
ふと横を見ると、柔らかく細められた目が、こちらを見ていた。
その表情を受け止めきれなくて、思わず視線を逸らす。胸の奥で、心臓がさっきよりも速く鳴っていた。
やがて、遠くから電車の近づく音が聞こえてくる。レールを伝ってくる振動が、足元にわずかに届いた。
二両編成の短い車両がホームに滑り込むと、開いた扉へ、同じ制服の生徒たちが、ぽつぽつと乗り込んでいった。
「今日は、英語のテストが二個もあるんです」
「へー。国際科って、英語のテスト何個あるの?昨日も英語のテストとか言ってた気がするけど」
「基礎英語、コミュニケーション英語、応用英語の三つです」
湊は迷いなく答えて、指を三つ立ててみせた。
「……多、そんなにいらないだろ」
英語、英語、英語。頭の中で並べてみるだけで、少しうんざりしてくる。
それでも湊は、特に苦でもなさそうな顔をしている。むしろ、当たり前のことを話しているだけ、という様子で。
そんなに英語ばかりあって、飽きたりしないのか、不思議だ。
「今日のテスト、やばいです」
「湊、いつもやばいって言ってるじゃん」
「でも今回は本当に、やばいです」
「それも昨日言ってる」
「先輩、今度教えてください」
「まあ……気が向いたらね」
頭の中でその場面を想像した途端、理由もなく落ち着かなくなった。他のやつに教えるのは何でもないのに、相手が湊になるだけで、妙に意識してしまう。
曖昧に濁したのに、湊は嬉しそうに「やった」と小さく呟く。その反応に、なんでそんな喜ぶんだよ、と思いながらも、悪い気はしなかった。
学校に着くと、昇降口の手前で、どちらからともなく足が止まる。
「じゃあ、また昼に」
「ん」
短く言葉を交わして、湊は国際科の棟へ向かう。軽い足取りで離れていく背中を、なんとなく目で追ってしまうのは最近の癖だ。
やがて見えなくなってから、自分も教室に向かう。
「よ!冬馬、おはよ」
「……わ、びっくりした。おはよ」
不意に、背後から誰かの両腕が、わきの下にずぼっと差し込まれた。
くすぐったさにも似た感覚に、思わず肩が跳ね上がる。
振り向くと、来人がいつもの調子で笑っていた。隣では紫藤が、軽く手を上げて挨拶してくる。
「なあ、さっき一緒に来てたやつ、例の後輩くん?」
「……まぁ」
「誰なん?あれ。めっちゃイケメンやん」
「……休んでたときに、ちょっとあって」
「ほうほう?」
「……その、家の近くの公園で知り合った、後輩」
「友達?」
紫藤がぽつりと聞く。
「……たぶん?」
「たぶんて、なんやねん」
「いや、だって……」
本当に分からないのだ。言葉にしようとしても、しっくりこない。なんていえばいいのか、この関係に名前を付けても、どれも違う気がして。
「まぁええやん、仲良さそうやし」
「そう見える?」
「見える見える。めっちゃ懐かれてるやん」
来人が面白がるようにこちらを見ている。
「……犬かよ」
思わずぼそっと返すと、来人が吹き出した。
「それや!めっちゃ大型犬っぽいわ!」
「うん……否定できない、」
軽口を叩き合うこの感じも、いつの間にか日常になっていた。
そんな日々を繰り返しているうちに、あっという間に短いテスト期間が終わった。
机に向かう時間が増えるほど、勉強のストレスで何度も胃薬にお世話になってしまった。
それでも、朝と帰りの時間だけは別だった。
駅までの短い道と、並んで歩くほんの数分。その時間だけは、妙に呼吸がしやすくて、張りつめていたものが少しだけ緩んでいく。
気づけば、それが一日の中でいちばん落ち着く時間になっていた。
「うわ、順位出てるで!」
「見たくない……」
「見るやろ普通!」
来人に半ば引きずられるようにして、廊下の掲示板の前に連れていかれる。
成績優秀者の上位10名だけが廊下に張り出される仕組みになっている。母はいつもこの順位を気にする人だった。
人だかりの中を覗き、視線が上から順に滑っていく。一つひとつ名前を追うたびに、心臓の音が大きくなる。
そして、真ん中あたりで、ぴたりと止まった。
そこに、自分の名前があった。
「……あ、あった」
少しだけ、安心したような息が漏れた。
「え、冬馬すごくね?!」
来人が横で騒ぐ。しかし上の方を見ると、相変わらず一位を陣取っているのは紫藤だった。
一年の時からずっと、紫藤が不動の一位で変わりない。
やっぱり、天才にはかなわない。
「休んでたのに俺よりできるとか、なんでなん?意味わからへんのやけど!」
「……別に、」
できるだけ平静を装って返す。声が少しだけ素っ気なくなるのは、たぶん誤魔化しきれていない証拠だ。
「いや別にちゃうやろ!俺なんかギリ赤点回避やぞ?!」
「いや、隣に学年一位がいるじゃん」
視線だけで隣を示すと、来人も同じように紫藤をみた。
けれど当の本人は、そんな視線などどこ吹く風で、いつも通りの表情で立っていた。
「こいつはあかんねん!」
「……」
「何言うてるかわからん!教える気ない」
「来人が理解してないだけ」
「うざっ!ほんまうざい!」
騒ぐ来人を見て、思わず口元が緩んだ。
紫藤はたぶん、いわゆる天才型なんだろう。考えるより先に、答えに辿り着いてしまうタイプ。
でも、俺は違う。家で時間をかけて、何度も繰り返して、ようやく上位に食い込めているだけだ。
だからこそ、来人の言い分も、少しだけ分かる気がした。
「少しくらいなら、勉強教えられるよ」
「え、まじで?!」
「うん。何の教科が苦手なの?」
「なんのっていうか……全部?」
「は?」
……訂正。これは相当、時間がかかりそうだ。
テスト期間が終わると同時に、湊も部活が再開した。
湊を待っているだけなのも手持ち無沙汰で、気づけば空き教室に集まっていた。
窓際の机を寄せて、返却されたテストを広げる。窓の外では、野球部の掛け声と、サッカー部の試合の音が混ざり合って届いてくる。
「ここ、なんでこうなるか分かる?」
「……いや全然」
「ここで式変形してるの」
「え、それどこから出てきたん」
「うーん、と……」
言葉にしようとして、一瞬だけ詰まる。どう説明すればいいのか、頭の中で組み立てている、その時。
「こう」
紫藤が横から、さらりと数式を書き足した。無駄のない簡略化された式で、一気に答えまで繋げてしまう。途中がごっそり抜けていた。
「いや、意味わからんて!」
「だからここがなくなって消えるの」
「なんでそうなるん!もー紫藤は入ってくんな!余計頭悪なる!!」
来人が机に突っ伏しそうな勢いで頭を抱える。
「……来人、落ち着け……」
苦笑しながら、もう一度ゆっくり説明し直す。さっきよりも噛み砕いて、一つずつ順を追って。
来人がうんうんと唸りながらも、なんとか食らいついてくるのを見て、少しだけ可笑しくなる。
こうして三人で机を囲むのも、悪くない。
「あーつかれた。初めて一時間もやったわ。ってか、冬馬マジでわかりやすい」
「え、そう?」
「うん。先生向いてるで、絶対。次も教えてや、飯おごるから!」
「いいよ、おごらなくて。俺も勉強になるし」
「来人、そろそろ時間」
紫藤が短く声をかける。つられて窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。オレンジと紺色の混ざり合った空が、グラウンド全体をやわらかく染めている。
「あ、ほんまや。やば、じゃあ俺ら帰るわ!」
「うん。おつかれ」
「またなー!」
扉が閉まったあと、教室には一人分の静けさが残った。
さっきまでの賑やかさが嘘みたいに引いていく。その落差に、少しだけ息が詰まる。
ふと、一年の頃の自分を思い出した。
あの頃は、何もかもを自分から遠ざけていた気がする。どうせ無理だと決めつけて、最初から踏み込まなかった。湊と出会ってから、ようやく、そのことに気づいた。自分の心を開くと相手も開いてくれる。こんなにも恵まれていたのに、一年の時はそれに気づかなかった。
少しだけ寂しくなって窓の外を見ると、サッカー部が片づけを始めていた。ボールをまとめる音や、短いやり取りが、夕方の空気に溶けていく。
その光景をぼんやり眺めながら、もう一度ノートを開く。さっきの説明をなぞるように、ペンを走らせた。
それからまた三十分ほどして、集中力が切れかかった、そのとき——
教室の扉が、開いた。
「先輩、お待たせしました」
振り返ると、扉のところに湊が立っていた。背中にはギターケースを背負っていた。肩にかかるその黒いシルエットが妙に似合っていて、思わず目が留まる。
あれ、自分のものだろうか?中々にかっこいい。
そんなことを考えながら、にやけそうになる口元をなんとか押さえた。
「……遅かったね」
「すみません、部活、長引いちゃって……。勉強してたんですか?」
湊は教室の中を軽く見渡しながら、こちらへ歩いてくる。
「さっきまでな」
「一人で?」
「いや、友達」
「ふーん。この前の二人ですか?」
「うん。来人と紫藤」
名前を出した瞬間、湊の目がほんの少しだけ細くなる。
「……?なに」
「別に。結構、長くやってたんですね」
「まぁ、一時間くらい」
「へぇ……」
軽い相槌。けれど、その声の奥に、ほんのわずかな違和感が混じっている気がした。
「楽しかったですか?」
「は?」
思わず聞き返すと湊は、ちらっと、こちらを見た。
「その勉強会」
「……まあ、」
曖昧に答えると、湊は短く息を吐くようにして頷いた。
「ふーん」
それだけ言って、今度はわざとらしく視線を逸らす。
……なんだこいつ。今日は、少しおかしい。
「湊、機嫌悪い?お腹空いてんの?」
「悪くないですよ」
「いや、なんか——」
「悪くないです」
さっきよりも、ほんの少しだけ強い言い方。そのあと、湊はふっと表情を緩め、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「俺も、もっと頑張らないとなって、思っただけです」
そう言って、視線を少しだけ落とす。その横顔が、一瞬だけ静かに見えた。
「……あ。そういえば湊、テストどうだった?」
「え、いま聞きます?」
「聞く。気になる」
「赤点二個です」
ニコッと笑いながら、さらっと言うので、一瞬聞き間違えたのかと思った。
「……は?」
「あ、青点も一個あったかな……」
まるで大したことじゃないみたいに付け足す。
どうやら来人より先に、こっちを対処しないといけなかったらしい。
「湊、前俺に点数上げるとか大口叩いてなかったっけ?これじゃあ、貰える点数ないんだけど」
ジトッとした目で湊を見ると、そんな視線も心地いいかの様に、ふわっと笑った。
「でも赤点を全部足せば50点超えるじゃないですか」
「どんな言い訳だよ……」
ため息をつきながらも、口元は笑っていた。
椅子を引くと荷物を丁寧に鞄に詰め込む。外はもう暗い。街灯がぽつぽつと灯りはじめていた。薄暗い道を、二人で並んで歩き出す。
「電車、後四十分後だって」
「お、意外と早いですね」
「……すごいな、その考え。ここ座りなよ、それ重そう」
「はい。ありがとうございます」
湊は背負ったギターをホームの椅子に立てかけると、当たり前みたいに隣に座る。その瞬間、ふわっとした、ほんのり甘い香りがした。
それだけの事で、さっきまでの寂しさは忘れてしまった。
