ジュエルクッキー、君の分だけ様子がおかしい

 翌朝、洗顔し歯を磨いていると、昨日のことをふと思い浮かべる。

 帰宅後は混乱のまま夕食と風呂をすませ、すぐにベッドに潜り込んだ。時間が経つにつれて告白の実感が湧いてきて、どうしていいか分からなくなる……俺の気持ちって今どんな感じなんだろう。告白されたのが初めてだし、それも男で……でも嫌な気持ちはなくてどちらかと言うと――凄く嬉しい。そんなことを考えながら寝落ちしていた。

 部活の間だけの恋人。それはきっと……七瀬の気まぐれだ。だってやっぱり信じられない。これが本気の恋だなんて。平凡で明るくも愛想もない、お菓子作りしか出来ない俺のことが――好き、だなんて。そして、その気まぐれが終わるとき、俺はどうなってしまうんだろう。不安で頭の中がモヤモヤし始めた。


 でも、俺の不安とは裏腹に、告白から数日経っても俺たちの関係は何も変わらないようだ。七瀬は今日も部室に来て、当たり前みたいにスツールに座ってクッキーを食べている。これが恋人というものなのか……? 仲の良い友達みたいな感じで、恋愛って感じじゃなくて拍子抜け。

 こんな風なら付き合ってもいいのかな。いっぱいの「好き」をあげなくていいのなら、意外と簡単なのかも……いや、そうでもないか。

 唯一変わったのは些細なことだけど、部室では以前より近くに座るようになって……でも、俺は特に何も言わない……それくらい、まあいっか、と思って。
 でもこの感じ、なんか落ち着かない……七瀬の「モノ」みたいだし、俺だけドキドキしてるのもなんか悔しい。


 さらに数日が経った頃、部室に二人だけが残った。田中がなんか用事あるとかで部活を抜けて、片づけを押し付けられた時のことだ。

 シンクに調理道具を置いて、洗い物をしようとしたら、七瀬が無言でスッと近づいてきた。いつも以上のゼロ距離に、何かなと思って振り向いた瞬間――顔が死ぬほど近くて、びっくりして身体が固まる。

 そして、俺の反応を楽しむように覗き込まれ、あのキラキラした瞳で微笑まれて……俺は今、イケメンの甘すぎる笑顔を独り占めしている。

「先輩、俺のこと、少しは好きになりましたか?」

 急に何。今までこんな距離、詰めて来なかったのに。本当に付き合ってるみたいだ。ドクドクと鼓動が暴れて、頭に血が上りそうになって、でも、この場所から逃げられなくて……。

 七瀬がさらに近づいてきて、髪を撫でられる。そのまま手が頬まで下りてきたと思ったら――下唇に親指が触れて、その瞬間息が止まった。
 熱い視線で見つめられて、抵抗も出来ないし言葉が出ない。ふにふにと弄ばれていくうちに、俺は覚悟を決めて目を閉じた。

 もうどうにでもなれ、という感じで。キスなんてしたことないけど、七瀬がしたいならいいかなって思って。

 でも、手は俺から離れていき、何も起きなかった。
 どういうこと? そういう雰囲気じゃなかったの? 
 恐る恐る目を開けると、七瀬はさっきと同じように微笑んだままだった。

「キスすると思いましたか?」

「……っ」

「しないですよ。正式に付き合えるまでは」

 耳から火が出そうになるくらい恥ずかしかった。
 一人だけその気になって、浮かれて期待して……って、俺ってそういう欲あったんだ。

 でも、心の中では……何もなくてほっとしている。何か言うべきなのに言葉が見つからない。
「キスしろよ」は変だし、「なんで、しないんだ」も違うし。

 七瀬はまた俺を覗き込みながら口を開く。

「少しは意識してくれましたか?」

「……するだろ、そんな距離に来られたら」

「よかった」

 満足そうな顔をして、当たり前みたいに蛇口をひねり洗い物をし始める。
 さっきのことなど最初から無かったみたいに、いつもの友達みたいに戻っていた。俺はしばらく、エプロンの裾をギュッと掴んだまま動けなかった。思い出すとドキドキするし、隣の七瀬にこの音を聞かれてしまうのではないかと思って。

 洗い終わった器具を引き出しに戻し、片付けを終えると、七瀬はスツールに腰を下ろして、「またお腹空いたから、もう一枚もらいますね」と一口頬張る。

「先輩、今日のジャム、多いですよね」

「……うん」

「なにか、いいことありましたか?」

「別に」

「フフッ、嘘ですね。目が笑ってます」

 俺はフイっと視線を逸らして、棚の整理をし始めた。クソッ、恥ずかしすぎる。七瀬のジュエルクッキーだけジャム山盛りにしたのは俺なのに。

 片付けが終わった頃、七瀬が「あ、そうだ」と思い出したように口を開いた。

「先輩、連絡先って、聞いてもいいですか? 夏休み、製菓部で来られる日が知りたくて」

「……いいけど」

「エへへ、それだけじゃないですけどね……」

 意味深な言葉を残しながらも、スマホを差し出してくる。なんだか、ムズムズするけど言われるがまま交換した。

 七瀬は満足げに口元をほころばせ、食べ続けている。これがいつもの風景になりつつあって、七瀬といる部活の時間が日常みたいになってて、それがちょっと怖い。春の木漏れ日みたいに心地よくて温かくて……ここから抜け出すべきか、留まるべきか、まだよくわからない。
 恋ってなんなんだろう。こんなに、苦しくて辛いの?

 田中に「白石、まさか、七瀬くんとお付き合いしてるんですか?」と耳元でこそっと聞かれて、「違う」と答えると「でも毎日来てるし、普通の関係じゃないですよね二人は……」とにやにやしてくる。

 普通じゃないのは間違いないけど、冷やかされるのは嫌だ……。
 七瀬の特別な存在だと思われるのって、意外と悪くない――でも、それが本当になったら、どうなるんだろう。

 ◇

 七月の終わりになり、夏休みが始まった。最近暑くてオーブンでお菓子を焼くのが辛くなってたから、自宅でフルーツのジェラートを色々と試作している。赤肉メロンとかスイカとか……。これ、あいつに食べさせてあげたいな……なんて。

 七瀬とは、部活の間だけの恋人、という関係を続けている。
 あれから毎日のようにチャットをしているし、それは、休みに入っても変わらない。内容はたいしたことなくて、『今日も練習でした』とか『お腹空きました』とか、短い言葉とよくわからないスタンプだけ。返すのも一言か二言で、会話というより確認作業みたいな。でもお互いのやり取りが途切れることは無かった。

 登校日には製菓部に顔を出すから、スウェーデンのクヴァルグ(Kvarg)風を作っておいた。水切りヨーグルトにたっぷりのベリーのジャムをかけるミニパフェみたいなやつ。糖分を補給させてやりたくて。

 感想は、「ジャム多めなの、好きです」と毎回言うから、本当にジャムが好きなんだなと思った。
 登校日は数回あって、練習を抜けては会いに来てくれた。


 そして迎えた夏休みの最終日、チャットが届く。
 『明日から新学期ですね』
 『うん、明日な』
 返事は、意味不明なクッキー人間の陽気なスタンプと『楽しみです』と添えられていた。

 明日からまた、七瀬にお菓子を食べさせないといけない。でも、なんか楽しみになっている自分がいて、変だなと思った。こんなに浮かれるなんて、自分らしくないから。