ジュエルクッキー、君の分だけ様子がおかしい

 気づけば、七瀬は毎日製菓部にいた。

 弓道の練習が終わると、まっすぐ部室に来て、「先輩、今日何焼いてますか」と作業台を覗き込んでくる。距離が近すぎて最初は慣れなかったけど、これが七瀬の中では普通みたいだから、深い意味はないんだと思って。

 そう、この数か月で二人の距離は縮まっていたのだ。他の部員たちに「七瀬くんまた来た」と笑われるけど、七瀬本人も特に気にする様子がないし。弓道をやっているからか、メンタルが鬼強だ。

「七瀬くん、ほぼ製菓部じゃないですか」

 田中がからかってくるのを「ほっとけ」と返しながら、俺はその状況を受け入れていた。というより――正直に言うと、来ない日は少しだけ物足りなくて……。その時は、味見係がいないせいだ、と思うことにしていた。

「先輩、今日のクッキー、俺の分ありますか」

「ある」

「やった。先輩、好きです」

「そんなこと、軽く言うなよな」

「本当のことなんです」

 話を聞いていた田中が「フフッ」と噴き出した。七瀬は至って真顔で、冗談か本気か全く読み取れない。「好き」って簡単に言いすぎだとは思うけど、陽キャだと普通なのかもしれない。でも、人懐っこすぎると思うんだよな。

「あの、白石先輩、聞きたいことがあります」

「なんだ改まって」

「先輩って、なんでこんなにお菓子作りが上手なんですか?」

「それは……」

 気づいたら全部話していた。七瀬のあの瞳で見つめられると、心の奥底に閉まっているものを暴かれてしまう――言わないという選択肢を奪われてるみたいに。

 幼い頃からばあちゃんにスウェーデン菓子を習っていること。「男がお菓子を作るなんて」と笑われるのが怖かった時期に、パティシエの世界は男性が主役だと知って、堂々と振る舞えるようになったこと。今では部の副部長として、後輩たちにレシピを教える側に回り、スウェーデン菓子をもっと広めたいという、まだ誰にも言ったことのない夢まで。

 七瀬には関係ない話だ。なのになんで、話したくなるんだろう。その理由はまだわからない。

 七瀬は俺の話が終わった後、ボソッと呟いた。

「夢の話してる時、瞳がキラキラしてます」

「……は?」

「先輩のそういうところ……ほんと好きです」

 真剣な表情をしていて、冗談を言う時の顔じゃないし。

「また軽く言う。勘違いされるぞ」

「軽くないですよ? すっごく魅力的です……先輩は」

「は……?」

 その、身を焦がすような熱い視線はなんなんだ……!
 俺……口説かれてるの? まっ、まさかな……。
 七瀬の前だと調子が狂う。

 ◇

 ある日、七瀬が来た時、俺は少し疲れていた。自分では普通のつもりだったのに。
 昨夜は遅くまで、製菓部の今後のメニューやレシピの作成、材料の発注など部長の代わりに顧問に提出する書類を作っていたからだ。部長はもうすぐ引退だから今後はしっかりと切り盛りしなければ。

「先輩」

「なんだ?」

「今日、ジャム少ないですね。それに、カルダモンの香りがいつもより薄いみたいです」

 手元を見ると、確かに今日のジュエルクッキーのジャムは少なすぎる……ぼーっとしてたから、気づかなかった。

「疲れてる時、減ります」

「えっ、そうかな?」

「はい。毎日来てますからね。目の下のクマ……心配です」

 七瀬は静かにそう言って、俺の顔を不安気に覗き込む。お菓子目当てで来てるだけなはずなのに、こんなに、俺のこと見てたの……? そのことに気づいた瞬間、怖くなって目を逸らした。でも本心は少しだけ嬉しくて――それがちょっと変だなと思った。

「……先輩、今日は俺が片付けます」

「いいって」

「ダメです。座っててください。いつも見てたから知ってますから」

 有無を言わさない口調で、椅子にすわらされ、七瀬は一人で道具を洗い始めた。あのへらへらしている奴とは同一人物とは思えない。年下に守られてるみたいで、変な気持ちだ。


 翌日、俺は珍しく学校を休んだ。気づかないうちに体調を崩してたみたいで。
 その次の日、体調が戻って登校した放課後のこと。文化祭について相談があると、田中経由でサッカー部の松本(まつもと)が部室に顔を出した。

 休んでいた間に、うちのクラスは、文化祭でシアトル系カフェの模擬店をやることに決まったらしい。それで、デカいクッキーのレシピを教えてほしいと言う。映えるし、女子も来てくれそうとか。クラスの奴らもデカいクッキー食いたいとか、色々理由はあるらしい。

 面白そうだし断る理由もなかったので、本番前に何度か一緒に試作することになった。

 ◇

 一週間後の一回目の試作日。普段の製菓部とは違う光景が広がっていた。
 クッキーには、ビターなチャンクチョコを入れることになったから、袋に入れたチョコをバキバキと綿棒で潰す男たち。

 鉄板に生地を落とす練習中、松本がアイスクリームジャーで生地を掬い、ボトッと落としながら隣で作業中の俺に近づいてきて、「量ってこれでいいの?」と聞きながら俺の身体にふざけてもたれる。

 男子校のノリなのか、みんなたまにベタベタしてくるから、俺はもう慣れっこでなにも思わない。「もう少し均一にして」と答えながら俺も押し返す。

 その時だった。

「先輩、今日はなに――」

 明るい声が、途中で止まった。
  七瀬が入り口に立っていて、松本と俺の方を一秒だけ見て、それからいつものスツールに向かいながら「……お邪魔でしたか」と低い声で言った。さっきまでの軽い雰囲気が、きれいに消えていて、通常の人懐っこさもない。

「別に邪魔じゃないよ」

「そうですか」

 七瀬はそこに座ってこちらをじっと見ている。松本が「次の鉄板もやってもいい?」と身を乗り出し、俺の前の鉄板を取ろうとした時に、七瀬がガタっと立ち上がった。

 何も言わずに足早に俺の隣に並んで、エプロンの端を静かにつまんだ。引っ張るわけでも、何かを言うわけでもない。ただつまんで離さなかった。

 七瀬どうしたんだ? おもちゃを取られた子供みたいだぞ。俺はお前のおもちゃじゃないけど。
 松本の方を見ると、ギョッとした顔をして引きつっている。

 松本は空気を読んで「ちょっと用事思い出したわ。続きはまたにしよう……」と道具を片付け始めた。田中も「あー、俺も先生に呼ばれてたんだ」とそそくさと部室を出て行く。

 二人がいなくなり、ここは静かになった。
 七瀬はエプロンから手を離して、当たり前みたいに自席に戻り、クッキーを一枚取って、ニカッとして食べ始める。さっきの殺気だった無言の圧はどこへやら……。「美味しいです」と無邪気に微笑む。

 俺はそんな七瀬に何も声をかけられず、しばらく、エプロンのつままれた端を見つめる。同じ布のはずなのに、七瀬の体温がまだ残っている気がした。

「……めんどくさいよ、お前」

「そうですね……」

 謝りもせず、言い返すこともなく、黙々とクッキーを食べ続ける。
 なんなんだよ……。拗ねてるのが可笑しくて、ちょっと耐えられない。子供っぽいのか、大人っぽいのか分からないな。

ふと、食べている七瀬を観察してみる。ジュエルクッキーを頬張る度に強張っていた頬が緩んでいく――純粋無垢でキラキラとした瞳が眩い。ただ美味しくてテンションが上がっているだけなんだな。

 そんな俺の視線に七瀬が気づいて、少し耳を赤らめる。

「……見てたんですか」

「見てた」

「恥ずかしいので、やめてください」

「甘いもの好きなんだな本当に。美味そうな顔してた」

「そんな、見ても面白くないですから」

 七瀬の意外な一面だな、と思いながらボウルを洗い始めた。
 すると、七瀬が無言で手伝い始めて、俺が洗った道具をフキンで拭いて、棚に戻す作業を淡々とこなしていく。いつの間にか、しまう場所までばっちりだ。

「いいって、そんなことまでしなくても」

「暇なので、気にしないでください」

「部活の友達と帰らなくていいの?」

「白石先輩といる方がいいです」

 なんでなんだ。普通、片付けとか面倒くさいはずだろ?
「はぁ……」と息を吐き、やれやれと思いながら手を動かしていると、七瀬が口を開いた。

「見ていたいんです」

 洗い物をしていた手が止まる。水道はジャージャーと流れたまま。

「いったい……何を?」

「全部です」

 顔を上げると目が合ってしまった。逃げたくなるのに逸らせなくて。思考が停止している間に七瀬が蛇口を止めてくれていた。

 片付けが終わる頃には、窓の外はすっかり陽が落ちて、黄昏時になっていた。

「先輩お願いがあります」

「うん?」

「弓道、見に来てくれませんか? お菓子を食べてる俺だけじゃなくて……」

「なんで俺が?」

「来てくれますよね?」

 圧が凄くて、断る言葉が見つからない。

「……わかった、行く」

 七瀬はぱあっと明るい表情になり、満足そうに微笑んだ。こんなに嬉しそうなのは珍しい。俺が弓道見に行くって言っただけで、こうなるんだな……。

「弓道って、楽しいの」

 なんとなく聞いてみると、七瀬は少し間を置いた。

「……先輩が来てくれるなら、楽しいです」

 返す言葉がなくて、俺はしばらくラベンダー色の空を眺めていた。そして、心臓のざわめきを、換気扇の音のせいにした。