名前のない想いの果てに


 上演時間が迫り、体育館の用具室は演劇部の面々による熱気で満たされていた。
 床には衣装袋が広げられ、出番を待つ大道具が壁際に寄せられている。
 毎年ここは、開演前になると演劇部が準備場所として使う、半ば恒例のスペースとなっていた。
 例年通り、演劇部は午後四時からの開演。文化祭の掉尾を飾る最後の演目だ。
「終わった人から裏に移動して!」
 慌ただしく声が飛び、役者たちが次々と舞台裏へ向かう。
 重なる足音が、刻一刻と迫る本番へのカウントダウンのように響いた。

 裏の控え室に入ると、葵は鞄からエプロンを取り出した。
​「よろしくね」
 ​背後から掛けられた穏やかな声に振り返る。
 久遠が自分のメイクケースの傍らに立ち、黒いエプロンを手に取っているところだった。
​「……あ、はい。こちらこそ」
 ​久遠は無造作にそれを頭から被り、首元で紐を結ぶ。
 その姿に、葵は思わず息を止めた。
 エプロンを纏った彼の姿には、作業へ向かう独特の凛とした緊張感があった。
 そんな彼を間近で見るのは、初めてだ。

「じゃあ、始めるよ」
 久遠が短く告げ、担当する役者の顔を覗き込んだ。
 葵も隣の役者の前に立ち、道具を並べていく。
 ファンデーション、スポンジ、ブラシ――その感触を一つずつ指先で確かめた。
 久遠が迷いのない手つきで、役者の目元に指を伸ばす。
 少し遅れて、葵もスポンジを手に取った。
 頬にファンデーションを薄く叩き込みながら、鏡の中の顔と、目の前の肌との間を視線で行き来させる。
 全体のバランスを確かめ、再び目の前の質感に意識を集中させた。
 ふと隣に目を向けると、久遠が鮮やかな手際で筆を動かしていた。
 彼は鏡すら見ず、ただ役者本人の目元だけをじっと見据えている。
 その揺るぎない集中力に当てられた瞬間、別の光景が脳裏を掠めた。

 保健室。独特な軟膏の匂い。
 白く巻かれた包帯の痛々しさ。

 不意にスポンジを持つ手が止まった。

「……結崎さん?」

 低い声に弾かれたように顔を上げると、久遠がこちらをじっと見つめていた。
 その瞳の奥には、微かな心配の色が滲んでいる。
「ご……ごめんなさい」
 葵は逃げるように視線を落とし、手元の道具を持ち直した。
 久遠はそれ以上追求せず、手近なブラシを葵の方へ差し出した。
「大丈夫。次はこれを使って」
 そう言って、彼はすぐ自分の作業へと戻っていく。
 葵は小さく息を吸い込み、受け取ったブラシを握り直した。

 用具室のほうから、大道具を運び出す鈍い音が響いてくる。
 本番は、もうすぐそこまで来ている。
 葵は一瞬だけ瞼を閉じると、再び筆を走らせた。

 控え室の外から、スピーカーを通したアナウンスが微かに流れ込んできた。
『まもなく、演劇部の上演を開始いたします。ご来場の皆さまは、体育館内のお席へお進みください』
 その瞬間、部屋の空気が止まった。誰かが短く、鋭く息を吸い込む音が聞こえる。

「……来たね」
「よし、行こう」
 役者たちは互いに目を合わせ、衣装の裾を整え始めた。
 久遠は一人ひとりの顔を真っ直ぐに見据え、低い、けれどよく通る声で告げる。
「落ち着いて。板の上に立つまでは、いつも通りでいいから」
「はい」
 短く、けれど力強い返事。
 小声でエールを送り合いながら、役者たちは控え室を後にした。彼らが向かうのは、闇の潜む舞台袖。
 葵は使い終えたメイク道具を一つずつまとめながら、遠ざかっていく足音に耳を澄ませた。
 扉が閉まると、控え室は急激に色を失ったような静寂に包まれた。
 ——始まる。
 葵は、役者たちが消えていったステージの方向をじっと見詰めた。

 控え室には、久遠と葵だけが取り残された。
 さっきまで役者が座っていた椅子が、主を失ったまま整然と並んでいる。
 久遠は机の端に置かれた小さなランプに手を伸ばし、そのスイッチを入れた。
 ふわりと、琥珀色の柔らかな灯りが二人の間に広がる。
 それを見届けてから、彼は入口のスイッチへと向かった。
 ぱちん、と音が響き、天井の蛍光灯が消える。
 視界が一瞬、深い闇に沈んだ。
 けれど、それも束の間だった。
 久遠がモニターの電源を入れると、青白い光が暗闇に滲むように広がっていく。
 舞台の様子を映し出す無機質なその輝きは、机の上の頼りなげな暖色と混ざり合い、室内をぼんやりと、けれど濃密に照らし出した。
 先ほどまでより久遠の気配が近く感じられ、葵の心臓が小さく跳ねる。

「お疲れさま、結崎さん」
 慈しむような響き。その微笑みがあまりに優しくて、一瞬、目が逸らせなくなる。
「……先輩も、お疲れ様です」
 悟られないように、葵はなるべくいつも通りを装った。
 扉の向こうからは、舞台の気配がかすかに漏れ聞こえてくる。
 せわしない足音、照明のスイッチが入る気配、押し殺した低い声。
 二回目のBGMが流れた後、不意に流れが気になった。
(……今、どの辺だろう)
 椅子に座ったまま、台本のページを捲る。
 その時、傍らに立っていた久遠が、ふっと視線を落とした。
 葵が文字を追っているのに気づいたのか、彼は何も言わずにすっと身をかがめる。
 その長い指が、葵の広げた台本の上に置かれた。
 紙の質感をなぞるように、ゆっくりと滑る。

「……ここ」

 すぐ耳元で、重みのある低い声が降ってきた。​
 ランプの灯りに背を向けたことで、台本の上に二人の影が濃く重なった。
 ふわりと漂う柔軟剤の香りと、すぐ隣にある彼の静かな呼吸。
 舞台の喧騒が、この一角だけを切り離しているようだった。
 久遠の制服の袖が、かすかに葵の腕に触れる。
 けれど彼は気にした様子もなく、文字の羅列をなぞり、ある一点で止めた。
「この後、ここで照明が落ちる」
 ​その指先を追おうとするが、すぐ隣にある彼の横顔が気になって、文字が上手く頭に入ってこない。
 舞台の音が、扉の向こうで小さく響いた。
「あ、ありがとうございます……」
 視線を上げると、そこにはいつもより僅かに温度の宿った、柔らかな久遠の表情があった。
 葵は思わず視線を逸らし、台本へ向き直った。
 指先で文字を追い、役者の動線を頭に叩き込む。

 この後一度、舞台袖に出る。次は暗転。それから――メイク直し。一連の流れを反芻する。  
 ちゃんと把握しておかなければ、足元をすくわれる。
 久遠は道具の入ったポーチを開け、必要な筆やパレットを静かに並べ直していた。
 言葉はないが、その所作には一点の迷いもない。
 その凛とした空気に背中を押されるように、葵もまた台本を見つめたまま、深く息を整えた。

 その時――控え室のドアが、遠慮がちにノックされた。
「失礼します」
 顔を出したのは、芽美だった。
「部長、演出からの伝言です。後半、照明の当たり具合を見て、立ち位置をほんの少しだけセンターに寄せてほしいって」
 芽美はそう言って、走り書きのメモがついたプリントを久遠に差し出した。
「ありがとう」
 久遠が受け取り、内容を速読する。
「……なるほど。影の出方を微調整したいのか。うん、わかった」
 彼は迷いのない手つきで、受け取った紙を作業台の端へと置いた。
「キャストには伝わってる?」
「はい、舞台袖で全員に回しました。葵ちゃん、メイク直しの時、役者の誘導位置も少し変わるから気をつけてね」
「……えっ」
 ​突然の変更に思考が追いつかず、葵がまごついた瞬間だった。
「大丈夫、あとで教えるから」
 久遠が芽美のほうを見ながら答えた。芽美は安心したように頷く。
「それじゃ、よろしくお願いします」
 言い残した彼女が出ていこうとして、ふと葵のほうを振り返った。視線がぶつかる。
 芽美は何も言わず、けれど意味深な笑みを浮かべてみせた。          
 ——がんばって。​声にならない唇の動きが、そう告げた気がした。
 反射的に頷く。けれどその直後、ふと疑問が胸をかすめた。
 それがメイクのことなのか、それとも――久遠のことなのか。
 わからないまま、頬が熱を持つ。

「ほら。やっぱりバレバレじゃないの、葵」
 ​不意に響いた聞き慣れた声に、葵の肩が跳ねた。
 壁際で腕を組んだQちゃんが、呆れたように小さく息を吐いている。
 いつの間に入ってきたのか、彼はドアの傍らに立ち、面白そうにこちらを眺めていた。
 葵は、そっと久遠の横顔を盗み見る。
 何事もないように整ったその表情が、かえって落ち着かない。
 それから、誰にも気づかれないように、もう一度だけ頷いた。

 ほどなくして、重なり合う足音が静寂を破った。
 扉が開き、役者が三人、肩で息をしながら飛び込んでくる。「お願いします!」「……時間、押してて」​
 切迫した声が響く。
​「分かってる。座って」
 ​久遠が即座に優先順位を判断し、手近な椅子へと促した。
 葵も反射的に台本を閉じ、迷いなく道具を手に取る。
 役者が椅子に腰掛け、指示に従って顔を上げる。
「結崎さん、次、暗転入ってから二分あるから。立ち位置、センター寄りになる。影に負けないように仕上げて」
 ​久遠の言葉が、すとんと葵の腑に落ちた。
 葵は迷わず頷いた。さっき芽美が言っていたのは、このことだ。
​「はい!」
 ​手早く、けれど丁寧に。
​(……センターに寄るなら、こっちからの光が強くなる)
 ​芽美の持ってきた変更点を、指先の感覚へと変換していく。
 汗を押さえ、色を足し、ラインを引き直す。
​スポンジを差し出しながら、葵は先ほどよりずっと安定した手つきで動いていた。
「ありがとう」
 メイクが終わると役者たちは短く告げて立ち上がり、再び舞台の喧騒へと戻っていく。
 後に残されたのは、使いかけの道具と、わずかに上がった二人の呼吸だけだった。
 久遠がブラシを置き、ポーチを整えながら、不意に声を落とした。
「……今日、何かあった?」
 その声はどこまでも穏やかで、かえって葵は持っていたコットンの箱を落としそうになった。
(どうしてわかったんだろう……?)
 ​作業中のわずかな迷いすら、この人には見透かされてしまう。
 葵はどう切り出そうか迷ったが、やがて絞り出すように口を開いた。
「……実は今日、同級生が火傷をしてしまって」
 言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。久遠が、わずかに目を見開いた。
「そうなの?大丈夫だった?」
「はい。すぐに冷やして、保健室で手当てしてもらったので……」
「そう。……それはびっくりしたね」
 久遠は短く頷いてから、表情を柔らげた。
 部屋の隅では、Qちゃんがこちらをじっと見つめていた。
「結崎さんも、大丈夫だった?」
「あ、私は……」
 畳みかけるような久遠の問いに答えようとして、掌に書き留めた文字が目に留まる。

『2021 本当は』――

 杉原の、苦痛に歪んだ顔が脳裏をよぎる。
 喉の奥が、きゅっと詰まった。
 その時――視線に気付き、葵は顔を上げた。
 Qちゃんが、いつになく真剣な顔でこちらを見ていた。
 いつもの軽薄さはない。何かを警戒するような、鋭い眼差し。
『——余計なことは、話さなくていい』
 無言の圧に押し切られるように、葵はそっと視線を外した。
「……大丈夫です。驚きはしましたけど」
 声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
 久遠の瞳に、静かな安堵の色が混じる。
「そうか。無理しなくていいよ。今は、できることだけやろう」
 久遠の声が、熱を持っていた思考をゆっくり静めていく。
 葵は小さく頷き、ブラシへ手を伸ばした。
「あ……そういえばさ」
 久遠が不意に、いたずらっぽく声を潜めた。
「俺がアシスタントを探してたこと、よくわかったね」
 心臓が跳ねた。
 ――自分から気付いたわけじゃない。四年前のあの日、彼から直接頼まれたからだ。
 言い淀む葵の耳に、部屋の隅から小さなため息と、助け舟が届く。
「……『今回の劇、メイクが多かったので』」
 Qちゃんの囁きをなぞるように、葵は言葉を紡いだ。
「今回の劇、メイクが多かったので……」
「そっか。台本、よく読み込んでるんだね」
 久遠は一度舞台に目を戻してから、何気なく続けた。「俺はリハ始まるまで気付かなかった」
「え?」
「こんなに仕事多いって」
 一瞬、久遠と目が合った。それから同時に小さく笑う。
「助かるよ。裏、ほんと人足りてなくてさ」
「……それなら、良かったです」
 久遠のあどけない笑顔に、葵は慌てて目を逸らす。
「結崎さんって、昔から演劇が好きなの?」
 何気ない問いに、葵の思考が止まる。
 演劇そのものに強く惹かれていた訳ではない。
 最初に心を奪われたのは、新入生向けの部活紹介で見た、あの舞台だった。

(久遠先輩が、そこにいたから……)

 自覚した瞬間、顔が火を噴くように熱くなった。
「わっ、バカ……!」
 Qちゃんの焦った声に、葵はすがるような目を返した。
 あまりにも初々しい反応に当てられたのか、彼は一瞬言葉に詰まる。その頬がわずかに赤くなった。
 それから、気持ちを切り替えるように息をひとつ吐いた。
「……正直に、『部活紹介の舞台見て、興味持ちました』でいいんじゃない?」
「……」
 葵は露骨に顔をしかめた。
 けれど、Qちゃんは呆れたように「いいから」と促す。
 背中を押され、葵は震える声でそれをなぞる。
 久遠は、その言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「そっか。嬉しいな」
 久遠は疲れの滲む顔で、けれど心底嬉しそうに微笑む。
 後ろでは、Qちゃんがやれやれと軽くため息をついた。​
 恥ずかしさに耐えかねて視線を逃がした先に、モニターがあった。
 音声のない画面の中で、スポットライトを浴びた役者たちが揺れている。物語はもう、終盤だ。
 音のない舞台の光が、葵の瞳の中で静かに爆ぜていた。

 幕が下りた瞬間、強い雨のような拍手が客席から湧き起こった。
 体育館の空気を震わせ、壁を伝ってこちらまで響いてくる音。
 ——この熱を、私は知っている。そんな既視感が葵の胸をかすめた。
 ​直後、静寂を破って控室のドアが次々に押し開けられた。
「すみません、少し直します!」
「汗やばい……間に合うかな」
 カーテンコールを控え、高揚した役者たちが一斉になだれ込んでくる。​
 久遠が即座にブラシを手に取り、葵も吸い寄せられるようにスポンジを構えた。
「次、すぐ出るから急いで」
 久遠の短い指示が飛ぶ。
 頬の赤みを整え、滲んだラインを引き直す。
 浮いた汗を丁寧に押さえ、照明に映えるよう光を足していく。
「ありがとう!」
 息を整えた役者が鏡を一瞥し、弾かれたように戦場へと戻っていく。
​「そろそろ行くよ!」
 合図の声が響き、役者たちは互いに深く頷き合った。
 衣装の裾を翻し、一人、また一人と舞台袖へ消えていく。
 嵐のような喧騒が去り、室内には再び、久遠と葵、そして二人の静かな呼吸だけが残された。​
 使い終えた道具をティッシュで拭い、一つずつ元の場所へ戻していく。

「……無事、終わりましたね」
「そうだね。よかった」
 久遠は穏やかな笑みを向けると、舞台袖へと続くドアを開けた。​拍手の音が、一気に近くなる。
 彼はドアの傍らに立ち、舞台上の仲間たちへ向けて、静かに、けれど力強く手を叩き始めた。
 その横顔にはやり遂げた達成感と、深く優しい光を帯びている。
​(終わったんだ……)
 安堵が全身に染み渡ろうとした、その時だった。

​「葵ちゃん」

​(……え?)

 久遠が拍手をしながら、ゆっくりとこちらを振り返った。

 ――今、なんて?
 驚きに固まる葵と、視線が重なる。
 ​久遠は一瞬だけ悪戯っぽく微笑むと、それまで舞台へ向けていた拍手を、そっと葵の方へと向け直した。
 胸の奥が、どくん、と跳ねる。

​(聞き……間違い?)

 名前を呼ばれたのは、幻聴だったのかもしれない。
 けれど、自分だけに向けられるその拍手の温かさに、思考が真っ白に染まっていく。
 ​吸い込まれるように、ゆっくりと立ち上がった。
 そして、彼を見つめたまま、同じように精一杯の感謝を込めて、久遠へと拍手を返した。
 ​光の届かない舞台裏で、二人分の拍手が静かに重なった。

「お疲れ様!」
「大成功じゃない?」
 再び戻ってきた部員たちの足音と興奮した声が控え室に流れ込み、一度は霧散したはずの熱気が再び部屋を満たす。
 その賑やかさを背中で聞きながら、温かな余韻を噛みしめ、メイク道具を箱に戻し始めた。
 ――その時だった。

 それまで確かに聞こえていたはずの笑い声や、衣装の擦れる音が、突然、真空に吸い込まれるように遠のいた。
 代わりに、キィン、という細く鋭い電子音が、耳の奥を刃物でなぞるように走った。
​(……この音、どこかで……)
 現実の音が砂嵐に呑まれ、足元の床が頼りなく波打つ。
 今がいつで、ここがどこなのかも分からなくなる。

 ふわりと意識が浮き、足元の感覚が、確かな地表を失って曖昧になる。

​(……いや、怖い――!)

 ​その場に留まる恐怖に突き動かされ、控え室の扉の向こう、暗い通路へと飛び出した。
 ​背後で久遠の声がした気がしたが、それも電子音の波に飲み込まれていく。
 ――外へ。
 この音が聞こえない、どこか遠い外へ。
​(逃げなきゃ……!)
​ 葵は縋るように、通路の先にある扉へ手をかけた。
 重い扉を押し開けた瞬間――
 視界を焼き尽くすような白光が溢れ出した。


・2023年(中学三年)文化祭以来、彼女の気力が減退。何か原因があるのか?