名前のない想いの果てに

「どうした? 何かあったのか」
 担任が駆けつけると、騒然としていた教室は慌ただしく動き始めた。
 事情を聞いた担任が、顔をしかめる。
「滑るから気をつけろ。熱いものは全部下げろ。そっち、雑巾持ってこい」
 飛んだ指示に、生徒たちは散乱したプラスチック容器や濡れた床を片付けていく。
 その騒がしさが、今の葵にはどこか遠く感じられた。
 火傷を負った杉原は、すでに一人で保健室へ向かい、もうここにはいない。
 無言で雑巾を握りしめ、床に広がったスープを見詰めていると、胸の奥が冷たく軋んだ。
「結崎」
 不意に名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。担任がすぐそばまで来ていた。
「お前も制服濡れてるだろ。念のため保健室行ってこい」
「……え」
 そこで初めて葵は、自分の袖やスカートが湿っていることに気付いた。
「でも……」
「いいから。片付けはこっちでやる。店番も代わるから」
 言い切られた葵は「……はい」と雑巾をバケツにかけ、教室をあとにした。
 
 一度トイレに駆け込み、ロッカーから持ってきたジャージに急いで着替える。
 湿った制服をバッグへ押し込む間も、焦りで指先が妙に冷たかった。

 保健室に入った瞬間、中にいた杉原がはっと顔を上げた。
 処置はちょうど終わるところだった。
 養護教諭が、白衣の胸元でペンを揺らしながら、手際よく彼の腕の包帯を留めていく。
「軽い火傷ね。ちゃんと冷やせてたから大丈夫。でも――」
 続きかけた言葉を遮るように、杉原が静かに先生へ視線を向けた。
「……あ」
 それに気付いたように、先生が葵へ目を向ける。
 それから言葉を飲み込むように小さく息をついた。
「……今日は念のため、無理しないで。濡らさないようにも気を付けてね」
「はい」
 杉原は短く応じた。その声は、驚くほどいつも通りだった。
「さて、あなたは……」
 こちらを振り返る先生へ、杉原が声を掛ける。
「クラスメイトです。同じ店で配膳してました」
「あら。じゃあ、あなたも?どれ、ちょっとこっちのベッドで見せて」

 手際よくカーテンが引かれ、葵は杉原の視線から遮断された。
「ジャージに着替えてきたのね。ちょっと腕と足、見せてちょうだい」
 促されるままベッドの端に腰掛け、葵はジャージの袖を捲り上げ、裾を少し手繰り寄せた。
 先生のひんやりとした指先が、スープの跳ねた皮膚を確認していく。
 薄い布一枚を隔てた向こう側から、杉原が小さく息を吐く気配が聞こえた。
「赤くなってないし、大丈夫そうね。火傷にはなってないわ」
「……ありがとうございます」
 先生は裾を戻すと、カルテにペンを走らせた。
 それからカーテンを開け、杉原へと声を掛けた。
「この後、帰宅するかどうかは任せるわ。文化祭だものね。でも、絶対に無理はしないこと。……少しここで落ち着いてから戻りなさい」
「ありがとうございます」
 杉原は立ち上がると、確認するように軽く腕を動かしてみせた。
「でも、本当に大丈夫ですから」
 そう言ってわずかに口元を綻ばせと、杉原は近くの丸椅子へ再び腰を下ろした。
 杉原の声を聞いた瞬間、葵の喉の奥がきゅっと熱くなった。
 先生は、そんな二人の空気を察してか、
「……無茶する年頃ね」
 と小さく苦笑してカルテを閉じた。

「それじゃ、ちょっと職員室に行ってくるわ。二人とも、あとで担任の先生に火傷の状態を報告してちょうだい」
 そう告げると軽く手を振り、彼女は保健室を出ていった。

 扉が静かに閉まり、部屋には軟膏の匂いと、まだ少し湿り気を帯びた包帯の白さだけが残された。
 葵はベッドから立ち上がり、杉原のほうへわずかに距離を詰めた。
「……痛む?」
「いや、大したことない」
 彼は、葵の方を見ようともせず、淡々と答えた。
 その落ち着きが、かえって葵の胸を締め付ける。

 ——謝らなきゃ。
 そう思うのに、声が形にならない。
 何を、どこから謝ればいいのかも分からなかった。
 止めようとしたこと。
 そして、結局は間に合わなかったこと。
 後悔と自責が複雑に絡まり合い、喉を塞ぐ。
 けれど、次の瞬間――

 ぞくりとした違和感が走った。

 頭の奥で、別の「当然」が、じわじわと輪郭を持ち始めていた。
 杉原が火傷をすること。――それが、初めから決まっていたことのように。

(……違う)

 葵は身体を硬直させ、息を呑んだ。――そんなはずがない。

 本当は、彼が火傷するはずではなかった。
 なのに、その確信が霧のように薄れ、見慣れない事実がじわじわと脳の隙間を埋めていく。

 焦りが一気に込み上げた。
 ここで手放したら、何か決定的なものまで書き換わってしまう気がした。
 葵は机の上のペンを掴むと、左の手のひらに強く押し当てた。
 青いインクが震える線を描く。

「……結崎さん?」
 低い声が落ちてくる。
 けれど、葵には顔を上げる余裕もなかった。
 痛みが走るたびに、逃げていく記憶の端をかろうじて繋ぎ止めている気がした。
 滲みそうになる事実を、葵は必死に皮膚へ刻みつける。
「どうした?」
 不意に近付いた声に、葵はびくりと肩を揺らし、手を隠した。
 顔を上げると、杉原が真っ直ぐにこちらを見ていた。
 その視線は鋭いのに、どこか戸惑ったような気配もあった。
「……あ」

 葵は、頭に割り込んできた記憶を振り払うように、ぎゅっと目を閉じた。
 それから、ゆっくりと瞼を開く。
 杉原の腕に巻かれた包帯が、嫌でも現実を突きつけてくる。
 ――自分が、歴史を歪めてしまった証。
 記憶が書き換わっていく恐怖の中で、それでもなお、自分の中には“本来の記憶”が残っている。
 その事実に激しい罪悪感を覚えながら、葵は縋るように小さく息を吐いた。

「あの、……ごめんなさい」

 杉原は一瞬、きょとんとした表情を浮かべ、それから困ったように「え、なんで?」と眉を下げた。
 いつも崩さないポーカーフェイスが、葵の様子にわずかに揺らぐ。
「だって……」
「結崎さんが謝ることじゃないよ。あれは事故だったんだから」
 責める響きの欠片もない、静かな声。葵はたまらず視線を落とした。
「……そんな顔されると、逆にこっちが心配になるんだけど」
 杉原は少しだけ表情を和らげると、近くの丸椅子を引き寄せた。
「座れば?」
 葵は戸惑いながら、そっと腰を下ろす。
 微かに漂う薬品の匂い。窓の外から聞こえる文化祭のざわめき。
 保健室だけが、そこから切り離されたみたいに静かだった。

「……結崎さんってさ」
 不意に名前を呼ばれ、葵は顔を上げる。
「たまに、この世の終わりみたいな顔するよね」
 杉原の口から零れた、らしくない軽口に、葵は思わず息を呑んだ。
 からかうような響きではあったけれど、その瞳はどこか静かで、張り詰めた空気を和らげようとしているようにも見えた。
 葵の視線を受け止めると、杉原はわずかに口元を緩め、包帯の巻かれた右腕へ目を落とす。
「これくらいで済んだんだから、むしろ運がよかったよ」

 ――違う。
 胸の奥で、言葉に出来ない想いが激しく暴れる。

 その時だった。
 ――コンコン、とノック音が部屋に響いた。
「杉原くん……入ってもいい?」
 扉が開き、クラスの女子生徒たちが不安げな表情を浮かべながら入ってきた。
 その姿を捉え、杉原の顔からふっと笑顔が消える。
「火傷、ちゃんと冷やせてる?」
「あれ、先生は? ちゃんと処置してもらえた?」
 彼女たちは室内を見回しながら踏み込んできた。
 そして、葵を見て足を止める。
 その視線には、『どうしてここにあなたがいるの?』という無言の問いが張り付いていた。
 杉原は「ああ」と短く答え、一度だけ、葵を見た。
 何かを言いかけているようでも、気遣うようでもあった。
 けれど結局、何も言わずに目を逸らす。
「じゃあ、行くから」
「えっ?」
 引き止める間もなく、杉原は身を翻した。
「担任に報告してくる」
 彼は包帯の巻かれた腕をわずかに掲げて見せると、そのまま彼女たちを促すように部屋を出て行った。
「え、杉原くん、帰るの? 病院は行かないの?」
 女子たちが慌ててその後を追う。最後には、扉の閉まる無機質な音だけが耳に残った。

「……葵」
 頭上から、Qちゃんの静かな声が降ってきた。
「仕方なかったわよ」
 いつもより低く、感情を押し殺したような声だった。
「本人もああ言ってるんだし、もう切り替えなさい」
 葵は答えなかった。ベッドの端に腰掛けたまま、目に焼きついた包帯の白さを、ただぼんやりと思い出していた。

 事故は、消えなかった。
 形を変え、身代わりを立てて、それでもこの世界に居座り続けた。
 その重苦しい事実だけが、澱のように胸の奥へと沈んでいく。
 葵は、ゆっくりと自分の左手を開いた。
 そこには、ペン先で強く、痛いほどに刻み込まれた一文が残っている。

​『2021 杉原くんが火傷するはずじゃなかった』

 青いインクは、葵の微かな震えを写して歪んでいた。
 けれど、それがこの歪んだ世界の中で、葵だけが握りしめることのできる唯一の真実だった。
 葵は、その消えゆくかもしれない文字を、祈るように見つめ続けた。

 保健室を出た途端、文化祭の喧騒が押し寄せてきた。
 ついさっきまでの静寂が嘘のような熱気に、葵はまるで別の世界に迷い込んだような錯覚を覚える。
 ふと顔を上げると、廊下の向こうから芽美が歩いてくるのが見えた。
 忙しそうに立ち回る芽美の表情には、文化祭を心から楽しんでいる色が浮かんでいた。
 その手に握られたビラは、すでに半分ほどに減っている。

(まずは労いから。お疲れ様)

 さっき授かったQちゃんのアドバイスを思い出し、一歩踏み出そうとした時だった。
 葵は思わず足を止めた。

 曲がり角の向こうから、見覚えのある二人組の男子が現れたからだ。
(久遠先輩と、日高先輩……)

 ​日高は、当時から久遠の親友だった。
 演劇部員ではないがよく部室に顔を出していて、彼が来ると不思議とその場が明るくなる――そんなムードメーカーだった。

 芽美に気付いた日高が、先に足を止めた。
「あ、演劇部」
「桜井です」
 芽美がおかしそうに応じると、日高は彼女の持っているビラを一枚抜き取り、まじまじと眺めた。
「そっか、これから本番だっけ」
「はい」
 それから久遠を振り返る。
「今日のやつ、例の……」
 記憶を探るように視線を泳がせてから、日高がにやりと笑う。
「……石、やるの?」
「石って言うな」
 久遠が、間髪入れずに突っ込んだ。
「せめて像だろ。今日はやらないよ。俺はメイク係」
「ああ、そうなんだ」
 日高は素直に頷き、改めて芽美に向き直った。
「楽しみにしてるよ。みんな、頑張ってたもんな」
「ありがとうございます」
 芽美は少し照れたように、けれど嬉しそうに笑った。
「今日は客入りもいいしさ。変に力まずにやってくれれば、それで充分だと思う」
「……それ、演出家に言われたら一番困るやつだろ」
 久遠の苦笑に、日高は「そうか」と声を上げて笑い、久遠の肩を軽く叩いた。
「まぁ、楽しんだもん勝ちだから。桜井さんも楽しんで」
「はい、ありがとうございます」
 ほんの短い立ち話。けれど、少し離れた場所でその光景を見ていた葵は、どうしても目を離すことができなかった。
 楽しそうで、忙しくて、ちゃんと笑っている。彼女たちは今、間違いなく文化祭という日常の中にいた。

 ——よかった。

 心の底からそう思った瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

 ​自分がどれほど奇異な体験をしても、世界はこうして優しく回っている。
 ただそれだけのことが、今の葵にはたまらなく愛おしかった。
 不意に、視界がじんわりと熱を帯びて滲む。
「……あ」
 慌てて瞬きをしても、その滲みは引かない。
 声を出せば、今にも何かが崩れてしまいそうで、葵はたまらず俯いた。

「……安心した?」
 少しの沈黙の後、すぐ傍でやわらかな声がした。
「もう、大丈夫よ」
 葵の頭の上で、ぽん、ぽんと何かが優しく動く気配がした。
 実際には触れられていない。
 誰の目にも見えない。

 それでも、確かに撫でられたような温もりが、冷え切っていた胸の奥へと染み込んでいく。

 やがて、日高と久遠が歩き出し、芽美がこちらへと歩みを進めてくる。
 そこでようやく、廊下の隅にぽつんと佇むジャージ姿の葵に気づき、芽美がぱっと表情を明るくした。
「あ、結崎さん!」
 芽美が嬉しそうに手を振り、駆け寄ろうとした、その時だった。

 すれ違いざま、歩き出していた久遠が、不意に足を止めた。
 何かに気付いたように振り返り、その視線が、葵のところでぴたりと留まる。
 通り過ぎていく生徒たちの向こうで、彼はそのまま吸い込まれるように葵を見つめた。

「久遠? どした?」
 日高の声に、久遠ははっとしたように視線を外した。
「……いや、別に」
 それだけ言って、何事もなかったかのように前を向き直る。

 ——まるで、気のせいだとでも自分に言い聞かせるように。