「どうした? 何かあったのか」
担任が駆けつけると、騒然としていた教室は慌ただしく動き始めた。
事情を聞いた担任が、顔をしかめる。
「滑るから気をつけろ。熱いものは全部下げろ。そっち、雑巾持ってこい」
飛んだ指示に、生徒たちは散乱したプラスチック容器や濡れた床を片付けていく。
その騒がしさが、今の葵にはどこか遠く感じられた。
火傷を負った杉原は、すでに一人で保健室へ向かい、もうここにはいない。
無言で雑巾を握りしめ、床に広がったスープを見詰めていると、胸の奥が冷たく軋んだ。
「結崎」
不意に名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。担任がすぐそばまで来ていた。
「お前も制服濡れてるだろ。念のため保健室行ってこい」
「……え」
そこで初めて葵は、自分の袖やスカートが湿っていることに気付いた。
「でも……」
「いいから。片付けはこっちでやる。店番も代わるから」
言い切られた葵は「……はい」と雑巾をバケツにかけ、教室をあとにした。
一度トイレに駆け込み、ロッカーから持ってきたジャージに急いで着替える。
湿った制服をバッグへ押し込む間も、焦りで指先が妙に冷たかった。
保健室に入った瞬間、中にいた杉原がはっと顔を上げた。
処置はちょうど終わるところだった。
養護教諭が、白衣の胸元でペンを揺らしながら、手際よく彼の腕の包帯を留めていく。
「軽い火傷ね。ちゃんと冷やせてたから大丈夫。でも――」
続きかけた言葉を遮るように、杉原が静かに先生へ視線を向けた。
「……あ」
それに気付いたように、先生が葵へ目を向ける。
それから言葉を飲み込むように小さく息をついた。
「……今日は念のため、無理しないで。濡らさないようにも気を付けてね」
「はい」
杉原は短く応じた。その声は、驚くほどいつも通りだった。
「さて、あなたは……」
こちらを振り返る先生へ、杉原が声を掛ける。
「クラスメイトです。同じ店で配膳してました」
「あら。じゃあ、あなたも?どれ、ちょっとこっちのベッドで見せて」
手際よくカーテンが引かれ、葵は杉原の視線から遮断された。
「ジャージに着替えてきたのね。ちょっと腕と足、見せてちょうだい」
促されるままベッドの端に腰掛け、葵はジャージの袖を捲り上げ、裾を少し手繰り寄せた。
先生のひんやりとした指先が、スープの跳ねた皮膚を確認していく。
薄い布一枚を隔てた向こう側から、杉原が小さく息を吐く気配が聞こえた。
「赤くなってないし、大丈夫そうね。火傷にはなってないわ」
「……ありがとうございます」
先生は裾を戻すと、カルテにペンを走らせた。
それからカーテンを開け、杉原へと声を掛けた。
「この後、帰宅するかどうかは任せるわ。文化祭だものね。でも、絶対に無理はしないこと。……少しここで落ち着いてから戻りなさい」
「ありがとうございます」
杉原は立ち上がると、確認するように軽く腕を動かしてみせた。
「でも、本当に大丈夫ですから」
そう言ってわずかに口元を綻ばせと、杉原は近くの丸椅子へ再び腰を下ろした。
杉原の声を聞いた瞬間、葵の喉の奥がきゅっと熱くなった。
先生は、そんな二人の空気を察してか、
「……無茶する年頃ね」
と小さく苦笑してカルテを閉じた。
「それじゃ、ちょっと職員室に行ってくるわ。二人とも、あとで担任の先生に火傷の状態を報告してちょうだい」
そう告げると軽く手を振り、彼女は保健室を出ていった。
扉が静かに閉まり、部屋には軟膏の匂いと、まだ少し湿り気を帯びた包帯の白さだけが残された。
葵はベッドから立ち上がり、杉原のほうへわずかに距離を詰めた。
「……痛む?」
「いや、大したことない」
彼は、葵の方を見ようともせず、淡々と答えた。
その落ち着きが、かえって葵の胸を締め付ける。
——謝らなきゃ。
そう思うのに、声が形にならない。
何を、どこから謝ればいいのかも分からなかった。
止めようとしたこと。
そして、結局は間に合わなかったこと。
後悔と自責が複雑に絡まり合い、喉を塞ぐ。
けれど、次の瞬間――
ぞくりとした違和感が走った。
頭の奥で、別の「当然」が、じわじわと輪郭を持ち始めていた。
杉原が火傷をすること。――それが、初めから決まっていたことのように。
(……違う)
葵は身体を硬直させ、息を呑んだ。――そんなはずがない。
本当は、彼が火傷するはずではなかった。
なのに、その確信が霧のように薄れ、見慣れない事実がじわじわと脳の隙間を埋めていく。
焦りが一気に込み上げた。
ここで手放したら、何か決定的なものまで書き換わってしまう気がした。
葵は机の上のペンを掴むと、左の手のひらに強く押し当てた。
青いインクが震える線を描く。
「……結崎さん?」
低い声が落ちてくる。
けれど、葵には顔を上げる余裕もなかった。
痛みが走るたびに、逃げていく記憶の端をかろうじて繋ぎ止めている気がした。
滲みそうになる事実を、葵は必死に皮膚へ刻みつける。
「どうした?」
不意に近付いた声に、葵はびくりと肩を揺らし、手を隠した。
顔を上げると、杉原が真っ直ぐにこちらを見ていた。
その視線は鋭いのに、どこか戸惑ったような気配もあった。
「……あ」
葵は、頭に割り込んできた記憶を振り払うように、ぎゅっと目を閉じた。
それから、ゆっくりと瞼を開く。
杉原の腕に巻かれた包帯が、嫌でも現実を突きつけてくる。
――自分が、歴史を歪めてしまった証。
記憶が書き換わっていく恐怖の中で、それでもなお、自分の中には“本来の記憶”が残っている。
その事実に激しい罪悪感を覚えながら、葵は縋るように小さく息を吐いた。
「あの、……ごめんなさい」
杉原は一瞬、きょとんとした表情を浮かべ、それから困ったように「え、なんで?」と眉を下げた。
いつも崩さないポーカーフェイスが、葵の様子にわずかに揺らぐ。
「だって……」
「結崎さんが謝ることじゃないよ。あれは事故だったんだから」
責める響きの欠片もない、静かな声。葵はたまらず視線を落とした。
「……そんな顔されると、逆にこっちが心配になるんだけど」
杉原は少しだけ表情を和らげると、近くの丸椅子を引き寄せた。
「座れば?」
葵は戸惑いながら、そっと腰を下ろす。
微かに漂う薬品の匂い。窓の外から聞こえる文化祭のざわめき。
保健室だけが、そこから切り離されたみたいに静かだった。
「……結崎さんってさ」
不意に名前を呼ばれ、葵は顔を上げる。
「たまに、この世の終わりみたいな顔するよね」
杉原の口から零れた、らしくない軽口に、葵は思わず息を呑んだ。
からかうような響きではあったけれど、その瞳はどこか静かで、張り詰めた空気を和らげようとしているようにも見えた。
葵の視線を受け止めると、杉原はわずかに口元を緩め、包帯の巻かれた右腕へ目を落とす。
「これくらいで済んだんだから、むしろ運がよかったよ」
――違う。
胸の奥で、言葉に出来ない想いが激しく暴れる。
その時だった。
――コンコン、とノック音が部屋に響いた。
「杉原くん……入ってもいい?」
扉が開き、クラスの女子生徒たちが不安げな表情を浮かべながら入ってきた。
その姿を捉え、杉原の顔からふっと笑顔が消える。
「火傷、ちゃんと冷やせてる?」
「あれ、先生は? ちゃんと処置してもらえた?」
彼女たちは室内を見回しながら踏み込んできた。
そして、葵を見て足を止める。
その視線には、『どうしてここにあなたがいるの?』という無言の問いが張り付いていた。
杉原は「ああ」と短く答え、一度だけ、葵を見た。
何かを言いかけているようでも、気遣うようでもあった。
けれど結局、何も言わずに目を逸らす。
「じゃあ、行くから」
「えっ?」
引き止める間もなく、杉原は身を翻した。
「担任に報告してくる」
彼は包帯の巻かれた腕をわずかに掲げて見せると、そのまま彼女たちを促すように部屋を出て行った。
「え、杉原くん、帰るの? 病院は行かないの?」
女子たちが慌ててその後を追う。最後には、扉の閉まる無機質な音だけが耳に残った。
「……葵」
頭上から、Qちゃんの静かな声が降ってきた。
「仕方なかったわよ」
いつもより低く、感情を押し殺したような声だった。
「本人もああ言ってるんだし、もう切り替えなさい」
葵は答えなかった。ベッドの端に腰掛けたまま、目に焼きついた包帯の白さを、ただぼんやりと思い出していた。
事故は、消えなかった。
形を変え、身代わりを立てて、それでもこの世界に居座り続けた。
その重苦しい事実だけが、澱のように胸の奥へと沈んでいく。
葵は、ゆっくりと自分の左手を開いた。
そこには、ペン先で強く、痛いほどに刻み込まれた一文が残っている。
『2021 杉原くんが火傷するはずじゃなかった』
青いインクは、葵の微かな震えを写して歪んでいた。
けれど、それがこの歪んだ世界の中で、葵だけが握りしめることのできる唯一の真実だった。
葵は、その消えゆくかもしれない文字を、祈るように見つめ続けた。
保健室を出た途端、文化祭の喧騒が押し寄せてきた。
ついさっきまでの静寂が嘘のような熱気に、葵はまるで別の世界に迷い込んだような錯覚を覚える。
ふと顔を上げると、廊下の向こうから芽美が歩いてくるのが見えた。
忙しそうに立ち回る芽美の表情には、文化祭を心から楽しんでいる色が浮かんでいた。
その手に握られたビラは、すでに半分ほどに減っている。
(まずは労いから。お疲れ様)
さっき授かったQちゃんのアドバイスを思い出し、一歩踏み出そうとした時だった。
葵は思わず足を止めた。
曲がり角の向こうから、見覚えのある二人組の男子が現れたからだ。
(久遠先輩と、日高先輩……)
日高は、当時から久遠の親友だった。
演劇部員ではないがよく部室に顔を出していて、彼が来ると不思議とその場が明るくなる――そんなムードメーカーだった。
芽美に気付いた日高が、先に足を止めた。
「あ、演劇部」
「桜井です」
芽美がおかしそうに応じると、日高は彼女の持っているビラを一枚抜き取り、まじまじと眺めた。
「そっか、これから本番だっけ」
「はい」
それから久遠を振り返る。
「今日のやつ、例の……」
記憶を探るように視線を泳がせてから、日高がにやりと笑う。
「……石、やるの?」
「石って言うな」
久遠が、間髪入れずに突っ込んだ。
「せめて像だろ。今日はやらないよ。俺はメイク係」
「ああ、そうなんだ」
日高は素直に頷き、改めて芽美に向き直った。
「楽しみにしてるよ。みんな、頑張ってたもんな」
「ありがとうございます」
芽美は少し照れたように、けれど嬉しそうに笑った。
「今日は客入りもいいしさ。変に力まずにやってくれれば、それで充分だと思う」
「……それ、演出家に言われたら一番困るやつだろ」
久遠の苦笑に、日高は「そうか」と声を上げて笑い、久遠の肩を軽く叩いた。
「まぁ、楽しんだもん勝ちだから。桜井さんも楽しんで」
「はい、ありがとうございます」
ほんの短い立ち話。けれど、少し離れた場所でその光景を見ていた葵は、どうしても目を離すことができなかった。
楽しそうで、忙しくて、ちゃんと笑っている。彼女たちは今、間違いなく文化祭という日常の中にいた。
——よかった。
心の底からそう思った瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
自分がどれほど奇異な体験をしても、世界はこうして優しく回っている。
ただそれだけのことが、今の葵にはたまらなく愛おしかった。
不意に、視界がじんわりと熱を帯びて滲む。
「……あ」
慌てて瞬きをしても、その滲みは引かない。
声を出せば、今にも何かが崩れてしまいそうで、葵はたまらず俯いた。
「……安心した?」
少しの沈黙の後、すぐ傍でやわらかな声がした。
「もう、大丈夫よ」
葵の頭の上で、ぽん、ぽんと何かが優しく動く気配がした。
実際には触れられていない。
誰の目にも見えない。
それでも、確かに撫でられたような温もりが、冷え切っていた胸の奥へと染み込んでいく。
やがて、日高と久遠が歩き出し、芽美がこちらへと歩みを進めてくる。
そこでようやく、廊下の隅にぽつんと佇むジャージ姿の葵に気づき、芽美がぱっと表情を明るくした。
「あ、結崎さん!」
芽美が嬉しそうに手を振り、駆け寄ろうとした、その時だった。
すれ違いざま、歩き出していた久遠が、不意に足を止めた。
何かに気付いたように振り返り、その視線が、葵のところでぴたりと留まる。
通り過ぎていく生徒たちの向こうで、彼はそのまま吸い込まれるように葵を見つめた。
「久遠? どした?」
日高の声に、久遠ははっとしたように視線を外した。
「……いや、別に」
それだけ言って、何事もなかったかのように前を向き直る。
——まるで、気のせいだとでも自分に言い聞かせるように。
担任が駆けつけると、騒然としていた教室は慌ただしく動き始めた。
事情を聞いた担任が、顔をしかめる。
「滑るから気をつけろ。熱いものは全部下げろ。そっち、雑巾持ってこい」
飛んだ指示に、生徒たちは散乱したプラスチック容器や濡れた床を片付けていく。
その騒がしさが、今の葵にはどこか遠く感じられた。
火傷を負った杉原は、すでに一人で保健室へ向かい、もうここにはいない。
無言で雑巾を握りしめ、床に広がったスープを見詰めていると、胸の奥が冷たく軋んだ。
「結崎」
不意に名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。担任がすぐそばまで来ていた。
「お前も制服濡れてるだろ。念のため保健室行ってこい」
「……え」
そこで初めて葵は、自分の袖やスカートが湿っていることに気付いた。
「でも……」
「いいから。片付けはこっちでやる。店番も代わるから」
言い切られた葵は「……はい」と雑巾をバケツにかけ、教室をあとにした。
一度トイレに駆け込み、ロッカーから持ってきたジャージに急いで着替える。
湿った制服をバッグへ押し込む間も、焦りで指先が妙に冷たかった。
保健室に入った瞬間、中にいた杉原がはっと顔を上げた。
処置はちょうど終わるところだった。
養護教諭が、白衣の胸元でペンを揺らしながら、手際よく彼の腕の包帯を留めていく。
「軽い火傷ね。ちゃんと冷やせてたから大丈夫。でも――」
続きかけた言葉を遮るように、杉原が静かに先生へ視線を向けた。
「……あ」
それに気付いたように、先生が葵へ目を向ける。
それから言葉を飲み込むように小さく息をついた。
「……今日は念のため、無理しないで。濡らさないようにも気を付けてね」
「はい」
杉原は短く応じた。その声は、驚くほどいつも通りだった。
「さて、あなたは……」
こちらを振り返る先生へ、杉原が声を掛ける。
「クラスメイトです。同じ店で配膳してました」
「あら。じゃあ、あなたも?どれ、ちょっとこっちのベッドで見せて」
手際よくカーテンが引かれ、葵は杉原の視線から遮断された。
「ジャージに着替えてきたのね。ちょっと腕と足、見せてちょうだい」
促されるままベッドの端に腰掛け、葵はジャージの袖を捲り上げ、裾を少し手繰り寄せた。
先生のひんやりとした指先が、スープの跳ねた皮膚を確認していく。
薄い布一枚を隔てた向こう側から、杉原が小さく息を吐く気配が聞こえた。
「赤くなってないし、大丈夫そうね。火傷にはなってないわ」
「……ありがとうございます」
先生は裾を戻すと、カルテにペンを走らせた。
それからカーテンを開け、杉原へと声を掛けた。
「この後、帰宅するかどうかは任せるわ。文化祭だものね。でも、絶対に無理はしないこと。……少しここで落ち着いてから戻りなさい」
「ありがとうございます」
杉原は立ち上がると、確認するように軽く腕を動かしてみせた。
「でも、本当に大丈夫ですから」
そう言ってわずかに口元を綻ばせと、杉原は近くの丸椅子へ再び腰を下ろした。
杉原の声を聞いた瞬間、葵の喉の奥がきゅっと熱くなった。
先生は、そんな二人の空気を察してか、
「……無茶する年頃ね」
と小さく苦笑してカルテを閉じた。
「それじゃ、ちょっと職員室に行ってくるわ。二人とも、あとで担任の先生に火傷の状態を報告してちょうだい」
そう告げると軽く手を振り、彼女は保健室を出ていった。
扉が静かに閉まり、部屋には軟膏の匂いと、まだ少し湿り気を帯びた包帯の白さだけが残された。
葵はベッドから立ち上がり、杉原のほうへわずかに距離を詰めた。
「……痛む?」
「いや、大したことない」
彼は、葵の方を見ようともせず、淡々と答えた。
その落ち着きが、かえって葵の胸を締め付ける。
——謝らなきゃ。
そう思うのに、声が形にならない。
何を、どこから謝ればいいのかも分からなかった。
止めようとしたこと。
そして、結局は間に合わなかったこと。
後悔と自責が複雑に絡まり合い、喉を塞ぐ。
けれど、次の瞬間――
ぞくりとした違和感が走った。
頭の奥で、別の「当然」が、じわじわと輪郭を持ち始めていた。
杉原が火傷をすること。――それが、初めから決まっていたことのように。
(……違う)
葵は身体を硬直させ、息を呑んだ。――そんなはずがない。
本当は、彼が火傷するはずではなかった。
なのに、その確信が霧のように薄れ、見慣れない事実がじわじわと脳の隙間を埋めていく。
焦りが一気に込み上げた。
ここで手放したら、何か決定的なものまで書き換わってしまう気がした。
葵は机の上のペンを掴むと、左の手のひらに強く押し当てた。
青いインクが震える線を描く。
「……結崎さん?」
低い声が落ちてくる。
けれど、葵には顔を上げる余裕もなかった。
痛みが走るたびに、逃げていく記憶の端をかろうじて繋ぎ止めている気がした。
滲みそうになる事実を、葵は必死に皮膚へ刻みつける。
「どうした?」
不意に近付いた声に、葵はびくりと肩を揺らし、手を隠した。
顔を上げると、杉原が真っ直ぐにこちらを見ていた。
その視線は鋭いのに、どこか戸惑ったような気配もあった。
「……あ」
葵は、頭に割り込んできた記憶を振り払うように、ぎゅっと目を閉じた。
それから、ゆっくりと瞼を開く。
杉原の腕に巻かれた包帯が、嫌でも現実を突きつけてくる。
――自分が、歴史を歪めてしまった証。
記憶が書き換わっていく恐怖の中で、それでもなお、自分の中には“本来の記憶”が残っている。
その事実に激しい罪悪感を覚えながら、葵は縋るように小さく息を吐いた。
「あの、……ごめんなさい」
杉原は一瞬、きょとんとした表情を浮かべ、それから困ったように「え、なんで?」と眉を下げた。
いつも崩さないポーカーフェイスが、葵の様子にわずかに揺らぐ。
「だって……」
「結崎さんが謝ることじゃないよ。あれは事故だったんだから」
責める響きの欠片もない、静かな声。葵はたまらず視線を落とした。
「……そんな顔されると、逆にこっちが心配になるんだけど」
杉原は少しだけ表情を和らげると、近くの丸椅子を引き寄せた。
「座れば?」
葵は戸惑いながら、そっと腰を下ろす。
微かに漂う薬品の匂い。窓の外から聞こえる文化祭のざわめき。
保健室だけが、そこから切り離されたみたいに静かだった。
「……結崎さんってさ」
不意に名前を呼ばれ、葵は顔を上げる。
「たまに、この世の終わりみたいな顔するよね」
杉原の口から零れた、らしくない軽口に、葵は思わず息を呑んだ。
からかうような響きではあったけれど、その瞳はどこか静かで、張り詰めた空気を和らげようとしているようにも見えた。
葵の視線を受け止めると、杉原はわずかに口元を緩め、包帯の巻かれた右腕へ目を落とす。
「これくらいで済んだんだから、むしろ運がよかったよ」
――違う。
胸の奥で、言葉に出来ない想いが激しく暴れる。
その時だった。
――コンコン、とノック音が部屋に響いた。
「杉原くん……入ってもいい?」
扉が開き、クラスの女子生徒たちが不安げな表情を浮かべながら入ってきた。
その姿を捉え、杉原の顔からふっと笑顔が消える。
「火傷、ちゃんと冷やせてる?」
「あれ、先生は? ちゃんと処置してもらえた?」
彼女たちは室内を見回しながら踏み込んできた。
そして、葵を見て足を止める。
その視線には、『どうしてここにあなたがいるの?』という無言の問いが張り付いていた。
杉原は「ああ」と短く答え、一度だけ、葵を見た。
何かを言いかけているようでも、気遣うようでもあった。
けれど結局、何も言わずに目を逸らす。
「じゃあ、行くから」
「えっ?」
引き止める間もなく、杉原は身を翻した。
「担任に報告してくる」
彼は包帯の巻かれた腕をわずかに掲げて見せると、そのまま彼女たちを促すように部屋を出て行った。
「え、杉原くん、帰るの? 病院は行かないの?」
女子たちが慌ててその後を追う。最後には、扉の閉まる無機質な音だけが耳に残った。
「……葵」
頭上から、Qちゃんの静かな声が降ってきた。
「仕方なかったわよ」
いつもより低く、感情を押し殺したような声だった。
「本人もああ言ってるんだし、もう切り替えなさい」
葵は答えなかった。ベッドの端に腰掛けたまま、目に焼きついた包帯の白さを、ただぼんやりと思い出していた。
事故は、消えなかった。
形を変え、身代わりを立てて、それでもこの世界に居座り続けた。
その重苦しい事実だけが、澱のように胸の奥へと沈んでいく。
葵は、ゆっくりと自分の左手を開いた。
そこには、ペン先で強く、痛いほどに刻み込まれた一文が残っている。
『2021 杉原くんが火傷するはずじゃなかった』
青いインクは、葵の微かな震えを写して歪んでいた。
けれど、それがこの歪んだ世界の中で、葵だけが握りしめることのできる唯一の真実だった。
葵は、その消えゆくかもしれない文字を、祈るように見つめ続けた。
保健室を出た途端、文化祭の喧騒が押し寄せてきた。
ついさっきまでの静寂が嘘のような熱気に、葵はまるで別の世界に迷い込んだような錯覚を覚える。
ふと顔を上げると、廊下の向こうから芽美が歩いてくるのが見えた。
忙しそうに立ち回る芽美の表情には、文化祭を心から楽しんでいる色が浮かんでいた。
その手に握られたビラは、すでに半分ほどに減っている。
(まずは労いから。お疲れ様)
さっき授かったQちゃんのアドバイスを思い出し、一歩踏み出そうとした時だった。
葵は思わず足を止めた。
曲がり角の向こうから、見覚えのある二人組の男子が現れたからだ。
(久遠先輩と、日高先輩……)
日高は、当時から久遠の親友だった。
演劇部員ではないがよく部室に顔を出していて、彼が来ると不思議とその場が明るくなる――そんなムードメーカーだった。
芽美に気付いた日高が、先に足を止めた。
「あ、演劇部」
「桜井です」
芽美がおかしそうに応じると、日高は彼女の持っているビラを一枚抜き取り、まじまじと眺めた。
「そっか、これから本番だっけ」
「はい」
それから久遠を振り返る。
「今日のやつ、例の……」
記憶を探るように視線を泳がせてから、日高がにやりと笑う。
「……石、やるの?」
「石って言うな」
久遠が、間髪入れずに突っ込んだ。
「せめて像だろ。今日はやらないよ。俺はメイク係」
「ああ、そうなんだ」
日高は素直に頷き、改めて芽美に向き直った。
「楽しみにしてるよ。みんな、頑張ってたもんな」
「ありがとうございます」
芽美は少し照れたように、けれど嬉しそうに笑った。
「今日は客入りもいいしさ。変に力まずにやってくれれば、それで充分だと思う」
「……それ、演出家に言われたら一番困るやつだろ」
久遠の苦笑に、日高は「そうか」と声を上げて笑い、久遠の肩を軽く叩いた。
「まぁ、楽しんだもん勝ちだから。桜井さんも楽しんで」
「はい、ありがとうございます」
ほんの短い立ち話。けれど、少し離れた場所でその光景を見ていた葵は、どうしても目を離すことができなかった。
楽しそうで、忙しくて、ちゃんと笑っている。彼女たちは今、間違いなく文化祭という日常の中にいた。
——よかった。
心の底からそう思った瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
自分がどれほど奇異な体験をしても、世界はこうして優しく回っている。
ただそれだけのことが、今の葵にはたまらなく愛おしかった。
不意に、視界がじんわりと熱を帯びて滲む。
「……あ」
慌てて瞬きをしても、その滲みは引かない。
声を出せば、今にも何かが崩れてしまいそうで、葵はたまらず俯いた。
「……安心した?」
少しの沈黙の後、すぐ傍でやわらかな声がした。
「もう、大丈夫よ」
葵の頭の上で、ぽん、ぽんと何かが優しく動く気配がした。
実際には触れられていない。
誰の目にも見えない。
それでも、確かに撫でられたような温もりが、冷え切っていた胸の奥へと染み込んでいく。
やがて、日高と久遠が歩き出し、芽美がこちらへと歩みを進めてくる。
そこでようやく、廊下の隅にぽつんと佇むジャージ姿の葵に気づき、芽美がぱっと表情を明るくした。
「あ、結崎さん!」
芽美が嬉しそうに手を振り、駆け寄ろうとした、その時だった。
すれ違いざま、歩き出していた久遠が、不意に足を止めた。
何かに気付いたように振り返り、その視線が、葵のところでぴたりと留まる。
通り過ぎていく生徒たちの向こうで、彼はそのまま吸い込まれるように葵を見つめた。
「久遠? どした?」
日高の声に、久遠ははっとしたように視線を外した。
「……いや、別に」
それだけ言って、何事もなかったかのように前を向き直る。
——まるで、気のせいだとでも自分に言い聞かせるように。
