開け放たれた扉から教室の中を覗き込んだ葵は、息を呑んだ。
カウンター代わりの机の向こうでは、クラスメイトたちが慌ただしく立ち働いている。
客席は来場者で埋まり、絶え間ない笑い声と話し声が教室中に溢れていた。
——まだ、事故は起きていない。
その事実を確認した瞬間、膝の力が抜けそうになる。
「……ねえ、さっきから様子がおかしいわよ」
背後から、訝しむようなQちゃんの声が降ってきた。
(——どうすればいい…?)
葵は教室の壁掛け時計に目をやった。交代の時間まで、あと三十分。
けれど、考えてる間にも、いつあの悲鳴が上がるかわからない。
「……ちょっと、来て」
葵はQちゃんに促し、人のいない階段の方へと急いだ。
踊り場で、周囲に人がいないことを確認してから、彼を真っ直ぐに見上げる。
「あのね、四年前に……ここで事故があったの」
声が微かに震える。言葉を選んでいる余裕はなかった。
「スープの入った鍋がひっくり返って、配膳してた子が火傷をして……それが、もうすぐ起きるはずなの」
黙って葵の話を聞いていたQちゃんが、短く問い返した。
「……友達なの?」
葵はわずかに言葉を詰まらせ、それから力なく首を横に振った。
「……ううん。そういうんじゃない、けど……」
「火傷、ひどかったの?」
「……わからない」葵は、その現場を直接見てはいない。
ただ、悲鳴が上がって、その子が運ばれていくのを遠巻きに見ていただけだ。
次の登校日、痛々しい包帯を巻いた彼女を見かけて、「大丈夫?」と声を掛けた。彼女は「うん」と答えただけで、それ以上は何も言わなかった。
自分がどれほど周囲から切り離されていたのかを、その時、改めて思い知らされた。
「その程度なの? じゃあ、いいじゃない? 別に放っておいても」
「……え?」
「せっかくこんな面白いイベントの日に来れたんだから、楽しんだら?」
あまりにもあっさりとした、突き放すような言葉に葵は目を見開いた。
「……そんなこと」
言いかけて、言葉が途切れる。Qちゃんの顔には、言葉とは裏腹に凪いだような真剣な色が浮かんでいた。
彼は、感情より合理性を優先する。
そこには、「無関係な他人を救う」という選択の必然性がない。
(——でも、違う)
胸の奥で、鉛のような重みが広がっていく。
友達じゃない。気に掛けてもらったことさえない。それでも――。
(それで、いいの?)
あの日、悲鳴が上がった瞬間の、あの凍りついた空気が蘇る。誰もが一歩引いて、ただ見ているしかなかったあの感覚。
自分も、その無力な群衆の一人だった。
(また、同じことになる。知っているのに、見ているだけで終わる)
「——そんなの、絶対いや……」
「え?」
唇から溢れた微かな声を聞き逃したQちゃんが、葵を覗き込む。
葵は顔を上げ、強く息を吸い込んだ。
「Qちゃんだって……ちょっと前まで、私の隣にはいなかったじゃない」
言葉が、熱を帯びて溢れ出す。Qちゃんが、驚いたように目を見開いた。
「でも、今は一緒にお化け屋敷に入ったり、ケーキ選んだりしてる。誰とどうなるかなんて……誰にもわからないじゃない。だから、なかったことになんてしたくないの!」
「……」
言い切った瞬間、二人の間の空気がぴりりと張り詰めた。
Qちゃんの瞳の中で、光が揺らぐ。
彼は葵をじっと見つめ、やがてふっと視線を逸らした。
「……はぁ」
呆れたような、けれどどこか、予測不能な事態を愉しむようなため息。
「……わかったわよ」
ゆっくりと、Qちゃんが視線を戻す。その瞳には、先ほどとは違う温度の光が宿っていた。
「力になってあげる。本来、まだ進行中の時間へ積極的に介入するのは、私たちの領分じゃないけれど」
「え……?」
「そのかわり——私の言う通りにしてね」
すっと距離を詰め、逃がさないように葵を真っ直ぐに見据える。それは問いかけではなく、命令に近い静かな圧だった。
葵は一瞬だけ息を呑み——それでも、迷わず頷いた。
「……うん!」
二人が教室へと踵を返した、その時だった。
カタン、と。
踊り場の影で、何かが床を叩く小さな音がした。
葵は心臓を跳ねさせ、弾かれたように背後を振り返る。
(……誰か、いた?)
廊下に人影はない。
窓から差し込む昼の光が、静かな踊り場を白く照らしている。
それなのに、ほんの一瞬前まで、誰かに見られていたような感覚だけが、妙に生々しく胸に残っていた。
教室に足を踏み入れた瞬間、葵は真っ先に調理スペースへと視線を飛ばした。
カウンター越しの机では、女子生徒たちが忙しそうに立ち働いている。
寸胴鍋はコンロの上で静かに湯気を立てており、今のところ異常はなさそうだった。
「……葵、目が泳いでる。気持ちはわかるけど、落ち着いて」
耳元で、Qちゃんの冷静な声がした。
「まずは配膳を担当してる子に話しましょ。おいで」
迷いなく奥へと進んでいくQちゃんを、葵は慌てて追いかけた。
Qちゃんは鍋の前で少し身をかわすと、こちらを振り返って促す。
「じゃ、まずは労いから。『お当番、お疲れさま』」
葵は小さく頷き、配膳係の神谷に声をかけた。
「……神谷さん、お当番お疲れさまです」
神谷は一瞬きょとんとした顔を見せ、少し遅れて「あ、……お疲れさま」と返してきた。
その控えめな声を聞きながら、葵の視線は無意識に彼女の手元へと向いた。
四年前、調理実習中の事故で負った火傷のことを思い出し、胸の奥がわずかにざわつく。
けれど今の神谷は、慣れた手つきでトレイを整えていた。その様子に少しだけ安堵しながら、葵はQちゃんの次の台詞を反芻した。
「スープの売れ行き、どうですか?」
神谷は軽く息をつき、疲れの滲む肩をすくめた。
「売れすぎ。もう三回は鍋を替えてるし」
そこで一度、お玉を持つ手を振る。
「ずっとこれやってるから、腕だるいんだよね」
「うわ……それ、大変ですね」
言いながら、葵は隣のQちゃんを盗み見た。
その時だった。
「あっ、いらっしゃい!」
ぱっと、神谷の表情に華やいだ色が差した。
振り返った先に立っていたのは、隣の二組で人気のある男子生徒、八代だった。
「食べに来たよ。ここ、めっちゃ繁盛してんじゃん」
「あ、う、うん!」
さっきまでとは別人かと思うほど、神谷の声の温度が上がる。
「あのね、まりなのお母さんが料理ユーチューバーなんだけど、特製レシピ教えてくれたらしくて。それが話題になったみたい。正直こっちもびっくりしてるの」
「へえ、すごいな。うちは全然だわ。宣伝足りなかったかな。呼び込みもやりたくないって、みんな遊びに行っちゃったし」
「えぇー、ひどいね」
親しげに笑い合う二人。
その輪の中に、葵が入る隙間はどこにもなかった。
「……なに見せられてんのかしら。茶番ね」
隣で、Qちゃんが低く毒づく。
「まあまあ……」
その直後、Qちゃんが何かを閃いたように目を細めた。
「葵。あの男の子の名前、なんていうの?」
「……八代くん」
小声で答えると、Qちゃんは楽しそうに笑った。
「真似して」
Qちゃんが葵の耳元で何かを囁く。
その内容を聞いた瞬間、葵の目が大きく見開かれた。
「えっ? そんな……」
「いいから。ほら、早く」
短く、けれど逃げ場を許さない強い声。葵はごくりと唾を呑み込み、意を決して一歩前へ踏み出した。
「あ、あの……神谷さん」
八代たちに聞こえないよう、葵はそっと背を向け、声を落とした。
「八代くんのクラス、よかったら手伝いに行ってあげてください」
「えっ?」
神谷が驚いて目を見開く。
「で、でもまだ、こっちの仕事が…⋯」
「私、代わります。今、ちょうど手が空いてるので」
ほとんど反射みたいに、言葉が口をついて出た。
アフレコしようと口を開きかけていたQちゃんが、意外そうに唇を閉ざす。
「だから、神谷さんさえよければ、行ってあげてください」
「……そ、そう?じゃあ……」
二人は八代たちの方に向き直った。
「私、少しだけそっち手伝おうか?」
「えっ?マジ? 助かる!」
男子たちの表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ、結崎さんに配膳の説明だけするから、ちょっと待ってて」
神谷が浮き足立った様子で準備を始めるのを横目に、葵は真剣な表情でカウンターの内側へと踏み込んだ。
神谷の指示を聞き漏らすまいと、その手元をじっと見つめる。
Qちゃんは、そんな葵の姿を静かに見守っていた。
「……この子、なんでクラスに馴染めないのかしら。不思議だわ」
誰にも聞こえないほどの小さな、けれどどこか温かな独り言が、喧騒の中に溶けていった。
神谷は身軽な動作でエプロンを外しながら、ちらりと振り返った。
「あ、配膳ね。難しくないから大丈夫」
手早く、カウンターに積まれたプラスチックの容器を一つ取って見せた。
「目安はこの線まで。スプーンも忘れずに渡してね。あ、あとこれ結構熱いから。それだけ気をつけて」
「はい」
葵は短く応じると、鞄から出した自分のエプロンを手早く身につけた。
「……ありがと」
神谷が小さく呟く。
「いえ」
二人は流れるように調理台のポジションを入れ替わった。
——いいの?
——こんなに、あっさり?
胸に広がるのは、安堵よりも奇妙な落ち着かなさだった。
あまりにスムーズに進みすぎた交代が、かえって葵の不安を煽る。
気付けば、Qちゃんがすぐ傍に立っていた。
「葵、ちょっと」
そう言って、彼はカウンターの端――客からは見えにくい位置へ、控えめに手招きする。
けれど、当番の仕事が始まったばかりだ。
葵は「……行けないよ」と小さく頭を振った。
Qちゃんの顔が曇る。何かを言いかけた、その時――
「杉原くん、どうしたの?」
不意に、すぐ横から女子生徒の声が飛んだ。
顔を上げると、カウンターの入口から杉原が入ってくるところだった。
店番をしている女子たちが、どこか浮き立ったような様子で彼を見上げている。
「え、杉原くん来たの?」
「どうしたの?」
嬉しそうな声が、立て続けに重なった。
「……いや、ちょっと」
杉原は曖昧に返しただけで、そのまま視線を流した。
その目が、一瞬だけ葵を捉える。
——その刹那。
客席のほうでふざけ合っていた男子生徒二人が互いの肩を組み、笑いながら小突き合っていた。
「ちょ、やめろって」
制止する声とは裏腹に、ふらりと足をもつれさせた一人が、制御を失った勢いのまま、鍋の向こうにいる神谷の傍へよろけてきた。
——近い。
嫌な予感が思考を追い越した時には、もう遅かった。
「あっ——」
衝撃を受けた神谷の身体が大きくバランスを崩し、調理台の端を直撃する。
上に乗っていた寸胴鍋が、ぎしりと葵のほうへ鈍い音を立てて大きく傾いた。
——落ちる。
葵が身を固くした瞬間、視界に誰かの背中が鋭く割り込んだ。
杉原だった。
彼は葵を庇うように前へ踏み込み、そのまま寸でのところで鍋を受け止めた。
——けれど。
まるで意志を持った生き物のように、傾いた鍋の縁から煮え立つスープが、吸い寄せられるように杉原の腕へと溢れ出した。
熱液は容赦なく杉原の腕を伝い、制服の袖を濡らしていく。
「……杉原くん!」
「っ……!」
杉原の顔が、苦痛に歪んだ。
反射的に腕を引いた衝撃で、支えを失った鍋が宙を舞う。次の瞬間、
ーーガァン!
重い金属音が、教室中に響き渡った。
その音に、教室にいた全員の視線が弾かれたようにこちらへ集中する。
床に叩きつけられた寸胴鍋が激しく転がり、溢れ出したスープがじわりと床一面に広がっていく。
一瞬、時間が止まったかのような静寂。
「え、なに……?」 「大丈夫!?」
遅れてやってきた怒涛のようなざわめきが、教室を飲み込んでいく。
葵は、立ち尽くした。
目の前の光景を、うまく理解できなかった。
ふと横にいたQちゃんと視線が交差する。
彼は驚くことも、慌てることもなく、ただ静かに――観察するように、杉原を見つめていた。
その冷静さが、なぜか葵の胸をざわつかせる。
「杉原くん、大丈夫!?」
「やけどしてない!?」
周囲の声に急かされるように、杉原は手を引っ込めた。
「……大したことない」
短く応じながらも、額には脂汗がにじんでいる。
――防げなかった。
その現実だけが、鉛のように葵の胸へ沈んでいく。
(……私が、代わってなんて言わなければ……私が、余計なことをしたから――?)
足元にこぼれたスープの匂いが、やけに鼻につく。
クラスメイトたちの喧騒の中で、
葵はただ、自分の無力さに立ち尽くすことしかできなかった。
・『四年前の事故』は事実
カウンター代わりの机の向こうでは、クラスメイトたちが慌ただしく立ち働いている。
客席は来場者で埋まり、絶え間ない笑い声と話し声が教室中に溢れていた。
——まだ、事故は起きていない。
その事実を確認した瞬間、膝の力が抜けそうになる。
「……ねえ、さっきから様子がおかしいわよ」
背後から、訝しむようなQちゃんの声が降ってきた。
(——どうすればいい…?)
葵は教室の壁掛け時計に目をやった。交代の時間まで、あと三十分。
けれど、考えてる間にも、いつあの悲鳴が上がるかわからない。
「……ちょっと、来て」
葵はQちゃんに促し、人のいない階段の方へと急いだ。
踊り場で、周囲に人がいないことを確認してから、彼を真っ直ぐに見上げる。
「あのね、四年前に……ここで事故があったの」
声が微かに震える。言葉を選んでいる余裕はなかった。
「スープの入った鍋がひっくり返って、配膳してた子が火傷をして……それが、もうすぐ起きるはずなの」
黙って葵の話を聞いていたQちゃんが、短く問い返した。
「……友達なの?」
葵はわずかに言葉を詰まらせ、それから力なく首を横に振った。
「……ううん。そういうんじゃない、けど……」
「火傷、ひどかったの?」
「……わからない」葵は、その現場を直接見てはいない。
ただ、悲鳴が上がって、その子が運ばれていくのを遠巻きに見ていただけだ。
次の登校日、痛々しい包帯を巻いた彼女を見かけて、「大丈夫?」と声を掛けた。彼女は「うん」と答えただけで、それ以上は何も言わなかった。
自分がどれほど周囲から切り離されていたのかを、その時、改めて思い知らされた。
「その程度なの? じゃあ、いいじゃない? 別に放っておいても」
「……え?」
「せっかくこんな面白いイベントの日に来れたんだから、楽しんだら?」
あまりにもあっさりとした、突き放すような言葉に葵は目を見開いた。
「……そんなこと」
言いかけて、言葉が途切れる。Qちゃんの顔には、言葉とは裏腹に凪いだような真剣な色が浮かんでいた。
彼は、感情より合理性を優先する。
そこには、「無関係な他人を救う」という選択の必然性がない。
(——でも、違う)
胸の奥で、鉛のような重みが広がっていく。
友達じゃない。気に掛けてもらったことさえない。それでも――。
(それで、いいの?)
あの日、悲鳴が上がった瞬間の、あの凍りついた空気が蘇る。誰もが一歩引いて、ただ見ているしかなかったあの感覚。
自分も、その無力な群衆の一人だった。
(また、同じことになる。知っているのに、見ているだけで終わる)
「——そんなの、絶対いや……」
「え?」
唇から溢れた微かな声を聞き逃したQちゃんが、葵を覗き込む。
葵は顔を上げ、強く息を吸い込んだ。
「Qちゃんだって……ちょっと前まで、私の隣にはいなかったじゃない」
言葉が、熱を帯びて溢れ出す。Qちゃんが、驚いたように目を見開いた。
「でも、今は一緒にお化け屋敷に入ったり、ケーキ選んだりしてる。誰とどうなるかなんて……誰にもわからないじゃない。だから、なかったことになんてしたくないの!」
「……」
言い切った瞬間、二人の間の空気がぴりりと張り詰めた。
Qちゃんの瞳の中で、光が揺らぐ。
彼は葵をじっと見つめ、やがてふっと視線を逸らした。
「……はぁ」
呆れたような、けれどどこか、予測不能な事態を愉しむようなため息。
「……わかったわよ」
ゆっくりと、Qちゃんが視線を戻す。その瞳には、先ほどとは違う温度の光が宿っていた。
「力になってあげる。本来、まだ進行中の時間へ積極的に介入するのは、私たちの領分じゃないけれど」
「え……?」
「そのかわり——私の言う通りにしてね」
すっと距離を詰め、逃がさないように葵を真っ直ぐに見据える。それは問いかけではなく、命令に近い静かな圧だった。
葵は一瞬だけ息を呑み——それでも、迷わず頷いた。
「……うん!」
二人が教室へと踵を返した、その時だった。
カタン、と。
踊り場の影で、何かが床を叩く小さな音がした。
葵は心臓を跳ねさせ、弾かれたように背後を振り返る。
(……誰か、いた?)
廊下に人影はない。
窓から差し込む昼の光が、静かな踊り場を白く照らしている。
それなのに、ほんの一瞬前まで、誰かに見られていたような感覚だけが、妙に生々しく胸に残っていた。
教室に足を踏み入れた瞬間、葵は真っ先に調理スペースへと視線を飛ばした。
カウンター越しの机では、女子生徒たちが忙しそうに立ち働いている。
寸胴鍋はコンロの上で静かに湯気を立てており、今のところ異常はなさそうだった。
「……葵、目が泳いでる。気持ちはわかるけど、落ち着いて」
耳元で、Qちゃんの冷静な声がした。
「まずは配膳を担当してる子に話しましょ。おいで」
迷いなく奥へと進んでいくQちゃんを、葵は慌てて追いかけた。
Qちゃんは鍋の前で少し身をかわすと、こちらを振り返って促す。
「じゃ、まずは労いから。『お当番、お疲れさま』」
葵は小さく頷き、配膳係の神谷に声をかけた。
「……神谷さん、お当番お疲れさまです」
神谷は一瞬きょとんとした顔を見せ、少し遅れて「あ、……お疲れさま」と返してきた。
その控えめな声を聞きながら、葵の視線は無意識に彼女の手元へと向いた。
四年前、調理実習中の事故で負った火傷のことを思い出し、胸の奥がわずかにざわつく。
けれど今の神谷は、慣れた手つきでトレイを整えていた。その様子に少しだけ安堵しながら、葵はQちゃんの次の台詞を反芻した。
「スープの売れ行き、どうですか?」
神谷は軽く息をつき、疲れの滲む肩をすくめた。
「売れすぎ。もう三回は鍋を替えてるし」
そこで一度、お玉を持つ手を振る。
「ずっとこれやってるから、腕だるいんだよね」
「うわ……それ、大変ですね」
言いながら、葵は隣のQちゃんを盗み見た。
その時だった。
「あっ、いらっしゃい!」
ぱっと、神谷の表情に華やいだ色が差した。
振り返った先に立っていたのは、隣の二組で人気のある男子生徒、八代だった。
「食べに来たよ。ここ、めっちゃ繁盛してんじゃん」
「あ、う、うん!」
さっきまでとは別人かと思うほど、神谷の声の温度が上がる。
「あのね、まりなのお母さんが料理ユーチューバーなんだけど、特製レシピ教えてくれたらしくて。それが話題になったみたい。正直こっちもびっくりしてるの」
「へえ、すごいな。うちは全然だわ。宣伝足りなかったかな。呼び込みもやりたくないって、みんな遊びに行っちゃったし」
「えぇー、ひどいね」
親しげに笑い合う二人。
その輪の中に、葵が入る隙間はどこにもなかった。
「……なに見せられてんのかしら。茶番ね」
隣で、Qちゃんが低く毒づく。
「まあまあ……」
その直後、Qちゃんが何かを閃いたように目を細めた。
「葵。あの男の子の名前、なんていうの?」
「……八代くん」
小声で答えると、Qちゃんは楽しそうに笑った。
「真似して」
Qちゃんが葵の耳元で何かを囁く。
その内容を聞いた瞬間、葵の目が大きく見開かれた。
「えっ? そんな……」
「いいから。ほら、早く」
短く、けれど逃げ場を許さない強い声。葵はごくりと唾を呑み込み、意を決して一歩前へ踏み出した。
「あ、あの……神谷さん」
八代たちに聞こえないよう、葵はそっと背を向け、声を落とした。
「八代くんのクラス、よかったら手伝いに行ってあげてください」
「えっ?」
神谷が驚いて目を見開く。
「で、でもまだ、こっちの仕事が…⋯」
「私、代わります。今、ちょうど手が空いてるので」
ほとんど反射みたいに、言葉が口をついて出た。
アフレコしようと口を開きかけていたQちゃんが、意外そうに唇を閉ざす。
「だから、神谷さんさえよければ、行ってあげてください」
「……そ、そう?じゃあ……」
二人は八代たちの方に向き直った。
「私、少しだけそっち手伝おうか?」
「えっ?マジ? 助かる!」
男子たちの表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ、結崎さんに配膳の説明だけするから、ちょっと待ってて」
神谷が浮き足立った様子で準備を始めるのを横目に、葵は真剣な表情でカウンターの内側へと踏み込んだ。
神谷の指示を聞き漏らすまいと、その手元をじっと見つめる。
Qちゃんは、そんな葵の姿を静かに見守っていた。
「……この子、なんでクラスに馴染めないのかしら。不思議だわ」
誰にも聞こえないほどの小さな、けれどどこか温かな独り言が、喧騒の中に溶けていった。
神谷は身軽な動作でエプロンを外しながら、ちらりと振り返った。
「あ、配膳ね。難しくないから大丈夫」
手早く、カウンターに積まれたプラスチックの容器を一つ取って見せた。
「目安はこの線まで。スプーンも忘れずに渡してね。あ、あとこれ結構熱いから。それだけ気をつけて」
「はい」
葵は短く応じると、鞄から出した自分のエプロンを手早く身につけた。
「……ありがと」
神谷が小さく呟く。
「いえ」
二人は流れるように調理台のポジションを入れ替わった。
——いいの?
——こんなに、あっさり?
胸に広がるのは、安堵よりも奇妙な落ち着かなさだった。
あまりにスムーズに進みすぎた交代が、かえって葵の不安を煽る。
気付けば、Qちゃんがすぐ傍に立っていた。
「葵、ちょっと」
そう言って、彼はカウンターの端――客からは見えにくい位置へ、控えめに手招きする。
けれど、当番の仕事が始まったばかりだ。
葵は「……行けないよ」と小さく頭を振った。
Qちゃんの顔が曇る。何かを言いかけた、その時――
「杉原くん、どうしたの?」
不意に、すぐ横から女子生徒の声が飛んだ。
顔を上げると、カウンターの入口から杉原が入ってくるところだった。
店番をしている女子たちが、どこか浮き立ったような様子で彼を見上げている。
「え、杉原くん来たの?」
「どうしたの?」
嬉しそうな声が、立て続けに重なった。
「……いや、ちょっと」
杉原は曖昧に返しただけで、そのまま視線を流した。
その目が、一瞬だけ葵を捉える。
——その刹那。
客席のほうでふざけ合っていた男子生徒二人が互いの肩を組み、笑いながら小突き合っていた。
「ちょ、やめろって」
制止する声とは裏腹に、ふらりと足をもつれさせた一人が、制御を失った勢いのまま、鍋の向こうにいる神谷の傍へよろけてきた。
——近い。
嫌な予感が思考を追い越した時には、もう遅かった。
「あっ——」
衝撃を受けた神谷の身体が大きくバランスを崩し、調理台の端を直撃する。
上に乗っていた寸胴鍋が、ぎしりと葵のほうへ鈍い音を立てて大きく傾いた。
——落ちる。
葵が身を固くした瞬間、視界に誰かの背中が鋭く割り込んだ。
杉原だった。
彼は葵を庇うように前へ踏み込み、そのまま寸でのところで鍋を受け止めた。
——けれど。
まるで意志を持った生き物のように、傾いた鍋の縁から煮え立つスープが、吸い寄せられるように杉原の腕へと溢れ出した。
熱液は容赦なく杉原の腕を伝い、制服の袖を濡らしていく。
「……杉原くん!」
「っ……!」
杉原の顔が、苦痛に歪んだ。
反射的に腕を引いた衝撃で、支えを失った鍋が宙を舞う。次の瞬間、
ーーガァン!
重い金属音が、教室中に響き渡った。
その音に、教室にいた全員の視線が弾かれたようにこちらへ集中する。
床に叩きつけられた寸胴鍋が激しく転がり、溢れ出したスープがじわりと床一面に広がっていく。
一瞬、時間が止まったかのような静寂。
「え、なに……?」 「大丈夫!?」
遅れてやってきた怒涛のようなざわめきが、教室を飲み込んでいく。
葵は、立ち尽くした。
目の前の光景を、うまく理解できなかった。
ふと横にいたQちゃんと視線が交差する。
彼は驚くことも、慌てることもなく、ただ静かに――観察するように、杉原を見つめていた。
その冷静さが、なぜか葵の胸をざわつかせる。
「杉原くん、大丈夫!?」
「やけどしてない!?」
周囲の声に急かされるように、杉原は手を引っ込めた。
「……大したことない」
短く応じながらも、額には脂汗がにじんでいる。
――防げなかった。
その現実だけが、鉛のように葵の胸へ沈んでいく。
(……私が、代わってなんて言わなければ……私が、余計なことをしたから――?)
足元にこぼれたスープの匂いが、やけに鼻につく。
クラスメイトたちの喧騒の中で、
葵はただ、自分の無力さに立ち尽くすことしかできなかった。
・『四年前の事故』は事実
