名前のない想いの果てに

 文化祭当日の校舎は、朝から忙しない空気に包まれていた。
 大きな立て看板を運び込む生徒たち。装飾を整える声が飛び交う。

 その喧騒を眺めているうちに、葵はつい高校の校舎に向かっていた。
「――葵」
「きゃっ!」
 急に背後から声をかけられ、葵は肩を跳ねさせた。Qちゃんだ。
「び……びっくりした……」
「……なによ、その驚きようは。失礼しちゃうわね」
「だって朝、部屋にいなかったから……」
 葵の言葉に、彼は呆れたようにため息をつく。
「当たり前でしょ。いくらあなたのパートナーでも、この姿で夜通し同じ部屋にいるのはさすがにどうかと思うわ」
 言われてみれば、それは正論だった。けれど、ふと疑問が浮かんだ。
「でも、どうせ寝るだけなのに。……充電してる時とか、いつも枕元に置いてるじゃない」
 葵の問いに、彼は一瞬きょとんとしてから、呆れたように眉を寄せた。
「……あんたが夜、スマホ相手に泣き言こぼしてた時、私が寝てたことあった?」
「う……」
 図星を突かれ、葵は言葉に詰まる。確かに、どんな時間帯でも返事が返ってこなかったことはない。
​「あいにく、私に睡眠は必要ないの。仕様上ね」
「……その見た目で『仕様』とか言われると混乱するからやめて」
 困惑する葵を見て、Qちゃんは満足げに口元を歪める。
「ふふ、寝てる間も、ずっとそばにいるってことよ」
「それは……」
 口籠る葵を、「それは?」とQちゃんがさらに面白そうに覗き込んでくる。
「……夜中起きた時、寝惚けて警察呼んじゃいそう」
「……なんでそうなるのよ」
 神妙な表情の葵に、彼は顔をしかめた。
「それより、校舎。間違えてるわよ」
「え?……わっ、ほんとだ!」
 葵は踵を返すと、急いで中学の校舎へと向かった。
 その背中を見送って、Qちゃんは少し立ち止まる。
 それから、「……やれやれだわ」と肩をすくめた。
 
 初めての文化祭に周りのクラスメイトが浮き足立つ中、体育館での開会式は淡々と進んだ。
 校長の挨拶が終わり、ほどなくして解散が告げられると、館内の緊張した空気が一気に緩む。
 生徒たちは皆、それぞれの持ち場へと散って行った。

 葵が人の流れに視線を巡らせていた、その時だった。
「おはよう、結崎さん」
 不意に傍から声をかけられた。
 振り返ると、柔らかな曲線を描くボブヘアの女子生徒が、演劇部のビラの束を抱えて立っていた。
 どこかおっとりした雰囲気を纏う、見覚えのある顔だった。
「桜井さん……お、おはよう」
「あ、覚えててくれたんだ」
 彼女は目を瞬くと、嬉しそうに笑った。

 桜井 芽美(さくらい めぐみ)。
 クラスは違うが同学年で、この頃の葵と同じ演劇部に所属している。
 裏方として立ち働く姿と、どこか儚げな微笑みが印象的な少女だ。
 葵が部活を辞めてからは、接点もなくなってしまったので、顔を合わせるのは久しぶりだ。
「よかった。『誰だっけ?』って言われたら、どうやって説明しようかなって思ってたの。あんまり話したことなかったから」
「え、ううん、そんな……ちゃんと覚えてるよ。桜井さん、ずっと変わってないし」
 口にした瞬間、葵ははっとした。
「あ」
「え?」
 葵と芽美は顔を見合わせた。それから芽美はおかしそうに笑った。
「そうだね、私、この半年あんまり変わってないかも」
 ――しまった。つい、高校二年の感覚で話してしまった。
 入学してまだ半年の今、「変わってない」なんて言葉は明らかに不自然だ。
 けれど彼女は不審に思うでもなく、いつもの穏やかな表情のままだ。
「面白いね、結崎さん」
 その無邪気な笑顔につられ、葵の頬も自然と緩む。
 彼女は「ね、結崎さんってさ……」と、声を潜めて身を寄せてきた。
「もしかして……部長のこと、好き?」
「ブチョー……?」
 不意を突かれ、葵はその音をゆっくりと変換していく。
『部長』――
 それが久遠のことを指していると気付くまで、数秒かかった。
「……ええぇっ!?」
 ワンテンポ遅れて放たれた奇声に、後ろにいたQちゃんが驚いたように目を見開く。
「葵、テンパりすぎ。それじゃ図星ですって言ってるようなものよ」
 彼の呆れた声に、葵は慌てて口をつぐんだ。
 芽美はくすっと笑って「だって」と続ける。
「結崎さん、昨日、予行演習が終わったあと舞台にいたでしょ。部長と二人で。私、客席の準備手伝ってて……たまたま見てたの」
 昨日の上演後のことだ。

 ​――あの、よかったら……明日も手伝わせてもらえませんか。
 ……ここに、いたいんです。

(うわぁぁぁ――!!!!!)
 思い出した瞬間、火がついたように顔が熱くなる。
 ――迂闊だった。
 考えてみれば、いや考えなくてもあの場所、あの照明。
 目に入らないほうが不自然だ。
(……待って。桜井さんに見えてたってことは、他の部員は? 先生は? もしかしてあれ、全校生徒に向けて配信されてもおかしくないくらい丸見えだったんじゃ……!?)
 想像が最悪の方向へ転がり出し、葵は頭を抱えたくなった。
 けれど、彼女の声に冷やかすような響きはなかった。
 むしろ、大切な秘密を共有するような声で続ける。
「あのとき、結崎さん、今にも泣きそうな顔で部長のこと見つめてたから……」
 図星を指され、心臓が一つ、強く跳ねた。
「……そりゃそうよね」
 Qちゃんが、ぽつりと呟く。「だって……そのうち消えちゃう人だもの」
「Qちゃん!」
「……きゅーちゃん?」
 訝しむ芽美の声に、はっとする。
 芽美にとって、Qちゃんは『いない』のと同じなのだ。
 葵がじろりと睨むと、彼は軽く両手を上げながら「はいはい」と後ずさった。
「ごめんね、何でもない……独り言」
 苦し紛れの言い訳に、芽美は「そうなんだ」とおかしそうに笑った。
 葵は、取り乱してしまったことを恥じつつ、彼女の問いに考えを巡らせる。

 部活紹介の舞台を見て以来、気付けば校内で彼の姿を探してしまうことはあった。
 けれど――それが恋なのか、尊敬なのか、それともまた別のものなのか。考えてみたところで、その正体はわからなかった。

「……えっと……まだ、自分でもわからなくて」
 正直に答えると、芽美は「そうなの?」と、少し意外そうな顔をした。
「じゃあ、まだ『気になる人』っていう感じ?」
「……うん」
 すると彼女は再び身を寄せ、小声で囁いた。
「じゃあ、もし『好きかも』って思ったら、教えてね。応援したいから」
 思いがけない言葉に、葵の目が丸くなる。「あの……それは嬉しいけど、でも、どうして……?」
「だって」
 芽美は、楽しそうに目を細めた。
「いつも完璧で『石像』みたいな先輩が、人間になる瞬間って、ちょっと見てみたくない?……あの脚本みたいに」
 葵の瞳を覗き込むようなその微笑みに、Qちゃんが「あら。この子、面白いこと言うのね」と、感心したように呟いた。
 ――石像が、人間に。

 その言葉を頭の中でなぞった瞬間、葵の脳裏に、いつも静かで隙のない久遠の姿が浮かんだ。
 舞台袖で淡々と指示を出す横顔。
 いつも穏やかで、冷静に全体を見渡す視線。
 まるで完成された作品のようにどこか近寄りがたい人。
 けれど、もしそんな彼が、好きな人を前に赤くなったり戸惑ったりしたら――
 その光景をイメージした瞬間、葵の口からふふっ、と吐息のような笑いが漏れた。
 それは――もしかしたら、可笑しさだけが理由ではなかったのかもしれない。
「いい例えでしょ」
 葵の反応に彼女は嬉しそうな笑顔を見せると、持っていたビラの束を抱え直した。
「じゃあ、またね」
「うん……あっ」
「え?」
「ううん、えっと……ビラ配り、頑張ってね」
 振り返った芽美は一瞬きょとんとしてから、
「……うん!ありがとう」
 と柔らかく目を細め、すぐに人の流れに紛れて見えなくなった。
 葵は笑いの余韻を感じながら、ぼんやりと舞台の方へ目を向けた。
 何人かの生徒が、これからの催しに向けて準備している。
 ケーブルの位置を確かめるように、少し屈んでいる、見覚えのある横顔。
 久遠だった。

 さっき芽美と話した内容が、急に現実味を帯びて押し寄せてくる。
 葵は思わず視線を逸らしたが、もう一度だけ、確かめるようにそっと舞台を見上げた。
 彼は何事もない顔で照明を見上げ、スタッフに短く指示を出している。その横顔は、相変わらず静かで、近寄りがたい。
 ――そんな彼が、誰かに甘い言葉を囁く姿なんて。
(……どんな風になるんだろう)
 不意に浮かんだ想像に、葵は慌てて頭を振った。
「どうしたの?」
 声を掛けたQちゃんに、「何でもない。いこ。Qちゃん」と呟いて、葵は校舎のほうへ歩き出した。
 心臓の音が、まだ少しだけ騒がしかった。

 渡り廊下に出た瞬間、秋めいた風が頬を撫でた。
 金木犀の香りを微かに含んだその風が、肌に心地いい。
 見上げれば、雲ひとつない高い空が広がっている。
 けれど、校舎に入ると、その静かな空気は騒がしい熱気に塗り替えられていった。
 一般公開が始まり、校門から入り込んだ来場者たちの活気が廊下を満たしていた。

「ねぇ、葵のクラスは何をやるの?」
 人混みに気圧され、立ち尽くしそうになった葵の隣で、Qちゃんがひょいと顔を覗き込んできた。
「ええと……カフェだよ」
「へぇ、いいじゃない。葵、ウェイトレスやるの?」
「ううん、配膳するだけ」
「なぁんだ。葵の女の子らしい一面を見られるのかもって期待しちゃった」
「……?」
 葵はきょとんと目を瞬く。
「いや、だから。『お待たせしました♡』みたいなやつ」
 セリフに合わせて、Qちゃんがわざとらしく小首を傾げてみせる。
「やらないよ……なにそのピンポイントな設定」
「えー」
 露骨にがっかりした顔を見せられ、葵は思わず小吹き出した。
 こういう反応の端々に、彼の人間臭さを感じる。

 ふと通り過ぎた教室の時計を見ると、十時を少しまわったところだった。
 その針を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわつく。
「私は後半からだから……まだ時間あるんだよね。どうしようかな」

 この頃の記憶を辿ってみる。
 けれど、そこに引っかかるような思い出は何ひとつなかった。
 一人で店を見て回る勇気もなく、ただ展示物を眺めながら時間を潰していた――そんな記憶しかない。
 知っていたこととはいえ、その事実に触れると、胸が少し沈んだ。自然に、足取りが重くなる。
 それに気付いたQちゃんが足を止め、じっと葵の顔を覗き込んだ。
「……なるほどね。じゃ」
 Qちゃんは少し考えるように視線を泳がせてから、ふっと口元を緩めた。「それまで私に付き合ってよ。お店巡り」
 弾んだ声に、葵は顔を上げた。「え?」
「いいじゃない。私、文化祭って話でしか聞いたことないのよ」
 そう言って、Qちゃんは軽やかな足取りで歩き出した。「ほら」
 振り返る仕草があまりにも自然で、まるで最初から約束でもしていたかのようだった。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 今にも先に行ってしまいそうなQちゃんの背中を見て、葵も慌てて後を追った。

 廊下の奥に、黒い布で覆われた入口が見えてきた。手描きの文字で、『お化け屋敷』とある。まさか、と葵は隣のQちゃんを見つめた。
「……入るの?」
「入るわよ。どうせ、大して怖くないんだから」
 Qちゃんに言い切られ、二人は足を踏み入れた。
暗闇と、不意を突く轟音。出口に辿り着いたときには、葵は半泣きで肩で息をしていた。
「……ちゃんと、怖かったよ」
「……私の予想ミスね」
 次に入ったのは的あての教室だった。
 一人だったら絶対素通りしていた場所だ。けれど今は、Qちゃんが隣にいる。
 最初は控えめに投げていた葵だったが、一度命中し、二度外したところで、Qちゃんが口元を歪めた。
「……たいしたことないわね」
 その一言が、葵の負けず嫌いに火を付けた。
 気づけば、葵は両腕に溢れんばかりの景品を抱えて教室を後にしていた。
「……何も言わないで」
「何も言ってないわよ」
 Qちゃんが可笑しそうに肩をすくめる。
 葵は景品の山を抱え直しながら廊下を歩いた。思ったよりもずっしりと重い。
「……こんなに取るつもりじゃなかったのに」
「負けず嫌いの結果ね」
「Qちゃんが煽るからでしょ」
 そんな言い合いをしながら角を曲がった、そのときだった。
「あっ——」
 危うく誰かとぶつかりそうになり、葵は慌てて足を止めた。
「……大丈夫?」
 落ち着いた、聞き覚えのある声。顔を上げた瞬間、葵は息を呑んだ。久遠だった。
 久遠は、葵の腕に抱えられた『戦果』の山を見て、ふっと目を細めた。
「……すごい量だね」
 その言葉に、葵の顔が一気に熱くなる。
「い、いえ……これは、その……」
 咄嗟の言い訳が見つからない。久遠は小さく笑うと、景品を一つ指でつついて見せた。
「文化祭、楽しんでる?」
 その問いに、葵は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
 過去の、色彩の乏しい記憶が胸をかすめる。
 けれど今は、隣に騒がしい相棒がいて、腕には重たい景品があって、廊下には文化祭の熱気が満ちている。
 葵は、少し間をおいて、「はい」と微笑んだ。

 しばらく歩くと、ひときわ華やかな装飾を施した教室が目に留まった。
 入り口の看板には、『二年三組 Angel Ribbon(エンジェル リボン)』と踊るような文字で書かれている。
 壁のメニューには、ショートケーキやチョコレートケーキ、モンブランといった定番がずらりと並んでいた。店内にはケーキを頬張る客の姿がある。
ケーキが売りのカフェらしい。
「……わぁ」
思わず声が漏れた。
「なに、入りたいの?」
 隣からQちゃんが、少しからかうような声を投げかけてくる。葵は一瞬迷い、それから小さく頷いた。
「……ちょっとだけ」
「いいじゃない。文化祭だもの」
 Qちゃんがくすっと笑う。葵は思い切って教室のドアを開けた。途端に、スポンジの甘い匂いが鼻をくすぐる。

「いらっしゃいませ〜♡」
 フリルのエプロンにレースのカチューシャ。
 いわゆる“萌え”を意識した衣装の女子生徒たちが、にこやかに駆け寄ってきた。教室内にいる男子たちの視線が、彼女たちに釘付けになっている。
「こちらへどうぞっ」
 案内されながら、葵は密かに隣を伺った。
『ウェイトレス姿が見たかった』――彼の先ほどの言葉を思い出す。
(……こういうの好きそう)
 けれど、Qちゃんは女子生徒たちには目もくれず、淡々と店内を見回しているだけだった。
「へぇ、ちゃんとケーキ屋っぽくしてるのね」
 落ち着いた反応に、葵は拍子抜けしながら注文カウンターへと近付いた。
「ケーキ、二つください」
 注文すると、背後でQちゃんが「えっ?」と声を漏らした。
「ちょっと、そんなに食べるの?」
「……一つは、Qちゃんの分」
 それを聞いた瞬間、彼が小さくため息をついた。
「あのね、忘れてるかも知れないけど……」
「食べられないんでしょ。わかってる」
 Qちゃんの動きが、ぴたりと止まった。葵は彼から視線を逸らしたまま、言葉を繋ぐ。
「……雰囲気だけでも、一緒に楽しめるかなって思ったの」
 そっけなく呟いたはずなのに、どこか自分の本音をなぞっているようだった。言ってしまってから、じわりと気恥ずかしさが込み上げる。
 葵は視線を逸らした。
 Qちゃんはそんな葵の横顔を、しばらくの間じっと見つめていた。けれど、それ以上はなにも言わなかった。
 ただ小さく肩をすくめて、「……変な子ね」と、どこか困ったように呟いた。その声は、少しだけ――。
 温かな響きを、孕んでいた。

「ありがとうございます♡そちらに並んでいる中から、お好きなものを二つお選びください」
 女子店員の弾んだ声に促され、机の上にずらりと並んだケーキを前に、葵は思わず目を輝かせた。その横で、Qちゃんが「楽しそうね」と小さく笑う。
 葵は色とりどりのデコレーションを眺めながら、ふと疑問を口にした。
 周りに聞かれないよう、ごく小さな声で。
「Qちゃん、ああいう子たちに興味ないの?」
 彼は首をかしげた。「なんのこと?」
「だから……ああいう、女の子っぽくて可愛い女の子」
「ああ」
 Qちゃんは、店員の少女たちを一瞥したが、すぐ興味なさそうに視線を外した。「別に」
 あまりに淡々とした答えに、葵は拍子抜けした。
「……そうなんだ。だって、さっき——」
 言いかけたところで、Qちゃんが意味ありげに目を細める。
 その視線に気圧され、葵は続きの言葉を飲み込んだ。
「もしかして、私がああいうのに弱いと思った?」
 わずかに口元を歪ませながら問い返すQちゃんに、葵は「なんとなく」と短く返した。
「残念ね」
 Qちゃんは肩をすくめ、顎でケーキの並ぶ机を示した。
「それよりほら、選びなさい。なくなったら、私のせいにされそうじゃない」
 追い立てられるようにショーケースへ目を向けたものの、葵は「うーん……」と小さく唸った。
 どれも美味しそうで、なかなか決めきれない。
 困ったように視線を彷徨わせていると、Qちゃんがショーケースを覗き込み、さらりと言った。
「じゃあ、私はその栗ので」
「え?」
「なんか好きだった気がするから、それ」
 葵はモンブランとショートケーキを選び、会計を済ませて席に着いた。

 フォークを手元に置き、もう一本をQちゃんの前にそっと並べる。
 皿の一つをそちらへ寄せると、Qちゃんは椅子背もたれ越しに、面白そうにこちらを眺めていた。
「いただきます」
「どうぞ」
 フォークを入れると、スポンジはやわらかく崩れた。
 一口食べてから、葵は照れ隠しのように笑う。
「……なんて。本当はQちゃんの言う通り、私が二つ食べたかっただけだったりしてね」
「そういうの、いいから」
 Qちゃんはわずかに口元を緩めた。その瞳は、葵の冗談ごとすべてを見透かしているようだった。
 すべてお見通しといった風なその視線から逃れるように、葵は二口目のケーキを口に運んだ。
 甘さが広がるのと同時に、ふと小さな罪悪感が頭をもたげる。

「……でも、ごめんね。さっき『雰囲気だけでも』なんて言ったけど……見てるだけなんて、やっぱりつまんないよね」
「気にしなくていいわ。葵がそんな顔で食べてるの見てるんだから。……それで、充分よ」
 そう言って、彼はゆっくりと瞼を伏せた。
 その仕草はやけに大人びていて、どこか艶めいて見えた。このスマホの中に住む存在に「成熟」という概念があるのだとしたら、それは実体を持つ人間よりもずっと濃密なものに思えた。
「Qちゃんって、いくつなの?」
「さぁ……二十五くらいだったと思うけど。……どうして?」
「年齢、あるんだ……」
「失礼ね。なんで聞いたのよ」
自分より八つも年上。——思っていたより、ずっと「大人」なのだ。時折垣間見える落ち着きや、抗いがたい色気の正体に、葵は一人で納得していた。
 Qちゃんは、不意に葵の傍に歩み寄ると、上半身を深く折り曲げた。
そして、フォークの刺さったケーキに唇を寄せた。
「な、何?」

「……雰囲気だけでも、楽しいわよ」

 不敵に笑う。
 至近距離で見つめられ、葵はむせそうになりながら慌ててお茶を流し込んだ。
(――やっぱり、大人……)
 けれど、その余韻はすぐにふっと解ける。「……でもないか」
 落ち着きを取り戻してから、葵はぽつりと呟いた。
「なにが?」
「なんでもない」
 口の中に残る、甘さの余韻。
 穏やかに流れる時間の中で、目の前には当たり前のようにQちゃんがいる。
 ただ一緒にいるだけで、こんなにも心が満たされる。――そんな経験は、葵にとって初めてのことだった。

 食器を返して教室を出ると、廊下にはいっそう増した文化祭の賑わいが広がっていた。
「そろそろ、お手伝いの時間?」
 葵の隣で、Qちゃんが軽やかに声をかけた。
「スープって言ってたわよね。何のスープなの?」
「あ、うん。野菜たっぷりが売りの——」
 その時、どこからかふと匂いが流れてきた。
 コンソメの、香ばしくも柔らかな香り。
 それは、葵のクラスが出しているものと同じ、温かな「日常」の匂いのはずだった。
「……あ」

 胸の奥が、不意にひやりと凍りついた。
 四年前の、この日。
 ――何か、あった。

 記憶の断片が、高速で再生される。

 交代の時間が近付き、エプロンを締めようとした、あの瞬間。
 『……きゃあぁっ!』
 鼓膜を突き刺すような悲鳴。
 金属が勢いよく落ちる、派手な音。
 弾かれたように振り返ると、スープの入っていた大鍋が床に転がっていた。

 配膳台の側で、真っ赤に腫れ上がった自分の腕を抱え、崩れ落ちるクラスメイトの姿――。
『大丈夫?』『ひやしにいこ!』
 悲鳴。足音。騒めき。
 クラスメイトに支えられながら、彼女が教室を飛び出していく。

 あの時の光景が、生々しい熱を伴って蘇った。

「葵?……ちょっと、顔色が悪いわよ?」
 Qちゃんの怪訝な声で、葵は現実に引き戻された。
 いつの間にか、足が止まっていた。
「……行かなきゃ」
 説明している暇などなかった。
 喉の奥に「コンソメスープ」という言葉が引っかかったまま、葵はまだ見えぬ自分の教室の方角を仰ぎ見る。

 あの時は、間に合わなかった。
 身支度をしているほんの数分の空白。その間に、取り返しのつかない事故は起きてしまった。
 けれど、今日は――

「……間に合うかもしれない」
 そう確信した瞬間、心臓が激しく早鐘を打ち始めた。
 葵は弾かれたように駆け出す。
「ちょっと、葵?!」 
 背後でQちゃんの声が耳を打つ。
 それでも葵は振り返らなかった。