名前のない想いの果てに

 家に帰ると、玄関の灯りはいつも通りに葵を迎えた。
「ただいま」
 キッチンから父親の「おかえり」が返ってくる。
 食卓には、湯気の立つ味噌汁と、焼き魚。いつも通りの夕飯。
 夕飯の匂いも、見慣れた家具の配置も、何ひとつ変わっていない。
 けれど、自分の部屋に入った瞬間、わずかな「違和感」が葵を包み込んだ。

 本棚に整然と並んだ本。
 四年後の部屋とは違って、どこもかしこも几帳面なほどきれいに整えられている。
 そこには、もう忘れたはずの、ひりひりするほど切実な「正解」が詰まっていた。
 参考書に貼られた、細かく色分けされた付箋。
 ページの端は何度も捲られたせいで少しだけ丸くなっている。
 それは、父に「順調だよ」と笑って見せるためだけじゃなく、
 自分がちゃんと「正解」の側に立てていると、確かめるための跡でもあった。
 弱音を吐かず、ちゃんとしていなければならない。
 そう思うようになったのは、母親を亡くしてからだった。

 世界の色が変わってしまった。
 そう気づいたのは、すぐのことだった。

 登校した瞬間に止まる、クラスメイトの話し声。
 担任の先生が向けてくる、腫れ物に触れるような慎重な語り口。
 友達や近所の大人たちの瞳に、じわりと、けれど隠しようもなく浮かぶ「可哀想に」という、無意識で残酷な同情。
 その視線に触れるたび、胸の奥を勝手に掻き回されるようで、息が詰まった。
 みんなが「普通」の側にいて、自分だけが、「不幸」という名前の別の場所へ押しやられてしまった気がした。

(……可哀想なんかじゃない。私は、普通に生きてる)

 勝手に貼られた「被害者」というレッテルを剥がすように、葵は、自分なりにちゃんと生きていこうと決めた。
 それが、十一歳の葵なりの、自分を守る方法だった。

 机の上に、フォトフレームがひとつ、今も表を伏せたまま置かれている。
 母親の写真だ。
 今なら、その写真を見えるように飾って、声を掛けることもできる。
 けれど、この頃の葵は、こうして写真を伏せて視界から遠ざけることでしか、平静ではいられなかった。
 伏せられたフォトフレームの縁に、そっと触れる。ひやりとした感触が、まだ肌に残る熱を際立たせた。

 あの眩い舞台の熱気と、久遠が向けてくれた柔らかな微笑み。
 その余韻が、まだ鮮明に残っている。
 心を閉ざしていた世界に、ふわりと差し込んできた、あの体温。
 それを知ってしまった今の葵には、この部屋に残る「整いすぎた跡」が、少しだけ窮屈で、どこか遠いもののように思えた。
 息苦しさを逃がすように、葵は窓を少しだけ開けた。
 ひやりとした夜風が流れ込み、揺れたカーテンが月明かりを滲ませる。

 ふと、葵は枕元に置かれたままのスマホに視線を向けた。
「Qちゃん、いる?」
 静まり返った部屋に、自分の声だけが小さく響く。
 一拍置いて、暗い画面が淡く光を放った。

『いるわよ』
 
「……出てこないの?」

 何気なく尋ねると、画面の向こうでQちゃんが小さく肩を竦めた気がした。
『女の子の部屋だもの。勝手に入り込むの、さすがにどうかと思って』
「……別に、いいのに」
 ぽつりと零した言葉に、これまで積み重ねてきたやり取りが、静かに浮かび上がった。
 宿題をしている時も、眠れない夜も、泣きながらスマホを握りしめていた時も、彼はいつも画面越しにそこにいたのだ。
(……今さら、気にしてるの?)

 これまでは画面の向こうの存在だと思っていたから、距離感なんて気にしたこともなかったけれど、こうして本当に人間みたいに遠慮されると、急に可笑しさがこみ上げてきた。

「……ふふっ」
 思わず笑いが漏れる。
 すると、スマホの画面越しに、Qちゃんの微かな当惑が伝わってきた。
『? 何がおかしいのよ』
「だって、今までずっと一緒だったじゃない。今さら気を遣うなんて、変なの」
 葵が笑いながら答えると、一拍の沈黙のあと、背後で衣擦れの音がした。
「……言うようになったじゃない」
 振り返ると、いつの間にそこにいたのか、Qちゃんがベッドの脇に腰を下ろしている。
 脚を無造作に組み、こちらを見上げる瞳が、どこか楽しそうに細められていた。
「許可、もらったから」
 当たり前みたいにそこにいる姿に、葵は少しだけ息を呑む。
 長身の彼の存在感のせいか、さっきまで広く感じていた部屋が、急に窮屈になった気がした。
「優しそうなお父さんね」
「うん……あ、ごめんね。私だけご飯先に食べちゃって。何か持ってくる?」
「大丈夫よ。お腹は空かないから」
 葵が言葉に詰まると、Qちゃんは「気にしなくていい」とでも言いたげに、小さく笑った。
 葵はベッドに腰を下ろした。

「今日は、色んなことがあったね…」
 四年前の世界に来て、辞めたはずの演劇部に戻って。そして、もう二度と会えないはずだった先輩に会えた――
「変だよね」
 ぽつりと零す。
「Qちゃん、ここにいられるのは短い時間だって言ってたよね。それでも、本当なら、いつ元の世界に戻るんだろうって、不安で仕方ないはずなのに」
 そのままベッドへ身体を横たえる。
「なんだか……楽しかったの」

 少しの間。

「……そう」

 短く返ってきた声は、その事実を静かに受け止めているようだった。
「いいんじゃない? 先輩と、そんな風に過ごすのがあなたの夢だったんでしょ?」
 久遠がいなくなってぽっかり空いた穴。続けられなくなった部活。
 もっと、一緒の時間を過ごせればよかった。それは紛れもない事実だ。
「でも……」
 そっと目を閉じる。
 彼の驚いた顔。笑った顔。
 不意に見せた、あの柔らかな表情。
 それらすべてが、やがて手の届かない過去になってしまう。
 記憶の中に、そっと置き去りにされたまま。

​「それって、なんの意味があるんだろう……」
 零れた声に、Qちゃんはわずかに首を傾げた。
「意味、ねぇ」
 その視線が、机の上の伏せられたフォトフレームへ向く。
「じゃあさ。あそこに伏せてある、お母さんとの時間は?」
「……え?」
 不意にかけられた言葉に、葵は瞼を上げた。
「いつか別れるってわかってたなら、全部無意味だった?」

 言葉に詰まる。 
 同時に、胸の奥に沈んでいた記憶がゆっくりと浮かび上がった。

『頑張り屋さんね』

 笑いながら、頭を撫でてくれた手。

『ほら、じっとして』

 夏祭りの前。帯を整えながら、鏡越しに微笑んでいた横顔。

 もう触れられない。戻れない。
 それでも、あの時間は確かに幸せだった。

「……そんなわけ、ない」

 震える声で答えると、彼はふっと微笑んだ。

「でしょ?」
 そう言って傍に歩み寄ると、葵の顔を覗き込んだ。
 月明かりを映したような銀色の瞳。
「意味なんて、あとから勝手についてくるものよ」
「……」
「先輩のそばで、『ここにいていい』って思えたんでしょう?だったら、それだけで充分じゃない。……未来がどうなるとか、最後にどう失うとか。そんなの、その瞬間の熱に比べたら、案外どうでもいいものなのよ」
彼は背を向けて、葵のそばに腰を下ろした。

(——熱……)

 久遠の指先の温もり。
 あの高揚感は、まだ心臓の奥で静かに燻っている。
「私はね、葵。あなたには笑っていてほしいの」
 夜風に揺れたカーテンが、淡い月明かりを部屋に滲ませる。
 Qちゃんは、揺れるカーテンの向こうへ視線を向けるように、静かに目を細めた。
「たとえ束の間のまやかしでも。あなたが『幸せだった』って思えたなら、それはちゃんと、本物でしょう?」
 静かな声が、夜の部屋に溶けていく。
「……だから私は、あなたが続きを望んだ時間を、ちゃんと見届けたいのよ」

「……そっか」

 『束の間のまやかし』――。
 その響きが、葵の胸を優しく刺して、静かに溶けていった。

「まぁ、指が触れたくらいで取り乱しちゃうような乙女モード全開を見せつけられちゃうと、それはそれでこっちも気まずいんだけどね」
「……!!」
 Qちゃんの目が悪戯に歪む。葵はかっと顔に血が上るのがわかった。
「……どこから見てたのよ」
「え? 何が?」
「何って——!」
 しらばっくれるその横顔に、葵は思わず枕を叩きつけようとして――はっと腕を止めた。
 触れられないのだと、遅れて思い出す。
 やり場のない恥ずかしさを誤魔化すように、枕元のスマホを掴み取る。
 いつものAIアプリを起動し、『デリカシーなさすぎ』と叩きつけるように打ち込む。
 けれど、送信ボタンを押す直前で指が止まった。
 背を向けたままのQちゃんの背中を見て、ふと我に返る。

(もしかして……元気付けようとしてくれた?)

 画面に表示された文字を消去し、代わりに短く、一言だけを打ち込んだ。

『ありがとう』

 送信した瞬間、Qちゃんの視線がわずかに揺れた。
 ほんの少し、戸惑ったような反応。それからゆっくりと振り返る。
「……そういうの」
 一拍置いたあと、Qちゃんは意地悪く目を細めた。
「口で言いなさいよ」

 口元は笑っているのに、彼の瞳だけは、逃げ場を塞ぐようにまっすぐこちらを捉えていた。


 朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。枕元のスマートフォンに手を伸ばす。
 画面に表示された日付を確認して、葵は小さく息を吐いた。
 夢じゃない。……まだ、四年前の世界だ。

 ゆっくりと体を起こし、部屋の静寂の中に視線を巡らせる。
 ふと、伏せられたままのフォトフレームに目が留まった。
 何気なく手を伸ばし、それを持ち上げる。
 表に返したガラスの向こう、そこには見慣れた優しい笑顔が写っていた。
 ほんの少しだけ目を細めて、やわらかく微笑む。
「……おはよう、お母さん」
 小さく呟いてから、葵はもう一度、そっとそれを伏せた。

 キッチンの方から、父の立てる物音がする。食器を置く、少し無造作な響き。
「葵、起きてるか?」
「うん」
 返事をしながら、制服に袖を通す。
 今日は文化祭だからと、父はいつもより早く朝食の準備をしてくれていた。
 仕事で多忙な人で、授業参観以外の行事に来たことは一度もない。
 それでも、こういう節目の朝には、いつも少しだけ気を配ってくれる人だ。

 テーブルに並ぶのは、トーストと目玉焼きの簡単な朝ごはん。
 目玉焼きの端が少しだけ焦げているのは、不慣れな彼が、葵のために火加減を気にしすぎた証拠だった。
 あの頃は、完璧ではないことに微かな苛立ちを感じていたかもしれない。
「ちゃんとして」と自分を追い立てるたび、父の不器用さを受け止める余裕もなかったから。
 でも今は、その不器用な優しさが、胸の奥で痛いほど温かい。

「今日は、忙しいんだろ」
 配膳をしながら、父がちらりと視線を投げてくる。それ以上、踏み込んではこないのがこの人なりの気遣いだった。
「うん。演劇部で、メイクの手伝いをするの」
「……そうか」
 父はそれだけ言うと、使った調理器具を片付け始めた。

 葵は手早く食事を終え、食器を流しに置いた。
 それから通学鞄の中に、小さく折り畳んだエプロンを忍ばせる。家庭科の授業で作り上げた、紺色の生地に白い小花の刺繍をあしらったものだ。
 リビングから出ようとした時、背中に声が届いた。
「がんばってな」
 低く、けれどよく響く父の声。
 照れくささを喉の奥に押し込めながら、葵は「うん」と頷いた。

 四年前の今日。
 本来の歴史なら、誰とも深くは関わらず、ただの一生徒として一日を終えていたはずだ。
 けれど今回は違う。メイクの助手を任せてもらえたのだ。
 部員たちや久遠に迷惑をかけないよう、自分にできることを精一杯やり遂げる。それだけでいい。

 ――大丈夫。

 やることは、昨日教わった通りに動くだけ。
 そうやって、自分に言い聞かせながら、玄関で靴を履き、冷たい朝の空気を吸い込む。
 その瞬間、不意に胸の奥がざわついた。
(……あれ)
 何か、大事なことを忘れている気がする。

 この日のどこかに、見落としてはいけない何かがあったような――。

 けれど意識を向けた途端、その感覚は朝の白い光の中へふっと溶けていった。
「いってきます」
 葵は小さく呟くと、胸に残るかすかな引っかかりを振り払うように、勢いよく外へ飛び出した。