名前のない想いの果てに


 自室の机に向かい、杉原は窓を少し開けた。
 何気なくノートを開き、そこに記された文字を見て、動きを止めた。
 ページの端。罫線からわずかにはみ出すように、たった二文字が残されていた。
 前後に説明はない。日付も、メモも、印もない。
​(……なんだ、これ)
 ​指先で、紙の表面をなぞる。
 紙がわずかにへこむほどの強い筆圧だけが、その瞬間の焦燥を物語っていた。
 杉原はページをめくった。次のページ。その次。どこにも続きはない。

 ​おかしい。
 何かを書き留めていた気がする。
 違和感。タイミング。行動のズレ。
 それらを必死に繋ぎ止めようとしていたような――記憶の残滓。
 けれど、思い出そうとすると霧のように消えてしまう。
 ​窓から入り込んだ風が、部屋の静寂を揺らした。
 杉原は、ふと机に預けた右腕の袖に目を落とす。
 さらりとした布地越しに見える肌は、どこまでも滑らかだ。  
 そこには何もない。ただの、自分の腕。
 なのに、そこにあるはずのものが失われているような感覚が、一瞬だけ胸をよぎる。
 ……気のせいだ。最初から、何もなかったはずだ。
 そう自分に言い聞かせ、再びノートに目を落とす。
(……なんで、書いたんだ)
 ​特別な意味があったような気がする。けれど、それを手繰り寄せることはできない。
 胸の奥に、輪郭のない喪失感だけが重たく残る。
 知らないはずなのに、決定的な何かを忘れてしまったような、空虚な痛み。
 杉原は、その違和感に名前を与えることを放棄して、席を立った。 
 ​――ノートの中には、ただひとつの名前だけが残っている。

 消してしまおうかと思った。
 でも、なぜかその文字だけは、指先が触れることを拒んだ。

『結崎』
 それだけが、
 静かにそこに残っていた。