名前のない想いの果てに


 今年、この学校は創立五十周年を迎える。
 OBとして演劇部に招かれた久遠と日高は、懐かしい体育館の控え室に顔を出していた。
 演劇部の上演は間もなくだ。
「……なんで俺が、またメイクやってるんだろうね」
 部員に筆を走らせながら、久遠は苦笑をこぼす。 
 けれどその手つきは、在学中と変わらず迷いがない。
 せっかく来てくれるならメイクもお願いしたい――そんな部員たっての願いだった。
 衣装担当の葵は、申し訳なさそうに「ごめんね」と声をかけた。
 久遠は顔を上げると、冗談だよ、とでも言うように穏やかに微笑んだ。
 テーブルの隅では、真琴が積み上げられたチョコを口に放り込み、
「よし、気合い入ってきたー!」と楽しげにストレッチを始める。
 主役に挑む彼女の表情には、並々ならぬ熱意が宿っている。
「真琴、あんまり張り切って舞台で転ばないでね。カツラずれちゃったら台無しだから」
 芽美のアドバイスに日高が腹を抱えて笑う。
「わかってる!」
 ピースサインを残して舞台袖へと駆け出す真琴。それを追うように、照明担当の芽美も「じゃあ、またあとでね」と明るい声で控え室を後にした。
 久遠がメイク道具を片付けるのを、葵も手伝う。
 同じ筆に手を伸ばしかけて、指先が触れそうになった。
 ふと視線が合う。
 どちらからともなく、くすりと笑いがこぼれた。
「おーい、あんまイチャつくなよ? 俺が居心地悪くなるから」
 背後からの日高に、葵は慌てて久遠から離れる。
 その時、部員の一人がポツリとこぼした。
「そういえば、更衣室の幕が数カ所外れちゃってて……。久遠先輩、直してもらえませんか?」
 控え室の一角にある簡易的な更衣室。垂れた黒幕が、確かにゆるんでいる。
「……あ、ううん。それは私がやるよ」
 葵は咄嗟に口を挟んだ。
「でも、ポールちょっと高いよ?」
 久遠はそう言って静かに立ち上がった。
「すいません、じゃ、行ってきます!」
「おー、頑張ってな」
 慌ただしく出ていく部員たちを見送る。残されたのは、葵と久遠、日高。
 静かになった室内で、葵と久遠の視線がぶつかる。
「……じゃあ、一緒にやろうか」
 結局、二人で更衣室の中へ入る。 黒幕の内側は、少し埃っぽい狭い空間だった。
「あ、ほんとだ……外れてる」
 先に入った葵が小さく呟く。
「上、届く?」
「うーん……やっぱりちょっと、高いかな」
「俺が見るよ」
 自然と距離が近づいた、そのとき――。
「すいません、小道具忘れました!」
 外から声がして、誰かが入ってくる気配がした。
 瞬間。なぜか、外にいた日高が黒幕をシャッと閉めた。
「……え?」
 唖然として、閉じられた幕をただ見つめる。
「あれ? ここに置いたと思ったんだけど……どこだっけな?」
「あるよね、そういうこと。俺も探すよ、どんなの?」
 日高の声が、妙に軽い。そして、二人で探し物を始める気配。
  今ここで出れば、暗い更衣スペースで二人きりだったと誤解される。
「いやいや、いいですよ。先輩は客席でゆっくり見ててください」
 後輩の、遠慮がちな声。
(うそ、だめ。今はまだ出ていかないで……!)
 葵は心の中で叫んだ。
 けれど、そんな葵の祈りをあざ笑うかのように、「そう?」と楽しそうな日高の声が返ってくる。
「じゃあ、俺、客席から応援してるからー」
(ちょっと、なんで……!)
 葵の心の叫びも虚しく、控え室の扉が閉まる音が響いた。

 ――終わった。

 控え室の中、黒い布一枚に仕切られたこの狭い空間だけが、世界から切り離されたように静まり返る。
 聞こえるのは二人の息遣いだけ。
 その静けさに耐えきれず、葵は羞恥で頭がどうにかなりそうだった。
(……今さら出ても、もう遅い)
 隣に立つ久遠も同じことを考えているのか、複雑な表情で沈黙を守っている。
「……っ」
 不意に、お互いのどうしようもない表情が目に入り、二人はふっと声を押し殺して笑い合った。
 葵ははっと笑みを引っ込めると、唇を引き結んで久遠を見上げた。
 至近距離で見つめ合う二人の視線が、静かに重なる。
 恥じらいに染まった頬と、必死に吐息を殺す唇。
 それを受け止める久遠の瞳もまた、いつもの穏やかさをかなぐり捨てた、真摯な熱を帯びていた。
 かつての完璧な「先輩」ではなく、一人の男性としての穏やかな動揺が、熱を持って伝わってくる。
(……ああ、前にも、こんなことがあった)
 不意に、あの日の光景が脳裏をよぎる。
 中学一年生の時に結んでくれたエプロン。
 中学三年生の時に直してくれたドレスのファスナー。
 あの時は、心臓が壊れそうなほど緊張していた。けれど――
 今は、驚くほど心は穏やかだ。
 久遠は、葵の肩にそっと触れた。
 どちらからともなく、引き寄せられるように体が重なった。
 葵は、久遠の胸にそっと額を預けた。上着越しに、確かな心音が伝わってくる。
 懐かしい、けれど、あの頃よりもずっと安心できる温もりだった。
 その時、幕のすぐ外で「なんだ、こんなところにあったのか。やべっ急げ急げ」と焦ったような声がした。
 ドタドタと慌ただしい足音のあと、控え室の扉が閉まる音が響いた。
 誰一人いなくなった室内の、完全な静寂。 もう、息を殺す必要も、言い訳を考える必要もない。
 久遠は静かに葵の腰へ腕を回し、その体をそっと抱き寄せた。
 もう片方の手が髪を優しく撫で、その指先が愛おしむように首筋へ触れた。
 遮るもののない距離で、互いの体温を確かめ合う。
 言葉は、なかった。
 ただ——離れなかった。
 外からは、文化祭のざわめきが遠く遠く聞こえている。
 けれど、この黒い幕の内側だけは、世界で一番静かで、優しい時間が流れていた。

 ​舞台を見終えて体育館を出ると、外は夕闇が降りていた。
 さっきまでの喧騒が嘘のように遠く感じられる。
 校舎を抜ける夜風が、祭りの熱気をさらっていく。
 久遠と葵は言葉もなく、吸い寄せられるように中庭へと足を踏み入れた。
 周りの木々には、小さな光が灯っていた。昼間は賑わいに隠れて気付かなかっただけで、ずっと、そこにあったらしい。
 中庭の片隅に立つ庭園灯。
 ​二人の足元に、やわらかなオレンジ色の光が重なる。
 葵は、鞄から大切にしまっていたものを取り出した。
 銀色のりんご。
 石像役で使っていたその小道具は、塗装のムラも、使い込まれた跡も、あの頃のまま残っている。
「……これ、覚えてますか?」
 久遠は一瞬だけ驚いたように瞬きをし、すぐに視線を落とした。
 少し照れたように笑ってから、静かに言葉を紡ぐ。
「……その役をやって、よかったのかもしれない」
 間を置いて、自分に言い聞かせるように付け加えた。
「君が、見つけてくれたから」
 向けられた微笑みが、あまりに優しくて懐かしくて、葵は視界が滲みそうになるのを必死で堪えた。

 それから、二人はゆっくりと歩き出す。靴音が重なり、自然と同じ歩幅になる。
 ​木々のイルミネーションが優しく地面をなぞる場所で、二人は足を止めた。
 ​葵は傍らの木の枝へ、そっとりんごを乗せた。
 揺れる小さな光を反射して、それはぼんやりと輝いた。
 久遠が描き加えた『顔』が、静かに二人を見下ろす。
「……ありがとう」
「え?」
 思いがけない言葉に、葵は振り返る。
 久遠は、少しだけ照れたように視線を逸らしてから、決心したように葵を見つめ直した。
「理由は、うまく言えないんだけど。……ずっと、お礼を言わなきゃいけない気がしてたんだ」
 葵は、静かに首を振る。
 お礼を言われることなんて、何もない。
 むしろ、救われているのは自分のほうなのに。
 けれど、久遠の視線はどこまでも真っ直ぐで、迷いがなかった。
 久遠が、静かに一歩近づく。
 冷たい夜の空気の中で、イルミネーションの温かな光が、互いの白い呼気を優しく包み込んだ。
「……葵ちゃん」
 名前を呼ぶ声が、まっすぐ心に届く。
 視線が絡み合う。
 葵は、吸い寄せられるように一歩、踏み出した。 
 久遠の視線が一度だけ、葵の唇に落ちる。
 久遠はそっと葵の頬に触れ、その指先で包み込むように支えた。
 葵はその温もりを受け止めるように、そっと目を閉じる。
 久遠がわずかに首を傾け、葵もほんの少しだけ背伸びをした。

 羽が触れるような、淡く、けれど確かな感触。
 どちらも離れようとはしなかった。
 唇がそっと重なる。
 過去の記憶を、今の体温を、確かめ合うような、静かなキス。

 夜の中庭に、遠くの音も、流れる時間も、すべてが溶けて消えていく。
 ゆっくりと離れるとき、どちらの瞳にも名残惜しそうな色が浮かんでいた。
 ふと足元を見れば、二人の影は、
 さっきよりも、ずっと深い場所で重なり合っていた。


 文化祭の喧騒が遠のいた、静かな休日。
 葵は、母親の墓前にいた。
 秋の柔らかな日差しが、手向けた花を優しく照らしている。
 葵は目を閉じ、これまでの夢のような出来事を思い返していた。
 勇気を出して誘った花火。
 河川敷で初めて手をつないだ夜。
 文化祭の中庭で抱きしめられた温もり。そして、初めてのキス。

(お母さん。私、今、すごく幸せだよ)
 葵の心に迷いはない。
 この学校で、久遠と出会い、恋をして、その想いが届いた。
 それが、今の葵のすべてだ。
 けれど、墓石の冷たさに触れた瞬間。
 なぜか、今の自分には「ないはずの記憶」が、一瞬、胸の奥をかすめていった。
(……なんでだろう。この幸せが、すごく奇跡みたいに感じるの)
 先輩の隣にいられること。
「来年」の約束ができること。
 それが、長い遠回りの先で、ようやく辿り着いた場所みたいに思えた。
 理由は分からない。けれど、自分が今ここで笑っていられるのは、いつか、どこかで、誰かが必死に未来を繋いでくれたから――そんな気がした。
「……ありがとう」
 それが、母に向けた言葉なのか、それとも別の誰かに向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
 けれど、目から一粒だけこぼれた涙は、悲しい色をしていなかった。
 葵は立ち上がり、空を見上げた。
 雲ひとつないその場所には、もう迷いなどどこにもなかった。
 彼女の瞳には、これから歩む未来の光だけが映っている。
 鞄に付けたくまのキーホルダーにそっと触れ、その場をあとにした。

 ——私はこの世界を、一歩ずつ大切に歩いていく。