文化祭当日――。
校舎内には、呼び込みの声と笑い声が満ちていた。
葵はクラスの模擬店『お化け屋敷』の中で出番を待っていた。
「……出ます」
遮光カーテンの隙間から、葵がぎこちなく一歩を踏み出す。
顔は真っ白に塗られ、口元には滴るような血のり。
本来なら、ここで悲鳴が上がる――という段取りだ。
しかし、通路を通りかかった客たちの反応は、期待とは真逆のものだった。
「……ぷっ」
「ねえ、見て。あれ、お化けっていうか……」
葵は思わず固まった。
恐怖を煽るためのメイクは、悲鳴より失笑を誘ってしまう。
(……やっぱり、下手すぎる)
項垂れ、血のりのついた手で顔を覆いたくなった、その時だった。
「ひゃはは! なにそれ、傑作!」
弾けるような明るい声が、おどろおどろしいBGMを突き破って響く。
顔を上げると、入ってきた日高が葵の顔を見るなり、声を上げて笑っていた。
「お化け屋敷で笑わせにくるの、逆に才能あるでしょ。新しいジャンルのピエロ?」
「……ちがうから」
葵が恨めしそうに言い返すと、日高はさらに愉快そうに肩を揺らした。
その隣で、久遠は呆然としたように立ち尽くしていた。
彼の視線は、白塗りの下に隠れた葵の輪郭をなぞるように、じっと顔を一周する。
「……その……」
言葉を探すように視線をさまよわせたあと、静かに口を開いた。
「ちょっと、出てこれる?メイク道具持って」
人の少ない資料室前。窓から差し込む午後の光が舞台のライトのように床を照らしていた。
久遠は、もう一度葵の顔を真正面から見つめた。
不意打ちの視線に、葵の胸が小さく跳ねる。
「……そのメイク」
少し言いづらそうに「直してもいい?」と問いかける。
「え、あ……はい」
久遠は血のりやスポンジ、細い筆を手に取る。
「これ、借りるね」
ティッシュで頬に付いた余分な血のりをそっと拭い、そのまま迷いなく筆を走らせる。
「……動かないで」
低く響く声に、葵は思わず息を止めた。
至近距離で動く指先は驚くほど繊細で、影を重ねるたび、鏡の中の自分が少しずつ変わっていく。
葵は手鏡を覗き込み、小さく息を呑んだ。
「……あ」
さっきまで滑稽だった顔は消え、そこには底知れない冷たさを纏った"本物の恐怖"が映っていた。
久遠は鏡を指差し、目を細める。
「ほら」
「……すごい」
「うん。これなら大丈夫。驚かせるっていうより、不気味な雰囲気でいこう」
「……ありがとうございます」
「うん。がんばって」
その柔らかな笑顔に、葵の胸が不意にきゅんと音を立てる。
高鳴る鼓動を隠すように教室へ戻ろうと廊下の角を曲がった、その瞬間。
反対側から歩いてきた客と、真正面から目が合った。
「……っ」
刹那、静かな廊下に悲鳴が響き渡る。
「きゃああああ!!」
腰を抜かさんばかりに逃げていく客を見送り、葵は呆然と立ち尽くした。
その様子を見ていた日高は笑い転げた。今度は涙まで浮かべている。
「ひゃはは! 今のはズルいって、タイミング完璧すぎ!」
「……笑わないで」
葵が抗議すると、久遠は満足そうに葵を見つめていた。
「……可愛いのに」
喧騒に紛れて消えそうな、小さな独り言。
「えっ?」
日高と葵が同時に振り向く。
一瞬だけ目が合うと、久遠は何事もなかったかのように目を逸らした。
その耳が、ほんのり赤く染まっていた。
「……何でもない」
久遠は、三つ年上の大学二年生だ。
在学中は演劇部の部長を務め、役者の魅力を引き出すことにかけては右に出る者はいないと言われていた。
久遠は以前、家庭内の深刻な問題をたった一人で抱え込んでいた。
けれど、ある日、大切な仲間たちに胸の内を打ち明けてから、少しずつ状況は変わっていった。
「……久遠さん。市の無料相談窓口と、法テラスの情報をまとめました。必要なら弁護士の知り合いにも当たれます」
真っ先に動いたのは杉原だった。
感情論ではなく、現実を変えるための手段を迷いなく示す。
「感情で抱え込むより、制度を頼った方が早いです」
その言葉に続くように、真琴や芽美も手を差し伸べた。
「そうだよ、私たちもいるんだから!」
「一人で背負い込まないでください」
家庭の問題が魔法のように消えたわけではない。
それでも、あの日まで「どうしようもない」と思っていた現実は、仲間たちと一緒に少しずつ形を変えていった。
だからこそ、今こうして文化祭に顔を出し、穏やかな眼差しで笑う久遠の姿がある。
(……だからこそ)
葵はそっと息をついた。
(今の彼の笑顔が、何よりも嬉しい——)
胸の中が、静かに満たされていく。
それは仲間への深い感謝と、大切な人を守れたという安堵感だった。
「ちょ、ま。葵ちゃん、その目で睨まないで。ほんと怖いから!」
感傷を吹き飛ばすような日高の明るい声が、踊り場に響く。
久遠の親友で、演劇部員ではないのに現役時代から当たり前のように部室へ遊びに来ていた人物である。
「あー、笑った。真琴がいたら『笑いすぎ』ってまた怒られてたわ」
からりと笑う日高につられ、葵も思わず吹き出した。
さっきまでの気負いが、すっと消えていく。
葵は二人に向き直ると、
「じゃあ、『本気のお化け』の怖さ、見せつけてきます」
気合を入れ直すように短く告げ、教室へ向かって歩き出した。
その後、お化け屋敷は予想以上の盛況となり、悲鳴が絶えなかった。
出番を終えた葵は、久遠と日高とともに廊下を歩く。
すれ違う生徒たちの視線が自然と集まった。
「あ、久遠先輩!」
「来てたんですね!」
声を掛けられると、久遠は足を止め、穏やかに微笑む。
「久しぶり。文化祭、楽しんでね」
その隣で日高が片手をひらひら振った。
「おー、元気してるかー?」
「してます!」
「相変わらずですね、日高先輩!」
「褒め言葉ってことでいい?」
廊下のあちこちで笑いが起こる。
葵は、その光景を不思議そうに眺めていた。
二人が後輩たちに慕われていることなど、あまり意識したことがなかった。
その様子を横目に見た女子たちが、面白くなさそうな顔で通り過ぎていく。
葵は気づかないまま、久遠と日高の会話に小さく笑った。
向かったのは、真琴と芽美のクラスのメイドカフェだった。
「お帰りなさいませ〜」
出迎えた芽美は、驚くほどメイド服がよく似合っていた。
立ち振る舞いも自然で、まるで本物のメイドのようだ。
一方、真琴は——
「お、らっしゃい! ゆっくりしてきなよ」
「お前はどこの大将だ!」
間髪入れずに日高のツッコミが飛ぶ。
「『お帰りなさいませ』はどうした! なんでちょっと暖簾くぐった感じになってんだよ」
「いいじゃん、気持ちはこもってるんだから!」
フリルを揺らしながら、真琴は堂々と胸を張る。
可愛らしいはずの衣装なのに、彼女が着ると不思議と威勢のよさまで漂って見えた。
「無理無理!……真琴、お前それ、衣装に着られてるっていうか、今から仕込み始めそうだろ!」
案の定、日高は吹き出した。
「似合わないフリルを気合いで着こなしてるみたいな顔すんなって!」
「うるさいな、ちゃんと着てるでしょ!」
真琴は一切ひるまず、言い返す。
「いい? メイド服界隈にはね、こういう『中身が大将』みたいなギャップが好きな人だっているんだから!」
「……ふふ、いるかもしれないね」
芽美がトレイを抱えたままくすくすと笑う。
「ねーよ!」
日高の即答に、教室中が今日一番の笑い声に包まれた。
芽美も真琴も、演劇部で出会った大切な友人だ。
芽美は、葵の秘めた想いに、誰よりも早く気づいてくれた。
以前、真琴が無邪気に男友達との遊びへ葵を誘おうとした時も、「葵ちゃんはダメだよ」と慌てて割って入ったことがある。
「そういうの苦手なんだから」と笑って誤魔化していたけれど、芽美には全部お見通しだった。
二人に久遠への想いを打ち明けてからは、真琴のお節介が、いつも葵の背中を押してくれた。
練習のペア決めも、舞台裏の役割分担も。
真琴は何気ない顔をして、気づけばいつも葵を久遠の隣へ、あるいは視線が交わる場所へ送り出していた。
「たまたま手が空いてたのが、そこだっただけだから」
真琴はいたずらっぽく笑って誤魔化す。
けれど、それが偶然でないことくらい葵には分かっていた。
舞台の上で、たった一人で光を浴びていられるのも。
こうして前を向いて笑っていられるのも。
不器用で、けれど誰より温かな手で、そっと背中を支え続けてくれる友達がいるからだ。
メイドカフェのカウンターが、一段落した頃だった。
「……結崎」
低く抑えた声に振り向くと、そこには実行委員の腕章を巻いた杉原が立っていた。
廊下ですれ違えば、誰もがふと振り返ってしまうような、涼やかで整った横顔。
勉強もスポーツも、まるで最初から答えを知っているかのように、何事もさらりとこなしてしまう。
そんな彼と並んで実行委員を務めることになったきっかけは、春のクラスでの委員決めだった。
「結崎さんなら、ちゃんとやってくれそうじゃない? 真面目だし」
女子の一人の声に、教室のあちこちから「たしかに」と笑い混じりの声が上がる。
誰も反対はしない。ただ、自分がやりたくないという気持ちだけが、教室全体に漂っていた。
俯きかけた葵の隣で、一人だけ静かに手が上がる。
「じゃあ、俺もやります」
杉原だった。教室の空気が一瞬で変わる。
「実行委員、やったことないから」
その一言で、女子たちは押し黙った。
葵を委員に仕向けたはずが、結果として「杉原の相方」の席を譲ることになってしまったからだ。
もっとも、初心者という言葉とは裏腹に、杉原はあっという間に委員の中心となり、文化祭の準備を鮮やかにまとめ上げてしまったのだけれど。
「招集。ちょっと来て」
「うん」
杉原の声に、葵が立ち上がろうとした、その時だった。
芽美が一瞬だけ杉原へ目を向ける。次の瞬間、わずかに顔が赤らむ。
「……え、なに?」
真琴が首を傾げる。
「べ、別に!」
芽美は慌ててトレイを持ち直し、俯いた。
杉原は気づいていないのか、それとも気づいていて気に留めていないだけなのか。
何も言わず、もう一度だけ葵へ視線を向ける。
急かしもしない。気を遣うような言葉もかけない。
それでも、一人だけ置いていくことはしない。
そんなところが、不思議と安心できた。
「行こう」
短く告げて歩き出す杉原の背中を追うように、葵は教室を後にした。
廊下に出ると、熱を帯びた空気が肌を撫でた。
「迷子が出た。五歳の男の子、保護者とはぐれたらしい」
「了解」
二人は頷き合い、手分けして校内を回る。
呼び込みの声、笑い声、お化け屋敷の悲鳴。文化祭特有の喧騒の中を、葵は走った。
「……いた」
中庭の近く。植え込みの前で、男の子が一人、立ち尽くしている。
「大丈夫?」
葵がその場にしゃがみ込むと、男の子は不安そうにこちらを見上げ、小さくこくんと頷いた。目の下にある小さなほくろが、心細そうに揺れている。
けれど、杉原が背後から近づいた、その瞬間。
「……っ」
男の子の顔が強ばり、今にも泣き出しそうな表情になった。
「……なんでだ?」
杉原が心外そうに、小さく首を傾げる。
「顔、こわいからじゃない?」
「……ほっとけ」
低く返しながらも、杉原は一歩だけ、さりげなく後ろに下がった。
「大丈夫だよ、怖くないからね」
葵が優しく声をかけると、男の子は安心したように、葵の袖をぎゅっと掴んだ。
杉原はその様子を黙って見守りながら、周囲を警戒し、無線で連絡を入れた。
ほどなくして保護者が駆けつけ、何度も頭を下げられた。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
去り際、男の子が振り返って手を振ってくれる。その小さな背中を見送ると、胸の奥がじんわり温かくなった。
校舎へ戻る途中。
「……助かった」
杉原が、ぽつりと言った。
「うん。見つかってよかったね」
二人はしばらく無言で歩いた。
ふと、先ほどの男の子の面影を思い出す。
「あの子、目の下にほくろがあったよね。可愛かったな」
「……よく見てるな」
杉原の声は淡々としているけれど、響きはどこか柔らかい。
「杉原くんは、首のところにあるよね、小さいほくろ」
言った瞬間。
杉原の足が、ぴたりと止まった。
「……」
ゆっくりと、彼がこちらを見る。視線を逸らさない、真正面からの凝視。
数秒の沈黙。
「……なんで知ってるんだ?」
声が、わずかに裏返っていた。そのまま、みるみるうちに耳の付け根まで真っ赤に染まっていく。
(というか——今、私、なんて言った?)
彼の首筋なんて、まともに見た覚えもないのに。口が勝手に動いたような感覚に、葵の顔もつられて熱くなる。
「……なんで知ってるんでしょうね?」
その声もあからさまに上ずった。
杉原は、片手で首の後ろを押さえたまま、しばらく黙り込んだ。
「……そこ、普通は気づかない」
「……ですよね」
「……髪で、隠れてるし。見えにくい、はずだ」
それだけ絞り出すように言うと、杉原は気まずそうに視線を逸らした。
「……戻るぞ」
杉原は逃げるように歩き出した。慌ててその隣へ並ぶ。
互いに何も言えないまま歩いているのに、不思議と歩幅だけはぴたりと合っていた。
メイドカフェに戻ると、外で待っていた日高と久遠が軽く手を挙げた。
そこへ、フリルの揺れるメイド服のまま、芽美と真琴が外に出てくる。
「そのままじゃ寒いよ」
葵が心配そうに声をかけると、真琴は「また出番あるし」と肩をすくめて笑った。
「ったく……」
日高は呆れたように息をつき、自分のコートを脱ぐと、真琴の肩にふわりとかけた。
長いコートが、短いスカートをすっぽり覆い隠す。
「え、なに?」
突然の温もりに、真琴がきょとんとして顔を上げる。
「別に。風邪ひくぞ」
日高は照れ隠しのように視線を逸らした。
「……ありがと」
真琴は小さく呟き、コートの襟をぎゅっと掴んだ。
「お、射的だ。やろうぜ」
日高に促され、六人は射的の模擬店へ向かった。
木の匂いと、コルク銃の軽やかな音。その音に、葵はふと既視感を覚える。
——前にも、こんなふうに立っていた気がする。
誰かの傍で。名前も、顔も思い出せないのに、なぜか懐かしい。
「……どれか、欲しい?」
じっと見入っていたのを誤解したのか、久遠が隣から声をかけた。
「え?」
「欲しい景品、ある?」
葵は戸惑いながら景品を見渡した。
目に留まったのは、棚の端にちょこんと置かれた、小さなくまのマスコットキーホルダーだった。
「……あれ」
久遠は小さく頷くと、店番の生徒へ「一回お願いします」と代金を渡した。
「……久遠先輩」
店番の女子生徒が、小さく息を呑む。
けれど本人はそんな視線にも気づかず、受け取った銃を何気ない仕草で手に取った。
構えた姿に無駄はない。
息を整える間もなく、引き金を引いた。
——ぱん。
乾いた音が響く。
次の瞬間、くまのキーホルダーがころりと棚から落ちた。
「え……」
店番の生徒が目を丸くする。
「うそ……。あれ、一番小さくて全然落ちないのに」
周囲からも「すご……」と小さなどよめきが広がった。
けれど久遠は、そんな視線など気にも留めない。
受け取った景品の金具を指先で整えると、「はい」と、そっと葵へ差し出した。
「いいな……」
芽美の呟きを聞いて、杉原が短く尋ねた。
「どれ?」
芽美が景品を指さすと、杉原は店番へ代金を渡し、無言で銃を受け取った。
「フレーフレー、す・ぎ・は・ら!」
「がんばれ杉原〜!」
真琴と日高が、待ってましたとばかりに悪ノリで声を揃える。
「ちょっ……」
杉原が一瞬だけ眉を寄せた隙に、弾は、的の脇をかすめて外れた。
「あー!」「惜しい!」
面白がった二人が、さらに調子に乗る。
「もう一回! す・ぎ・は・ら!」
「次はいけるぞー!」
杉原は、何も言わない。ただ一度、深く息を吸って構え直す。
さっきより、纏う空気が静かになった。
「フレー……」
——ぱん。
声が揃うより早く、的が倒れた。
「ちょ、早っ」
「えー、もう終わり?もう一回くらいやりたかったのに」
不満げな二人を余所に、杉原は手に入れた景品を「これだろ」と芽美に差し出す。
「……うん。ありがとう」
少し赤くなって受け取る芽美に、杉原は「別に」とぶっきらぼうに視線を逸らした。
「……よし」
日高が気合いを入れるように頷き、真琴を見た。
「欲しいの、どれ?」
「え、なに?」
「いいから。どれだ?」
真琴は棚を一通り眺め、「うーん」と首を傾げて言った。
「ラッキーアイテム」
「……は?」
日高は思わず聞き返す。
「どれだよ、それ」
「たぶん、あのへん?」
真琴が適当に指を動かす。日高は、半信半疑のまま構えた。
——ぱん。
外れる。小さく舌打ち。
「……悪い。次は当てる」
続けて二発撃つが、弾は虚しく空を切る。日高は何も言えなくなり、銃を持つ手が止まった。
「……ごめん」
ぽつりと呟いた謝罪を、真琴はあっさりとはねのけた。
「いいよ、別に」
「え?」
「ラッキーアイテム、もう持ってるし」
「……は?」
日高は完全に意味が分からない顔で固まった。
真琴は、彼から借りたコートの襟を少しだけ持ち上げ、「内緒」とにっと笑う。
数秒後。日高の耳から首筋までが、一気に真っ赤に染まった。
「……っ、そういうこと、急に言うなよ」
照れを隠すように視線を落とし、銃を戻す手がわずかにもたつく。
芽美がくすっと笑い、 杉原は見なかったことにするような顔をした。
葵もつられて笑った。
こんな何気ない時間が、たまらなく愛おしかった。
校舎内には、呼び込みの声と笑い声が満ちていた。
葵はクラスの模擬店『お化け屋敷』の中で出番を待っていた。
「……出ます」
遮光カーテンの隙間から、葵がぎこちなく一歩を踏み出す。
顔は真っ白に塗られ、口元には滴るような血のり。
本来なら、ここで悲鳴が上がる――という段取りだ。
しかし、通路を通りかかった客たちの反応は、期待とは真逆のものだった。
「……ぷっ」
「ねえ、見て。あれ、お化けっていうか……」
葵は思わず固まった。
恐怖を煽るためのメイクは、悲鳴より失笑を誘ってしまう。
(……やっぱり、下手すぎる)
項垂れ、血のりのついた手で顔を覆いたくなった、その時だった。
「ひゃはは! なにそれ、傑作!」
弾けるような明るい声が、おどろおどろしいBGMを突き破って響く。
顔を上げると、入ってきた日高が葵の顔を見るなり、声を上げて笑っていた。
「お化け屋敷で笑わせにくるの、逆に才能あるでしょ。新しいジャンルのピエロ?」
「……ちがうから」
葵が恨めしそうに言い返すと、日高はさらに愉快そうに肩を揺らした。
その隣で、久遠は呆然としたように立ち尽くしていた。
彼の視線は、白塗りの下に隠れた葵の輪郭をなぞるように、じっと顔を一周する。
「……その……」
言葉を探すように視線をさまよわせたあと、静かに口を開いた。
「ちょっと、出てこれる?メイク道具持って」
人の少ない資料室前。窓から差し込む午後の光が舞台のライトのように床を照らしていた。
久遠は、もう一度葵の顔を真正面から見つめた。
不意打ちの視線に、葵の胸が小さく跳ねる。
「……そのメイク」
少し言いづらそうに「直してもいい?」と問いかける。
「え、あ……はい」
久遠は血のりやスポンジ、細い筆を手に取る。
「これ、借りるね」
ティッシュで頬に付いた余分な血のりをそっと拭い、そのまま迷いなく筆を走らせる。
「……動かないで」
低く響く声に、葵は思わず息を止めた。
至近距離で動く指先は驚くほど繊細で、影を重ねるたび、鏡の中の自分が少しずつ変わっていく。
葵は手鏡を覗き込み、小さく息を呑んだ。
「……あ」
さっきまで滑稽だった顔は消え、そこには底知れない冷たさを纏った"本物の恐怖"が映っていた。
久遠は鏡を指差し、目を細める。
「ほら」
「……すごい」
「うん。これなら大丈夫。驚かせるっていうより、不気味な雰囲気でいこう」
「……ありがとうございます」
「うん。がんばって」
その柔らかな笑顔に、葵の胸が不意にきゅんと音を立てる。
高鳴る鼓動を隠すように教室へ戻ろうと廊下の角を曲がった、その瞬間。
反対側から歩いてきた客と、真正面から目が合った。
「……っ」
刹那、静かな廊下に悲鳴が響き渡る。
「きゃああああ!!」
腰を抜かさんばかりに逃げていく客を見送り、葵は呆然と立ち尽くした。
その様子を見ていた日高は笑い転げた。今度は涙まで浮かべている。
「ひゃはは! 今のはズルいって、タイミング完璧すぎ!」
「……笑わないで」
葵が抗議すると、久遠は満足そうに葵を見つめていた。
「……可愛いのに」
喧騒に紛れて消えそうな、小さな独り言。
「えっ?」
日高と葵が同時に振り向く。
一瞬だけ目が合うと、久遠は何事もなかったかのように目を逸らした。
その耳が、ほんのり赤く染まっていた。
「……何でもない」
久遠は、三つ年上の大学二年生だ。
在学中は演劇部の部長を務め、役者の魅力を引き出すことにかけては右に出る者はいないと言われていた。
久遠は以前、家庭内の深刻な問題をたった一人で抱え込んでいた。
けれど、ある日、大切な仲間たちに胸の内を打ち明けてから、少しずつ状況は変わっていった。
「……久遠さん。市の無料相談窓口と、法テラスの情報をまとめました。必要なら弁護士の知り合いにも当たれます」
真っ先に動いたのは杉原だった。
感情論ではなく、現実を変えるための手段を迷いなく示す。
「感情で抱え込むより、制度を頼った方が早いです」
その言葉に続くように、真琴や芽美も手を差し伸べた。
「そうだよ、私たちもいるんだから!」
「一人で背負い込まないでください」
家庭の問題が魔法のように消えたわけではない。
それでも、あの日まで「どうしようもない」と思っていた現実は、仲間たちと一緒に少しずつ形を変えていった。
だからこそ、今こうして文化祭に顔を出し、穏やかな眼差しで笑う久遠の姿がある。
(……だからこそ)
葵はそっと息をついた。
(今の彼の笑顔が、何よりも嬉しい——)
胸の中が、静かに満たされていく。
それは仲間への深い感謝と、大切な人を守れたという安堵感だった。
「ちょ、ま。葵ちゃん、その目で睨まないで。ほんと怖いから!」
感傷を吹き飛ばすような日高の明るい声が、踊り場に響く。
久遠の親友で、演劇部員ではないのに現役時代から当たり前のように部室へ遊びに来ていた人物である。
「あー、笑った。真琴がいたら『笑いすぎ』ってまた怒られてたわ」
からりと笑う日高につられ、葵も思わず吹き出した。
さっきまでの気負いが、すっと消えていく。
葵は二人に向き直ると、
「じゃあ、『本気のお化け』の怖さ、見せつけてきます」
気合を入れ直すように短く告げ、教室へ向かって歩き出した。
その後、お化け屋敷は予想以上の盛況となり、悲鳴が絶えなかった。
出番を終えた葵は、久遠と日高とともに廊下を歩く。
すれ違う生徒たちの視線が自然と集まった。
「あ、久遠先輩!」
「来てたんですね!」
声を掛けられると、久遠は足を止め、穏やかに微笑む。
「久しぶり。文化祭、楽しんでね」
その隣で日高が片手をひらひら振った。
「おー、元気してるかー?」
「してます!」
「相変わらずですね、日高先輩!」
「褒め言葉ってことでいい?」
廊下のあちこちで笑いが起こる。
葵は、その光景を不思議そうに眺めていた。
二人が後輩たちに慕われていることなど、あまり意識したことがなかった。
その様子を横目に見た女子たちが、面白くなさそうな顔で通り過ぎていく。
葵は気づかないまま、久遠と日高の会話に小さく笑った。
向かったのは、真琴と芽美のクラスのメイドカフェだった。
「お帰りなさいませ〜」
出迎えた芽美は、驚くほどメイド服がよく似合っていた。
立ち振る舞いも自然で、まるで本物のメイドのようだ。
一方、真琴は——
「お、らっしゃい! ゆっくりしてきなよ」
「お前はどこの大将だ!」
間髪入れずに日高のツッコミが飛ぶ。
「『お帰りなさいませ』はどうした! なんでちょっと暖簾くぐった感じになってんだよ」
「いいじゃん、気持ちはこもってるんだから!」
フリルを揺らしながら、真琴は堂々と胸を張る。
可愛らしいはずの衣装なのに、彼女が着ると不思議と威勢のよさまで漂って見えた。
「無理無理!……真琴、お前それ、衣装に着られてるっていうか、今から仕込み始めそうだろ!」
案の定、日高は吹き出した。
「似合わないフリルを気合いで着こなしてるみたいな顔すんなって!」
「うるさいな、ちゃんと着てるでしょ!」
真琴は一切ひるまず、言い返す。
「いい? メイド服界隈にはね、こういう『中身が大将』みたいなギャップが好きな人だっているんだから!」
「……ふふ、いるかもしれないね」
芽美がトレイを抱えたままくすくすと笑う。
「ねーよ!」
日高の即答に、教室中が今日一番の笑い声に包まれた。
芽美も真琴も、演劇部で出会った大切な友人だ。
芽美は、葵の秘めた想いに、誰よりも早く気づいてくれた。
以前、真琴が無邪気に男友達との遊びへ葵を誘おうとした時も、「葵ちゃんはダメだよ」と慌てて割って入ったことがある。
「そういうの苦手なんだから」と笑って誤魔化していたけれど、芽美には全部お見通しだった。
二人に久遠への想いを打ち明けてからは、真琴のお節介が、いつも葵の背中を押してくれた。
練習のペア決めも、舞台裏の役割分担も。
真琴は何気ない顔をして、気づけばいつも葵を久遠の隣へ、あるいは視線が交わる場所へ送り出していた。
「たまたま手が空いてたのが、そこだっただけだから」
真琴はいたずらっぽく笑って誤魔化す。
けれど、それが偶然でないことくらい葵には分かっていた。
舞台の上で、たった一人で光を浴びていられるのも。
こうして前を向いて笑っていられるのも。
不器用で、けれど誰より温かな手で、そっと背中を支え続けてくれる友達がいるからだ。
メイドカフェのカウンターが、一段落した頃だった。
「……結崎」
低く抑えた声に振り向くと、そこには実行委員の腕章を巻いた杉原が立っていた。
廊下ですれ違えば、誰もがふと振り返ってしまうような、涼やかで整った横顔。
勉強もスポーツも、まるで最初から答えを知っているかのように、何事もさらりとこなしてしまう。
そんな彼と並んで実行委員を務めることになったきっかけは、春のクラスでの委員決めだった。
「結崎さんなら、ちゃんとやってくれそうじゃない? 真面目だし」
女子の一人の声に、教室のあちこちから「たしかに」と笑い混じりの声が上がる。
誰も反対はしない。ただ、自分がやりたくないという気持ちだけが、教室全体に漂っていた。
俯きかけた葵の隣で、一人だけ静かに手が上がる。
「じゃあ、俺もやります」
杉原だった。教室の空気が一瞬で変わる。
「実行委員、やったことないから」
その一言で、女子たちは押し黙った。
葵を委員に仕向けたはずが、結果として「杉原の相方」の席を譲ることになってしまったからだ。
もっとも、初心者という言葉とは裏腹に、杉原はあっという間に委員の中心となり、文化祭の準備を鮮やかにまとめ上げてしまったのだけれど。
「招集。ちょっと来て」
「うん」
杉原の声に、葵が立ち上がろうとした、その時だった。
芽美が一瞬だけ杉原へ目を向ける。次の瞬間、わずかに顔が赤らむ。
「……え、なに?」
真琴が首を傾げる。
「べ、別に!」
芽美は慌ててトレイを持ち直し、俯いた。
杉原は気づいていないのか、それとも気づいていて気に留めていないだけなのか。
何も言わず、もう一度だけ葵へ視線を向ける。
急かしもしない。気を遣うような言葉もかけない。
それでも、一人だけ置いていくことはしない。
そんなところが、不思議と安心できた。
「行こう」
短く告げて歩き出す杉原の背中を追うように、葵は教室を後にした。
廊下に出ると、熱を帯びた空気が肌を撫でた。
「迷子が出た。五歳の男の子、保護者とはぐれたらしい」
「了解」
二人は頷き合い、手分けして校内を回る。
呼び込みの声、笑い声、お化け屋敷の悲鳴。文化祭特有の喧騒の中を、葵は走った。
「……いた」
中庭の近く。植え込みの前で、男の子が一人、立ち尽くしている。
「大丈夫?」
葵がその場にしゃがみ込むと、男の子は不安そうにこちらを見上げ、小さくこくんと頷いた。目の下にある小さなほくろが、心細そうに揺れている。
けれど、杉原が背後から近づいた、その瞬間。
「……っ」
男の子の顔が強ばり、今にも泣き出しそうな表情になった。
「……なんでだ?」
杉原が心外そうに、小さく首を傾げる。
「顔、こわいからじゃない?」
「……ほっとけ」
低く返しながらも、杉原は一歩だけ、さりげなく後ろに下がった。
「大丈夫だよ、怖くないからね」
葵が優しく声をかけると、男の子は安心したように、葵の袖をぎゅっと掴んだ。
杉原はその様子を黙って見守りながら、周囲を警戒し、無線で連絡を入れた。
ほどなくして保護者が駆けつけ、何度も頭を下げられた。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
去り際、男の子が振り返って手を振ってくれる。その小さな背中を見送ると、胸の奥がじんわり温かくなった。
校舎へ戻る途中。
「……助かった」
杉原が、ぽつりと言った。
「うん。見つかってよかったね」
二人はしばらく無言で歩いた。
ふと、先ほどの男の子の面影を思い出す。
「あの子、目の下にほくろがあったよね。可愛かったな」
「……よく見てるな」
杉原の声は淡々としているけれど、響きはどこか柔らかい。
「杉原くんは、首のところにあるよね、小さいほくろ」
言った瞬間。
杉原の足が、ぴたりと止まった。
「……」
ゆっくりと、彼がこちらを見る。視線を逸らさない、真正面からの凝視。
数秒の沈黙。
「……なんで知ってるんだ?」
声が、わずかに裏返っていた。そのまま、みるみるうちに耳の付け根まで真っ赤に染まっていく。
(というか——今、私、なんて言った?)
彼の首筋なんて、まともに見た覚えもないのに。口が勝手に動いたような感覚に、葵の顔もつられて熱くなる。
「……なんで知ってるんでしょうね?」
その声もあからさまに上ずった。
杉原は、片手で首の後ろを押さえたまま、しばらく黙り込んだ。
「……そこ、普通は気づかない」
「……ですよね」
「……髪で、隠れてるし。見えにくい、はずだ」
それだけ絞り出すように言うと、杉原は気まずそうに視線を逸らした。
「……戻るぞ」
杉原は逃げるように歩き出した。慌ててその隣へ並ぶ。
互いに何も言えないまま歩いているのに、不思議と歩幅だけはぴたりと合っていた。
メイドカフェに戻ると、外で待っていた日高と久遠が軽く手を挙げた。
そこへ、フリルの揺れるメイド服のまま、芽美と真琴が外に出てくる。
「そのままじゃ寒いよ」
葵が心配そうに声をかけると、真琴は「また出番あるし」と肩をすくめて笑った。
「ったく……」
日高は呆れたように息をつき、自分のコートを脱ぐと、真琴の肩にふわりとかけた。
長いコートが、短いスカートをすっぽり覆い隠す。
「え、なに?」
突然の温もりに、真琴がきょとんとして顔を上げる。
「別に。風邪ひくぞ」
日高は照れ隠しのように視線を逸らした。
「……ありがと」
真琴は小さく呟き、コートの襟をぎゅっと掴んだ。
「お、射的だ。やろうぜ」
日高に促され、六人は射的の模擬店へ向かった。
木の匂いと、コルク銃の軽やかな音。その音に、葵はふと既視感を覚える。
——前にも、こんなふうに立っていた気がする。
誰かの傍で。名前も、顔も思い出せないのに、なぜか懐かしい。
「……どれか、欲しい?」
じっと見入っていたのを誤解したのか、久遠が隣から声をかけた。
「え?」
「欲しい景品、ある?」
葵は戸惑いながら景品を見渡した。
目に留まったのは、棚の端にちょこんと置かれた、小さなくまのマスコットキーホルダーだった。
「……あれ」
久遠は小さく頷くと、店番の生徒へ「一回お願いします」と代金を渡した。
「……久遠先輩」
店番の女子生徒が、小さく息を呑む。
けれど本人はそんな視線にも気づかず、受け取った銃を何気ない仕草で手に取った。
構えた姿に無駄はない。
息を整える間もなく、引き金を引いた。
——ぱん。
乾いた音が響く。
次の瞬間、くまのキーホルダーがころりと棚から落ちた。
「え……」
店番の生徒が目を丸くする。
「うそ……。あれ、一番小さくて全然落ちないのに」
周囲からも「すご……」と小さなどよめきが広がった。
けれど久遠は、そんな視線など気にも留めない。
受け取った景品の金具を指先で整えると、「はい」と、そっと葵へ差し出した。
「いいな……」
芽美の呟きを聞いて、杉原が短く尋ねた。
「どれ?」
芽美が景品を指さすと、杉原は店番へ代金を渡し、無言で銃を受け取った。
「フレーフレー、す・ぎ・は・ら!」
「がんばれ杉原〜!」
真琴と日高が、待ってましたとばかりに悪ノリで声を揃える。
「ちょっ……」
杉原が一瞬だけ眉を寄せた隙に、弾は、的の脇をかすめて外れた。
「あー!」「惜しい!」
面白がった二人が、さらに調子に乗る。
「もう一回! す・ぎ・は・ら!」
「次はいけるぞー!」
杉原は、何も言わない。ただ一度、深く息を吸って構え直す。
さっきより、纏う空気が静かになった。
「フレー……」
——ぱん。
声が揃うより早く、的が倒れた。
「ちょ、早っ」
「えー、もう終わり?もう一回くらいやりたかったのに」
不満げな二人を余所に、杉原は手に入れた景品を「これだろ」と芽美に差し出す。
「……うん。ありがとう」
少し赤くなって受け取る芽美に、杉原は「別に」とぶっきらぼうに視線を逸らした。
「……よし」
日高が気合いを入れるように頷き、真琴を見た。
「欲しいの、どれ?」
「え、なに?」
「いいから。どれだ?」
真琴は棚を一通り眺め、「うーん」と首を傾げて言った。
「ラッキーアイテム」
「……は?」
日高は思わず聞き返す。
「どれだよ、それ」
「たぶん、あのへん?」
真琴が適当に指を動かす。日高は、半信半疑のまま構えた。
——ぱん。
外れる。小さく舌打ち。
「……悪い。次は当てる」
続けて二発撃つが、弾は虚しく空を切る。日高は何も言えなくなり、銃を持つ手が止まった。
「……ごめん」
ぽつりと呟いた謝罪を、真琴はあっさりとはねのけた。
「いいよ、別に」
「え?」
「ラッキーアイテム、もう持ってるし」
「……は?」
日高は完全に意味が分からない顔で固まった。
真琴は、彼から借りたコートの襟を少しだけ持ち上げ、「内緒」とにっと笑う。
数秒後。日高の耳から首筋までが、一気に真っ赤に染まった。
「……っ、そういうこと、急に言うなよ」
照れを隠すように視線を落とし、銃を戻す手がわずかにもたつく。
芽美がくすっと笑い、 杉原は見なかったことにするような顔をした。
葵もつられて笑った。
こんな何気ない時間が、たまらなく愛おしかった。

